閑話「ヤコブ」
―とある団地の一室。4月11日。朝。
「……あー、もしもし。ヤコブ、新たな異能が現れた…」
暗澹たる部屋だった。室内の照明は一つも点いていない。だが、厚みのあるカーテンと窓の僅かな隙間から取り込まれる、なけなしの幽光でこの場の明度は持ち応えていた。
その部屋にあるガラス製の机の上には、灰皿があった。だが、長さも銘柄もバラバラの、煙草や葉巻の吸い殻の濁流は氾濫に氾濫を重ね、灰皿を埋もれさせ、机上を占拠している。
机のすぐ隣には低いベッドがあった。
「場所は、鎖倉高校。能力者の名は、宇治山辰巳。能力は、時間停止。トリオ以上に厄介かもしれない」
そこには、一人の男が横たわっていた。ただでさえ薄暗い部屋でアイマスクを着け、外界を拒絶しているかのように。
彼はそんな状態で通話をしていた。そして、たった今起きたようであるのに、つい先刻それを見てきたかのような語り口でそれを伝えた。
「……ん?ああ、長良井世恋と接触した」
男は無造作に背中を掻きながら、欠伸を一つした。
「ふぁあ……おう」
そして、端末の電源を切り、二度寝を始めた。
※※※
―とある住宅地。夕方。4月11日。
「オッケー、ヤコブん。適当なヤローぶつけとくよん」
夕陽へと熟れかけた日光で照らされる住宅とアスファルト。その真ん中を、小柄で細身の場違いな女が歩いていた。楽しそうに鼻歌を奏で、興奮したように瞳孔を開いて、嬉しそうに微笑んで歩いていた。誰かと通話をしながら。
陽光を全て吸収してしまうかのような黒地で厚手のセーラーワンピースには、袖口や襟、裾など所々が青で縫製されている。腹部の辺りは鎖があしらわれたベルトで締められている。そして、彼女は耳のすぐ上辺りで結んだツインテールの頭に、昔ながらの学生帽を浅くかぶる。
「あっ。ちょーどいいところに溜まってそうなヤローがいるねー」
通話に使用している携帯端末を持つその手は、黒のレースで編まれた手袋で包まれていた。
女は、不必要なほど多くのベルトが備わる、そのロングブーツで小気味よくアスファルトを鳴らす。
そして、目の前を歩いていた男の背に近づいた。サングラスをかけ、髭面で、粗野そうな男であった。
「はい、ちゅっ」
女は、腰を軽く曲げ、口元に右手を添え、唇を可愛げに尖らせた。彼女は、キスを投げた。
「…っ!うおおおおおお!」
投じられた接吻を、知らず知らず背中で受け止めた男は、何やら狂乱したように叫び、駆け出した。
「いってらっしゃーい」
女は、遠ざかる男へ右手をひらひらと振った。
「あ、ヤコブん。行かせたよー。たぶん、そのセレンちゃん…と、タツミきゅん…?になんやかんやでカチ合うと思うよー。あとはQちゃんに確認してー」
彼女は、再び電話越しに話し始めた。
「はーい。じゃあ、私帰るねー。ばいばーい」
彼女は、鼻歌混じりにスキップで跳ねながら、茜さす帰路に就いた。
※※※
―とある高校。未明。4月20日。
「いえいえ。気にしないで、ヤコブ。どうせ夜は暇なので」
柔らかな月光が差す廊下に、一人の男が佇んでいた。三十代ほどであろうか。
その男の口元は常に綻び、目元は常に細くなっている。幸薄そうな笑みを常に顔に貼り付けているのである。
彼は誰かと通話しているようだった。
「…おっ。噂をすれば…おでましですか」
彼の目前で、何かがぼんやりと漂っていた。靄のようなそれは、やがて何かを象る様に動き始め、それに沿い、何者かが色彩を帯び始めた。
徐々に濃厚になっていったそれは―
「ぎゃははははははああああっ!全快だぜえええええ!!」
凶悪で野性的な哄笑を、静寂な校舎に響かせた。
それは人間のようであったが、確実に人間ではなかった。なぜなら―
