櫻子の嫁入り
日曜日。終点が近いバス亭は利用する人も少ない。酒の匂いを漂わせた休日出勤らしきサラリーマンに続いて降りると、いつもと違う道に進んだ。こっちでも帰れる。ただ、ちょっと遠回りだ。
二十時。部活で疲れきった体は、すぐにでも家に帰りたがっている。今日の夕飯はトンカツだと母さんが言ってたし。生暖かい陽気のせいで、かなりの汗をかいた。早くシャワーで流したい。
それでも――。
新興住宅地に入る。道に人の姿はない。明かりのついた家からは、子供の楽しそうなはしゃぎ声が聞こえる。
若いってうらやましい。元気がありあまっているんだろうな。
重いラケバを背負い直して道の先を見る。あそこの角を曲がれば、見える。畑の向こうに、俺が遠回りをしても見たい桜が。心臓がドキドキしている。
そこは小さな公園なんだけど、かなり古いらしい。俺が生まれるずっと前からあるとか。桜の見事な大木が七本も植わっている。
子供の頃はよく遊んだし、春には家族と花見もした。俺にとっては当たり前の場所というか、見慣れた光景っていうか。そんな慣れ親しんだ公園だ。
そのイメージが一変したのが去年のこの時期だった。
やっぱり部活帰りの夜。自宅とは別方向にあるドラッグストアに寄るため、ここを通った。バスを降りてよく知った道を何も考えずに歩き、角を曲がった瞬間、息を呑んだ。
暗い闇の中、薄桃色の雲海が光を放っていたのだ。
異世界に迷い混んだのか?
と思ったのは一瞬で、すぐに桜だと気がついた。満開のそれが、並ぶように立っている街頭の明かりのせいで中から輝いているように見えたのだ。
まるで知らない場所に思えた。幻想的で神秘的で美しい。何かを見て、心の底から美しいと感じたのは初めてだった。
疲れも悩みも浄化される。
俺は桜に魅入られ、立ち尽くした。車のクラクションで我に返るまで。
その翌日も翌々日も桜を見に行った。
だけど盛りはそれで終わり。雲海のような桜は三日間しか見られなかった。
あれから一年。俺は満開の桜を待っていた。七分咲きではダメだ。満開だけが俺の見たい光景なんだ。
だから毎朝遠回りをして桜チェックをしてきた。逸る気持ちを押し殺し、その時を待った。そして今日。俺は俺にゴーサインを出した。
あの角を曲がったら……。
胸が高まる。
早足になりそうになるのをガマンし、ゆっくり歩く。一年ぶりなんだ。あの美しさはザツに扱うものじゃない。大切に再会するものだ。
視線を落とし、息を潜めて角を曲がる。
足を止め、目を上げた。
……あぁ。
綺麗だ。
美しい。
暗闇に浮かぶ、薄桃色に輝く雲海。
静かに密やかに、そこにある。
疲れも悩みも浄化して、俺をまっさらにしてくれる――。
◇◇
クラクションで我に返った。慌てて道の端によると車が苛立だしげに脇を通り過ぎていった。
時計を見る。三十分もここに立っていたらしい。これじゃ不審者として通報されても文句は言えない。
「帰るか」
ラケバを背負い直し、最後にもう一度桜を見る。
と、おかしなことに気づいた。木の幹に寄り添うように白い影がある。
「幽霊か?」
根元に埋められた人間の?
去年心を奪われたあと、桜について色々と調べた。桜の下には高確率で死体が埋まっているらしい。公園ではありそうにないけど。
俺のルールだと、夜の桜は遠くからしか見ないと決まっている。去年はそれを守った。
でも幽霊も気になる。怖いけど、本当に根元に埋まっているのかを教えてほしい。
勇気をふりしぼり、公園に向かう。こういう時に限って通行人も花見客もいない。タイミングが悪い。それとも幽霊パワーで人を寄せ付けないようにしてるとか。
いや、それじゃ俺もか。
公園のそばまで来て、白い影が人だと分かった。結婚式で女の人が着るようなぼてッとした着物を着ている。なのに髪はピンクだ。
花嫁の幽霊なのか、コスプレイヤーなのか分からない。
とりあえず、背筋がゾクっとするとかはないみたいだ。
と、俺の視線に気がついたのか花嫁が振り向いた。柵超しにバチリと目が合う。
俺と同じ年頃。色白で桃色の頬をした幼顔の女の子。
その時、俺の中で何かがバチンと弾けた。
――子供のとき、彼女に会ったことがある!!
