2
寒かった冬も終わりに近づき、シュリエラの献身的な看病ももうすぐ半年が経とうとしていた。
温かい春がすぐそこまでやってきている。
ある日、シュリエラは両親に呼ばれた。
「シュリ、サファラスさんの調子はどう?」
「まだ……なんとも。でも……春には、春になって温かくなればきっと良くなります!」
母、エレイアの問いにシュリエラは望みを託すように懸命に答える。
アルダとエレイアはお互いの顔を見合った。
なぜかその時、シュリエラは嫌な予感がした。理由のない、大きな不安がシュリエラに襲いくる。
「あのな……シュリ」
アルダはその口を重々しく開く。
シュリエラはアルダの顔を見ることができなかった。
なぜか、聞いてはいけない、という警鐘がシュリエラの頭の中で鳴り響いていたから。
「お父様、ごめんなさい。わたし……もうサファラスのところに行く時間です」
シュリエラは踵を返して部屋から出て行こうとする。
しかし、
「待ちなさい、シュリエラ……大切な話なんだ」
アルダはそれを許さない。
シュリエラを呼び止めるアルダの声色が、彼女の中で鳴り響く警鐘をさらに強める。
「帰ったら……帰ったら聞きます。ね? ……きっと、サファラスもわたしのことを待っていると思うし。お願いです、お父様」
シュリエラがそう言ってドアノブに手を掛けた時だった。
「もう、彼は待っていないよ」
(…………?)
シュリエラは耳に入った言葉の意味を理解することができなかった。
(お父様は……今…………何て?)
シュリエラは無言のまま振り返った。
「残念だが、サファラス君はもうお前を待ってはいない。もうシュリは行かないと、私から伝えたんだ」
「なん……で…………?」
それだけを口から絞り出すのがその時のシュリエラにとっての精一杯で。
「お前のことを思ってだ」
「別に……大丈夫ですよ? サファラスの病気は感染するものではありません。その証拠に、これまで通っていてもわたしは少しも病気になんてなっていませんもの。ね?」
必要最低限しか語らないアルダから、シュリエラは、単に彼が娘の体を心配しているのだと思った。いや、思いこんだ。
だから、身振り手振り大丈夫であることを懸命に伝える。
だが…………
「そうではないのよ。シュリ」
言ったのは今まで黙っていたエレイアだった。
シュリエラはエレイアに視線を合わせる。
「シュリ……落ち着いて聞いてちょうだいね。実は今、あなたにとてもすばらしいお話が来ているのよ。今の王太子殿下はあなたも知っているわね? 確か、年はあなたより一つ下だったかしら。その殿下が、あなたを是非、妃として迎えたいとご所望なの。ね? 素敵なお話でしょう?」
言ってエレイアはニコリと微笑む。
それに反するように、シュリエラの顔は青ざめていく。
何を言われているのか、何が起こっているのか……シュリエラは理解できなかったし、したくもなかった。
それでも、話は続けられる。
「シュリ、この話は進めるぞ? いいな? アムスレット家には近々婚約の解消も申し出るつもりだ」
「そうよね、とても名誉なことですものね。次代の君主を産めるチャンスが得られるなんて光栄よ? 国中の娘達が望んでもなかなか叶わないことなのよ? だから……」
「嫌……よ…………」
シュリエラは消え入るような声でエレイアの言葉を遮った。
そして、両の手にギュッと力を込める。
「……王太子殿下の妃なんて……嫌よ!! わたしは……わたしはそんなこと少しも望んでいないわ。名誉でも光栄でもない。絶対に嫌!!」
シュリエラは声を荒げた。
「シュリ!! 言葉が過ぎるぞ」
アルダがすぐにシュリエラを抑止したが、彼女はよりいっそう両の手に力を入れる。
「わたしは……わたしはサファラスの奥さんになるの。サファラスが元気になったら結婚するのよぉ!! 婚約解消なんてしない!」
「落ち着きなさい、シュリ。いい加減、現実を見るんだ。いつまでも夢を追っていたって仕方がないだろう。サファラス君はもう…………」
「嫌ぁ!! やめてぇ!!」
アルダの言葉をシュリエラは叫ぶように遮った。同時に、瞳からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
――サファラスはもう、ナオラナイカモシレナイ
