王子様の真実の愛を手に入れてしまった平民少女の話〈異世界・恋愛〉
「申し訳ないが、婚約を破棄させてほしい」
この国の王太子であるクリストファーが、彼の幼い頃からの婚約者であるパトリシア公爵令嬢に告げた。
クリストファーの隣には、不安そうな目でなりゆきを見守る少女がいる。彼女はその不安感からか、クリストファーの腕にまわした手に力を込めた。
ぴたりと身を寄せ、腕にしがみつくように立つ姿は、到底婚約者のいる貴人との距離感ではない。あまりにも常識のない振る舞いに、周りの貴族たちが眉をひそめる。
王侯貴族達が一堂に会する、クリストファー王子の生誕祭での出来事だ。
本来なら18になった王太子を祝して、正式に王位継承が認められ、婚約者であるパトリシアとの婚礼の日どりが告げられるはずだった。
それが一転して婚約破棄の場になっている。こんな茶番を見せられる羽目になるとは誰も思っていなかった。それというのも、すべてあの少女のせいなのだろう。
少女に非難の視線が突き刺さり、その少女、リンは顔を俯かせた。貴族としての振る舞いが身についていないのは一目瞭然で、その通り、彼女は平民だった。
クリストファーはそんな視線から守るようにリンの肩に腕を回したが、それすら、嫌悪と侮蔑の対象になる。
一介の平民ふぜいの女が、仮にも王太子であるクリストファーを誑かし、品性をも奪ってしまった。
相対する公爵令嬢は冷静だった。わずかに顔を傾けて、激昂することもなく、端的な問いだけを口に乗せた。
「……何故?」
「真実の愛を、知ってしまったから」
パトリシアの強い視線をしっかりと見据えたまま、クリストファーは告げた。あまりに愚かな理由に周りから呆れたようなため息が聞こえてきて、リンはそれをクリストファーの腕の中で聞いていた。
隣で身体を密着させているクリストファーにしか伝わらないだろうこのかすかな震えの原因は何だろう。
まさかこんなことになるとは思わなかったという後悔、この国で誰もが羨む婚約者たちの仲にひびを入れてしまったのが、他でもない自分だという畏れ。学園関係者どころか、この国の上位貴族すべてを敵にまわしてしまったという恐怖。
でも、それを上回っていたのが、ずっと恋焦がれていた相手からの愛を手に入れることができたという歓喜なのだった。
美しく賢く仲睦まじい婚約者同士を引き裂いたというのに、なりふり構わず喜んでしまった自分の醜さときたらどうだろう。
だからきっと、これはその罰なのだろう。
リンは国中の貴族や素封家の子女が名を連ねる王立学園に通っていたが、貴族の血は引いていない庶民の出身だった。
それどころか、庶民の中でも貧乏な者が多く暮らす下町の生まれだ。
ただ非常に賢い子ではあったので、幼い頃からのリンの利発さを見込んで、町の裕福な商人が後見人になってくれたのだ。卒業したら、その商人のもとで働くという条件付きで。
支配者層か資本家階級しかいない王立学園で、明らかに異端であるリンへの風あたりは強かった。
上流階級の者なら息を吸うように身につけているはずのマナーを知らない、制服もサイズの合っていないお下がりなら、教科書も古書店で手に入れた中古本だ。
一部リンの才能を正当に評価してくれる教師はいたが、生徒たちの中にあって、学園ではリンは完全な異分子だった。
厳格な規律に縛られた学園生活の中で、いくら高貴な生まれ育ちと言えども、所詮は十代の少年少女たちだ。憂さ晴らしを求めていたのだろう。
流石に証拠が残るような物理的な危害は加えないが、悪口、陰口、嫌がらせは枚挙にいとまがない。
だが同年代の陰湿な嫌味や嫌がらせは、下町育ちのリンにとって、絶望を引き起こすものではなかった。
幼い頃から、大人達に混じって働き、失敗すれば過酷な体罰が待っているような境遇で生きてきたのだ。無視されることも、偶然ぶつかった振りをして突き飛ばされることも、嘲笑されることも、子供時代に較べれば何ということはない。
そんな学園のはみ出し者であるリンと、学園内でも頂点にいる第一王子のクリストファー達がどうやって知り合ったのかというと、公爵令嬢でクリストファーの許嫁でもあるパトリシアが声をかけてきたのだ。
ずたずたに引き裂かれた教本を前に、流石に途方に暮れているリンを見て、嫌がらせを受けている本人でもないのに耐えられないと、パトリシアは憤った。
ーー貴方たち、恥ずかしくないのですか。寄ってたかって、酷いことをして。彼女の才気煥発さに嫉妬でもしているの?
