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ヒカリのそばで 少女編

作者: 鈴雲ミキ

俺は、在原霧月(ありわらむつき)が好きだった。




 物心ついた頃、というか一番古い記憶はただただ呆然とテレビを見ていた。

 たぶん何かのヒーローものだと思う。

 言いたいのはそういう事じゃない。

 俺が言いたいのはいつ何を見ていたのかじゃないんだよ。

 誰と見ていたか、それが大事な事なんだ。

 俺の隣にはいつも霧月がいた。

 親同士が仲が良くて、俺の親父と霧月の母さんが兄妹で、俺たちは従姉弟同士で、一緒にいた。

 俺は記憶が無かった頃から一緒にいる霧月が好きだった。

 幼稚園も小中高と一緒だった。

「霧月ー、帰ろー」

 小学生の時の事だ。

「今行くー」

 同じクラスであろうがなかろうが、俺たちは一緒に登下校していた。

 小学生という事もあり、あまり1人での帰宅というのは親も教師もいい顔はしなかった。

 幸い俺の家と霧月の家はさほど離れているという訳でもなかった。

 親戚同士、従妹同士でいつも一緒にいた。

 一緒にいた記憶があるのではなく、記憶は大抵一緒にいる所だ。

 小学生の最初まではそんな記憶ばかりで、なんの根拠も無く世界中の総てから無償に愛されていると勘違いしていた。

 たまに親に怒られる以外は何の問題も無く過ぎていく毎日を過ごしていた。

 それが突如、変化した。

「また、女子と帰るのかよ鳥野郎」

 急にクラスの男子から言われたその言葉。次いで数名の男子の笑い声。

 鳥野郎。

 誰がわざわざ調べたのかは分からないが、俺の名前である頭城雁弥(とうじょうかりや)の雁から来る言葉である。

 小学生というモノは恐らく他者からの悪意を学ばなければいけないのではないかとさえ思わせる。

 また、小学生男子というのは女子と一緒に遊ぶ事、帰宅する事を是としない。

 そしていつも一緒に帰っている俺と霧月は格好の餌食であった。

「女子と帰って恥ずかしくねーのかよ。ダッセェ」

 俺にとってはこの世界の如何なる事よりも霧月が大切だった。

 そして、子供だった俺は子供社会から隔絶された。

 無視というモノを初めて知った。

 予想以上の孤独感と居心地の悪さが、まるで陸上で窒息しそうになるような苦しみだった。

 霧月と一緒にいられればという事ではなかった。

 存在を否定され、まるで生きている事が罪であるかのようにさえ感じた。

 クラスのリーダー的存在の言葉は絶対だった。小さな教室を王国として生きているその男子が認めた異分子に声をかける存在はいなかった。

 霧月は女子であるというアドバンテージからか、彼女の存在がクラスから消される前に俺を消す事によって事無きを得た。

 一人ぼっちの世界というのは自分はおろか世界さえも呪いたくなる様なものだった。

 今まで一緒に過ごしていた霧月も含め、それまで幾度となく会話をしていたクラスメイトさえも憎悪の対象になりそうだった。

 どうして自分がという疑問で一杯になっていた。

 そしてそんな事がおよそ2ヵ月という、子供にとっては永遠のようにも感じられる程の時間が経った頃。

 その日も一人きりで過ごして、一人きりで帰宅していた。

 目の前には楽しそうに笑いながら帰っている3人組の女子達。霧月とクラスの女子2人だった。

 俺は少し離れた所を1人歩いていた。

 目の前で1人、また1人とお別れをしている。

 3人が2人、1人になり、目の前には霧月だけになった。

 霧月は最後に別れた女子が見えなくなったのを確認してから俺の方に近づいて来た。

「帰ろう」

 ひさしぶりに放たれたその言葉は一瞬自分以外に向けられた言葉であると思った。

 存在を否定されて、いつの間にかこの世界から消えていた。

 ゲームでもしているみたいに、テレビを介してキャラクターの言葉を聞いているかのような感覚。

「雁弥。今まで無視してごめんね」

 俺の心は一気に熱を持った。

「なん、で……」

 謝るの?という言葉が続かなかった。

 下手に言葉を発すると目の奥の熱が漏れ出てきそうで。

「やっぱり無視っていうのは嫌だし。無視してきた事には変わりないから謝りたいだけなのかもしれない」

 それでもと彼女は続けて……。

「一緒に帰ろう」

 俺は、在原霧月が好きになった。




 私は、頭城雁弥が嫌いだった。




 雁弥と初めて会った時の事は思い出せない。

 親同士の仲が良くて、親戚同士で、一緒にいた記憶しかない。

 私はたぶん、同世代の子たちよりも少しだけ大人びているかもしれない。

 考え方は冷めているし、周囲に気に入られようとしっかりと計算し、好かれる人間というモノを演じている。

 親は、私と雁弥が仲良くしている姿を見るのが好きだった。

 雁弥の親も同じで、私が遊びに来ているととても喜んでいるように思える。

 だから私は雁弥と遊んでいた。

「一緒に遊ぼ」

「うんッ!」

 雁弥自身も私の事を好いているというのは分かっていた。

 都合が良い存在であると思っていた。

 しかし、それも小学校でクラスのつまらない男子達の掟で潰れてしまった。

 私は雁弥と一緒に入る事ができなくなってしまった。最初の内は大した問題など起きないとたかをくくっていた。

 1週間に1度くらいの頻度で両家を行き来し、遊んでいた関係が急に亡くなった瞬間、私の親も少し不審に思っていたようだ。

 親にどう思われようが、単なるクラス内のイジメのようなモノに雁弥が引っ掛っただけである。親がどうこう言おうが、悪化する事はあっても解決する等という事はない。

