4/15-③「調査結果:音楽室」
「ちなみに、あれが岸波君の言っていたサッカーゴールよ」
私と宇治山君はタマオと対峙した体育館を後にしていた。今、私は体育館の玄関付近からも確認できる、運動場にある年季の入ったサッカーゴールを指し示していた。
「確かにゴールポストが捻じ曲がってるね」
「ええ。けれど、あれにまつわる怪異があるとは考えにくいわね。岸波君の話にも、あまりそれは感じられなかったし」
絶対に無いとは言い切れないだろうが、優先順位は低いだろう。今は頭の隅にとどめておく方が無難だ。
「それもそうだね。サッカー部の活動のシンボルになってるって話はとても魅力的だけど」
「宇治山君はやけに他人に興味を示すわね」
そんな言葉を交わしながら、私たちは校舎に向かって歩き出した。空は既に明るい。
「自覚はしてるよ。これも記憶が曖昧な影響なのかもね。出来るだけ情報を取り込もうとしてるのかもしれない」
彼の言葉は寂しげな空気を帯びていたが、その眼は相変わらず嬉々として輝いていた。やはり、羨ましい。
「そういうものかもしれないわね」
「ああ」
「…それで話は変わるのだけど、部室―伏魔堂について共有しておきたいことがあるわ」
「というと?」
「あれを調べるのは他の七不思議を調査してからにしない?教頭の話の密度からして優先順位が高いことは間違いないのだけど、その分時間も貪りそうだわ。あくまでも、私たちは七不思議戦争の渦中にある。勝利のために要求されているのはあくまで『量』よ。正直、この戦争を勝利で飾れれば、いつでも好きなだけ調査は出来るわ。伏魔堂の調査はその時でも遅くは無いわ」
「なるほどね。最もな策だと思うよ」
「そう言ってくれると助かるわ」
「それじゃあ、次は音楽室にでも行くかい?」
「そうね。図書室はまだ空いていないし、今日の放送部の活動は午後からだし。それに、あと1時間ほどで吹奏楽部の活動が始まるから、話を聞ける人もいそうだわ」
七不思議戦争が始まってから、全ての部活に所属していた経験が予想しなかった形で生きてきている。全ての部活動の活動日と活動時間が頭に入ってしまっているのだ。
「さすが全部活を経験してるだけはあるね。いや、記憶してるのが凄いのか」
苦笑混じりに宇治山君が言う。
「人の名前はそうはいかないのだけどね」
気づけば校舎の玄関口についていた。私たちは、そのまま足を踏み入れた。上階から、ピアノの音が微かに聞こえた。
※※※
「これって…どっちかな?」
宇治山君がそんなことを呟いた。スライド式の木製の扉の前。私たちは今、音楽室の前にいる。扉の所々は傷つき、白い塗装が剥がれて本来の木材の色を露わにしている。その数多の傷口から漏れ出るようにピアノの音が鳴っている。宇治山君はこの音色が人間によって奏でられているものなのか、はたまた肖像画から抜け出た音楽家によって紡がれているものなのか考えている。
「入ってみないことには分からないわ。シュレディンガーのピアニストよ、これは」
そう。今、この扉の先に待ち受けているのが生者か、今は亡きベートーヴェンかというのは扉を開けて観測するまで誰にも分からないのである。
「オーケー、それじゃあ開けるよ。臨戦態勢よろしく」
宇治山君は、ピアノに気取られないように幾分か小さくした声でそう言って、扉の取手に指をかけた。私は、すぐさま「凝縮」を始め、光の鎧を纏う。
「何してるの?あなたたち」
「え」「え」
後方からの奇襲で我々の意識は深い闇の底へと…。
※※※
「おはようございます。斉藤先生、この二人が話を聞きたいそうです」
扉を開けてそう言ったのは、吹奏楽部の3年生の女生徒。私たちは、彼女の後方で佇んでいた。
「おはよう、吉田さん。……そちらは、あ!長良井さんじゃないか。で、その隣は?」
シュレディンガーのピアニストは、彼女の声を聞いて鍵盤を弾く手を止め、こちらを見た。
「ご無沙汰しています」
「俺は2年の宇治山辰巳です」