先輩だろうが体格の良い男子生徒だろうが、臆せずに淡々と良心を問うような非難を投げかける令嬢は、容姿だけではなく、内面までも強く美しい人だった。
パトリシアの一喝で、ぴたりと嫌がらせは収まった。
クリストファーとパトリシアを中心とする友人グループは学園中の憧れで、特にリンにとってはあまりに遠い人種だった。
そう思っていたのに、話してみると彼らは気高く善良な一方で気さくな面もあり、その善性はリンのような庶民に対しても惜しみなく発揮されたのだ。
これが生まれながらに人の上に立つと定められている者たちか、とリンはひとり心のうちで感嘆する。
自分達がリンの近くにいれば、生徒たちも嫌がらせはできないだろうと提案したのもパトリシアだった。
ちょうど、クリストファーの今期の成績がはかばかしくなかったらしい。
全体的に見れば中の上、といったところだが、やがて王になる人物である以上、首席は無理でも、せめてトップクラスの順位を取らないと、というのがパトリシアの言い分だった。口実だろうと思いつつも、リンは頷かないわけにはいかなかった。
学科だけなら、リンが万年首位の成績をおさめていることは、学園の者なら皆知っている。その優秀さは、生まれた時から家庭教師がついているような上位貴族だろうが追随を許すものではない。リンが良家の子女から目の敵にされている理由のひとつだった。
リンが勉強を教える代わりに、クリストファーはリンに貴族のマナーを教える。そういう交換条件が成立して、周りの友人達も温かく賛同した。
なんてお人好しな人達なんだろう。リンは呆れる一方で、暗い思考がよぎるのを止められない。
おそらくリンが貴族の家の子だったら、パトリシアという婚約者がありながら、時には教室でふたりきりになるような取り引きなんて、友人として看過できないと、そう言って止められていただろう。
それがあっさりと認められたのは、リンは慈悲をかけるべき貧民の子で、パトリシアと並べてみることすら念頭にないからだろう。
婚約者のある尊い身分の王子とふたりきりで同じ部屋にされても気にも止められない。リンはそんな立場だった。
だからキスをしたのは、ちょっとした意地悪だった。
少なくともリンは、自分で自分をそう納得させていた。
夕暮れ、西からの陽射しが教室を紅く染めていた。リンはいつものように、クリストファー王子に勉学を教えていた。
教室にはリンとクリストファーのほかには誰もいない。よくあることだった。
西陽が、クリストファーの輪郭を黄金にふちどっている。
この人はきっと、こんな風に光る黄金をまとったまま、輝かしい人生を歩いて行くんだろう。
それに比べて自分はどうだろう。学園を卒業したら、よくて後援者の商人の息子と結婚させられる。それすら贅沢だと下働きの男の誰かとでも縁談をまとめられるだろうか。もしかしたら、上得意の商人と関係を結ぶべく、愛人契約でも持ちかけられるかもしれない。
いずれにしても好きでもない男の妻なり愛人なりとして、死ぬまで働き詰めで暮らしていくことになるだろう。
この学園に通っているような生徒達から見ると惨めな一生だろうが、それでも下町では大出世なのだ。つくづく世の中は不公平だと思う。
そんなことを考えているうちに、ふと衝動がリンの背中を押した。立ち上がって、ゆっくりと向かいに座っていたクリストファーに近づいた。不思議そうに見上げる彼に笑って見せて、屈んで顔を近づける。
リンにとっても生まれて初めてのキスはそう長いものではなかった。
目を開けて顔を離しながらクリストファーを見た。いつも落ち着きはらっている彼らしくもなく、リンを見上げる呆然としたような表情に満足する。
庶民が王子様にキスをするなんて、不敬だと怒るだろうか。蔑むだろうか。それとも、よくある事と気にも留めないだろうか。もしかしたら、馬や犬にキスをされたぐらいの認識なのかもしれない。どれでもいい。何せ上位貴族の彼らにとって、リンは同じ人間ではない。
クリストファーの顔が真っ赤に染まっているように見えるのは、夕陽のせいだろうか。そうでなければ良いと、リンは思った。