 私自身、それに加担しているという事になるのが少し気がかりだった。

 1ヶ月、2ヵ月という時間が経った頃、私はクラスの女子から聞いた。

「頭城、さすがに可哀想じゃない?」

 最初に言い始めたのは私の中で雁弥の次くらいに仲が良い友達だった。

 雁弥に同情する声が少しずつ出始めていた。

 思う所が無かった訳ではない。

 私が噂の的にされるのを避けたがために、雁弥はたった1日でクラスから存在を消されてしまった。

 それに対して、雁弥は何も言わなかった。

 不平も。

 不満も。

 泣き言も恨み言も何一つとして言わない。

 信じられなかった。

 泣き虫な男の子とまでは行かないまでも泣くかと思っていた。私がいなくて、私が敵になってしまった事に対して。

 でも、雁弥は泣かず、たった一人で耐えていた。

 私が雁弥の事を嫌っている、利用しているのは私だけが知っている。

 ここで誰か一番最初に、声をかけるなど味方をしてしまっては雁弥を利用しづらくなるかもしれない。

 雁弥自身がその人物に依存するかもしれない。

 だから、私はさも反省したかのように。

 後悔しているという風に見せるように。

 他者の目を気にしているというように。

 話しかけた。

 謝罪した。

 ごめん、一緒に帰ろうと言った。

 雁弥はその言葉を聞いて、ただ一言返して来た。

「うん」

 その瞬間、それまで何とも思っていなかった筈の心にどす黒い何かが溢れて、胸を締め付けた。

 それは罪悪感とかそんな物では無い。

 もしかしたらそこから来ていた何かなのかもしれないが。

 私はただ、利用できる存在を手元に置いておきたかっただけなのだ。

 その為にわざわざ私に依存するように演出してみせた。

 たぶん、普通の事なのだろう。

 誰しも同じ状況で同じ事をされたら……。

 同じ様に、笑うのだろう。

 雁弥の笑顔。

 いつから見ていないのか。

 2ヵ月以上も前。まだつまらない男子の掟に出会っていなかった頃のものだ。

 雁弥の笑顔はどうして、こんなにも私を醜く写すのだろう。

 私は、頭城雁弥が嫌いになった。




 中学3年生の冬。

 初めての受験という言葉がどうしても頭から離れなくなってしまっている憂鬱な日々を過ごしながら、俺は霧月と一緒にいた。

 小中と家から近い公立中学を選んでいたのに反して、高校はどうするべきかと悩んだ挙句、やはり家から近い高校に進学しようと考えていた。

 生憎の優等生ばかりが通っている進学校で、俺の成績ではかなり厳しく、霧月の成績では多少余裕があるというような学校だった。

 高校については色々と調べて決めた時は霧月とまた同じ学校に通う事ができるかもしれないと嬉しかった。

 小学校の時に自覚した霧月を好きだという感情。

 可愛くて、頭が良くて、男女関係なく誰とでも仲良くなれる女の子。

 そんな霧月を好きになる男子はそれなりに多かった。

 小学校でも中学でも何度か告白されたのだと、霧月は俺に伝えてきた。

「また告白されちゃった。みんななんでそんな恋愛ばっかり興味あるのかね?」

 中学3年生だ。

 もちろんそういう事に興味がある年齢である。

 俺自身もやはり霧月が好きであり、あわよくば付き合えるという事であるのなら付き合いたいとも思う。

 だから内心、霧月を取られるのではないかとか、霧月に告白をするなんてという醜い嫉妬心が無かった訳ではない。

 でも、その告白してきた人間達は勇気を振り絞って、霧月にその思いを告白したのだろう。

 そんな事を考えると、今の関係が壊れてしまうのではないかという不安で動く事ができない俺なんかが口を開いていい話ではないように思える。

 今は霧月自身が恋愛というモノに関して興味が無いというような発言をしている事を考えると俺も含めて、今後告白する男子は返り撃ちに遭うという事だ。

 霧月に彼氏ができるという事は無さそうで安心するが、それと同時にやはり1つの問題が発生する。

 ずっとこのままなのだろうか。そんな風に悩んでしまうのは仕方が無い事だろう。

 ずっと一緒。

 ずっと友達。

 そういう関係があるのは分かっているが、やはり付き合えるのであれば付き合いたい。

 好きな女の子とそういう関係になりたいと思うのは当然である。

 かと言って、付き合えたから何をしたい、どこかに出掛けたいなどという具体的な事は考えた事は無い。

 霧月とは一緒にいる。

 近すぎて、何をすればいいのか俺には分らない。

「雁弥。聞いてる?」

 塾の自習室。

 本来は私語厳禁であるその部屋で俺たちは一緒に勉強をしていた。

 3人がけの長机の端に座る俺と、真ん中に座る霧月。

 教科書とノート、筆記用具があり、俺と霧月の間にはノートが1冊置かれている。

「間違い多数。やりなおし」

「……なにも赤で大きくバツにしなくても」

 文字を消して書き直せばいいだけなのではないだろうか。

 そう思っていると霧月が喋る。

「そんなんだから点数が上がらないの。最初から流れを覚えないとまた同じミスをする」

 彼女の父親は教師をしている。

 それの受け売りなのか、影響なのかはわからないが、霧月の勉強法は誰もが教えるやり方であり、一種の正攻法だ。

 赤ペンでマルやバツを書きいれるのも。

「受験、やばいんじゃない?」

「どうにかしなきゃなぁ」

 それなりに勉強しているつもりだが、持って生まれた物か、はたまた努力の差か。おそらく両方だろう事は明白で、もしかしたら同じ高校に通う事ができないかもしれないという危機的状況なのだ。