音楽室の壁の天井付近には、やはり肖像画がこれでもかと飾られている。こちらを睨みつけるベートーヴェン、こちらを訝しむバッハ、こちらを見つめるモーツァルトなどなど、かの名画「アテネの学堂」のように著名な音楽家が世代も国籍も越えて集結している。しかし、そのどれもが額の中に収まっている。
室内にいたのは、初老の男性教師一人。彼が、シュレディンガーのピアニスト―改め、斉藤嘉粋元音楽教諭である。御年六十三の既に定年を迎えた御仁であるが、その音楽指南の腕を見込まれて、退職後も学校側から吹奏楽部の指導を任されている。その力量がどれくらいのものか具体的に示せば、教鞭を取ってから全国大会への出場が二十、そのうち金賞が十、これまで在籍した高校は四、その全てで金賞を一回以上。この高校に通っていた学生時代には三年連続で金賞を受賞したことがあるとか。
私は人の名前を覚えるのが苦手だが、教科書に載る人名や一般教養的なそれなら容易に覚えられる。彼の名前は言ってしまえば既にその域にあり、実を言うと入学前から把握していた。地元がここ―鎖町だということもあり、知らない住民の方が珍しいかもしれない。
「あ、例の転校生か。部の女生徒がよく君のことを話題に出すんだよ」
「ははは…そうなんですね」
やはり、宇治山君の整った顔立ちは各所で話のタネになっているようだ。転校生という希少価値も付随しているため、それはそれは大層な値が付いていることだろう。
「それで、話とは?吹奏楽部に戻るとかかい?」
白髪交じりではあるが、丁寧に撫でつけられた艶のある頭髪をもつ彼が、冗談交じりにそう問うた。
「いえ、残念ながら」
私たちを導いた女生徒が準備を始めたのが、横目に映る。
「お時間の方、大丈夫でしょうか」
「ん、ああ。まだ自主練習時間だから気にしなくていいよ。でも、三十分ほどで頼むよ」
肖像画の音楽家たちとは打って変わって、彼は余裕のある穏やかな笑みを湛えて対応する。
「ありがとうございます。突拍子の無い話で恐縮なのですが…」
私は西尾から聞いた例の七不思議を述べ始めた。あの女生徒はホルンを高らかに演奏し始めた。
※※※
「という訳なのですが、何か心当たりなどないでしょうか」
「あるね」
「「え」」
突拍子の無い質問をあまりにも自然な返答で肯定されたために発された、我々の気の抜けた一文字はホルンの音色に容易に蹂躙された。何故か、斉藤は恥ずかしそうに頭を掻いている。
「あれは僕が教員になって間もない夏の頃だったかな。あの時代にはまだ宿直という制度が残っていてね。今のように警備員が学校に常駐しているわけでは無いから、僕たち教員が警備も担わないといけなかったんだ。毎日、誰かしら教員が学校に泊まり込みで警備をしていて、僕の担当日は確か木曜日だったかな?」
ホルンの音が幾分か小さくなった気がした。
「しかし、宿直といっても暇でね。見回り以外に特にやることもないし、一人だし、それに夜の学校は不気味だしね。どうにか気を紛らわそうとして、それとなく、この部屋でこのピアノを弾き始めて、それが徐々に習慣になっていたんだ。あ、幼い頃からピアノは習っていたんだ。中高は吹奏楽に傾倒したけれど。って、まあここまで言えばもう分かるかな」
尚も恥ずかしそうに斉藤は苦笑する。まあ、斉藤が言うようにおおよその結末は理解できた。
「それが発覚したのはある女生徒との授業前の雑談だった。『近頃、深夜の誰もいない音楽室でピアノが鳴っているらしい』といった感じのことをその子が言って、確認するとどうやら決まって木曜日にそれは起こるらしい。時間帯も僕の習慣のそれと合致した。この時点で、完全に僕のことだと理解した。が、時すでに遅く、噂は蔓延しきっていてどうしようもなかった。それ以降、僕は軽率な行動を恥じてピアノを弾かなくなったから、噂は徐々に衰えていったようだけど、代わりにこれでもかと尾ひれがついたみたいだね」
「なるほど…そんな背景が」