そうは言っても、まさかクリストファーが、次の日から、まるで恋人同士のように熱を持った視線を向け、親密に言葉をかけてくるとは思わなかったのだ。
告白めいたことも言われた。どうせ学園にいる間だけの火遊びだろうと思いつつ、それを受け入れてしまうリンもどうかしていた。
それからふたりは、隠れて何度もキスをした。
手も繋いだ。最初のうちはこっそりと、だんだん大胆になっていった。
パトリシアや周りの友人達がふたりのただならない雰囲気に気づいて眉をひそめだす頃には、すべてが遅かった。
大変なことをしでかしてしまったのは充分にわかっている。クリストファーの婚約者のパトリシア公爵令嬢は三代前の史上最高の賢王と名高いカリナ王の直系で、国民からの人気も非常に高い。
カリナ王には男子がいなかったので、傍系である現在の王の父が跡を継いだのだが、そのパトリシアと王太子であるクリストファー王子との結婚は、国民の悲願のようなものだった。
パトリシア自身、見目麗しく才気煥発で、子供の頃から慈善事業に熱心で慈悲深い性格をしている。
まだ学生の身ながら、国民からの人気は、王室を凌駕していると言っても良い。彼女を敵に回すことの恐ろしさを、リンも分かっていない訳ではなかった。
代償の大きさも想像できないわけではない。幼い頃、飢えに耐えかねてひとかけらのパンを盗んだだけで、死にかけるほどの暴行を受けたことがある。
この国の王子様を盗むのだから、そんなもので済むわけがないことなど、充分にわかっている。
それでもリンにはみずから身を引くという選択肢はなかった。
いつの間に、こんなに惹かれていたのかは分からない。思えば話す前から憧れていたのかもしれない。一生懸命自分の気持ちを見ない振りをしてきたのだ。不公平だからなんて自分に言い訳しながら、一度だけのキスで全てを吹っ切るつもりだった。
それなのに、クリストファーは、リンが覚悟していたように罵声を浴びせることも蔑むこともしないで、嬉しそうに笑うものだから。
たとえこの間までリンに良くしてくれたクリストファーの友人達に嫌悪の視線を向けられても、助けてくれたパトリシアに恩を仇で返すことになっても、実家や後援者に迷惑がかかるとしても、国民の敵になるとしても。
何かの間違いのように叶ってしまった恋を、どうしても自分から手離すことができなかったのだ。
そして冒頭の婚約破棄に至る。
予想通り、王室は混乱を極めた。
クリストファーの父親である現王を筆頭とする王室と、その遠縁に当たるパトリシアを擁する公爵一家。
彼らが出した答えは、クリストファー王子とリンの国外追放だった。
ふたり共二度と国に足を踏み入れてはならないという決定は、仮にもこの国の王太子に対する仕打ちにしては重すぎる気もしたし、庶民出身のリンに下す判決にしては軽い気がした。
リンは戸惑った。リンだけが処刑される可能性が一番高いと思っていたのだ。その場合、クリストファー王子とパトリシアの婚儀は粛々と実行されただろう。
そうやって、この完璧なロイヤルカップルの、若い日の思い出を汚す染みのような存在になるのが自分の恋の決着なら、それも悪くないと思っていたのに。
半ば呆然としたまま、リンとクリストファーは国外に追放された。
クリストファーとの婚約が破棄された後、元婚約者のパトリシアは、クリストファーの弟にあたるハリーと婚約し直すことになった。
一方的な婚約破棄というスキャンダルによって落ちた名誉を回復するためにも、どうしてもパトリシアを王室に入れたかったのだろうが、急遽交わされた再婚約の時点では、ハリーはまだ8歳。パトリシアのちょうど10歳下だった。
明らかな政略である婚約に、国民からはパトリシアを気の毒がる声が殺到した。それと同時に、パトリシアを捨てたクリストファーと、王子を略奪したリンへの糾弾も広まったが、その頃には当人たちはすでにこの国にはいなかったのは幸いだった。
もしも国民に見つかっていたら、義憤にかられた国民の私刑の対象となり、あっという間に八つ裂きにでもされていただろう。
