前編.使い魔との契約
薄暗い部屋に、詩を吟じる様な静かな声が響いている。
耳をすませば、それはどうやら古いエルフ語による呪文の詠唱であるらしいことが分かった。若干早口で聞き取りにくい、随分と癖のある詠唱であった。
その声の主は、薄暗く、本や紙束が乱雑に置かれた部屋の真ん中で、大きな魔法陣の前にぽつんと一人立っている小さなエルフの少女であった。
彼女は、両耳の前に二筋の白を持つボサボサとあちこちへ勝手気儘に跳ねた深紫の髪に、思考の読めないぐるぐると濁った黄緑色の瞳をしている。
肩からずり落ちそうな黒のローブは、エルフの王国の魔法学園にいる魔導士に共通するもの。その下に纏う白い衣の袖から出た小さな手は、金の柄の先端に菱形の紅い石を戴く杖を握っていた。
杖の先は床に描かれた魔法陣に向いている。淡く白紫色に発光する魔法陣は召喚魔法用のものであった。
「…………」
突然、それまで呪文を詠唱していた少女が沈黙した。大きな召喚魔法陣の隅々にまで魔力が巡りきったのである。
「……召喚、使い魔、来て」
呼び掛ける。その先は地下に広がる魔物たちの帝国、冥界ベリシアル。地上と地下との境界を越えて、力の届く限り、己の力量に見合った魔物を喚ぶ。
召喚魔法陣の発光が強くなった。薄暗かった部屋は今や目映い白紫の光に満たされて、カーテンを閉めた窓の外にもその光は少しばかり漏れ出ている。
少女はジトッと半開きであった大きな目を完全にぎゅっと閉じた。あまりにも眩しかったのである。
そして光が収まった頃。目を開けた少女の目の前の召喚魔法陣の上に、すらりと背の高い青年の姿をした一人の魔物が立っていた。
落ちる直前の紅薔薇に似た暗い紅の髪の頭に、緩やかに湾曲した黒く立派な角が天井へ向けて生えている。青褪めた様な白い肌に、黄金色の瞳をした美青年であった。
白と黒に暗紅色の装飾が映える衣装を纏った彼の、黒い革の長靴をはいた足元にひょろりと揺れているのは先に槍の穂先の様なものの生えた黒い鱗に覆われた尻尾である。
その全身から溢れ出す肌を刺すような威圧感のある魔力は、明らかに高位の魔物のそれであった。
少女と青年はしばらくじっと見つめ合った。
その沈黙の間、青年の方は突然の召喚に困惑しつつも何を言おうか考えており、少女の方はかなりの魔力を消費したためにとても疲れたと考えていた。
実際少女の小さな身体は微かに左右にふらふらしていたので、彼女が相当疲れていると言うことが分かる。
「……よもやゴドラの次期魔王である俺を喚び出す者がこの様な……」
やがて、頭の中で考えをまとめた青年が口を開き、威厳を感じられるよう努めて低くした声を出した。
彼は厳しすぎる魔王教育の真っ最中。偉く尊大であれ、と教師に教え込まれていたので敵対する種族であるエルフの少女を見下すような言葉を探す。
「この様な……小さい、エルフだとはな」
実は心根が優しい青年は、結局かなり穏やかな言葉を選んだ。
「ジジ、使い魔、欲しい」
それに対して少女――名をジジと言う――は小首を傾げて応える。ぐるぐると濁った深淵を覗き込む様な瞳を見つめてしまった青年は言い様のない不安を感じた。
「……はっ、愚か者め。俺はゴドラの次期魔王だぞ。貴様の様なエルフの使い魔に下るわけがなかろう」
その不安を振り払うように、乱暴な言葉でジジの要求をはね除ける。黄金色の双眸に魔力が乗って煌めいた。
召喚された魔物は召喚陣の範囲から出られない。それでも、彼の力量ならば一撃を加えることくらいは可能だ。
(ふん。こんな、小さいエルフ、俺が本気を出せば簡単に潰れてしまうだろう……やり過ぎないようにせねば)
青年は密かにそう決意し、拳をゆるりと握り締める。