 同じ高校に通えなかったらという不安はある種のプレッシャーになり、どうやら俺はプレッシャーには弱いらしい。

 自習室には数名の塾生がいて、おそらく俺たちの事を迷惑に感じているのかもしれない。

 声のトーンはできるだけ落しているがやはり気になるモノは気になるだろう。

 それもこれも、霧月が本番を想定して、気が散る事に慣れさせるという意味のわからない事を言いだしたからだ。

「霧月は普段どれだけ勉強してるの?」

「2時間くらい?って言っても普段からやってるからでしょ。雁弥はやらないから今こうなってるだけ。人に合った勉強法が必要なんじゃない?」

 やはりもっともらしい事を言う。

 俺らしい勉強法、などと言っても今更そんなものを編み出した所でどうなるものでもない。

「そんなことよりさっさとその問題やり直して。次やるから」

 自分のテキストの数ページ先を見ながらどれを解かせようかと見ている。

 本当に教師みたいだ。

 しばらく霧月先生の授業を聞きながら、自習なのかあやふやになってきて、時間も遅くなってきた。

 自習室はあまり周囲の環境が気にならないようにという配慮なのだろうか、すりガラスになっており、昼、夕、夜しか分らない程度になっている。

 暗くなってきて、時計を確認すると9時を過ぎていた。

「こんなものかな。今日は切り上げよう」

「疲れた~」

 机に突っ伏して弱音を吐く。

 隣に座っていた霧月は早々に自分の学校指定のカバンに荷物を詰めている。

 起き上がって今日の進行具合を見ると普段1人だけでやるよりも遥かに早いスピードで進んでいる。

 つい口元が緩む。

「……なに笑ってるの?」

「ん?ああ。やっぱり霧月はすげーなって思ってさ」


 受験が差し迫るこの季節に勉強以外の事をしている人間はいない。

 だから、俺自身も自分を追い込んで、または追い込まれたから勉強している。

 学校だけでは決して学ぶことのなかった範囲をもカバーしなければいけないという事に最近になって気がついた。

 私立の中学に通っている人間達は中学受験や小学受験を経験し、その分難しい問題にも早くから取り組んでいる。

 そしてそれらの人間達がいる事を踏まえた上で、今目指している高校は進学校という冠を付けているのだ。

 それこそ、公立の人間に合わせるのではなく、私立の普段から一生懸命勉強してきた人間達を越えなければ合格は難しいだろう。

 家に帰ってからも寝る前の自習という慣れない事をしなければいけない。

 テキストに書いてある英文だったり、数式だったりはどうして眠くなるのだろうか。

 自分らしい勉強法に夜の自習は含まれない事は分かった。

 俺は机の上に置いてあるモノから視線を外し、天井を見る。

 考えるのはいつも霧月の事だ。

 同じ学校に通いたいという、おそらく受験生の中でもっとも下心に満ち溢れた志望理由だと思う。

 霧月はたぶん違う。

 俺の事はただの幼馴染としてしか思っておらず、高校の志望理由ももっと高尚なモノだろう。

 俺も勉強して、もっと立派な人間になれば霧月に釣り合う人間になれるのかな……。

 そんな事を考えてから、机に向かう。




 中学に入ってから、私は告白をされるという経験をした。

 それはドラマなどのように劇的な、作り物染みた美しさや切なさとは全くと言っていいほどかけ離れていた。

 感じた事のないトキメキという言葉をその日その時理解する事は出来なかった。

 クラスの男子で、私は覚えていなかったけれど小学校も同じだったらしい人。

 イケメンという括りではないにしろさほど見た目に文句がある訳ではないし、スポーツのエースだったり、学年トップの優等生という訳でもなかったが、悪い話では無かった。

 私は誰かと付き合った事も無ければ誰かと付き合いたいという衝動も無い。

 だから、断った。

 彼の言葉は私を褒めちぎっていた。

 可愛くて、頭が良くて、誰とでも仲良くなれる女の子。

 長い長い練習してきたのか分らない私への評価を要約するとこの三つのようだ。

 そうか。私は私なりたいようにやれている。周りにそう思わせる事ができているという証である。

 ある種の自信に似た何かだった。

 そして、私はそんな単純な彼に向って言った。

「ありがとう」

 私が思い描く私を好きになってくれて、それを教えてくれて。

「でも、ごめんなさい」

 そんなあなたに興味がない。

 それだけ伝えると、彼は落ち込んだ様だったのでそのままそこに置いて来た。

 私は、私を好きでいる人間に興味はない。

 親も友達も先生も今のように知らないクラスメイトも、私にとっては何の興味も無い。

 私はただ、人に好かれる人間になりたいだけで、私を好きになってほしい訳ではない。

 そして逆に私も誰も好きにも嫌いにもならないと決めていた。

 ただ一人の例外を除いて。

 勉強もできない。スポーツも得意ではない。顔が良い訳でもない。ただ幼馴染であるというだけで私と一緒にいる人間。

 親戚というだけで、幼馴染というだけで、他に何の理由も無いのに雁弥は常に私と一緒にいようとする。

 少しだけ、雁弥と距離を置こうかと考えた事もある。

 雁弥は私の心の醜さや黒さを私自身に自覚させる。そういう面があり、黒であると私自身は理解しているつもりでもあるのだが、それを浮き彫りにさせる。

 中学は雁弥と離れて私立中学という事も考えた。