宇治山君は感慨深げだ。音楽室の怪はこれにて解決と言って良さそうだ。テケテケやタマオの件と違って怪異は関わっていないが、その分証拠を示しやすいので、こちらとしては非常に都合がいい。
「このピアノは当時からあるものでね。これを弾くと当時の空気が香り立つような気がするんだ。まだ青さが残る教師駆け出しの時期。この学校で生徒として過ごした真っ青な三年間。全てが、昨日のことのように聴こえてくるんだ。鍵盤が語りかけてくるんだ。…おっと、自分語りが過ぎたかな」
郷愁と哀愁が斉藤の顔を包んでいた。
「いえ、興味深い話でしたよ」
宇治山君も斉藤と同じ年月を過ごしたと言わんばかりに、彼の話を噛みしめていた。ホルンの音量が元のように高らかに鳴り出した。
「斉藤先生、貴重なお話有難う御座いました」
「いえいえ。それにしても、凄い尾ひれだね。今はそんなことになってたのかい。…肖像画というと、あの事件を思い出すね」
不意に斉藤が興味深い話題を持ち出す。
「あの事件?」
「ああ。いつ頃だったかは曖昧だし、詳しくは知らないけど、美術室にあった肖像画が消失したことがあったんだ。その肖像画というのが、かなり前からある物でね。昔の生徒が描いたのか、教員が描いたのか、それは分からないんだけど、かなり良い絵だったことは覚えてるよ。一人の女性を描いたものでね。僕は絵に疎いし、一度見たきりだから的外れな感想かもしれないけど、とても美しくて生々しかった。それこそ、今にも絵から抜け出してしまうかのように、ね。そして、美しすぎてどこか恐ろしさも感じたんだ。上手く言い表せないんだけど、とにかくそれくらい美しいんだ。失くなった時は、もちろん悲しかった。他の生徒や教員にも親しまれていたからね。でも、それと同時に途轍もなく不安にもなったんだ…」
斉藤は先程のように温かみのある郷愁と哀愁を肌に漂わせながらも、その肌を乾いた風が一瞬通り抜ける。
「その絵は今も見つかっていないんですか?」
宇治山君が問うた。
「ああ。気になるなら、美術室に行ってみると良いよ。より詳しく聞けるかもしれない」
「分かりました。有難う御座います」
これは新たな調査対象になり得るだろう。私と宇治山君は互いに目を合わせ、暗黙の内に次の行き先を了解し合う。
「それでは、これにて失礼します」
「あ、ちょっと待って」
斉藤は我々を呼び止める。
「7月あたりに県大会があるから、良かったら来てね。うちは今年も全国狙ってるから。それに、審査員にあの稲瀬氏が来るんだ」
「そうなんですか」
それには多少驚いた。私の想像する稲瀬に間違いがなければ、それは国際的に活躍している指揮者・作曲家のことである。言い方は悪くなるが、高校生如きの審査のために滅多に日本に帰らない彼が帰国するとは。彼の出身校がここ―鎖倉高校であることが関係しているのだろうか。いずれにしても、高校生たちにはまたとない貴重な経験であろう。
「10月にこの県で開催される全国大会の審査員でもあって、そこでは学生たちの激励のために彼のオーケストラも披露されるらしいよ」
「ぜひ聴いてみたいですね…」
宇治山君は興味津々だ。心なしか、斉藤も浮き足立っているように見える。
「それでは、この辺で。部活も始まるでしょうし」
私は言った。
「そうだね。じゃあ、気が向いたら来てね。さようなら」
手を振りながら斉藤は言った。我々は軽く会釈をして、音楽室を後にした。背中越しに、ホルンの音色にピアノが加わるのを聴いた。
※※※
午前8時。異能部が去った音楽室には、吹奏楽部が各々の担当楽器を持って集結していた。彼らの視線は、彼らの導き手―斉藤嘉粋に集まっていた。
「慢心は死に直結する。しかし、自信は持ちなさい」
「はい!」
斉藤が威厳がありながらも部全体を包み込むような声で語りかけ、部員たちは一糸乱れぬ返事を響かせてみせた。これは、日々両者の間で繰り返されてきたやり取りであった。
「県大会まであと3か月。それでは、始めよう」
部員たちは世界を吸いこみ、楽器を介して自身を吐き出した。音楽室に音がなみなみと注がれた。