4/11-①「転校生は突然に」
さびしける 鎖に奔り 流線は きみの両手に 降り注ぐだらふ
「初めまして。東京から来た宇治山辰巳と言います。趣味は特にありません。特技は――です」
常人なら笑ってしまうほどに出鱈目で、それでいて淡々としていて。異質な真剣味を帯びたその自己紹介を聞くまで、私の人生は白の絵の具一色で画用紙を埋め続けるかのように、退屈で空疎なものだった。彼の一言が私の画用紙に、滲んでふやけてしまうほどの極彩色の衝撃を与えた。
「よろしくお願いします」
その端正な顔立ちの男は、こちらを一瞥してからそう言った。
久しぶりに、人の名前を覚えようと思った。
※ ※ ※
―4月11日。
1954年のこの日は、世界史上で最も退屈な日らしい。重大な事件は起こらず、著名な人物がほとんど生まれてもいないし、死んですらもいないらしい。その日のことが鮮明に想像できるほどに、今年の4月11日も退屈になりそうだ。
私は、古びた木製の扉を開けた。その中は教室だ。何の変哲もない、退屈な教室と人間とがそこにはいる。何人かがこちらを見てくるが、すぐに興味を失って友人との馴れ合いを再開する。私は窓際の列にある自分の席へ進み、腰を下ろした。一時間目の授業の準備をした後、特にすることもないので何気なく窓の外を眺める。
今日も今日とて空は青に染まったきり、ぴくりとも動かない。それは時たま違う顔を覗かせても、気怠そうに灰色を示すだけだ。ごく稀に来る台風やら何やらの異常気象も、人間に置き換えれば、インフルエンザみたいなもので別に大したことはない。
あの真っ青な空が突然パズルのピースが抜け落ちるように口を開けて、その歪みの向こうから、別世界の住人がこの世界を侵攻でもしに来ないものか。頼みの綱の、自分と同じ種族の方々は皆、中々どうして一様につまらない。
前の席の内藤(だったか佐藤だったか)は、来る日も来る日も、飽きもせずに、悪友と猥談に鼻を咲かせている。
「お前、キクちゃんのグラビア見た?あれやばくね?エロくね?」
「チルカちゃんも良いよなぁ。あの可愛さと胸のデカさで俺らと一つしか変わらないんだもんなぁ。早く帰ってきてくれないかなぁ」
反吐が出る。
三個右の席の高井(だったか桜井だったか)は、頭が悪そうな、奇想天外な語彙を濫用して、「推し」とかいう話題について、頬を微かに紅潮させながら、興奮気味に話している。
「二期やばくない?推しが大活躍してて嬉しすぎる、尊すぎるぅぅ」
「あ、推しと言えば、メイジくんのドラマ見た?そうそう、私の唯一の三次元推し」
彼女も毎日、毎日そうしている。
担任(名字すら覚えていない)は、いつもいつも綺麗事を並べ立てるだけの、まさに教師のテンプレートとでも言うべき存在だ。次に何を言うか容易に予想でき、生徒に歩み寄ろうとして流行の話題を安易に口にして場を白けさせる典型的な中年だ。私でなくともクラスの誰もが興味がない。去年に続いて今年度も彼が担任というのはさすがに気が滅入る。
「はぁ……」
今日もつまらない。この瞬間が息苦しい。つまらない事よりも、それをつまらないと思う瞬間が嫌いだ。時間が無為に過ぎているのを実感する。つい先日始業式を終えたばかりだというのに。この調子だと今日だけでなく明日も明後日も来週も来月も来年も退屈なのだろう。やはり私はマユミさんの帰還を待つほか無いらしい。それ以外にこの退屈さを解消する方法は無い。
「それでは、転校生を紹介する」
ん。気づけば、朝のホームルームが終盤に差し掛かっている。しかも、何だ?転校生?高校になっても転校という制度は存在するらしい。だが、この辺りでは有名な進学校だと言うのに転入できたということは、よほど優秀な生徒という事なのだろうか。
「よし、入っていいぞー」
少しは気が紛れれば良い。まあ、初対面で興味を持つということの方が少ないが。せっかくの機会だ。期待しよう。
教室の前方の扉が開いた。175cmほどの男が入ってきた。髪は短め。横髪が耳にかかるかかからないかくらいで、前髪は眉毛の高さくらい。一重で眼光は鋭いが、意志の強そうな綺麗な瞳をしている。鼻筋も綺麗だ。
どうやら容姿は整っているらしかった。少なくともこのクラスの誰よりも。まあ、そんなもの評価には値しない。容姿が良くても悪くてもつまらない奴はつまらない。
その転校生は、教壇を通り過ぎてさっそく黒板に向かって自分の名前を書き始めた。
宇 治 山 辰 巳
字も端正だ。お手本のように整った字を書く。名を書き終えた彼は、教壇に立ち口を開いた。
「初めまして。東京から来た宇治山辰巳と言います。趣味は特にありません。特技は―」
声音も透き通っている。よく響くが鬱陶しくない音調だ。
「時間を止めることです」
は?
私の体内と体外を何かが流動する感覚。『本物』の感覚。
「その証拠に今、クラス全員の赤ペンを筆箱から抜き取りました」
彼の両手から約十本の赤ペンが零れ落ち、教壇に乾いた音を立てる。筆箱を開けて確認すると、たしかに赤ペンがなかった。他の数人の生徒も確認していたが、無いようだった。その人数と赤ペンの本数が合致した。
クラス中が静寂に包まれている。誰も状況を飲み込めていない。この空気を作り出した彼は、得意げにするでもなくずっと冷静で無表情に近い。
十秒くらい経ってから数人がざわつき出した。担任はポカンと口を開けたままだ。その転校生—宇治山は、クラス中に目を走らせて、最後に私のところで目を止めた。私の席の周囲の人間も何故かこちらを見る。
「長良井、なんで立ち上がってんだよ…てか、なんで笑ってんだ」
「長良井さんが笑ってるとこ初めて見たかも…」
そうか。私は無意識に立ち上がっていたのか。あと、笑っている…のか?いや、しかし、実際この宇治山は私が待ち望んでいた―
「よろしくお願いします」
私に向けてなのか、クラスに向けてなのか、彼は曖昧なお辞儀をした。クラス中が本格的にざわつき出した頃、担任が我に帰る。
「す、凄いな宇治山。ははっ。手品得意なんだな。お、お前の席は長良井の隣だ。窓側の一番後ろだ。ちょうど使っていない机がある」
「はい、わかりました」
宇治山がこちらに向かってくる。私を見つめながら一歩一歩近づいてくる。そして、私の隣に立った。彼は、手を差し伸べてきた。握手を求めているらしい。
「よろしく、長良井さん」
私も手を差し出した。
「ええ、こちらこそ。宇治山辰巳くん」
久しぶりに、人の名前を覚えようと思った。
この日、退屈が終わりを告げた。