現にリンの生家はそうやって打ち壊され、リンの後見人の商家もとうてい今までのように商売を続けられなくなった。
従業員は全員暇を出され、一家はひっそりといなくなった。
国民の責めは王室にも向かい、クリストファーとハリーの父である国王も心労からか体調を崩し、それから何年も経たないうちに退位することになった。
空席となる玉座についたのは、パトリシアだった。
元々は夫になるハリー王子が成人するまでという条件だった。
だが王位に着くのは短期間だけのはずだったこの女王は、皆の期待を超えて勤勉で慈悲深く、領主たちとも連携し国のすみずみまで目を配り、非常に善く国を治めたため、国民から熱烈な支持を受けた。
やがて成人して王配となったハリーも、年長の女王を臣として夫として敬い愛し、影から支えることに躊躇はなかったため、そのまま女王の治世が続いた。
そうして、あの騒動の頃に産まれた子が、成人して結婚し、自分の子を抱くようになるぐらいの時間が流れ、「前王の息子の間抜けな王子が泥棒女と逃げてくれたおかげで、この国は立派な王様を手に入れることができた」なんていうジョークが国民に浸透するようになった頃、王宮の門前に毎日のようにやって来る女がいた。
みすぼらしい女だった。安っぽい着古した服に、伸びっぱなしのぼさぼさの髪の毛で顔がよく見えない。
国は安定した治世のおかげで近年めきめきと豊かになり、とりわけ王都はよく整備されて華やかだ。そこに似つかわしくない女がどこからともなく現れ、女王様に会わせてほしいと、門を守る衛兵に、それだけを繰り返した。
何か困ったことがあるなら、街の自警団にでも相談するように言っても、頑として理由は言わず、女王に合わせろの一点張りだった。
衛兵も暇ではないので、自然と邪険な態度になる。だが、突き飛ばされたり、水をかけられたり、野良犬のような扱いを受けて追い払われても、女は翌日になると現れた。
あの女は少しおかしいと兵士たちの間で認識が広まっていったが、突拍子も無い願いを衛兵に訴える以外には実害はない。日が暮れる頃、とぼとぼと帰っていく。
それでもあまりにしつこいなら懲罰を課さなくてはいけないと、そんな検討がはじまった頃だった。
定例の領地巡りのため、女王パトリシアが馬車に乗って門から出て来たところを、例の女が馬車の前に飛び出したのだ。
御者がすんでのところで手綱を強く引いて止めたが、少し遅ければ、女を轢いていただろう。急な停止は、いかに重厚な馬車とはいえ、全く衝撃がなかったはずがない。重大事件だ。
護衛騎士は慌てて女王の無事を確かめると、不届き者をその場で斬り捨てようか少し躊躇した。
女王は罪人の処刑には立ち会うが、一方で必要ではできるだけ流血沙汰は忌避しようとする。慈悲深い女王の尊い瞳に汚い血を映したくはない。
拘束して牢に放り込むことにした。王の馬を竿立ちにさせ、危険に晒した者への対処としては温情である。
女は取り押さえられながらもひたすら女王を呼んでいた。女王陛下、ではなくパトリシア様、とどこまでも不遜なことに名前を呼んでいた。
一発殴れば黙るだろうかと振り上げた拳を馬車の中から女王パトリシアが制止する。
誰の手も借りずに馬車の中から出て来た女王を、拘束され、泥だらけになった姿で女が見上げる。
女は老年といって良い年齢に見えたが、その顔に見覚えがある気がしてパトリシアは目を細めた。
止めようとする衛兵たちをなだめて、ほんの少しだけ話を聞くことにする。軽い身体検査をさせた後、渋い顔の衛兵たちを追いやった。
目は届くが、声を潜めれば会話の内容は聞こえない距離で直立不動の態勢をとっている兵たちをちらりと見ると、パトリシアは覚えていなくて申し訳ないが、と前置きしてから、女に名前を聞いた。
女はかつての学友で、リンと名乗った。
陽と潮にさらされつづけて、老婆のようにかさかさになってしまったリンとは対照的に、女王パトリシアは美しかった。
リンの名前を聞いても眉ひとつ動かさなかったパトリシアは、まるで学園時代から、歳をとっていないように見える。いや、少女のような容貌に気高さと威厳が加わって、美しさは更に増したようにさえ見えた。
