17-1 仮想世界からの電話
その日、黒江は午前の外来患者を慌ただしく診察していた。
医師には、夜勤という物が無い。
夜働かなくてもいいのではない。夜間勤務帯とか、日勤勤務帯という物が無いのだ。
朝出勤して、夕方から‘当直’に入ると、仮眠を数時間取るだけで一晩中働き続ける。翌朝になっても仕事は終わりではない。そのまま朝から働き始め、その日の夕方、夜まで働き続けるのだ。三十六時間、時には四十八時間連続で働かなければならないこともある。
完全に労働基準法違反なのだが、摘発されることはほとんどない。病院が勤務表を誤魔化しているためである。つまり、翌日は休暇を取ったことにして労働基準監督署に報告しているのだ。
昨晩の黒江は当直でこそなかったが、夕方に来院した脊髄損傷の患者を緊急手術することになったため、業務の終了は深夜零時を過ぎていた。家に帰ることは出来ず病院に泊まったのである。
病院の当直室や仮眠室のベッドは固く、部屋は臭くて狭い。
病院を設営する時、患者一人あたりに対するプライベートスペースの面積や廊下、トイレの構造には厳格に法的な基準がある。
ところが、医師が業務を行うスペースには基準が無いのだ。自然、設計時に少しだけできた空間に押し込められるようにして部屋が作られる。
病院によっては風呂無し、トイレ共同も当たり前である。夜間に他の診療科の医師がバタバタと緊急業務に呼び出される音で、たびたび目が覚める。
したがって、ほとんど眠れない。
睡眠不足の状態で手術や診療業務を行うことの危険さは、二十世紀の終わりから指摘されているのだが、一向に改善される気配はなかった。
国公立病院の勤務医であれば、給料も特別恵まれているわけではない。
立派な公営のブラック企業である。
現場の医師たちはというと、半ばあきらめの気持ちで働き続けている。
かつてはより仕事の楽な開業医に衣替えするという逃げ道があった。結果、高度な医療に従事する医者が激減して医療崩壊を招いたのだが、政府がとった解決策は開業の制限だった。行き場をなくした医師達は、医療現場で疲弊しながら勤務し続けていた。
黒江もそんな一人である。
彼はあくびを噛み殺しながら、手術から一か月経過した患者を診察していた。
「先生、手は動くようになったけど、指先がしびれるんです」
九十八歳の女性患者は、同じことを五回ほど繰り返していた。
頸髄の手術をしたのだが、そのことについては術前十分に説明してある。微細な神経の損傷に関しては、非常に有効と言える薬剤はまだないのだ。若干認知症があるのかもしれない。
診察している黒江よりも、隣で診療補助を行っている医療事務員と看護師の方が苛々していた。
「そうですね、気長に薬を続けて下さい」
黒江はそういって電子カルテを操作し、処方箋をかかりつけの薬局に転送した。
老婆は何か不満そうな顔をしながら、挨拶して診察室を出て行く。もっと喋りたかったのかもしれなかった。
治療というよりも、医師と話す安心感や病院に来るという一大イベントを楽しみたいのだ。だが、今の黒江は体力の限界でそんなものに付き合っている余裕はなかった。
ため息を一つついて、次の患者を呼び出そうとしたその時、電話が鳴った。
電話と言っても、病院から支給されるタブレット端末だ。二つに折り曲げてポケットに突っこんでいたのだ。
ピリピリとうるさい電子音を立てながら盛大にブルブルと震え、ポケットの中の聴診器や打鍵器、筆記具を共振させていた。これさえあれば医療スタッフ間の連絡はもちろん、外出先や家でも患者のカルテだけでなくレントゲンなどの画像も見ることができる。これが無ければ病院に呼び出されることもない。ごみ箱に捨ててやろうか、とたまに思うが、いつも身につけていなければそれはそれで落ち着かない。
一種の習性になってしまっているのだった。
着信は特殊治療病棟、唯の入院している病棟からだった。
黒江は慌てて電話に出た。
「もしもし?」
「夏木です。先生、大変です」
「どうしたんですか?」
電話の主は病棟の副師長、夏木だった。
声のトーンが一段高い。
