4/14-⑧「調査結果:廊下」
「いやあああああああああ!死ぬう!死ぬうううううううう!」
目から鼻から毛穴から、あらゆる体液を際限なく溢しながら、そして、やけに芯のある叫び声を上げながら、彼はこちらへ向かってくる。ついでに厄介なモノも携えて。それは、
「待てや、ガキィィィィ」
右手と左手を交互に前に出して走っている、裸の男である。何故、そんな走り方をしているのか。下半身が存在しないからである。臍から下は何もなく、滑らかな切断面を身体の最下部としている。そこからは、血管やら臓物やら凄惨な代物がいくつか垂れている。ここまでは物怪として普通に不気味なのだが、顔面や体格などは、道で幾度となくすれ違っていそうな、どこにいてもおかしくない様相なだけに、余計に不気味なのである。
……あれ、なんか普通に喋っている。
「ぎゃあああああああああ!喋ったああああああ!」
彼我の距離、およそ5メートル。見える範囲に他人はいない。
「宇治山君、彼を安全な所へ。殿は任せて」
「了解。気をつけて」
最低限の言葉だけ交わして、それぞれの役割を果たすために配置に着く。宇治山君はこちらに向かってくる彼の正面に。私は少し右にずれて立つ。
「凝縮、30%」
人差し指と親指を立て、前者にエネルギーを集約する。
「俺の右手目掛けて走って!えーと…」
同時に、宇治山君は何故かテイクオーバーゾーンでバトンを待つ次走者のような態勢になる。
「伊藤です!伊藤南無太です!宜しくおねが―」
極限の走りを見せ、宇治山君の右手に伊藤が触れる。宇治山君がその手を固く握って走り出す。洗練された走り姿である。
「って、これ自己紹介のタイミングちが―」
宇治山君が二歩目を地に着ける寸前に二人が霧消する。後には、私と非現実、そして伊藤のツッコミの虚しい残響。
「―射出」
二人の消失に戸惑う非現実的生命体に、親指の照準を合わせ、青白い光線を放つ。瞬間、それはこちらを睨みつけ、急激な制動と後方への退避を同時にやってのける。
「…っ」
思わず舌打ちを打つ。背丈の小さいそれを狙った光の弾丸は、避けられたことで床に炸裂した。か細くも鋭い炸裂音が鳴る。床が少し抉れてしまった。
「しゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
地獄の底から届いたような、掠れた叫声をそれが放つ。こちらを威嚇しているようだ。野生の獣のような気迫に思わず息を呑む。
「―射出」
間髪入れずに弾を撃つ。しかし、やはりそれは凄まじい反応速度で私の弾丸を避ける。また、床が抉れた。
「速い…」
次弾の凝縮の間にそれが視界から外れ、天井、窓ガラス、教室の扉、床へ次々と移動しながら、螺旋を描いてこちらに近づいてくる。照準が合わせられない。そして、いくつかの螺旋を描いた後、それは天井を蹴って、私に飛び掛かってきた。瞬く間に目の前である。私は咄嗟に両腕を交差させる。それは右手で手刀を繰り出した。
「ぐっ……」
危なかった。おそらく何も対策せずに喰らっていたら腕が折れていた。或いは…。念のため、軽度ではあるが光の鎧を腕に纏っていたことで免れた。とは言ってもかなり重い一撃だ。腕が痺れている。
しかし、何故か攻撃した側が私より痛がっている。
「うがぁぁぁぁぁぁぁっ」
それは手刀を繰り出して着地した直後、何故か悶えていた。上半身だけで床を転げ回っていた。すぐさま、そこを狙う。
「―射出」
「クソがっ!」
しかし、またしてもすんでの所で身を捩って交わす。それは体勢を立て直し、私に向き直る。やはり、馬鹿正直に早撃ちしてもこいつには当たらない。ならば、こちらにも策がある。それの次の攻撃に備えて、私は力を指先や腕に巡らせた。だが、