かつてふたりが同級生だったなどと、一体誰が信じるというのだろう。
パトリシアの凛とした声音は、抑えられているのに深く聞く者の奥まで染み渡り、畏敬の感情を呼び起こさずにはいられない。
いったいどれだけの努力をすれば、これほどの威厳を身につけることができというのか。自分が彼女の婚約者を奪ったあの日から。
あの頃は、世間擦れしていないパトリシアよりも、自分の方があらゆることに動じないと、そう思っていたのに。
思わず、リンは女王の前にひれ伏した。そして震える声で懇願した。
本来なら、到底口を利ける立場ではない。それでもなけなしの気力を奮い立たせて話すことができたのは、陳情の内容が、夫クリストファーのことだからだ。
ーーこのままだと、きっとあの人は長くない。私に隠れて血も吐いている。どうか、この国で治療を受けさせてあげてほしい。それが駄目なら、亡くなる前にひと目だけでも会ってあげてほしい。彼だって、本当は貴女のことが忘れられなかったはずなんです。
そう切々と訴えるかつての学友の言葉に、女王が心動かされた様子はなかった。
申し訳ないが、貴方達のことはあまり覚えていない。
そう前置きして、淡々とパトリシアはクリストファーに会う気はないことを告げた。ましてや、この国に再び迎え入れることはないことも。
ーー望みを叶えてやることができないのは心苦しいが、すでに貴方達は私の民ではない。二十年以上も前に出された国外追放という裁断は、いまだ覆ってはいない。それでも禁を犯して国内にいるというのなら、法治国家であるこの国の最高責任者として罰を与えなければならない。
冷静に言い切るパトリシアを見上げて、リンは今の彼女には感情による懇願は一切通用しないことを悟った。
リンを見つめる女王の眼は静かだった。婚約者を奪ったリンに対して、恨みや憎しみから冷たい返答をしたわけではないということは察せられた。ただ彼女は、一世一代の陳情というものに慣れきっているのだろう。
パトリシアを裏切ったリン達のことを覚えていないというのも、強がりなどではなく真実のようだった。それほど、彼女が歩んできた年月は重く長い。
門前の騒ぎを聞きつけたのか、城の中からパトリシアの夫であるハリーが駆け出てくるのが見えた。
リンとクリストファーが国を出た時にはまだ幼かった第二王子だが、すっかり精悍な青年になっている。
髪の色も眼の色も若い頃のクリストファーにそっくりで、眩しすぎてとても今のリンには見ていられなかった。あの美しかった王子。
項垂れてその場を離れようとしたリンを呼び止めたのはパトリシアだった。ほんの少し待っているように告げ、衛兵に何か耳打ちすると、兵士は少し経って小さなカゴを持って来た。
中には赤い実がいくつか入っている。聞けば、王宮の庭に生えている果樹からもいできたばかりのものだという。
その果実は滋養に富むため、良ければ病人に与えれば良いと。それが感情のままに動くことをしない女王のせめてもの慈悲なのだということは、リンにもわかった。
そしてパトリシアは、リンにひと言ふた言耳打ちすると、若く美しい夫の元へと歩いていった。
リンはカゴを抱えてとぼとぼと家路に着いた。
毎日のことだが、馬車代もないので、着くのが夜になってしまう。
粗末な下宿屋の一室がふたりの部屋だった。数か月前に国にこっそり戻って来たものの、立派になってしまった王都にふたりが泊まれる安宿はなく、ようやく探しまわって見つけた郊外の宿だ。
管理人が常駐している訳でもなく、ただ雨風を防ぐのが精一杯の宿とすら言えないような建物だが、この国から歓迎されていないふたりにはお似合いだと思った。
だが、近々ここは出なくてはいけない。隣国には貧民街がある。そこなら、宿賃も払えないことはないだろう。だが、彼の身体が長い移動に耐えられるだろうか。
遅いね、心配したよ、と言ってベッドの上で身を起こす気配がする。かつてこの国の王太子だったクリストファーだ。もう目があまり見えていないはずなので、泥だらけで憔悴しているリンの姿に気づかないのは不幸中の幸いだ。
