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クズだからね、しょうがないよね。〈現代〉

この信号は交通量が少ない割に待ち時間が長い。近くに幼稚園と小学校があるので、待つ時間も渡る時間も長目の設定になっている、気がする。

 ちょうど赤に変わったばかりの歩行者信号機を見て舌打ちをした東は、左右を軽く確認すると、車がまだ遠いことを確認するとそのまま踏み出した。

「あ、いけないんだー」という登校途中の小学生達の声。交通安全の旗を持って子供たちが安全に登校できるように手助けをしていた蛍光色のベストを着た老年の男が非難がましい目で見てくる。

 が、口に出して注意はしない。登校中の子供たちが見ているにも関わらず堂々と信号無視をするような若者を叱責するのは彼の役目ではない。反撃されたら子供たちにも危険が及ぶ。

 もちろん東はそういうこともわかっていて信号無視をしたのだ。低学年ぐらいの小学生と定年退職してボランティアで毎朝旗を降っているような老人など何を言われても怖くはない。

 正義感の強そうな若者だのヒステリックそうな中年だのがいたら、会社に遅刻寸前でもきちんと信号無視はしなかった。

「だめだよねえ」と、後ろから聞こえる子供たちの声にうるせえよ、と返す。もちろん、自分にしか聞こえないぐらいの声量で。

 こっちは遅刻かかってんだよ。今日遅刻したら今月は3度目で、今年に入ってからは…何度目だか覚えていないが、課長の叱責と主任の嫌味な溜め息が待っているのは確実だった。

 正直、10分やそこら会社の決められている始業時間に間に合わないところでどうということもないだろうと思う。

 どうせミーティングだって大したことは話さないし(重要なことはメールで共有する決まりだ)、帰りを15分遅くすればすむことだ。

 それをねちねち社会人失格だの自己管理がなっていないだのと叱責する時間があるなら、その分仕事をさせてくれれば良いのに。子供のお迎えがあるとかで時短を取っている同僚の方が、余程迷惑だろう。

 もちろん、そんなことは言えないけど。

(だってクズだからね)

 何とか始業チャイムが鳴る寸前フロアに駆け込む。主任が向こうの席で何か言いたそうな顔をしているけど無視してパソコンを立ち上げる。

 向かいの席の同僚はまだ来ていないので、どうせ子供がぐずって保育園への送迎が遅れたとか子供の具合が急に悪くなったとかで遅刻か欠勤になるんだろうが、そう言ったことで同僚が叱責されているのは一度も見たことがない。事業部長の方針らしいが、育児中の親には寛容に、ということらしい。自分のように意志が弱いという脳の欠陥に対してはちっとも寛容ではないので差別だと思う。

 辞める決心がついたら労働基準監督署に訴えてやろうとも思うが、子持ち女性と独身男性への世間の風当たりの違いは嫌というほど体感してきたので、行っても無駄だろうなとも判っている。

 結局同僚はその日会社を休んだので、東がその分残業する事になった。


 ようやく帰れたのが22時を回ってからで、東は同僚に対するありとあらゆる悪口を思い浮かべながら帰路に着いた。

 帰りにコンビニでサンドイッチとアルコール度数9パーセントの酎ハイのロング缶を3本買う。

 一人暮らしを始めて5年になるアパートはドアを開けるとすえた匂いがした。そういえばゴミをしばらく捨てていない。それでも玄関に入って鍵をかけると膝から力が抜けるくらいほっとする。やっと自分ひとりの空間に帰って来ることができた。

 スーツを脱いでベッドに放る間も惜しくゲーム機を起動した。

 32インチの液晶画面に映るのは荒廃した未来都市だ。東はこの世界ではそれなりのポジションにいることができる。ゲームで知り合った友人達とチームを組めば、バトルロイヤルで負けることはほとんどない。