「お前ら、一体何者なんだよ!意味わかんねえだろが!何でこっちの次元の奴が俺と接戦してんだ!しかも、何だその術は!意味わかんねえくらいに痛えぞ!クソがっ!」
物怪の愚痴を聞かされる羽目になった。しかし、折角だ。意思疎通を図ってみよう。
「…あなた、喋れるのね」
「あ?いちいちお前らに言葉合わせてやってんだよ、バカが!感謝しろや!てか、俺にはもう時間が無えんだ!何としてでもお前だけは食い散らかして、俺は帰る!」
聞きたいことが何も聞けなかった上に、それの言うことは何も理解できない。しかし、食い散らかす、というのは聞き捨てならない。
「貴様如きに一噛みだって出来るものか」
「クソが!」
互いにそう吐き捨てて、2ラウンド目が始まった。が、私はそれとは逆方向に全力で走り出す。
「はあ?」
私が逃げる素振りを見せると思わなかったのか、それは距離感を見誤り、体勢を崩す。そして、スタートが遅れる。その悲惨な開走では、私に勝てるはずは無かろう。自転車で鍛えた私の脚力、舐めてもらっては困る。そして、これは断じて逃走ではない。勝利への疾走である。
「待てや、コラアアアアアアアッ」
「……」
後方から怒号が飛ぶ。全速力で走りつつ、振り返らず、滅茶苦茶に後方へ弾丸を撃ちまくる。牽制のための、凝縮率の低い雑魚弾丸であるため、当たったとしてもそこまでのダメージは望めない。だが、これ以上の床の被害は抑えられる。といっても、これから、より甚大な被害をこの校舎に与えてしまうことになるのだが。
「クソが!鬱陶しいわ!」
「……」
徐々に後方に迫られているのが分かる。だが、私の策に都合の良い距離感だ。窓の外を一瞥する。周囲に恐らく人はいない。始めよう。
「遅れてごめん!いつもより能力の効きが悪くて……え?長良井さん?」
10メートル先の廊下に音もなく現れた宇治山君が、一瞬視界に入った。加勢に来てくれたようだ。しかし、もう必要はない。
「……っ」
宇治山君が現れた時には、既に私は手近な窓へと真正面から飛び込んでいた。全身に光の鎧を纏った状態で。急拵えではあるが、この程度の厚さなら容易く破れる。鈍い打撃音、乾いた強烈な破砕音、そして、細かく砕けた破片たちの落下音の余韻。全てをはっきり聞き分けられる程に落ち着いていた。私は校舎の3階から落下している。
「はっはっはっ、バカがっ!」
それは下卑た笑い声を響かせながら私に続いて飛んだ。
「ぐっ………」
落ち始めた瞬間、瞬きよりも速く鎧を解除し、指先に力を集約させる。凝縮率は50%。並行して、姿勢を仰向けに移行する。最後に、右手を銃の形に構え、左手で右腕を固定する。
「あ?」
私が逃げているとばかり思っていたらしいそれは、悪辣な笑みから一転、急激に顔を歪めた。狩る側と思い込まされていたそれは、ようやく自分が狩られる側だと理解した。それの歓喜、逡巡、絶望、一秒にも満たない一連の表情の流動が、はっきりと認識できた。それの遥か後方に広がる、深淵のように曇った夜空まではっきりと。
非現実的な存在であるとはいえ、それは私たちと同じように床を踏みしめて走り、床や壁を足場として跳躍していた。つまり、確実にそこに存在している、一般的な生命体にも触れられる物をそれも使っていたということ。ある程度、こちらの物理法則に則っているということ。であれば、だ。
こいつは空中で身動きが取れない。
「あなたの詰みね。…射出―」
私を食い散らかそうとして、意気揚々と空けていたその口腔に、私は弾丸を―。
あれ?今まで、非日常の浮遊感に気を取られて、目を逸らしていたけど―あれ?退屈でない日々の延長上でこんな戦闘、いや、―殺し合いをしてるけど―あれ?今、この弾丸を射出したらどうなる?こいつの口の中で、あれ?