クリストファーはおそらく長くない、とパトリシアに訴えた言葉は本当のことだ。
長年鉱山で働いていた弊害だろう。鉱毒が長い年月をかけて身体を蝕んだのか、四肢は麻痺して、いつも小刻みに震えている。
顔は土気色になり、頬はこけ、くちびるは乾燥してひび割れている。美しかったかんばせはいまや見る影もない。
まだそんな歳ではないのに動きも老人のようで、寝台の上に起き上がるのがやっとという状態だ。もう、立って歩くことは難しい。
それでも、パトリシアがくれた果実を顔の近くに持っていくと、それが何なのかわかったらしく、クリストファーは目を輝かせた。細く震える指で果実をひとつ掴み、大事そうに握りこむ。
聞けば、王宮の庭の果樹林に生っていたその果実は幼かったクリストファーの好物で、かといって自分でもいで食べると行儀が悪いと叱られてしまうため、よく庭師に頼んでこっそり採ってもらったのだという。
それを幼なじみのパトリシアに見つかって呆れられた、と思い出をひどく懐かしそうに語る。
そこまで聞くと堪えきれなくなって、リンは崩れ落ちた。
本当だったらあの女王様の隣にいるのは、クリストファーのはずだったのだ。
こんな、貧困と病気のために枯木のようになってしまった姿ではなくて、美しいパトリシアの隣でも見劣りしない姿で、この国の王として国民の前に堂々と立つべき人だった。
こんなふうに、こそこそと国に入り、隠れるように息を潜めて暮らすこともなかっただろう。
それをリンが、あんな狡い、出来心のようなキスひとつで、すべてを壊してしまった。
もう何度目だろうか。リンは寝台の前にひざまづいて懺悔した。
私は、間違っていた。私たちは一緒になるべきではなかった。この恋ははじめてはいけなかった。
住む世界が違ったのに、欲を出してしまったばかりに、多くの人を巻き込んで不幸にした。誰も幸せにならなかった。貴方からすべてを奪ってしまった。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ベッドに顔を伏せてしまったリンの後頭部を優しく撫でる手がある。
クリストファーがどんな顔をしているのかは、見なくてもわかった。きっと困ったように笑っているのだろう。
ずっと後悔し続けていたリンの懺悔は、これが初めてではない。
すべてを取り上げられて、国を追放された時。
言葉もあまりわからない外国で、手に職もない、身元の保証もないふたりが就ける仕事が、あまりに過酷なものしか無かった時。
綺麗な水を手に入れることができなくて、ふたりの間に授かった赤子が生き延びることができなかった時。
祖国がどんどん栄えていくのを風の噂で聞いた時。
クリストファーの手足に麻痺が出始めた時。
そのたびにリンは後悔して、誰にともつかない謝罪を繰り返した。
ひとりで国に戻るように説得したこともある。恐らく、クリストファーだけなら、国内に味方だって皆無ではないだろう。
あれは一時の気の迷いだったと、悪い女に騙されただけだったと過ちを認めて誠心誠意謝罪すれば、元王太子に対して、きっと王宮も悪いようにはしないはずだ。
そう訴えるたびに、クリストファーは困ったように笑って、首を振った。
そのあと決まってリンにかける言葉も、ずっと変わらなかったのだ。
別れ際、パトリシア女王がリンに告げた言葉が、リンの耳の奥で反響する。
ーー彼は、一時の感情ですべてを捨てる人ではなかった。私と同じく、国への愛情と責任を叩き込まれて育った方。その彼が国を棄てることを決めたのだから、その気持ちは、掛け値なしに本物だったのでしょう。
ーー始めたのは貴方のほうだったかもしれないけど、手放さなかったのは、きっと彼のほうね。
昔は彼の優しく囁くようなその言葉を聞くのが大好きだった。時には怒ったように言われたことも、悲しげに言われたこともある。いつからか、その言葉は懺悔のような響きを伴うようになった。
今のリンにとっては、一種の呪いのようなものなのかもしれない。
ただ同じ言葉を、変わることなくクリストファーは繰り返すのだ。
「……それでも私は、貴女を愛しているよ」