◇◇
小学校一年か二年の時だと思う。満開の桜の時期だ。やんちゃだった俺は桜の木に登った。ちょうど足場に使えるジャングルジムが近くにあって、子供でも簡単に木に登れたのだ。
得意になってずんずん登った途中で、太い枝を折った。わざとじゃない。自然に折れた。なんなら足元が急に無くなり、俺は危うく落ちるところだった。手がしっかり枝を掴んでいなかったら危なかっただろう。
木登りを楽しんだ俺は、折れた枝を更に小さく折り、それを持って意気揚々と家に帰った。花がたくさんついたそれを、母さんにプレゼントするつもりだったのだ。
だけど枝を見た母さんは喜ばなかった。
公園の樹木を持ち帰るのは窃盗らしい。でもそんなことよりも問題なのは、桜っていう木は切ったり折ったりすると、そこから病気になりやすいという。
大慌てで役所に電話をする母さんを見て俺は、誇らしい気持ちなんて微塵も消えていた。
その夜は、俺のせいであの桜が病気になったらどうしようという恐怖で眠れなかった。
そうして空がうっすら明るくなったころ、枝と糊を持って家を抜け出した。目指すはもちろんあの公園。
息せききってたどり着いた桜の木の元に、薄桃色のワンピースを着た女の子がひとりいた。ピンク色の頭で色白。彼女は俺を見て目を見張ったあと、爆笑した――。
◇◇
「あれ。君」
と彼女が目を見張った。昔とまったく同じ顔。十年ほど経っているのに。
「折れた枝を工作糊でくっつけようとした子だ!」
彼女はまた爆笑する。
「櫻子さん」俺は昔教えてもらった名前で彼女を呼んだ。「夢じゃなかったんだ……」
「なんだ。夢だと思っていたの? 可愛いねえ」
彼女はまだくふくふと笑っている。
あの時、桜の枝を元どおりにしたいと言う俺を櫻子さんは
「ムリ」
と一刀両断した。
「一度折ったものは戻らない。君は取り返しのつかない過ちを犯したんだよ」
ちょっと前まで爆笑していたとは思えない真剣さだった。
「でも君は反省できるいい子だね」
櫻子さんはそう言って俺の頭を撫でてくれた。
「そしてね。幸いなことにここの桜には櫻子がいる。だから昨日のうちに傷にバイ菌が入らないよう手当てをしておいた」
「櫻子さんはお医者さんなの?」
「いいや。櫻子は桜だよ。これからまた手当てをするから、見ておいで」
くるりと向きを変えた櫻子さんは、万歳のように両手を斜め上に上げ、空を仰いだ。
びゅおう、と風が吹く。
桜の花びらが舞い上がり、渦巻く。そして俺が折った木を包み混んだ。木を中心にぐるぐると回り続けている。
「……台風?」
「せめて竜巻にしてよ」と櫻子さんがまた笑っている。
しばらくすると渦は徐々に消えていき、花びらは地面に落ちていった。
「はい、完了。夜にもう一回やったら終わりかな」
「櫻子さん、何者? お母さんが昨日電話した役所の人?」
「ぷふっ。君、アホ可愛いなあ。気に入ったよ」
彼女はそう言って俺の頭をもしゃもしゃとかき回した。
「その枝を貸して」
枝を渡すと櫻子さんはちゅっとキスをして俺に返した。
「これは君にあげる。櫻子の力を分けたから長持ちするよ」
俺の記憶にあるのはここまで。だから罪悪感から見た夢だと思っていた。
「だけどさ」と花嫁衣裳の櫻子さんが口を尖らせる。「すっかり大きくなっちゃったね。ちょっと可愛くないなあ」
「かっこよくなったって褒めてよ」
「生意気!」
「ひどい。――ちょっと待ってて、そっちに行く」
まだ道路にいた俺は走り出すと、この先の入り口に向かった。低い車留めを跳び超え、櫻子さんの元に行く。
近づいて気がついた。櫻子さんが俺より小さい。昔はすらりとしたお姉さんだと思っていたのに。
「なんだ。大きくなっても元気だね」
「そうだ俺、めちゃくちゃ疲れてたんだ。やっぱ桜パワーだな」
「櫻子パワー!!」
櫻子さんが両手を天に向ける。ぶわっと風が起こり、花びらが渦になって高く上がる。
「すげえ! 圧巻!」
「ほらほら台風だよ!」
嬉しそうにそう言った直後にぷふっと笑う櫻子さん。
「そんなの覚えてなくていいのに!」
「可愛かったからね、君」
櫻子さんが手を下ろすと渦はくずれ、花びらがひらひらと舞い落ちてきた。
「綺麗だ」
「んふふ。良い感性だね」
「誰が見たって綺麗だって言うよ。だって綺麗だもん。――ああ、己の語彙力のなさが恨めしい!」
「君、頭は弱そうだもんね。工作の……」
「子供はそんなもんだよ!」
「んん?」櫻子さんはにこりとした。「そうでもないよ。泣きながら『病気にならないで』って謝りに来たのは君だけだもん」
櫻子さんは手を伸ばして俺の頭を撫でた。
「いい子いい子!」
「……ねえ、なんでそんな格好してるんだ? それって結婚するときの着物だよな?」
「白無垢っていうんだよ。似合う?」
「似合うけど……」
「吉野くんがね、今のうちにおいでって言ってくれたんだ。これから、ここを立つの」
「吉野くん?」
「そう。心配してくれてさ。『どうせなら嫁として娶るかぁ』って。そのほうがパワー的にいいんだって」
「ふうん」
よく分からないけど、せっかく再会できた櫻子さんがどこかに行ってしまうのは淋しい。
でも多分、というかほぼほぼ確実に、櫻子さんは人間ではないと思う。櫻子さんの世界で『いい』と判断されることをやったほうが、彼女にとっては『いい』んだろう。
「淋しいけど、元気で。そうだ、櫻子さんが力を分けてくれた枝」
「うん、知ってる。大切にしてくれてありがとう」
にこりとする櫻子さん。幼顔が更に幼く見える。可愛い。
「あぁあ。もうちょい早く再会してたら、『彼女になって下さい』って頼めたのに!」
「ええ? まいったなあ、櫻子モテモテかぁ」
「忘れないよ、俺。ここの桜。大好きだ」
櫻子さんの顔がくしゃりとした。泣き出しそうに見える笑顔だった。
◇◇
角の手前で足を止め、息を整える。昨晩櫻子さんは旅立ってしまったけど、桜まで旅立つ訳じゃない。今夜も夜桜を見るんだ。
胸を高らせながらゆっくり角を曲がる。途端に息を呑む。
見えているものが信じられない。
現実か、これ?
