4/15-①「ボールが好きな男の子」
「おはよう」
早朝。まだ陽も出ていないような薄暗く肌寒い時間帯である。そんな時間に学校の体育館でせっせと練習に励もうとしている物好きに、宇治山君は実に爽やかに、そう話しかけた。陽が出ていないならそれは朝ではない、という屁理屈も彼のその挨拶には通用しないだろう。かく言う私にとっては、昨日の疲労が未だに身体の節々に居座り続ける、気怠い朝なのだが。
「え?あ、ああ。おはよう…」
180㎝手前程の身長。上下セットアップのウィンドブレーカー。肩にかけたエナメルバッグ。エアジョーダンの靴。小脇に抱えたバスケットボール。ワイヤレスイヤホン。バスケットボールを持っていなくとも、すれ違う誰もが、彼がバスケットボールに親しみを持っていると見抜くはずだ。
「和田君…だよね?」
宇治山君はそう彼に問うた。
「え、そうだけど…。何?」
彼は両耳のワイヤレスイヤホンを外してから答えた。彼が、タマオの噂の発信源こと和田で間違いないらしい。
彼が醸し出す雰囲気や口調は、無気力と形容せざるを得ない。いや、微気力とでも言った方が良いのだろうか。必要最低限の気力以外は出力していないような、都内のボロアパートで一人暮らしをする大学生のようにガスやら電気やらを節約しているような、そんな印象の男である。
「少し話を聞かせてもらってもいいかしら」
「…まあ、構わんけど」
少々こちらを訝しがるような態度が散見されるが、とりあえず取材の許可は下りた。
「助かるわ。早速なのだけど、ちょうど今のような時間帯に、この体育館で様子のおかしい少年を度々目撃するというのは事実なのかしら?」
「ああ、その話か」
和田はようやく私たちの目的を理解したらしく、いくらか警戒を緩める。
「事実だよ。そんな嘘つくくらいなら、俺ならもう少し凝るね」
「それはもっともね」
取材した中では、これが一番七不思議として判然としなかった。一歩踏み込んでいなかった、とでも言おうか。他の噂に比べてこの噂には死や呪いといった結末も無いし、魅力的な恐ろしさもあまり無い。七不思議としては、言ってしまえば駄作中の駄作である。しかし、だからこそ信憑性が高いとも言えるのだ。
「今、私たちもそのタマオに会おうと思っているの」
「はあ」
和田は気の抜けた返事をする。
「話では一人の時に現れるのよね」
「お、おう」
「自主練習を少しだけ待ってもらえないかしら」
「まあ…いいけど」
和田は不本意そうに私たちの妨害を許した。
「感謝するわ。…もしかして他にも部員が来たりするのかしら」
「いや、それは心配しなくていい」
彼は、一瞬寂しそうな表情を見せた。
「高校に入ってこの方、自主練にチームメイトが顔を出したことは無いからな」
しかし、その後は開き直るかのようにあっけらかんと事実を述べた。
「…そう。じゃあ、遠慮なく」
体育館に入る前に彼にもう一つだけ質問した。
「タマオの他に、この学校の七不思議について何か知っている?」
取材は抜かりなく行う。昨日は得られなかった情報を彼から得られるかもしれない。
「―え?あーー……」
彼はしばらく考え込んでから、答えた。
「一年生に五留してる奴がいるってのは聞いたな」
期待した私が馬鹿だったか。
「行くわよ、宇治山君」
「ああ」
「おい、無視かよ。五留は気になるだろ、おい」
かくして、4月15日の土曜日は始まった。薄くも大量の雲が空を覆い、陽が出た後も薄暗いような、寂しげな天気であった。
※※※
誰もいない体育館の中は、当然、静寂に満ちていた。電気は点いていたが、それによる内の明るさと、複数ある窓から見える外の仄暗さの相乗か何かで、真暗な体育館よりも遥かに身体の芯が震わされるような寂寥感をそこに覚えた。まるで、今そこで汗水を垂らして練習に打ち込んでいた生徒たちが一挙に霧消してしまったような、そんな寂寥である。
「うーん…いなさそうだね」
「そのようね。少し待ってみましょうか」