「こんばんは、テケテケさん」
臍より下には、乱雑に垂れ下がる臓物、もしくは床しか無いためである。
そう。下半身が無いためである。
「全快祝いはあの女が良かったが……まあ、いい!おい、男!お前の大腸噛みしめてやるぜええええ!」
「はははっ、君に一噛みだってできるものか」
「あいつみてえなこと言ってんじゃねえええええええ!」
それは二本の腕で、微笑む彼の下へ激走した。周囲のガラスや壁を震わせるほどの速度で。
迫られる彼は、胸に飛び込んでくるそれを受け入れるように、抱きしめようとするように両腕を大きく広げ、
「はい。ありがとうございました」
「え―――」
抱き締めた。母親が我が子を愛するように。蛇が獲物を丸呑みにするように。
そして、それの声も形も、今までそこに存在していなかったかのように、余りにも唐突に、忽然と消えた。
「…あのう、ヤコブ。テケテケは女性のはずでは?……なるほど。不勉強ですみません」
彼は、再び電話越しに話し始めた。何やら疑問を抱いていたようだが、解決したようである。
「あ、はい。異能部一行には何もしてません。……え、櫻子倒しちゃったんですか?それは凄いですが、残念ですね…」
彼の声には、驚きも感心も確実に籠っているが、顔には終始、定量の笑顔が貼り付いていた。
「それじゃあ、そろそろ僕は戻りますね。見つかったら叱られちゃうので」
彼は、夜の校舎に溶けて消えた。
※※※
―とある会社。真昼。4月21日。
「…合点承知だ、ヤコブさん。万事、俺に任せてくれ」
ベージュの作業服に身を包む青年は、缶コーヒー片手に誰かと通話をしているようだ。
短く清潔に整えられた頭髪と、その引き締まった表情と凛然とした声は実直な好青年という印象を見る者に与える。
彼は、その電話の相手から何かを頼まれたようであった。そして、どこか嬉しそうに目を輝かせて、また、自信ありげに口の端を上げて、それを引き受けた。
「ちょうど鎖倉高で現場が始まるから、かなり楽に――ああ、それでこのタイミングなんだな」
そして、その意図を汲み、感心したように数度頷いた。
「―あ、そろそろ昼休み終わっちまう。そんじゃあ、また」
彼は、電話越しに深く一礼し、通話を終了した。そして、残りの缶コーヒーを一気に喉へ流し込み、存外の苦味に顔を少し歪めた。
※※※
―とある繁華街。暮夜。4月21日。
「おいおい、ヤコブさぁん。あんた、そりゃあないでしょうよ。他の幹部連中は漏れなく仕事あって、あたしは無いだあ?やっぱり信用できないよなぁ、あんたも」
右肩と右頬で時代遅れのケータイを挟み込みながら、その男は誰かと通話していた。彼は、路上に面する壁に座してもたれかかり、片手間でアコースティックギターを掻き鳴らしていた。紺の作務衣に、千両下駄を履き、度の強い丸眼鏡をかけている。
「はい?…ああ。ああ。あの人ね。そこにチョッカイかけときゃあいいんですね?…はいはい。仲良くさせていただきますよ!馬鹿野郎!」
乾いた嫌味を軽妙に吐きながら、その言葉たちにギターでシニカルなメロディーを即興でつけ、目線は常にただ前を見据えている。このように不可思議極まりない男であったので、奇人変人見たさに足を止める通行人はいたが、このように不審極まりない男であったので、すぐにそういった者たちは離れていく。
「とりあえず協力してやりますよ。あんたを信用した訳じゃないですがね?…いやあ、あたしが味方で良かったですねぇっ!」
気怠そうに、それでいて迫真の嫌味を叫んだ彼は、通話を終えた。そして、硬度を上げたピッキングで、彼はBeckのLoserを弾き始めた。嫌味ったらしく、憎たらしく。