そんな文章がシュリエラの中で勝手に作られる。
今まで必死で見ないようにしてきたものを、アルダに突きつけられたような気がした。
それはシュリエラにとって死刑宣告を受けるよりも、辛いこと。
「シュリ……少し冷静になりましょう? わたくしもお父様もあなたの幸せを思って言っているのよ? サファラスさんだってあなたの幸せを思えば、きっと分かってくれるわ」
エレイアは娘をなだめようとその肩をポンポンと優しく叩く。
「お父様やお母様こそ冷静になってよ!! わたしは……わたしは絶対王太子殿下の元になんて上がらない!!」
シュリエラはそう言い放つと、部屋を飛び出した。
「待ちなさい、シュリエラ!!」
そんなアルダの声を、シュリエラは背中で聞いた気がした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日から、シュリエラは自室に軟禁された。
レストルームも浴室もシュリエラの部屋に併設されているため、一日中部屋から一歩も出ずに生活することは理論上可能であった。食事も日に三度、ミアナによって運ばれてきた。
そして、全ての生活行動は監視され、手紙も検閲を受けなければ出すことも受け取ることもできなくて。シュリエラはまるで囚人のような生活を強いられた。
もちろん、それらは全て、アルダとエレイアが娘を思うが故に行ったことだ。多少過剰すぎるようなところはあったが、それだけ二人が娘を思う気持ちが強かったのだ。
可愛くて仕方がない娘を、先行き不安なサファラスに嫁がせるよりも、国母さえ夢ではない王太子の元へ上げる方が二人にとっては何倍か安心だった。
しかし、シュリエラにはそれが理解できなかった。それらを冷静に考え、両親の優しさ、として受け止めるにはシュリエラはまだ子供過ぎたのだ。
シュリエラが軟禁されて五日、サファラスの元へ訪れなくなって五日、サファラスの耳にもある風の噂が届いていた。
「ゲホッ、ゲホゲホッ……ゲホォッ」
「サファラス様!? 大丈夫ですか? サファラス様!!」
サファラスの乳姉弟、レナンシュアはサファラスの背中をゆっくりとさする。
「すまないね、レナ」
サファラスは口元を押さえていた手に付いたものを枕元にあった布で拭う。
「またそんなに血が……」
レナンシュアはわずかにその顔を歪める。
「私も、もうそろそろかなぁ」
サファラスはまだ血が残る手を握りしめながら寂しそうに笑って見せた。
「何を馬鹿なことを…………」
レナンシュアは今にもこぼれ落ちそうな涙を必死で堪えて、その目を真っ赤にしていた。そして、爪が食い込むほどに両の掌を握りしめる。
(わたしが泣いて……どうするのよ)
そう自分を律しながら。
「サファラス様は……あの変な噂を真に受けたのですか? ……あんな嘘、信じるからそんな馬鹿なこと仰るんですね?」
レナンシュアは、馬鹿馬鹿しい、とでも言いたげに肩をすくめる。
あの変な噂……それはシュリエラがこの春の終わりには王太子に嫁ぐというもの。
「単なる噂……じゃないだろう」
サファラスは小さく一つため息をつく。
思えば、アルダから理由も添えずにシュリエラがもうここには来ないとを伝えられた時、サファラスは何か予兆めいたものを感じていた。
初めはシュリエラの体調不良を心配したが、噂は二日と経たずにサファラスの耳にも入ったのだ。
(そうだったのか…………)
噂を聞いた瞬間、驚くよりも憤慨するよりも先に、サファラスは静かに納得した。
そんな自分にサファラスは少し驚いたくらいだ。
しかし、それも死期が近いせいかもしれない、と思った。
「サファラス様……あんな噂は絶対嘘です。おもしろおかしく言われてるだけです。……だって、現にシュリエラ様はまだあなた様の婚約者でしょう? ですから、さっさと病気なんて治して、春の終わりにはシュリエラ様にお嫁に来ていただきましょう。ね? ……それが良いです」
努力の末に作り上げられたレナンシュアの笑顔に、サファラスは力のない微笑みで答える。
サファラスはゆっくりと窓の外へ視線を移す。
ふぅ、と息をつくと口に残る血の味が鼻から抜けた。
(死ぬ前に……まだ一つだけ…………)
血の味はサファラスに死を強く意識させた。