私と宇治山君は玄関フロアと練習コートの境目に立って、体育館を見渡していた。広大な空間に我々しかいないからなのか、はっきりと互いの声が聞こえる。我々は待つことを選んだが、3分程経ってもタマオは現れなかった。
ふと、後方から扉を開く音が聞こえた。和田が入ってきたようだ。
「あのさ、なんかスポーツしてみれば?」
和田が我々にそんな提案をしてきた。
「タマオが出てくんのは、この時間帯で間違いないけど、あいつが出てくるとき、決まって俺はバスケしてるぜ」
「なるほど。やってみる価値はあるわね」
確かに、何かがトリガーとなって現れる可能性は十二分にある。その手の怪談は多い。
「助かるよ、和田君」
宇治山君が、和田に礼を言った。
「…おう。お前らが何をそんなに熱心にやってるのか知らんが、まあ、頑張れ」
彼は、ぎこちない激励を我々に贈った。
※※※
「じゃあ、とりあえず俺がやってくるよ」
そう言って宇治山君は、和田から拝借したバスケットボールを抱えて、練習コートへ足を踏み入れた。二人でやっても良かったが、何が条件なのかはまだ判然としないので、とりあえず、普段の和田がするように行動することにした。和田もこちらを気遣って立候補してきたが、昨夕のような万が一のことが起こると困るので、適当に理由をつけて断った。
宇治山君は手近なリングの近辺でそれとなくバスケを始めた。革製の7号ボールが床に打ち付けられ、重く鈍い音が、彼以外に誰もいないコートに響く。また、彼の運動靴のアウトソールと床が擦れて微かなスキール音も鳴る。余談であるが、こんなこともあろうかと我々は運動靴を用意していたのである。
私と和田は玄関フロアから宇治山君を見守る。
「普通に上手いな、あいつ」
そう和田が溢した。かつて女子バスケ部に所属していたといっても素人には変わりない、私の目から見ても宇治山君はバスケが上手かった。ドリブルをついても、ボールに命令を聞き入れさせているかのように制御しているし、シュートを放っても、半分以上はリングの中心に吸い込まれる。
「あいつ、噂の転校生だよな?経験者なん?」
砕けた言い方で、和田はそんなことを聞いてきた。
「…そうかもしれないし、そうではないかもしれないわ」
「曖昧すぎるだろ」
和田は少々困惑したような表情を見せた。彼がそうなるのも無理はないが、なにせ宇治山君には過去の記憶がほぼ無いのだ。そんな踏み入った事情を本人に許可も取らずに私がつらつらと喋る権利は無いし、そもそも前述のように私にも宇治山君にも、彼の過去が分からないのだ。そう答えざるを得ない。
「まあ、いいや」
和田は呆れたように、話を終わらせた。
「―あ。あれ」
直後、和田が不意に何かを見つけたように声を上げる。彼は何かを指さしていた。私はそちらへ目を向ける。
「…あれが」
私もそれを視認した。宇治山君のいるコートとは反対のコート上に、それはいた。というより、徐々にそこに顕現した。自身を形作る色彩を徐々に濃くしていった。
「タマオ」
やけに病的な顔と体格をした小学校低学年ほどの男児が、バスケットボールを両手で抱えて佇んでいた。寂しそうな眼をして。
※※※
「あれがタマオで間違いないのね?」
隣に立つ長良井世恋は俺にそう聞いてきた。
「ああ、間違いない」
俺はそれに答えた。
俺たちは今、玄関脇に身を潜め宇治山とタマオの様子を伺っている。
長良井世恋。今日まで一度も話したことは無かったが、学校では周囲から浮きがちな腫物として有名なので、一方的に知ってはいた。廊下ですれ違うことも何度かあったのだが、その度に、彼女の目つきとオーラのあまりの冷たさに少し精神的に身構えてしまっていた。しかし、こうして話してみると、意外とその感じはしない。どこか変わったということだろうか。髪型とかその辺りだろうか。いや、全く分からない。何だ。まあ、いいか。
「……」
