4/20-③「ぼくらの七不思議戦争」
私の首を絞めつける何かが、少し緩んだ。今のうちに、言え。
「かはっ…す、すまん、長良井。藤原。私のせいでお前らに迷惑かけちまった。私がこんな不毛な争い、けしかけたばっかりに。長良井!私のことはいいから…藤原を連れて逃げてくれ!」
先程の男子生徒も私を助けようとしたばっかりに、命の危機に瀕してしまった。私のせいで、もう誰も傷ついてほしくない。幸い、長良井は私を嫌っているから私を快く見捨ててくれるだろうし、藤原はまだ囚われていない。彼女が助かってくれれば、私の命など―
「…は?黙って下さい。私はオカ研を辞めようとしている身です。部長の言うことなんて聞きませんが?」
駄目だ、長良井。
「おい、長良井!逃げてくれよ。全部私の怠慢が起こした結果だ。これは今までの報いだ」
活力も行動力も何もない、学生生活に意義も希望も見出そうとしなかった、怠惰で空虚な私への。
「ですが、あなたは今夜ここに来ました。最後まで全力で戦い抜こうとしたんでしょうが!不毛な争いとはいえ、そこには敵として敬意を払います。……なので、任せてください。この痴女を消し炭にして、続けましょう。私たちの、七不思議戦争を」
長良井の表情や身体は、伏魔堂の暗闇でも伝わってくるほどに満身創痍であった。この一週間を全力で戦い抜いた者だけに許された、限界を越えた立ち姿。だが―
「なんでだ、長良井!殺されちまうぞ!無駄な抵抗はよせ!逃げ―」
「誰に口を聞いてるんだ、岡本瑠里子。私が負けるわけないでしょう?あんたにも、こいつにも」
その眼光だけは未だに青々と燃えていた。
「…今、名前―って呼び捨てかよ」
「はっはっは、愉快じゃのう、人間の慰め合いは。…貴様に何ができるのだ?小娘」
ころころとした鈴の音のような笑い声が聞こえた気がした。
「異能が使える」
長良井がそう言った瞬間、私の視界に何かが薄く映った。大量の水流のようなものと、三つのボールのようなもの。
「ふははは、活きが良いのう!花子と名も知らぬ男子よ!余は楽しいぞ!」
氾濫する水と荒ぶる三つの球体、うねる無数の触手で靄がかかったように遮られた視界の端で、それだけは何よりも確かに見えた。
「―凝縮」
光が一か所に集いだす。
「ふははは、楽しいのう!楽し―」
「―射出」
青白い閃光が伏魔堂の闇を切り裂いた。
「ぐあああああああ!」
すぐ真横に雷が落ちたかのような叫声が聞こえた。同時に、私は何かから解放され、床に落とされる。
「いたいいたいいたいいたい、いたいいいいいい!」
伏魔堂どころかこの町をまるごと揺さぶるような叫び。
「え」「きゃ」
私と藤原の身体が不可視の何かに持ち上げられる。その力は、先程まで私を絞めつけていた凶悪な何かよりも、遥かに優しく、何もかもを包み込んでくれるような何かであった。
気づけば、私たちは長良井の背後に降ろされていた。
「オカルト研究部、奪還」
長良井が、左腕を伸ばし背中越しに親指を突き立てながら言った。
※※※
「さて、どうしたものか……」
俺は、階段に閉じ込められていた。何とも不思議な響きだ。階段とは、ある階層とそれとは別の階層の往来を可能にする構造物であって、本来そこに留まるためには存在していない。そのため、「一階に閉じ込められた」だとか、「教室に閉じ込められた」だとかは、文章として雑味を一切含まないが、閉鎖された空間の活路とも言える階段や廊下に「閉じ込められた」という表現は、やはり微妙な違和感を孕む。
「とりあえず―」
俺は、階段を駆け下りた。駆け下りに駆け下りた。百段、いや二百段は駆け下りただろうか。それでも―
「ははっ」
先程立っている段から一段も移動していない。駆け上がってもみたが、こちらは五十段ほどで辞めた。
立ち止まり、肩で息をする。
先に行かせた三人が脳裏によぎる。タマオ君と花子ちゃんはともかく、この一週間無理に無理を重ねてきた長良井さんが強く思い起こされた。四次元の二人組は時間制限がある。もし、あの二人でも苦戦するような事案が絶賛勃発中だったなら……いや、そんなことを考える前に眼前の障害をさっさと取り払え、宇治山辰巳!