 頼りにされ、称賛される声が妄想ではなく現実にスピーカーから聴こえてくる。

 いつの間にか、東はこのモニタの中の世界の方に主軸を置いていた。

 ゲームをやりながら食べられるように夕食は片手で持てるパンかおにぎりが多い。


 ついついゲームに夢中になりすぎて我にかえるとカーテン越しの窓がうっすら発光していた。スマホで時間を見るともう明け方と言って良い時刻で、業務への影響を考えるとちょっとやばいなと思う。一度熟睡すると起きられる気がしないので、ベッドに横になって寝るのは諦める。

 せめて仮眠を取ろうと椅子に座ったまま眼を閉じて次に眼を開けるとすっかり眩しい光が差し込みぎょっとしてスマホを見ると余裕を持って出勤できるバスの時刻は過ぎていた。

 次のバスだと走らなくてはいけないが仕方がない。朝シャワーを浴びるつもりだったがその時間もないようだ。あわててベッドの上に堆積しているスーツの山からここ3日で着なかったものを選ぶと急いでズボンを履き、同じくベッドの上にある皺だらけのワイシャツも洗濯したかどうか定かではないが気にしている暇などない。

 ネクタイはバスの中で結ぶことにして首にひっかけ、ボタンを止めるのもそこそこに、靴下も脱ぎっぱなしで放置しているものをなんとか一対見つけ出し、昨日帰宅して玄関に置いたままの鞄を掴むと、部屋を出た瞬間鍵がないことに思い至って舌打ちをした。

「くそっしねっ」と悪態をつきながら靴も脱がずに部屋に戻ると、そこら中をかき分けて探すが、部屋の鍵のように小さなものは一旦失くしたらそうそう出てこないのは過去の経験で知っていた。

「は?あたまおかしーんじゃねーの?は?意味わかんねえしねよ」とぶつぶつ言いながら鍵を探す。頭に浮かぶのは青筋立てた課長と溜め息をつく主任と蔑んだ目で見てくる同僚の表情だ。中でも腹が立つのは同僚だ。そもそも寝坊したのはゲームの入りが遅くなったからで、何故そうなったのかというと同僚の尻ぬぐいをしたせいなのに、会社に行くと奴は感謝するどころか馬鹿にしたような顔で無視してくるのだろう。育児中であるということを免罪符にして、自分のせいで誰かが迷惑を被っても当たり前のような顔をしてみせる女。

「しねしねしねしねしね」

 東は呪いの言葉を呟きながら床に溜まったゴミをなぎ払っていく。ふと思いついて昨夜買ったコンビニエンスストアの袋を探して中を覗いた。開封されずにぬるくなったロング缶1本と一緒に家の鍵が入っていた。

 そういえば昨日もゲームで夜更かしをしてしまい、鍵を探したせいでギリギリになったんだった。その時に今日は早く寝ようと思ったことを思い出すが遅すぎる。

(しょうがないよ、クズだからね)


 走ろうと思ってもすぐに息が切れる。アルコールと不養生のせいだろう、腹回りを中心についた脂肪のせいかもしれないし、通勤鞄は重い。そもそも休日は寝ているかゴロゴロしているかゲームをやっているかなので、運動らしい運動といえばバス停までの10分にも満たない徒歩ぐらいのものだ。

 いっそ歩いた方が早い気がして走るのをやめる。大した距離でもないのに汗が止まらなかった。例の信号が東が来るのを待ち構えていたようなタイミングで赤になって舌打ちする。横断歩道の向こうでは蛍光色のベストをきて蛍光色の旗を持った老人が顔をしかめた気がした。

 どうせまたクズが来たとか思ってるんだろう。

 子供たちは15年ぐらい後にこんな思いをするとも知らず、人生で一番の悩みはランドセルの色が気にくわないことですみたいな顔をして信号を待っている。

(ころしてえなあ)