長良井世恋は、バスケをする宇治山辰巳がこちらを見るのを見計らって、あらかじめ決めていたハンドサインで彼に合図を出した。『話しかけて』という合図だ。極力、他者が介入することを避け、あくまでも一人でタマオに接触させて様子を見るためのサインらしい。
何故、この二人はこんな事をしているのだろうか。そもそも、何故この二人はここまで仲が良いのだろうか。彼らに関する噂は色々聞くが、宇治山辰巳はあくまでも転校生だ。彼がこの学校に来てからまだ一週間も経っていない。こんな短期間でここまで親密になれるのものなのだろうか。趣味とかが合ったのだろうか。それとも、かつて離れ離れになった幼馴染なのだろうか。いや、全く分からない。何だ。まあ、いいか。
宇治山は長良井の指示通り、タマオのいる方へと歩を進めた。俺はあいつとコミュニケーションを図ろうと思ったことなどないので、今から何が起こるのか少し楽しみだ。普段、彼が現れた時、俺は出来得る限りそちらを見ないようにひたすら練習に打ち込んで気を紛らわせていた。それはもちろん怖いからだ。だが、もう既に彼が視界の端に映るこの自主練にも慣れてきた。もちろん話しかけはしないが、一人でやるよりもずっと賑やか―彼は喋らないが―なので、助かっている。そんなことを考えていたらバスケがしたくなってきた。早く用事を済ませてコートを空けて欲しい。
「あの……君」
宇治山がタマオの方へ歩きながら、彼に声をかけた。
「……」
タマオはその生気の無い顔を、ギリギリもどかしくならない程の絶妙な速度で、ゆるりと宇治山の方へ向けた。甘えるような上目遣いでそれは口を開いた。
「遊ぼう、お兄ちゃん」
まだ声変わりの前兆も見られないような、透き通った可愛らしい高音で、それは喋った。しかし、両耳に遠慮なしに指を突っ込まれたような、不快感があった。
「え…何して?」
その不気味さに、先程まで怖い物を知らなさそうであった宇治山も些か動揺したようだ。一瞬の間を置いて返した。
「えー、分かってるでしょ。もちろんバスケだよ、バスケ」
タマオは両頬をぷくとビー玉ほどに膨らませて、無邪気なことを言い、活発そうに飛び跳ねている。しかし、彼は今にも死にそうな、あるいは既に死んでいるような顔色をしているので、その言動はあまりにもずれている。身長3メートル体重200キロのバスケットプレイヤーが私のポジションはポイントガードであります、と言っているようなものだ。多分。この例えは合ってるのだろうか。何だ。まあ、うん。そのようなものだ。
「あー、うん。やろうか。1on1でもする?」
宇治山は親戚や近所の子供に接するような感じで、その不気味なものに接している。
「やったぁ!!やろうやろう!!」
タマオはバスケットボールを放り出し、両手を掲げて飛び跳ねる。
「―そのついでに」
それまで可愛げのあったタマオは突然声色が変わる。年不相応の迫力である。
「賭けをしようよ」
「マセガキが」
隣の長良井からか細い罵倒が聞こえてきた。彼女が毒舌だというのは事実らしい。
「…何を賭けるの?」
宇治山は大人ぶる子供を軽くあしらうように聞き返す。
タマオは相変わらずの声音で、冗談ぽく物騒な提案をした。
「ぼくが勝ったらお兄ちゃんのあたまをちょうだい」
バスケを何だと思ってるんだ、こいつ。いや、その前に怖い、怖すぎる。二回戦で優勝候補筆頭にぶち当たった湘北高校バスケ部の気持ちを今、真に理解した。多分。そうだと思う。
「なるほどね」
長良井は妙に一人で納得している。何故こんなに落ち着いているのだ、こいつは。
「おいおい、大丈夫かよ。宇治山は」
「危険になったら助けに入る。まだその時じゃないわ」
俺の心配をよそに彼女はいたって冷静である。
「俺が勝ったら何をくれるの?」
宇治山も宇治山で何故か普通に受け答えをしている。ついでに、ちゃっかり勝つつもりらしい。まあ、確かにあいつの腕は認める。しかし、俺の方が上手い。いや、そうではなくて何故あいつもあんなに落ち着き払っているのだ。そんなに自信があるのか。何か策があるのか。タマオの試合映像をテープが擦り切れる程見漁って研究に研究を重ねたのだろうか。そんなテープあるわけが無いだろう。うん。やはり彼らの思考回路はわからん。とりあえず、俺はめちゃくちゃ怖い。