しかし、その言葉にゆったりと非常に遅い瞬きをしたジジは動かぬ無表情のままに薄く目を細めた。
「……親切。怒ってる、様に、見えた、けど、優しい」
「何を言っているんだ貴様は。俺のどこが親切だというのだ」
青年は混乱した。本当に訳が分からなかったからである。目の前のエルフの目はぐるぐると渦巻いた様で怖かったし、話が通じないことが恐ろしかった。
もう帰りたい。しかし帰ったところで居心地が良いとは言えない彼の実家には、冷酷になるよう躾ける厳しい魔王教育が待ち構えている。
青年は内心涙した。状況が悪すぎる。
そんな彼の心も知らず、ジジはピクリとも動かない無表情で、しかしどこか嬉しげに言葉を続ける。
「名前、自分から、名乗った。それ、契約、してもいいって、こと」
「は?!」
「ゴドラの、魔物、ジキマオ」
ゴドラは青年の出身地であり、いずれ父から継承し、治めることになる領地の名であった。だから彼はゴドラの次期魔王と自称する。名はジキマオではない。
「次期魔王だ!」
「ジキマオ」
「ま・お・う!!」
民草の上に君臨する「魔王」という身分に固執する父は常日頃から青年に「愚民どもに己の身分を誇示せよ」と教え込んでいた。
青年はそんなことしたくなかったが従わなければ折檻された。だから「次期魔王」の称号を間違われることを恐れ、訂正しようと試みる。
「……ジジ、間違った」
幸いにも彼の必死の訂正はジジに届いたらしかった。彼女は半開きの目を伏せてゆるゆると首を横に振る。
「マオ、だ」
これこそ訂正。何も届いていなかった。
「だから違うと……」
直後、青年の足下の召喚魔法陣が強く発光した。ぎょっとして口をつぐむ彼に、ジジは金柄の短杖をビシッと突きつけるようにして向ける。
「ゴドラの、マオ。ジジの、使い魔、契約、する」
「ま、待て、そんな名前じゃできるわけ」
「ジジ・リゼット・ランドール。マオの、主だ」
そう、名を持つ魔物と交わす使い魔契約はその魔物の正しい名前が分からなければ成立しない。
だと言うのに、二人の間にジジの魔力で構成された契約書が浮かび上がる。目映い光の中、さらさらと書かれるジジのフルネーム。その下に『ゴドラのマオ』と青年の新しい名前が書き込まれる。
青年の中から己の本名に関する記憶が消えていく。圧倒的な魔力によって名前を上書きされた、と気づいた青年は呆然と己の変化を感じていた。
彼の敗因は……と言うか、勝ち負けの話ではないのだが、とにかく彼がこうして正しくない名前で使い魔契約を結ばされることになった理由は単純であった。
彼はジジの力量を見誤ったのである。
ジジは、確かにちんちくりんで、ぼさぼさ髪のチビエルフではあったが、エルフの王国シリエールにて王に認められた二人の魔導士を意味する『王下双翼』の片翼を担う存在であった。
つまりは、ただでさえ魔法に長けると言われる種族であるエルフの中でも一二を争う強者である、と言うこと。
使い魔契約は、名を持たない下位の魔物と交わされる際には召喚者が魔物に名前をつけることで成立する。
これは、双方の間に圧倒的な力の差があるからできることであった。ジジは、魔王の血を受け継ぐ相手にそれをやってのけたのである。
こうして、自分の性に合わない魔王教育に悩んでいた魔物の青年はエルフの少女の使い魔マオとなった。
最初は呆然としていた彼であったが、やがて反りの合わない冥界の慣習にとらわれないシリエールでの生活に馴染んでいく。
それが彼の新たな苦労の始まりとなるのだが、それはまた後日。
「よろしく、マオ」
「そんな……」
へたり込んだマオの頬を両手で包み、薄く目を細めて微笑んだジジの薄暗い研究室へ、魔法学園の長である魔導長が
「いったい何を召喚したんじゃジジーーーッ!!」
と突撃してくるまで、あと少し。