もう間に合わない。
「がひゅ」
身の毛もよだつような残酷な音を立てて、光の弾丸がそれの口腔内で爆ぜた。見るも無残な潰れた肉塊が目の前に現れる。それが顔だととても判断できないような、おぞましく巨大な穴が貫通していた。曇った夜空がはっきりと見えた。
「ぁ」
淀んだ大量の血液が、私の顔を濡らした。
「…っ」
―いや、気をしっかり持て。私は今、命を落としかねない状態にあるんだぞ。瞬時にそう思い直して、手の平と爪先に力を集約し、身体を翻してうつ伏せの体勢になる。
「はっ…」
地面が近づいてくる。衝突まで残り僅か。そこで、出せるだけの力を込めて、四か所から波動を放った。波動によって、地面が局所的に抉れ、土埃や砂利を巻き上げる。その威力の反作用で、私の落下の衝撃はほぼ相殺され、私は少しばかり浮き上がった。異能を解除し、右手を地面に着き、右足を立てて跪くような姿勢で着地する。
「うっ…」
異能を使いすぎたらしい。アドレナリンが切れたのか、突如身体を疲労が襲う。足に力が入らず、思うように立てない。
「うぴゃ」
背後で、蛙が思い切り踏みつけられたような、吐き気のする音が鳴る。
「長良井さん、大丈夫?」
足音もなく、真横に宇治山君が現れた。
「ええ……」
ふと、自分の手や衣服に付着した返り血が見えた。意識すると、顔中に湿り気を感じる。水とは違う、いくらか粘度を持った液体が、顔を覆っている。そして、私が直前にした事を明確に大脳が理解したらしい。
「おぇ…」
身体を寒気が走る。震える。嘔吐を必死でこらえる。呼吸が荒くなる。
あれは「死」…?あの「死」…?12年ぶりに眼前で起こる「死」。目を逸らし続けていた「死」。私の手で引き起こした「死」。
「な、長良井さん…?本当に大丈夫?」
宇治山君の声が聞こえたが、何を言っているか分からない。脳が考えようとしない。「死」に支配されている。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
「お二人とも、大丈夫で———ひぃっ」
伊藤が私と私の後方を見て、怯えた表情を見せる。
「ごぽっ…。うぉい……うぉま…えら…」
「は?」
不意に後方から、聞こえるはずの無い声がする。突如、私は我に返った。宇治山君の肩を借りて何とか立ち上がり、声の方へ振り向く。
「きゅそが…うぉまえら…は…じぇったいに…いつか……くぉろす」
まともに言葉が紡げておらず、喋る度に、水泡が弾けるような、獣が下品に肉を咀嚼するような、不快な音が鳴っている。
「…そのザマで何が出来るというの?」
一呼吸置いて、出来るだけいつもの調子で言葉を発した。
「まってるぉ…きゅそども―」
そう言ってそれは、空気と混ざり合うように消失した。私の顔を覆う液体もそれと共に消えた。
「―っ!長良井さんっ!」
そして、必死に保っていた私の意識も―
※※※
「…らいさん」
意識の上澄みにそんな音声が伝わってきた。だが、その音声は意識の底へやってくる前に溶解する。
「長良井さん」
「―っ」
私は目を覚ました。目の前には心配する宇治山君の顔があった。彼の吐息が私の顔にかかっていた。
「ふぅ、良かったよ。気が付いて」
私が目を覚ましたのを確認すると、彼は表情を仄かに緩めて、安心したような溜息をつく。
「ここは…私の家?」
徐々に情報を処理できるようになってきた視界と脳が、私が今いる場所を認識する。どうやら宇治山君の肩を借りて立っているようだ。既に空は暗く、周囲には街灯の灯りが散見される。
「そうだよ。あの後、ガラスの割れた音を聞きつけて割と人が集まってきたから、伊藤君ごと抱えて逃げてきたんだ」
「なるほどね」
意識を失う前の状況をようやく思い出す。あそこまで派手に暴れてしまったのだ。人も集まって当然だろう。私は宇治山君の肩からゆっくり離れ、自分の足で立った。
「それで、その伊藤君とやらは?」
彼が一緒に連れてきたはずの臆病者は、周囲に見当たらない。
「長良井さんがテケテケを倒したから安心したのか、一人で帰ってったよ。相当長良井さんに感謝してたよ。心配もしてたけど」
「そう。彼が無事だったのなら良かったわ。心配されるのは癪に障るけど」
「はははっ、いつもの調子みたいで良かった」
宇治山君は完全に緊張を解いて笑い出す。
私はともかく、負傷者を出さなかったのは喜ぶべき点だろう。だが、彼にはまだやってもらうことがある。
「それで…彼に」
「七不思議戦争の件かい?」
流石、宇治山君だ。共通の課題に取り組んでいる者としてここまで心強い味方はいないだろう。
「ええ。話してくれた?」
「もちろん。俺たちがテケテケと遭遇したことの証人として、証言してくれるそうだよ」