「え?冗談言わないでよ。勝てる訳無いじゃん」
タマオは小馬鹿にしたように宇治山を笑う。どす黒い本性が見え隠れし始めている。
「いや、でも賭けってそういうものだからさ。ハイリスクノーリターンになんて誰も乗らないよ。赤ん坊にでも分かるよ」
宇治山も負けじと、分かりやすく神経を逆撫でするような皮肉を並べる。
「うるさい。分かってるよ。ぼく、お兄ちゃん嫌いかも」
「はははっ、仲良くしようよ」
兄弟喧嘩に見えなくもない。
「だまって。…じゃあ、お兄ちゃんが勝ったらぼくもあたまをあげるよ」
「うーん、要らないかな」
宇治山は真顔で言ってみせた。
「ふざけるな!」
タマオは物凄い剣幕である。もう隠す気はないらしい。
「代わりに、無制限に使える『なんでも言うことを聞く券』が欲しいな」
「は?」
タマオは当然の反応をした。俺だって理解できない。宇治山はあくまでもタマオを子ども扱いするつもりらしい。
「なるほど」
またもや、長良井は一人で勝手に納得しているようだ。
「だから、それを使えば、いつでもどこでも何でも君が言うことを聞いてくれる券だよ。マッサージしたりとか、購買に買い出しに行ったりとか―」
「ああっ、もう良いよ、それでっ!まあ、あまり先の想像はしない方が良いよ。するだけ無駄だから」
少し宇治山のペースに飲み込まれそうになって取り乱したが、タマオはすぐに自分の怖さを際立たせるような語り口に戻る。
「それは君にも言えるよ」
「言ってろ。じゃあ、ルールはオールコートの1on1。10点マッチで、1ゴールにつき1点。3ポイントラインの外から放ったシュートは1ゴールにつき2点。ゴールを決められたら、ハーフラインで一度パス交換をしてから決められた側は攻め始める。試合開始の時もそれでいくよ。もちろん反則はなし。じゃんけんで勝った方が先攻。じゃあ、ルールを守れるならぼくと指切りして」
「もちろん。良い戦いにしよう」
「今言ったことを一つでも破ったらすぐに敗北が決定して、賭けの対価を支払わされるからね」
「了解」
何故か、やけに原始的なやり方で両者はスポーツマンシップを誓い合った。しかし、普通の指切りと違って彼らの小指がぼんやりと発光して見えた。
「じゃあ、じゃんけんに勝ったから先攻はぼくからだ」
彼らはハーフラインで向かい合い、タマオのオフェンスから試合は始まった。
それと同時に長良井が言った。
「私とあなたも約束を結びましょう。この試合で今から見ることは口外しないこと。良いかしら」
長良井が何をもってその約束を提案したのか、あまり理解できなかった。
「え、うん」
だが、まあいいや。うん。俺はコート上の二人に視線を戻した。
正直、俺は興奮を覚えていた。人間と幽霊の1on1。どちらも自信満々。どんな凄い試合が繰り広げられるのだろうかと俺はいちバスケットボーラーとして胸を高鳴らせた。この時の俺は思いもしなかったのだ。まさか、彼らが行う競技がバスケットボールなんかでは無いなどと。いやあるいは、俺がバスケットボールというスポーツをケの字ほどまでしか知らない未熟者であるなどと。あるいはジェームズ・ネイスミスに「あなたが生んだスポーツはここまで立派に成長しましたよ」と見せてあげたいと思うなどと。
※※※
それは最早、芸術であった。
今、鎖倉高校の体育館では、確かにバスケットボールが行われていた。だが、それは確かにバスケットボールでは無かった。ルールは確かに遵守されているが、物理法則が圧倒的に遵守されていなかった。宇宙誕生から百億年余り各地での度重なる物理法則の適用による過労で事切れてしまったのか。あるいは遂に物理法則は定年退職を迎え、湖畔の別荘で静かに余生を過ごしているのか。
