待つ人〈?〉
「おかあさんをまっているの」と彼女は言った。子供らしく、やや舌足らずの口調で。
彼女が言うには、戦火から逃げる途中で、母親と離れてしまったのだと言う。
とっさに待ち合わせの場所を決めて(それは彼女たちがいつも遊び場にしていた丘に立つ、一本の大樹だった)、落ち着いたらそこで会う約束をした。
彼女は約束どおり、そこでずっと待っていたらしい。
虫の声に囲まれて木陰にうずくまって星を見ていたけど、やがて太陽が昇って、周りが明るくなっても、彼女の待ち人は来なかったのだという。
「ずっとまっているのに、どうしてむかえに来てくれないんだろう。もしかしたら、私がここにいるってお母さん知らないのかな。だったらあそこにもどらなくちゃ!」
涙ぐんでいた彼女があわてたように立ち上がって出て行こうとするので、私はやんわりと肩をつかんで押しとどめた。
そして、もう連絡は行っていること。
でもまだ少し危険なので、なかなか会いに来られないこと。
もう少ししたらきっと来てくれることを、ゆっくりと説明した。
そうしたら、また一緒に料理を作ったり、服を縫ったりするんでしょう?
だんだんと彼女が落ち着いて、安心したような表情になってゆく。
私は、彼女の母親がもうこの世にはいないことを知っていたが、それはあえて伝えなかった。
ここは信頼できる施設で、ここにいる限り彼女は安全だ。
わざわざ悲しませることはない。楽しい気分で母親を待っている方が、幸せだろう。
たとえ、永遠に来ることはない人だとしても。
次に会った時は、彼女は恋人を待っていた。
幼かった口調はしっかりとし、頬を染めて恋人について語る彼女は、すっかり大人の女性だった。
「あの人は、私に結婚しようと行ってくれたの。このあたりは冬は仕事がなくてね。今は、都会へ出稼ぎに行っているんだけど。春になったら一緒に暮らそうって」
そうして、住み慣れたこの土地に家を建てるべきか、それとも、思い切って都会へ出るべきか、悩んでいるのだと行った。
私は彼女の幸せそうな様子に安心しながら、ここにいてもいいんじゃないかとアドバイスをした。
このあたりに、大きな工場を建てる予定があるらしいこと。
工場ができれば、もう冬が来るたびにここを離れなくても大丈夫になること。
それに、きっと子供が何人か生まれるはずだから、都会の狭いアパートよりも、広い庭や森や川でのびのびと遊ばせてあげられる方がいいはずだと言った。
彼女は納得したようだった。そして、「そうね、それがいいわ、そうしましょう」と言って笑った。
「早くあの人が戻って来ればいいのに」
恋人の帰りを切望する彼女に、私は曖昧に笑い返すことしかできなかった。
その次に会った時、彼女は息子を待っていた。
顔つきはすっかり母親のものだった。
結局彼女は、3人の子供に恵まれたのだ。
一番上の子は、今は遠いところに住んでいる。
二番目の子は、もうずいぶん前に病気で亡くなってしまった。
そして彼女が待っているはずの末っ子は、今病気で入院している。
そう伝えると、彼女はすっかり取り乱してしまい、会いに行くと言ってきかなかった。
「早く行かなくちゃ。あの子は昔から気管支が弱くて、夜によく咳が出て、苦しくなってしまうの。夜中じゅう、背中をさすってあげたわ。今も、苦しくて、泣いているかもしれない」
風邪をこじらせただけで、大した病でもないこと。
私も何度かお見舞いに行っているけど、元気そうなこと。
もう少しすれば、一緒に来ることができること。
涙を流す彼女に、それらをわかりやすいように、ゆっくりと説明する。
それよりも、彼女の体調の方が、よほど心配だった。
そうやってなんとかなだめたあとも、彼女はまだ不安そうな顔をしていて、私は失敗したと思った。上手くごまかすべきだった。
もしかすると、自分より早くに亡くなってしまった子供のことを思い出したのかもしれない。
時計を見て、ここを出る時間が近づいていることを知った。
帰り支度をする私のことを、彼女は悲しそうな目で見ている。
「もう帰ってしまうの?」
申し訳ない気分になりながら、私は答える。
「ごめんね、これから、お父さんのお見舞いにも行かなくちゃいけないから。退院したら、一緒に来るからね」
だからまたね、おばあちゃん。また来週来るから。
私がそう言うと、祖母は、年相応の穏やかな顔つきになって、しわだらけの顔に笑顔をきざんだ。
「ええ、待っているわ」
彼女は待ち続ける。
幼い頃に死に別れた母のことを。
数十年連れ添って、数年前に亡くなった夫のことを。
すでに子供や孫がいる子供たちのことを。
孫の私のことを。
さまざまな年齢に立ち返って、彼女は待っている。
彼女が早く会いたい人に会えることを願って、私は部屋をあとにした。