閑話「ケイドロ」
―時は戻って、昨日。夕方。とある住宅街。
「ホントだよ、信じてくれって!ガキにやられた。鎖倉高校のカップルに!追い抜いたと思った男が急に目の前に現れて、女に後ろから股間を射抜かれたんだよ。指からビーム出す女だ。ビームだよ!ビーム!」
一人の男が猛り狂っている。サングラスをかけた髭面の男だ。男の周囲は何やら慌ただしい。数人の警官と二台のパトカー。それらを見物する周辺住民。怖いもの見たさで近づいてきた野次馬たち。彼はどうやら何かしらの罪を犯してしまったらしい。
「はいはい、それはもう分かったから。でも、あんたが引ったくりした事実は変わらないからね。署で真実はじっくり聞くからねー」
中年の警官が男を諭し、現実を突きつける。
「うっせぇよ!だからそれが真実なんだよ。あいつら見つけてぶっ殺してやるっ」
「おい!大人しくしろ」
暴れる男を警官二人で抑えつけてパトカーに乗せようとする。それにしても男の怒りは凄まじい。余程癇に障ったのか、それとも形容できないほどの苦痛をその女子高生に与えられたのか。しかし、いずれにしろ彼の自業自得ではある。
「先輩…こいつ頭イってますよ。絶対に薬もやってますよ」
男の狂乱ぶりを見た警官の一人からそんな声が聞こえてくる。男の言動はやはり傍から見れば、何もかもが出鱈目で狂気的なのだろう。警官たちも冗談半分に捉えていたり、先述のように彼を薬物中毒者だと考えいたりと、ほぼ誰も真に受けていない。
だが、彼の言動に意味を見出そうとする者も何人かいるようだった。
「山里巡査」
「……」
「山里冬寂巡査」
「…あ、はい」
その巡査は何かに気を取られ上司の呼びかけに応じるのが遅れた。
「そんなにあの男が気になるかね」
「すんません。ああいう輩は初めてなもんで」
どうやらあの怒り狂った引ったくりに気を取られていたようだ。
「ああいう話の通じないクズはごまんといる。聞いてやるだけ無駄だよ」
その上司はいかにも長年勤めてきたベテランという感じである。考え方もどこか冷めているようだ。
「はぁ、そういうもんすかねぇ。じゃあ、なんで道で転がってたんでしょうね」
「さぁね。ま、多分派手に転んだとかじゃないの?薬で正常な運動ができなかったんだろ。とにかくご苦労だったね。一人であいつを抑えておくのは大変だっただろう」
「そりゃあ、もちろん。いやぁ、鍛えててよかったなぁ。あと、現場にすぐ駆け付けられて良かったぁ。ああ、おばあさんに鞄返してあげられて嬉しかったなぁ」
その巡査は、わざとらしく自分の功績や警官に相応しそうなセリフを並べ立てる。
「うむ、これからも精進することだ。今日はもう引き上げていいぞ。お疲れ様…あ、あと君。できる限り睡眠は摂るんだぞ。そんな血走った眼では地域の皆さんに怖がられてしまうよ」
上司が言うようにその巡査の眼は充血し、人相も悪い。これでは警官というより警官に扮した犯罪者である。
「あ、はい。本官、出世できるなら何でもします。お疲れです」
そう適当に言い残して、彼―山里冬寂巡査は、既に陽の落ちた町の闇を自身の属する交番まで、街灯と自転車に取り付けたライトを頼りに走っていった。
そして、自転車のペダルを漕ぎながら、遠くの見えない闇に向かってポツリと呟いた。
「出世してぇなぁ…」