そう、私たちはあくまで七不思議戦争を戦っている最中である。少しでも七不思議を解明し、点数にしなければいけない。だが、テケテケのような本物の化け物が絡む場合、それをオカ研に証明しろ、と言われると難しい。実演するとして、運良くあの化け物が再び現れても、伊藤のように霊感が無ければ、確認できない可能性があるし、何より危険だ。あるいは、写真を撮ったとして―先程は撮る隙は無かったが―化け物が映るのかも不透明である。
そのため、馬鹿正直に伊藤に証言してもらうほか無いわけである。胡散臭く見えてしまうが、改ざんや捏造ではない純然たる真実であるので、彼には堂々と胸を張って証言してもらおう。
「流石の手際ね。…それと、色々手間をかけたようね。ごめんなさい」
私の安全を確保し、家まで運び、そして介抱までしてもらった。我ながら、呆れるほど不甲斐ない。
「いやいや、問題ないよ。さっきは何の役にも立てなかったし」
彼は微笑みながら私に責任を感じさせないよう振る舞う。
「そんなこと無いわ。あなたがいなければあの男子生徒の安全は確保できなかったもの」
「ははっ、そう言ってくれると助かるよ。…それで、身体の方はもう大丈夫?一応、病院行くかい?」
彼は、異能を一度に使いすぎて、一時は言うことを聞かなくなった私の身体を心配する。
「大丈夫よ。若干全身が筋肉痛になってるような感覚はあるけど、支障は無いわ」
「やっぱり異能を使い過ぎたから?」
「そのようね。異能の使用がここまで身体機能に影響を及ぼすとはね。いい勉強になったわ」
異能を授かってからこれまで、自宅や山中など誰も見ていない場所で、訓練のようなものをしていたことはある。だが、訓練と言っても、凝縮率の低い光線を放ったり、光の鎧を纏う際のエネルギー操作の練習をしたりしていただけで、あそこまで連続で、かつ強度の高い異能を使ったことはない。慣れないことはするものではない。
「分かってはいたけど、まだ異能には謎が多いね」
「そのようね」
「そういえば、さっき俺の異能いつもより効きが悪くて、参戦するのが遅れたんだ。長良井さんのように能力を使い込んでいたわけでも無いのに」
そういえば、そんなことを一瞬聞いた気がする。
「…心置きなくこの能力を調べるためにも、完膚なきまでにオカ研を叩きのめすしかないわね」
「はははっ、そうだね。……それで、明日の予定は?」
宇治山君は既に七不思議戦争に焦点をシフトし、夏休み真っ只中の少年のように顔を輝かせながら、明日―土曜日―の予定を尋ねる。
「明日はまず、体育館へ行こうと思っているわ」
「タマオの件を調べるんだね」
「ええ。明日の体育館の最初のシフトはバスケ部だから、そこに合わせようと思って」
「なるほど」
バスケ部には話に聞いた和田が所属している。
「それと、練習開始時刻の2時間ほど前に行くつもりよ」
「それは朝練の時間帯?」
「ええ。タマオに会えるかもしれないわ」
鎖倉高は生徒の自主的な朝練や居残り練に寛容であり、6時から20時まで体育館は開放されている。先程のタマオの目撃情報は、そういった自主練の時のものだった。
「了解。じゃあ、6時頃に体育館で」
「ええ」
私は頷いた。
「明日は十分な注意を払って、調査に取り組みましょう。今日はたまたま上手くいったと考えるべきよ」
テケテケはそこまで頭は良くなかったとはいえ、物の怪らしく運動能力は非常に高かった。異能も随分と使わされた。正直に言って、私はあの学校で最期を迎えていてもおかしくはなかったのだ。それほどこの七不思議戦争は危険を孕んでいる―私たちが異能者だから危険に晒された可能性もあるが―。それを肝に銘じておく必要がある。
「その通りだね。テケテケの最後の言葉も気になるし…」
あの様子だと、テケテケはまだ生きている―ああいった存在に「生きている」という表現は正しいのかは分からないが―と思っておく方が良いのだろう。
「そうね。そこも注意しておきましょう」
「了解」
宇治山君は頷いた。
「―そういえば」
彼は突然、何かに思い至ったような顔をして、その事実を噛みしめるように間を置いてから、再び口を開いた。
「変な言い方かもしれないけど、今日、俺たち本物の七不思議を見たんだね…」
そういえば、そうだ。普通ならば、これはやはり一大事である。
「……非日常が日常になりつつあるわね。感覚が鈍るわ」
最近は退屈する暇があまり無い。気づけば一日が終わっている。
「着実にこの町の根元に近づいてる気がするよ」
この町を我が物顔で見下ろす月を見上げながら、宇治山君は言った。やはり、少年のように。淀みなく。
私も彼につられて月を見上げた。
その日は風呂にも入らず、着替えもせず、飯も食わず、家に入るなり就寝、否、気絶した。