 親は学業に専念するとでも言っておけば頷かない訳が無い。

 私の成績ならば問題は無い。

 だが、すぐに考えを改めた。

 以前は雁弥から離れるのではなく、彼を良いように利用できるようにと考えていたのだ。

 人に好かれる人間を目指す。それのテストケースなのだから。

 だから、私は同じ公立中学に通った。雁弥と一緒にいるという事を選んだ。

 しかし、そんな最中に告白してきた男子生徒。

 それがキッカケなのか、世に言う所のモテ期というものなのか、何度か告白されるというケースに遭遇した。

 雁弥が私に対して幼馴染以上の感情を持っているのは知っていた。

 私自身がそう仕向けた様なモノだし、嫌ってはいても幼馴染をしていただけの事はあるので雁弥の気持ちくらいは分かっていた。

 私は雁弥に対して何とも思っていないという事を理解させる為に、告白された事を告げていた。

「また告白されちゃった。みんななんでそんな恋愛ばっかり興味あるのかね?」

 さも自分は興味が無いと言わんばかりの言葉を付け加える。

雁弥はその度に何か言いたそうな顔をするけれど、それだけだった。

 私は恋愛などには興味が無い。

 そして、雁弥は私の物だ。

 だから私は高校についても雁弥と同じ高校を志望していた。

 私の学力でならそれほど問題にもならないレベルで、雁弥の学力では厳しいレベルの高校を選んだ。

 雁弥は私と同じ高校という事でそれなりに学力を上げてはいるが、中学3年の冬の時期ではまだ厳しかった。

 私は雁夜に勉強を教えていく。

 雁弥の頭は決して悪い訳ではない。ほんの少しヒントを教えれば簡単に問題を解く事ができる。

 教えても出来ない人間というのはたくさんいるが、雁弥の場合やればできるという典型の様な人間である。

 私は十月から少しずつ教えているが、雁弥の学力は十二月になる頃にはおそらく合格するのに問題無い程度にはなってきていた。

 本人はあまり自覚しておらず、成績優秀である私に教わったから学力が向上したと思っているがほとんど本人の能力だ。

 雁弥の気持ちは私のおかげであるという認識なので当初の予定通りだ。

 ただ、私の心の中は少しだけ複雑になっていた。

 そしてある時、雁弥は私に言った。

「ん?ああ、やっぱり霧月はすげーなって思ってさ」

 また、笑顔。

 この笑顔はどうしてこうも苛立たせるのだろう。

 私は家に帰り、自分の勉強をする。

 それでも、あの顔が忘れられなかった。

 高校受験が終わり、私たちは志望校に入る事ができた。

 近場ではあるが電車通学になり、制服も一新されて、私たちの生活はがらりと変化する事になった。

 新しい友人作り、高校での勉学など。

 そして高校生活最初の中間試験で、私は雁弥に負けた。




 子供の頃から憧れていた高校生。

 昔からまるで大人の様な印象。

 背が高くて、頭が良くて、しっかりとした服装をしている。

 そんな印象が頭から離れず、それがいつの間にか自分になっていた事が信じられなかった。

 高校生活は順風満帆という感じで、苦労して入ったお陰かなんとか勉学にもついていけているし、友人作りもなんとか成功していた。

 霧月との関係も何の問題も無く、中学時代とほぼ同じだった。

 高校に入り、ますます容姿に磨きがかかってきた霧月はやはり月に数度告白をされているようだった。

 そしてそんな中、問題が起きた。

 5月の事だ。

 高校生活最初の中間試験、現代文、古典、数Ⅰ、数A、英語、オーラル、日本史、地理、物理、生物の十科目を受けた。

 その結果、俺は霧月に勝った。

 霧月は頭が良い。

 たぶん、調子が悪かったか、俺の運が良かったんだと思った。

 そうに違いない。

 霧月は凄い。それを知っているのは霧月自身よりも俺の方だったのだから。

 だから、霧月より点数がよかったと知った時、俺は嬉しいとか、喜んだとかそんなんじゃなく落ち込んでしまった。

 霧月が俺より低い点を取ったから落胆した訳ではない。

 ただ、何かが抜け落ちたかのような感覚だった。

 俺は勉強を欠かさなかった。

 中学受験の辛さを知ってから多少なりとも―――いや、霧月に追いつきたいという思いから必死に勉強していた。

 中学時代はやらなかった学校から帰って予習復習の時間を組んだ。

 たとえ誰かと遊んでもそれはやめなかった。

 たったそれだけで、霧月に勝ってしまった事が信じられなかった。

「あれ?霧月より上だ」

 そんな言葉がぽろっと零れてしまった。

 たまたまだよとか、山が当たっただけだよと、まるで言い訳でもするかのように俺の口は止まらなかった。

「雁弥はやればできるもんね」

 たぶん精一杯の言葉だったんじゃないだろうかと思う。

「霧月に勝てるように頑張ったのは確かだよ。でも、こんな事になるなんてね」

「ううん、次のテストでコテンパンにしてみせるよ」

 霧月は笑顔でそんな事を言う。

 彼女が人一倍の負けず嫌いなのは何となくわかっていた。

 たぶん、それが子分の様な俺に負けた事が許せないのだろう。

 霧月は次回までにかなりの勉強をしてくるのは間違いない。負けず嫌いというのは本当に凄いもので、原動力になれば誰にも負ける事は無い。

 負けてはならないのだ。霧月は誰にも負けては。

 ただただ、霧月の事が好きだった俺はなぜだかこの時、ひどく罪悪感の様な気持が湧きあがった。

 どうして?