残る手段は―
「異能…」
俺は、夜の校舎の怪しげな空気を深く吸い込み、吐いた。意識を研ぎ澄ます。
下階へ駆け出しながら、異能特有の感覚を感ずる。不可視のエネルギーを体内で入力し、外界へ出力。なるべく先へ、先へ。
「惜しいぃ……」
先程と景色は変わらないように思えるが、二段ほど進めた。だが、すぐに押し戻され、瞬きの内に元の段へ。だが―
「降りられる」
それもまた、揺るがない事実。だから、ここからは―
「カンスト狙いだ」
先へ。もっと先へ。あちらの演算処理を越えろ。99999999――からのもう一歩。
先。先。先。先。先。先。見据えろ!しがみつけ!手を伸ばせ!
先へ!
「――捉えた」
俺は、二階へ抜け出していた。
「はあ…はあ……伏魔堂へ…」
一生分の階段を移動した気分で、段差恐怖症になりつつあった俺は、妥協に妥協を重ねて一階まで手すりを滑り降りた。
※※※
「僕はそろそろ時間が来るぞ…」
契約者の宇治山君が付近におらず、花子や櫻子よりは未熟者であり、そもそも体育館や運動場という自身のフィールドから遠く離れた地で戦う男児の怪は言った。
「そう。……盤面を崩すならここしか無いわね。ここであの女に痛手は負わせておきたいわ」
タマオの欠員は櫻子の手数でも体力でも何かしらを削って補完するしかない。
「でも、あの娘思ってたよりも守りが厚い……」
花子がそう苦々しく溢した。彼女は現在、櫻子に変幻自在の水責めを敢行している最中である。
「貴様ら皆殺しじゃああっ!」
櫻子は私のエネルギー弾を喰らって以降、激憤し更に血の気が多くなっていた。美麗な痩躯や相貌には至る所に青筋が見られる。
「三人がかりで漸くあの女と互角、というところかしら…」
櫻子は八面六臂の大躍動を見せている。
花子の水責めの半分量を、桜の花弁状の微細なエネルギーで霧散させ、濾過されたもう半分を一番太い触手で薙ぎ払う。タマオが操る三球は、的確に死角や弱点を撃ち抜こうとするが、触手の手数と櫻子の異常に鋭利な感覚によって払い落とされる。そして、今の私は異能を乱用することができない。
「いや、少しばかりこちらが優勢か」
しかし、こう考えることもできる。
ただでさえ、花子が引き起こす洪水をいなすので必死なのにも関わらず、タマオの三つの妖球が絶えず桜と触手を掻い潜って急所を狙おうとしてくる。そして、不明瞭な視界のどこから飛来するか判然としない未知の能力が控えている。もう私は30%程度の威力を一撃分しか練れないが、櫻子にとっては撃たずとも、不敵に佇んでいるだけで脅威っ!
「その通りだ、ナガライ。僕に策がある。奴の隙を突け」
頼んでもいないのに私の戦況分析を評価され、挙句の果てには説明不足の策略に協力しろ、だと?
「良いだろう、マセガキ」
うだうだと無駄な思考を展開すれば、岸波君を失ってしまう。この策での私の役割は、歯車!ただ任務を遂行し、意志あるタマオに結果を選び取らせろ!
―まだ。
―まだ。
―まだ。
―まだ。
「ぬう……塵芥どもがッ!」
今だ!この瞬間だ!奴が痺れを切らしたこの瞬間しか、ない!
私は10%だけ異能を練り発光させ、櫻子の注意を引く。花子の水流を、そして空気をも切り裂いて、文字通り一瞬で櫻子の眼前へ青龍が飛びかかる。
「ふははっ!甘いわ、小娘!」
眉間を狙うのを読まれていたらしい。櫻子は一部の桜と触手を局所的に集中させ、異能を弾く。低威力でも急所にあたれば致命傷にできると考えたが、読まれたか。
―まあ、読まれるために撃ったのだが。
「捉えた」
タマオが呟く。今の櫻子の完全なる死角。触手もエネルギーも酷薄で、視界も届かない一点。右肩と右臀部の間!床からの入射角およそ30度で!
