聖女レイア 04
ブリュノ家の家族、使用人の間で、話はあっという間に広がり、その日の昼食はブリュノ家でこれ以上にないくらいのもてなしを受けた。主人である男爵をはじめ、皆が皆、レイアを女神のように扱った。それをはにかむような笑顔で対応していたレイアも、屋敷を去るころにはすっかり疲れているようだった。
カルタールを出発した馬車の中で、レイアは口元を手で隠してはいたが、小さな欠伸を噛み殺していた。
その様子を見ながらも、セルジュは尋ねずにはいられなかった。
「あれは、彼女から生まれた闇なのか?」
不意にセルジュが口を開いたので、レイアは少し驚いた顔をする。しかしそれは一瞬で、すぐにいつもの穏やかな笑みを見せた。
「違うよ。彼女はただ、引き寄せてしまっただけ。子供を亡くしたと言っていたから、その悲しみに、闇が寄ってきたんだと思う。闇を生むのは、人の恨みや悪意からだよ。誰かが傷つくことを願うような」
「……今まで、薄い霧のように見えたことはあっても、あれ程はっきり見えたことはなかった」
自分の目がまだ信じられなくて、いぶかし気にセルジュが言うと、レイアはなぜかばつの悪い顔をした。
「ごめん。私のせいだと思う。私の力が、あなたにも影響してる。誰でもそうなるというわけじゃないんだけど。男爵のように、何も感じない人も多いし。……要するにあなたは私と、何というか波長が合うんだと思う」
「…………」
思い切り眉間に皺を寄せたセルジュに、レイアはおかしそうに笑う。
「そういう顔、すると思った」
セルジュは両腕と両足を組んで、不愉快そうに大きな溜息をついた。
「つまり、君の側にいると、ろくなことがないということだな」
「でも、セルジュが困った時には、助けてあげられると思うよ」
そう言ったレイアの柔らかな声が、不意にセルジュの記憶を呼び覚ました。
忘れていた、いや意図的に封印していたかつての深い傷が、セルジュの胸の内で再び開く。
げっそりと痩せた生気のない顔。どんなに話しかけても、こちらを見ようとしてくれない瞳。そんな姿が可哀想でもあり、側にいるのは正直つらかった。それでいて離れ難かった苦しい日々。
セルジュは窓の外に視線を移した。朝からの雨はまだ降り続いていた。馬車の中を雨音が静かに包んでいる。しっとりと濡れた景色を見つめながらセルジュは、独り言のようにつぶやいていた。
「十四年前、母が、ちょうど彼女のような様子になった。あの時は、何も見えなかったが」
「…………」
「母は、闇に呑まれたのか」
少し沈黙してからレイアは、正直に答えてくれた。
「わからない。直接見ていないから。ただ、公爵夫人がそうなったのなら、聖女が派遣されたはず――」
「聖女は呼ばれていない。父には常に愛人がいて、心を病んだ母のことは無視していた」
「…………」
「結局、母は自ら命を絶った」
「……そう。それはつらかったね」
「もし俺が闇に気が付いて、聖女を呼んでいたら、母は助かったのか」
「……わからない。その後、家の誰かに何か変わったことがあった? 事故とか、原因不明の病とか」
「いや」
窓の外を向いたままのセルジュに、レイアは静かな口調で語った。
「それなら、少なくともあなたのお母様は、自ら闇を生んではいないよ。自ら闇を生み、祓われずにそのまま留まっていたのなら、必ず周囲に影響を及ぼす」
「…………」
「あの家に、今も感じる闇はなかった。あなたのお母様の魂はちゃんと、あるべきところへ還っているよ。自ら闇を生み、闇そのものになってしまったのでなければ、たとえ悲しみや苦しみに負けて、闇に呑まれたとしても、いつかは還り、生まれ変わる。姿を変えて、記憶は残っていなくても」
何も答えられなかった。全身の力が抜けたように感じ、セルジュは体を馬車に預けた。
セルジュが物心ついた頃から、母の具合が悪くなるまでのわずかな期間。春の陽だまりみたいに、明るく温かい時間を過ごしたのを覚えている。生まれ変わっているなら母は、あの時のようにほほえんでいるだろうか。
窓の外では、細い雫が絶え間なく落ち続けている。こんな風に泣けたら、少しは楽になるのだろうか。セルジュはそう思いながら、目を閉じた。