 尊敬していたからだ。絵に描いたかのような完璧な人間である霧月が俺みたいな平凡な人間に負けた事が信じられなかった。

 失望。

 そんな言葉が浮かんできた。

「次のテストって実は7月だからあと2ヵ月切ってるんだよね」

 無意味な会話をする。

 霧月はそれに付き合ってくれて。

「2ヵ月で雁弥を追い抜いて大差をつけなきゃいけないね。私勉強しか取り柄が無いからそこで負ける訳にはいかないよ」

「そんなことないだろ。霧月は俺なんかよりよっぽど凄い人間なんだからさ」

「……そうかな」

 落ち込んでしまっている表情の霧月。

 いつも通りの霧月に戻ってもらいたいと思う。

 好きな女の子なんだから、やはり笑顔でいてほしいと願うのは当然の事なのだろう。

 だが、高校生になり俺はあるもう一つの感情が湧きあがってきていた。

 中学時代悩んでいた、もしかしたら霧月とずっとこのままの関係で、いつまでも友人でいるという事。

 変に崩壊してしまうのであれば、いっそのことずっと友達でいるというのもわるくないのではないだろうか。

 男女の間に友情というモノは存在すると思う。

 それは俺の気持ちを届けて、伝わらなかった際にまで存在するかは分からない。

 だが、幻のように無かった事にすれば、その関係性は自然と友情という鋳型にはまるだろう。

 霧月への想いがいつの間に尊敬とか憧憬に変わっていった。




 高校生活最初の中間試験は悪夢のようだった。

 今まで格下である、私の“物”であった雁弥は私の手を離れるかのごとく、私を越えていった。

 下手なフォローは私の癇に障る事を理解していない。

「霧月は俺なんかよりよっぽど凄い人間なんだからさ」

 その言葉は私を傷付ける。

 私はそんな言葉が聞きたいんじゃない。

 私に依存するべき雁弥が私を励ますなんて事は一度たりとも望んではいなかった。

 勉強についても、友人関係についても私は雁弥の中で常に一番でなくてはならないというのに。

 高校受験が終わったからと言って油断していたなんて事は決してない。

 いつも通りに、いや高校受験の勉強中にみるみる学力を伸ばしていた雁弥の事を踏まえて中学時代よりしっかりとしたテスト対策をしたつもりだ。

 負ける訳にはいかないのだ。

 それなのに、ほんの数点差ではあったにせよ総合で後れを取ってしまったのだ。

 勉強しかないのだ。

 私が人よりも優れているのは頭が良いという事。

 その最大の武器を活かす事ができなかった。

 それ以上に私は怖かったのだ。

 雁弥が私に興味を失くしてしまうのではないのか。

 私は性格が悪く、心の中は真っ黒で、ただ一つの頭が良いという事で繋ぎとめていた雁弥との関係が無くなってしまったらという不安が生まれた。

 幸い雁弥が私から離れていくなんて言う事にはならなかった。

 だが、今までと決定的に何かが変わってしまったのは間違いなかった。

 雁弥は私を好きではなくなったのかもしれない。

 勉強ができるからという理由だったのかもしれない。

 今までならば、雁弥の考えている事などは手に取る様に、火を見るより明らかであるとさえ言えた。

 なのに、今では私には雁弥が何を考えているのかがわからない。

 テストで負けてしまった。

 ただそれだけの事が、なによりも大きいと思った。

 学校生活はそれほど変わらなかった。