見事、櫻子の右脇腹を抉……れない。
櫻子の触手が球を払い落とす。
「阿呆が。死角くらい把握しておるわ。小娘の雷に合わせてくることくらい想定していないとでも―」
「もう一度言う。……捉えた」
「――は?」
櫻子の脇腹と乳房が抉れていた。桜の花弁の如き血潮が噴いた。
死角に次ぐ死角。二球は櫻子を撹乱するための弾幕。そして、死角を真芯で捉えた残る一球も、弾幕。払い落として安心するのは時期尚早。
「……何故……四つあるのじゃ……」
死角に放たれた一球と全く同じ軌道で、僅かに遅れて放たれた魔球。想定からも外れ、意識からも外れ、視界からも外れた、不可避の一撃。
「はっ、肉を貪るしか能のない野人はこれだから困る。三つしか使えないなんて、誰が言ったよ」
「ぐぬうううう……餓鬼風情が」
「四球で進塁されるくらいなら、死球で殺す。僕の野球道さ」
タマオは冷酷な表情で、軽薄に舌を出し、右手で中指を突き立てた。
「死ねええええ!!」
「乱闘は御免だよ。故意の死球だ。潔く退場するさ」
タマオは薄く微笑んで消えた。櫻子の怒り狂った触手は空を切った。
「タマオくん、かっこいいいいっ!」
花子が激賞する。
四つの球、四球、死球、ポリシー、中指以外の降ろしている指は四本、で掛かっている、という野暮な解説をして辱めてやらなければ元が取れないくらいには、現時点における最善の策だった。
「わたしもがんばっちゃうぞーーっ!」
花子が放つ水の波動は、更にその出力を増し、その形状や間合いの制御の緻密さに磨きがかかる。ある瞬間は隕石のような極大さと迫力で水砲が襲来し、ある瞬間は蛇のような狡猾さと身軽さで無数の水弾が降り注ぎ、纏わりつく。
櫻子は防御に徹するほか無かった。
「くっ……花子ぉ………。調子に…乗るな。老兵がああああっ!」
タマオ渾身の死球によりパフォーマンスが格段に落ちている櫻子は、ここに来てもまだ見えない花子の奥底に苛立ちを募らせている。タマオの強制送還と、櫻子の右半身失調とで、互いに同等の戦力低下を見込んだつもりだったが、タマオの雄姿に感化された花子の奮起により戦局的にも精神的にもこちらが優勢になった。
「どんどんいっくよーーーっ!」
「そうね」
大瀑布を創造するかのような気概で、花子は水魔法を繰り出し続ける。
そして、私の方は、櫻子を攪乱するため伏魔堂の中を縦横無尽に駆け回り、凝縮率1%程度の光線を四方八方から乱射し、牽制する。未だ、先刻の命中の激痛が彼女の脳裏に鮮明に焼き付いているようで、威力を見極めずに全て丁寧に躱してくれる。花子よりもむしろ私の方に意識を注いでくるので、牽制役、囮役としてはこの上ない働きを果たすことが出来ている。
「くああああああああっ!!!!」
今際の際と言ってもいい櫻子は、強者としての気迫で持ち応える。豪雨の夜空を容易に両断し、奥の奥から月光を引きずり出すような気迫。濁った血液滴る創傷を激流に洗われながら、櫻子は雄叫びを放つ。
「あと…すこしっ!!」
「はあ…はあ…。もう…一押し」
花子と私は、確信した。
あと少しで、この鉄壁の堤防が、決壊する!
最後の最後、残り全ての気力と体力を込めた一射入魂の光線でこいつの芯を、貫ける!
耐えろ。耐えろ。押し続けろ。決して手を緩めるな。
「―凝縮。30%」
今の私の許容量を優に超える凝縮率。この戦いの後は、しばらく登校できそうに無いな…。
「熱狂をありがとう。そして、さよなら」
退屈と決別するには、良い日だ。
「しゃ―」
「おいっ!おいっ!しっかりしろ!」
―え?