嘘だろ?
桜の木が半分なかった。残っているのも枝を落とされ無残な姿になっている。
「なんで!」
公園に走り、入り口の所で看板に気がついた。桜伐採作業と書いてある。日付は今日と明日。
櫻子さんの泣き出しそうな笑顔がよみがえる。
『今のうちにおいでって言ってくれたんだ』との言葉。
あれは、こうなることを知っていたからだったんだ……。
◇◇
「……ただいま」
玄関に入る。
「おかえり」
と母さんが顔だけ見せる。
「あのさあ、公園の桜。切られてんだけど知ってた?」
「もちろん。ていうか春翔は知らなかったんだっけ? ここ何年か揉めてたの」
「何それ」
母さんがエプロンで手を拭きながらキッチンから出てくる。
「桜の花びらがね、迷惑らしいの。この時期はすごい量で汚いし困るって。葉桜の時期は毛虫がつくから子供に危ないともね。役所が消毒をしてくれてたんだけど、それに文句をつける人もいたらしくて」
母さんがため息をつく。
「有志で公園の内外の花びら掃除はしてたんだけど、個人宅の中まではできないじゃない。クレームはなくならなくて、結局切ることになっちゃったんだよ」
「だって桜は昔からあるじゃん。なんで今さらそんな文句が出るんだよ」
「……昔からいる人は、そういうもんだと思ってるけどね……」
『昔からいる人』……
「ほら見てよ」母さんがリビングの扉をあける。「役所がね、今までの功績を称えて有志のメンバーにくれたんだよ」
そこには見事な花をつけた桜の枝があった。俺の腰までありそうな長さの立派なものが数本、青いバケツに入っている。
「……なんでバケツなんだよ」
「長すぎて生けられる花瓶がなかったの。倒れちゃうんだよ」
「なんだよそれ」
ハハッと笑い、その拍子に涙がにじんだ。
「まあさ、貰わなくても良かったんだけど、こんなに咲いているのを捨てちゃうのは気の毒でしょ。春翔のと合わせて、桜祭りってとこだね」
窓越しに庭を見る。元農家だからかなりの広さがある。今は暗くて分からないけどその端に、俺が折り、櫻子さんが力を分けてくれた、あの枝から育った桜の木がしっかりと根付いている。今朝も満開の花を風に揺らしていた。
「櫻子さんの桜は美しいよ」
どうかこの思いが彼女に届きますように――。
「ん? 誰よ、櫻子さんて? 彼女? ついにできた?」
わくわく顔で距離を詰めてくる母さんから身を離す。
「んな訳あるか。うちの部は恋愛禁止!」
「そうだけどさあ。今どき古くない?」
「シャワー浴びてくる! メシをよろしく!」
母さんから逃げようとして、足を止める。
「『桜』『吉野』って聞いて、母さんなら何を思い浮かべる?」
「そりゃ吉野桜でしょ」
「何それ」
「桜の名所」
「どこ」
「奈良」
「奈良かあ」
行けないことはない。日帰りはキツイ距離だけど。
いや、来年だな。来年は、よほどのことがなければ大学に受かってヤッホイと遊び回っているはずだ。一泊ひとり旅ってのもカッコいい。
そうしたらまた櫻子さんに会えるだろうか。それから吉野くん。彼はどんな男だろう。
そうだ、吉野くんには、櫻子さんの夜の桜がどんなに美しかったかを教えないと。きっとあんなに心が震える桜は他にない。
――あの美しい桜を、俺は忘れない。
ラケバ・・・ラケットバッグ。バドミントンやテニスのラケットが複数入る。