 私たちの間には目に見えない溝のようなモノができてしまったようではあったが、入学から数ヶ月経っても、私たちの生活自体は変わらなかった。

 クラスメイトと遊んで、授業を受けて、家族と会話をして、そんな日常が繰り返されるばかりだ。

 雁弥は私から離れたりはしない。

 テストだけでも頑張れば。

 雁弥より良い点を取れば雁弥は戻ってくる。

 雁弥は私のモノなのだから。


 私はそれから、雁弥にテストで勝つ事ができなくなった。

 7月に行われた期末試験ですら、私の成績は雁弥には遠く及ばない程に広がってしまった。

 訳がわからない。

 雁弥に負けているだけでは無い。以前よりもさらに成績が落ち始めてしまった。

 不調である。

 それを言い訳にして、私は現実を見ないように、できるだけでも雁弥とは近づかないようにと無意識に行動してしまった。

 離さないと決めていた人間を、いつの間にか自分から避けていた。

 雁弥にはもう必要とされないのかもしれない。

 私は必死に勉強しても、雁弥には勝つ事ができない。

 やめたい。

 色んな事から目を背けて、色んな事から耳を塞ぎたい。

 逃げちゃダメなのかな。

 家に帰ると、珍しくお父さんがいた。

「お父さん……」

「よう、なんだよその顔」

「お義母さんは?」

「買い物」

 私の家は父親と継母と私の3人家族。

 私を産んでくれた本当のお母さんは私を産んですぐに死んでしまったらしく、継母―――今のお義母さんはお父さんの再婚相手。

 とても綺麗でそして心の中まで綺麗な人だ。

 私はある種その人に劣等感に似た何かを感じていたのかもしれない。

 そして、私のお父さんも私が今まで見た人間の中で誰よりも整った顔立ち、そして様々な才能に恵まれた人だった。

 その娘が不出来な事でもしかしたら疎まれているかもしれないと小さいながらの私は感じていた。

 おそらく愛情を注いでもらっていると思う。

 私の勘違いなのだろうが、人の目を気にして、人の心を邪推して生きていた私からすれば無いとは言い切れなかった。

 私は周囲の人間が信じる事ができなかった。

 だから、誰よりも一緒にいた雁弥を私に依存させることでしか信用する事ができなかったのかもしれない。

「ねえ、お父さん」

「ん?」

「……なんでもない」

 どうやったら人を信じられるのか、なんて事を父親に聞く事なんてできない。

 そもそも頭のおかしい人間くらいだろうこんな質問をするなんて。

「ふ~ん。まぁ、悩みならお前の幼馴染にする事だな。お前を一番に理解してるのはたぶん向こうだろうからな」

 雁弥が私を理解している?

 そんな事、ありえない。

 私自身が私を理解していないのに、雁弥が私をだなんて。


「雁弥はさ、私はどういう人間だと思ってるの?」

 翌日、思いついた事を聞いてみた。

「なんだよ急に」

「いいから、答えて」

「……頭の良い人間だと思ってる。要領が良くてなんでもそつなくこなしてる。すげー奴だと思ってるよ」

 考えながら喋る。

 そんな事はないと否定したかった。

 頭が良いのは必死に勉強しているから。

 要領もいいわけじゃない。人の倍頑張らないとそれについて行けていないのを知らないだけだ。

 そつなくこなせるほど器用な人間じゃない。

 やっぱり、雁弥は私の事を理解なんてしていない。

「あと意外と繊細というか、真面目というかそんな感じかな」

 そう、なのかな?