僅かに視線を移動すると、伏魔堂の前庭に座り込む岡本と藤原。そして、彼女たちは青ざめ、焦燥を抱いている。それは櫻子へ抱く感情などではなく―
「おいっ!岸波っ!」
彼女たちの膝元に倒れる男子生徒に向けられたもの。
岡本は、必死にその彼の胸骨圧迫を試みている。だが、その動揺ぶりから見るにもう―。
それはつまり―
「死―」
私が視線を動かし、射出の手を止めたのは、一秒にも満たない。
「余所見」
「――っ」
だが、この魔窟でそれは―
「お姉ちゃんっ!!」
悲壮と焦燥の籠った花子の表情だけが、視界の端に映って消えた。
「かはっ……」
凶悪な一撃が、しなり、私の腹部を打った。体内で腹と背中が接したかと思うほどの、衝撃。
「ちっ、強く打ちすぎたかのう…。こちらまで痛むわい」
伏魔堂から放り出され、岸波君の横の地に叩きつけられる。
「おお!貴様も…小娘と一緒に…消えてくれるのか、花子!はははははははっ」
櫻子が満身創痍の中、今日一番の豪快で絢爛な愉悦を見せる。
薄れゆく視界の端に、こちらを見つめる花子がいた。魔法少女は、薄れていた。
おそらく不甲斐ない契約者の薄弱になった意識と連動して、彼女も三次元にいられなくなったのだ。
「セレンおねえちゃんは……しなないで…」
花子は儚く微笑み、強張った表情で、
「にげ―」
消えた。
※※※
「はあ…はあ…」
俺は、無数の雨に叩かれながら走った。
異能で校内から容易く抜け出した俺は、伏魔堂へ走った。階段から抜け出すために、身体と異能を酷使してしまった。今の長良井さんの健康状態と同等とは言わないが、それでも、多少の休息は必要な状態である。しかし、今夜の鎖倉高校にそのような安息はない。
「はあ……はあ…あの先だ」
あの建物の角を曲がれば、我らが異能部の部室が、得体の知れない何かを秘めた伏魔堂が見えてくる。
「無事で…いてくれ…」
俺は、角を曲がった。彼女の無事を祈りながら。
「長良――」
不気味に開いた魔物の口から、女生徒が吐き出された。そして、飛沫と泥を舞い上げながら、地面に叩きつけられた。
この豪雨で視界は鮮明ではない。だが、あれは―
「長良井さあああああんっ!」
制服に染み込んだ雨の重量に足を引かれながらも、無我夢中で駆け寄る。
彼女の元まで辿り着く。
「長良井さんっ!だいじょ―」
そこに想定外が三つ。
一つ。何故かオカ研の二人がここにいること。
一つ。何故か岸波君がここにいること。
一つ。何故か岸波君が―
「きし……なみ…くん…?」
「―んじゃった…」
足下から長良井さんのか細い声が届く。
今、何と言ったのだろう。
「長良井さん、無事だったん―」
「きしなみ…くんが…ぐすっ……しんじゃった……」
「私らを…助けようとしてくれたんだ…一人で…」
雨が、降っていた。強い雨が、降っていた。俺を殴りつける雨が。
「まーだ、輩がおったのか…。蛆のように、次から次へと」
冷酷な声がした。痛々しいほどの美しさを孕んで。
「おい小僧。男の味はあまり好かぬ。薬味で使う分には良いが、そこの一人でもう十分じゃ。貴様は見逃してやるから去れ」
オカ研二人は、守らなければいけない。長良井さんは、戦えない。タマオ君も、花子ちゃんも、いない。岸波君も、いない。
俺しか、いない。
「無理な相談だね」
俺の記憶が抜け落ちているだけなのかもしれないが、これは初めての経験だ。待ち望んだ怪異を前にした興奮よりも、友達を痛ぶられた怒りよりも、今はただ、悲しい。
「何故だ?もう貴様一人では何も出来はせぬ。みすみす命を失うことになるぞ」
この感情をどうしていいのか分からない。だが、
「友の涙故。そして、一人立ち向かった友の死故」
やるべきことは、明確だ。
「難儀なものじゃのう、人間は」
伏魔堂の闇深く、一人の女が立っていた。右の上半身が欠けても、なお美しい女が。
「余は今腹が空いておる。無性に空いておる。故に、油断はせぬ。楽しみもせぬ。精魂を注いで、貴様を殺す」
「受けて立つ」
伏魔堂の夜は、一層深く。
「うじ…やま……くん」
一人で規格外の怪物に立ち向かう宇治山辰巳を、長良井世恋は止めようとした。だが、
「に……げ―」
彼女の意識は、虚空へ攫われた。