 旗を持つ老人を見てふと思った。

 走っていって、飛び蹴りを喰らわせて、倒れたところを両足で跳び乗ってびょんびょん跳ねてやりたい。年寄りだからきっと骨は脆いだろう。最初はぬるぬるするだろうけど、50回も身体の上で跳ね続ければ、ぺちゃんこになるだろうな。

 なんせ俺はバトルロイヤルに参加すれば、100人の頂点に立つ男だからな。

 だから、ゴミを見るような眼で見られても反撃しないのは、東の寛大な心によるものなのだ。感謝されるべきなのだ。


 子供たちが車の通らない横断歩道で信号が青になるのを生真面目に待っている。

 東は赤信号だけど渡る。遅刻寸前で、今日も遅刻するわけにはいかないから。

 旗を持った老人がこちらを見て顔をしかめる。大人たちが教えるルールが絶対だと思っている純粋な子供たちの前で堂々と赤信号の交差点を渡ろうとする屑を見てしまった嫌悪感でいっぱいの顔で舌打ちをする。せめて子供たちが真似をしないように願う。

 この老人は最低でも東が社会人になって今の会社に勤め出した4年前からこうしてボランティアで子供たちの道路横断を見守り続けているのだ。

 立派なことである。多分その前は40年きっちり社会人として勤め上げたんだろう。定年退職して、年金を貰いながら好きなことをやれる生活なのに、毎日早起きして雨の日も風の日もここに立って金を貰えるわけでもなく立っている。その立場を交換してほしいと心から思う。

 自分が年金を貰えたら、部屋からほとんど出ない。朝寝坊だってし放題だし、会社でよくわからない資料を作る無駄な時間も理不尽な取引相手からの叱責をひたすら低姿勢でやり過ごす時間ももっと有意義なことに当てられる。夢のようだ。

 視界の端にトラックが見えた。

 この道路をこの時間帯にトラックが走るのは珍しいと道路を横断しながらちらりと考える。スクールゾーンに指定されているので、回り道になっても大抵は一本となりの幹線道路を走るはずだ。急いでるのかな、と思う。でも俺も急いでるから。

 トラックが近づくのが予想より速い気がして、焦って少し早足になる。さっき少しだけ走ったせいで脇腹が痛い。おいおい、少しはスピードを落とせよ、ボケとトラックに毒づく。と、そのまま何故か道路の真ん中で足がもつれて転んだ。

 何の変哲もない横断歩道の真ん中で転ぶなんて、何故なのかはわからない。睡眠不足で平衡感覚が狂っているのかもしれないし、鞄が重過ぎたせいかもしれない。思ったよりトラックが速くて動転したのかもしれない。とにかく東は今までの人生においても転んではいけないところで転んできた。だからまたか、と思った。

 そこからは、周りのすべてがスローモーションになったみたいだった。「危ない!」、という子供たちの声が後ろから聞こえる。のろのろと顔を上げるとボランティアの老人が飛び出そうか迷っている顔をしている。トラックの方に目をやると、一切ブレーキを踏んでいる気配がない。運転席は光が反射して暗かった。スマホか居眠りだろうな、とどこかで考える。多分立ち上がって走ってももう間に合わない。

 残酷な風景を見せることになって子供たちには悪いなと思う。いや、これから彼らは信号無視をしようと思わなくなるだろう。そう考えるとかえってよかったのかもしれない。

 ボランティア老人にも世話をかけることになる。警察を読んで、交通規制をして、面倒くさいだろう。ただ責任感あふれる彼ならきっちり自分の仕事をするはずだ。じいさん、俺は本当はあんたみたいになりたかったのかもしれないな。

 老人と目があった気がした。そしてわかっている、というように頷いた気がした。いや、本当は、風圧で眼を眇めていたのでよくわからない。大部分が自分の希望だろう。風圧に次いで鉄の感触が肩に触れる。東は自分の人生の終わりを悟った。そして心の中で呟く。


ーークズだからね、しょうがないよね。

このあと転生してほしい。

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