自分ではわからない。

 ただ人を信用できないだけだ。

 雁弥の言葉は私を表してはいない。

「雁弥は私の事、好き?」

 ほんの少し前までこの質問の答えは知っていた。

 いつの間にか分らなくなってしまった。

 雁弥は悩んだ末に答えた。

「ああ、たぶん好きだな。でもそれは幼馴染としてって意味だ。好きだけどそういう対象には見れないよ」

「……そう」

 やはり変わってしまった。

 雁弥は私の事が好きだったのに。

 私がどんどんと消えていく。

「それにもう俺、好きとか嫌いとか関係なく誰かと付き合うとかはできないみたいなんだよ」

「どういうこと?」

「親が知り合いの娘と結婚させるんだって息巻いてて、そうなるみたいだ」

「え?」

 訳がわからない。

 つまりは政略結婚という事なのだろうか。

「まぁ、どうなるかはわからないけどな」

「雁弥はそれでいいの?」

「……断る理由が思いつかなかったんだよ。好きな人と結婚したいっていう願望どころか好きな人がいないからな」

 困ったように笑う雁弥の笑顔は今までの物と少し違っていたように思える。

 純粋な心で一点の曇りも無い様な笑顔をしていたのに。

 知らない人間を見るようだった。

 雁弥は私から離れたのかもしれない。

 それが酷く一人ぼっちになったような、置いて行かれたかのような気持ちになった。

 依存していたのは私の方なのだ。

 雁弥から離れたくなかった。

 雁弥を誰にも渡したくない。

 私はこんなにも雁弥が欲しいのだ。




 親からその話が出たのは7月の期末試験が終わってからだ。

 急に訊ねられた。

「お前今好きな奴とか付き合ってる奴いるか?」

 そんな言葉を聞いて一番最初に浮かんだのは霧月だった。

 霧月の顔が浮かんだけれど、分ったのだ。

 霧月への想いは尊敬や憧憬であったと気付いた。

 頭が良い彼女に憧れて、誰とでも仲良くなれる彼女を尊敬して、とても可愛い彼女が好きだった。

 だけれどいつの間にかそれは恋愛では無くなってしまった。

 だから迷うことなく俺は父さんに言った。

「いないよ」

 そしてそこから話は始まった。

 知り合いの娘さんと俺を結婚させて両家の仲を深めようと。

 もともと仲が良かったのだろうが、昔風な考え方をする人間が向こうの家にいたのだろう。

 目に見える確かなモノにしようと結婚させる。

 娘さん事態はあった事が無い訳ではないがまだ幼く、そういう対象として見る事は困難であるものの、断る理由が無かった。

 数年後その子が成人したあたりで結婚する事にしようという決まりだそうだ。

 どの道俺自身が未だ十八歳にも満たないので結婚なんて事はできない。

 言ってしまえば許嫁というモノになるのだろう。

 相手の家は俺の事をいたく気に入っており、誰からの情報かは知らないが俺の成績が日に日に増しているのもポイントなのだそうだ。

 結婚しているから付き合いがあるというのは身近な例だとやはりウチ―――頭城家と霧月の家の在原家。

 俺の父親の妹が霧月の母親。

 親戚同士、従姉弟同士。

 たとえ霧月の母親がいなくてもその関係というのは無くなりはしないのだ。

 実績を踏まえると確かに目に見えて強固な関係と言える。

 昔の人は政略結婚という事を平然とやっていたのだろうが、なるほど理に適っている。

「霧月はいいのか?従姉なら結婚できなくも無いぞ」

「なんでそこで霧月が出てくるんだよ。幼馴染と付き合って結婚なんて普通ないよ」

「幼馴染は恋愛対象にはならないのか?」

「向こうも同じだよ。幼馴染はいいとこ姉弟までだよ」

「そうか。お前がそういうなら、さっきの話一応通しておくぞ」

「了解」

 父さんは霧月の事は言わないが、叔父さん―――霧月の父親である在原光流さんについては少し思う所があるようだ。

 何があったかは分からないが、自身の妹が嫁いだ家なのだから悪くは思っていないだろう。

 霧月はというと心ここにあらずという風で、テストで俺と差ができた事がかなりショックだったようだ。

 スランプというのに入ってしまったのだろう事は分かった。

 答案用紙を見たが普段の霧月であればしないようなミスばかりが目立っていた。

 なにか問題を抱えているのかもしれない。

 俺が力になれる事は少ない。

 頭も本来なら霧月の方が上だし、友人関係で悩んでいたとしてもそれほど友人が多くない俺からは何の力にもなる事ができない。

 たった一人の大事な幼馴染の力にもなれない。

 霧月に追いつける立派な人間になりたいと頑張ってはみても、結局このザマである。

 勉強はしていても、それがどう活かせるのかわからない。

「雁弥はさ、私はどういう人間だと思ってるの?」

 その言葉がおそらく霧月の不調に関係があるのだろうと考えてはいた。

 だから当たり障りのない、自分の日頃思っていた事を告げた。

「……頭の良い人間だと思ってる。要領が良くてなんでもそつなくこなしてる。すげー奴だと思ってるよ」

 嘘なんかじゃない。

 本心である。

 だけど、それは霧月が求めていた解答ではなかったようだ。

 霧月の機嫌を取る為にもう少し思っていた事を言う。

「あと意外と繊細というか、真面目というかそんな感じかな」

