終わりの時 02
雨の音がひどくなった。他には何も聞こえない。沈黙が部屋を支配していた。
ノックの音が響き、誰かが部屋に入ってきた。
「失礼いたします。セルジュ様、レイア様がこれを……」
「…………」
ソファに座ったセルジュは無言で受け取る。家令が渡した書類には、丁寧に署名がされてあった。
セルジュは肘置きにあったもう一方の手で、両目を覆った。
「旦那様へのご報告は、如何いたしま――」
「下がれ」
「かしこまりました」
家令は再び扉の向こうへ姿を消した。
セルジュは自分でも知らぬうちに、受取った書類を握りしめていた。くしゃくしゃになった紙が、開いた手から絨毯の上に落ちる。
やり場のない思いが、セルジュの胸を切り裂いていくようだった。レイアの様々な表情が、洪水のように頭に流れ込んでくる。
『嘘じゃないよ、セルジュのことは大切だって言ったと思うけど。離婚はするけど、大切に思う気持ちはずっと変わらないよ』
嘘じゃないなんて、嘘だ。彼女は平気な顔をして嘘をついた。大切に思うならばなぜ、行くなといったセルジュの気持ちが届かないのか。
はじめから彼女とちゃんと向き合っていれば、何かが変わったのか。なぜもっと早く、彼女を知ろうとしなかったのか。強い後悔や自己嫌悪が、セルジュの胸に広がっていた。
結局、彼女が何を考えていたのか、セルジュには分からなかった。
でも、本当にただの一度も、彼女は心の内を見せなかったのだろうか。その気持ちは、少しも揺らいではいなかったのだろうか。
『だってセルジュの妻として過ごせるのは、今年だけだよ』
そう言って、すがりつくようにセルジュの背中に手を回しことがあった。
『……結婚式、すれば良かったかな』
セルジュの隣で、寂しそうに言葉を漏らしたこともあった。
『それは秘密。機密事項だから』
離婚の理由を聞いたセルジュにそう答えた時には、悲しげな笑みを見せていた。
そしてあの時。
セルジュを見上げる黒い瞳が、戸惑うように揺れていた。そっと唇を重ねたら、涙をこぼした。
「……嫌、だったから。……違う? そうじゃない、のか」
セルジュは思わずつぶやいていた。違うと彼女は言った。あれは拒絶ではなかったのか。涙の意味は、ただ苦しいから。セルジュが今、レイアを思ってこれほど苦しいのと同じ、なのだとしたら。
さっきだって彼女は、つらいと言った。瞳を潤ませていた。声を震わせていた。それでも心を決めてしまったと思ったから、手を離してしまったけれど。背中を向けて振り返らなかった彼女は、もしかしたら泣いていたのかもしれない。
セルジュは顔を上げた。奇しくもウエストコートに忍んであった、薄い空色のハンカチを手に取る。羽ばたく白い鳥。レイアの言葉が胸に浮かんだ。
『鳥はいいよね、自由に飛べるから』
自由には飛べない。心のままに求めることもできない。本当に、自分自身が嫌になる。だがやれることは、まだあるはずだった。後悔するのは、もう一度、確かめてからでも遅くはない。
セルジュは無言で立ちあがり、手にしたハンカチを戻すと、迷いのない足取りで扉の外に向かっていった。
「セルジュ様」
すぐ側で待機していたのか、心配そうな顔をした家令に、短く指示する。
「馬車の用意を。大聖堂に向かう」
「かしこまりました」
直ちに用意された馬車で、雨の中、大聖堂へ向かう。レイアが去ってまだ一時間も経っていない。
到着してすぐに、敷地東部にある聖女への謁見所へ向かう。対応した聖女達に急ぎ伝えた。
「レイア・フランクールに会いたい。呼んでくれ」
「レイア様は、つい今しがたこちらをご出立されました」
「……どこへ」
「私どもには分かりかねます」
「では誰なら分かる」
焦燥感で、思わず、きつい口調になっていた。困惑する聖女達に、埒が明かないと、セルジュは建物の奥に進もうとする。レイアの行き先を知る人間がいないか、しらみつぶしに聞くしかない。
「お待ちくだ――」
「良いのです、お下がりなさい」
セルジュを静止しようとしていた聖女達を、穏やかだが威厳のある声が遮った。セルジュがそちらを見やれば、玄関ホールへの階段を、一人の老女が下りてくるところだった。セルジュも当然知っていた。この国の大聖女、グレース・ロワイエ。
「こちらからも、フランクール家に使いを出そうと思っていたところです。……ですが、きっと来てくれると信じていましたよ。あなたに伝えたいこともあります。さあ、レイアのところへ向かいましょう」