枠に囚われているのにも関わらず、型破り。相反する状態を同時に、そして一か所に宿し、葛藤と情熱を感じさせるこの試合を芸術的と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
一方は、「ボールを奪い取り、コートの端から端までをドリブルを突きながら走破し、リングにボールを叩き込む」という一連の動作を瞬きの間に完了させる。一方は、小学生男児という外観に反して、小学生男児、ひいては成人男性、ひいては人類には再現不可能なアクロバティックかつダイナミックな動作で対抗する。疾風のようにコート上に風穴を開ける一方はおよそ風神、迅雷のようにコート上を飛び回る一方はおよそ雷神であろう。そう、これはかの俵屋宗達が風神雷神図に描いた二者なのである。彼らはあまりにも長い時間顔を突き合わせていたことで、徐々に互いの嫌悪すべき部分を直視せざるを得なくなり、遂に堪忍袋の緒を一斉に切り合ったのである。
この一種の魅惑的で血湧き肉踊るショーを少しでも長く見ていたい。誰もがそう思うはずだ。しかし、勝負というものは残酷で、決着がついてしまえば、その時間、その空間は終わりを告げるのである。それはこの試合も例外ではない。
決着は1分もかからずについた。
※※※
「うわぁぁぁぁぁぁん。うぇぇぇぇぇん」
その泣き声で俺は我に返り、開きっぱなしだった口をひっそりと閉じた。
タマオはその見た目に相応しい迫力と可愛げで泣きじゃくっていた。それを宇治山が背中をさすって、母親のように慈愛に満ちた顔で慰めている。
「ごめんよ…」
「いい気味だわ」
長良井が隣で勝ち誇っている。
ところで俺は今、何を見せられたのだろう。バスケの10点マッチが1分も経たずして終わり、しかもスコアは10対0という惨状である。どちらが勝ったかは言うまでもないだろう。
「…宇治山って何者?」
聞かずにいられる訳がない。俺の脳は先程視界に入れた情報を夢か何かで片付けようとしている。タマオの動きがやばいのは理解できる。何故なら、そもそも外見が常人ではなく、存在がやばいからである。だが、宇治山はいち高校生である。彼のやばさは、運動神経がやばいとかバスケの才能がやばいとか、その領域には属していない遥か高みのやばさであった。それをいち高校生が持っているから猶更やばいのである。
「…強いて言うなら、転校生ね」
こちらをからかっている、というより彼女にもそれは分かりかねるといった様子だった。
「俺も転校しよ」
「馬鹿ね」
そんなことを適当に話していると、タマオが癇癪を起したようにわなわな震えながら叫んだ。
「おい、そこにいるのは分かってるんだぞ…ひぐっ。男と女っ!出てこいっ!お前らもぼくと勝負しろ!…ひぐっ」
まだ涙は枯れていないようだ。
「いや、やだよ」
俺は怯んだ。当然である。俺はバスケが上手いだけの高校生である。まだ平穏に生きていたい常人である。
「まだ懲りないようね、子ども」
俺とは対照的に長良井はすたすたと一切の迷いなくタマオの目の前まで歩を進めた。少しばかり長良井が輝いて見えた。比喩などではなく。
「よし、女。勝負しろ!」
この表現が正しいかは分からないが、タマオは頭に血が上ってしまっている。
「ふんっ、できない相談ね」
長良井は冷徹に切り捨てる。
「なんだと…?言うことを聞けええ!」
タマオは火山が噴火したように猛り狂って、長良井に飛びかかった。
「危ないっ」
俺は思わず飛び出していた。だが、
「甘い」
次の瞬間、殴られたように見えた長良井は少し後ろに下がったのみで、逆にタマオが床でのたうちまわっていた。彼はおでこをおさえて泣き叫んでいる。
「ぴええええええええん」
今、デコピンしたのか。それ以前に、彼女はタマオの超人的な身体能力に暴力を振るわれたのではなかったか。
「…長良井って何者?」
やはりこちらも冷静に佇む宇治山にそう問うた。
「…強いて言うなら、少し毒舌な高校生かな」
「少し?」
流石にそこは訂正しておいた。