 心のどこかでそんな風に思っていた。

 真面目。

 たぶん勉強も人一倍やっていたんだと思う。

 高校受験の時もノートを見せてもらって、気付かない訳がなかった。

 細かく書かれたその小さな文字とわかりやすいように付けられたマーカー。

 それらを見ていれば才能とか単に頭が良いからとかって理由だけで説明は付けられない程の量。

 授業でやった事などはその翌日のノートには既に自分用に分りやすいように書き加えられていた。

 そんな事を思い出しながら伝えた言葉。

 そして、霧月はあの言葉を言った。

「雁弥は私の事、好き?」

 すがる様な瞳で訊ねてきた。

 何と言ってほしいのか、どうしていいか分からなかった。

 俺の中では霧月は幼馴染であるという結論だ。

「ああ、たぶん好きだな。でもそれは幼馴染としてって意味だ。好きだけどそういう対象には見れないよ」

 もしかしたらなんて、モテない男の幻想だ。

 そんなモノに執着したくも無いし、霧月が恋愛などに興味があるなんて到底思えない。

 だから俺の答え方は恐らく間違えてなどいないはず。。

「……そう」

 霧月の素っ気ない返事は俺の考えが間違っていたのではないか、そう思わせるには十分だった。

 俺は言葉を尽くした。

「それにもう俺、好きとか嫌いとか関係なく誰かと付き合うとかはできないみたいなんだよ」

 抱いてしまった幻想を振り払うように。

「親が知り合いの娘と結婚させるんだって息巻いてて、そうなるみたいだ」

 多少の脚色を織り交ぜて。

「……断る理由が思いつかなかったんだよ。好きな人と結婚したいっていう願望どころか好きな人がいないからな」

 自分が決めた事だからと、強調する。

 もしかしたら、俺は初めて霧月の顔をしっかりと見る事ができなかった。

 霧月が望んでいた答えとは違った事しか言えないのかもしれない。

 それだけ俺たちの間には溝ができている。お互いに別々の道を探して行かなければいけないのかもしれない。

 お互いがお互いの為にあるのは違うのかもしれない。

 霧月の事は心配だし大切だ。

 だからこそ、今も昔も俺にできる事は無いのかもしれない。

 俺はもう、霧月を追いかけるのをやめる。



 一流と呼ばれる会社。

 そこで働く事が出来るのはやはり立派な事なのだろう。

 日本でも有数な総合商社と呼ばれる会社に就職したのは数年前。

 私は中学、高校、大学とそれなりの成績を収めて、もともとの人に好かれる人間というモノのお陰でそれほどの苦労はしなかった。

 会社には多くの同期の人間がおり、やはりその中でもそれなりに人付き合いを深めていった。

 業務はそれなりに大変で、経営企画室という経営企画―――経営戦略や経営計画等を立案、最適化する為の場所である。

 簡単に言ってしまうと収支率の見直しなどをしている。

 それでもやっていっている。

 経営学部の大学を卒業して5年目。

 今では学生であった頃が段々と懐かしく、そして次第に思い出せなくなってきてしまっている。

 書類整理や計算、プレゼンの準備などやる事が多く、それに追われる毎日で5年という長い月日はいつの間に流れてしまったのか思い出せない。

 あれから私と雁弥は離れ離れになってしまった。

 高校の2年生になると文理選択で別々の方面に進んだ。

 もともと文系が得意だった私はそのまま大学も文系で選択し、経営学部に入学。

 雁弥は理系を選択して、理工学部のある大学に進学したという。

 連絡はそれほど取っておらず、いつの間にか疎遠になっていた事にも慣れてきてしまっていた。

 私は誰かと付き合うという事には至らなかった。

 高校1年生の時、雁弥の事が好きであると理解してしまった時に、雁弥だけを見てきた自分も理解した。

 依存していたのは本当は私だったという事に気がついた。

 それももう遅いのだ。

 私は1人こうして作業を続ける。

「見合いでもするか?」

「しないよ。結婚する気もないし」

「そうかい」

 お父さんの言葉。

 もしかしたら近いうちにお見合いの話がでるかもしれないという危惧はしていた。

 二十七で浮いた話の1つも無かったのだから心配されるのも仕方が無いだろう。

 でも、私は雁弥と以外の人間には興味を持たなかったのだ。

 そして今も。

 仕事に明け暮れている毎日は一種の逃避のようで、何かをしているというのはそれだけで楽だと思った。

 パソコンの画面を見ながら、キーボードを叩く。

 5年間そうしてきたのだ。

 総合商社として幅広く、IT関連にも力を尽くしており、システムエンジニアリング部というのが存在する。

 今回の仕事はそこで抱えている赤字案件の解消を目的としており、そこでの仕事になる。

 SE部の朝会に参加する。

「頭城霧月です。よろしくお願いします」

 必要最低限の自己紹介をして、私は頭を下げる。

 SE部の部長の席周辺にて行われた朝会は私の説明とその他の業務連絡だけなのだが、私はそこで彼を目にした。

 同じ会社で働いていた事なんて知らなくて。

 そして、彼はバツが悪そうな顔で、まるで昔のように私に向けて純粋に笑ってくれた。


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