一瞬、黒江の心臓が跳ね上がった。
唯の容態は安定しているはずだが、何かあったのだろうか。夏木はまだ二十代だが救急病棟の勤務経験もある優秀な看護師で、余程のことが無い限り‘大変’などという曖昧な言葉は使わない。
「唯さんが、電話をかけようとしています!」
「は!?」
それがどうしたというのだろう。黒江は夏木が何を言いたいのか理解できなかった。
「リダイヤルを押して、先生に電話をかけてるんです。さっきからもう、三回」
「え……あ、そうか!」
特殊治療病棟の看護師は、通常の業務――採血や、点滴の入れ替えなどをするだけではなく、VRPIの画面を監視している。
VRPIの画面には、眠り続ける唯の視覚野から取り出した電気情報、つまり唯が見ている映像――意識、あるいは夢が映し出されるのだ。唯の場合、セーフハウスと呼ばれる仮想現実の自宅と、マグナ・スフィアの光景が出てくることが多い。
セーフハウスの中には実際の自宅と同じ調度品や電気製品、電話がある。しかし、もちろんこれらは全て唯の空想の産物だ。
「じゃあ、かけられるはずのない電話をかけようとしているんですか?」
「そうです。もちろん、仮想空間の中からかけられるはずないし。かけてみては、ちょっと不思議そうな素振りで通話オフにしてます」
こんなことは今までなかった。一体唯に何があったのだろう。
「あまり通話できないと、セーフハウスの存在そのものを疑ってしまうかもしれませんよ」
唯は自分が意識を消失して病院のベッドにいるとは思っていない。仮想現実の家を実際の家だと思い込んでいるのだ。
目が覚めるためには、事実を認識しなければならない。だが、自分の置かれた状況の矛盾を強く指摘したり、急激に気付かせようとすると、心を遮断してVRPIを通したコンタクトが取れなくなることが何度もあった。
そのため、医療スタッフは皆細心の注意を払っている。今は現状が維持されるように‘演技’あるいは‘ふりを続ける’ことこそ重要である、というのがスタッフの共通した認識だ。
「分かりました。急いで電話してみます」
黒江は少しうろたえながらタブレットを操作しようとした。
「ちょっと待って。先生、落ち着いて。三回出られなかったこと、どう言い訳しますか?」
「ど、どうしましょう、夏木さん?」
「そうですね……、外来が忙しくって、気づかなかったことにしたら?」
「あ、それ良いですね、そうします」
さすがは夏木だった。今の黒江よりも余程冷静かもしれない。
黒江はタブレットを操作して、まずVRPIの制御室に電話をかけた。
「神経外科の黒江です。今から特殊治療室三番の妻に電話をかけますので、リレーをお願いいたします」
制御室の国島が、了解の返事をすると、黒江は発信履歴でVRPI-3という番号を探し、ダイヤルボタンを押した。
現実世界から仮想世界の唯へは、電話を掛けることが出来る。
電話のコール音を唯に聞かせると、唯はセーフハウス内の電話が鳴っていると認識するのだ。唯がセーフハウスで受話器を取ったタイミングで、VRPIを通して声を送れば唯はそれを‘通話’だと思い込む。
完全に間違った認識なのだが、彼女が外界との接触を拒否しているわけではない証拠であると臨床心理士たちは分析している。黒江はこの仕組みを利用して、いつも仮想世界の自宅に帰る前に電話をかけていた。
『もしもし?』
数度電話のコール音がすると、唯が電話に出た。
国島が音声情報の中継を開始する。
電話に出た時の唯はいつも探るような口調だ。通話相手が誰か警戒しているようにも思える。彼女は夫の名前を忘れている。着信しても自分の意識の中にない名前が表示されるので、おそらく文字の羅列の様に見えているに違いない。
『もしもし? 電話した?』
『電話したよ.着信表示が出るから,そんなの分かるでしょう?』
唯は少し不機嫌だった。
黒江はうっかり不注意な聞き方をしてしまった、と内心反省していた。確かに、実際に唯が自分の携帯に電話をかけていたら、着信履歴さえ見ればすぐ分かる筈だ。
『外来中で忙しくって、気づかなかったんだよ』
『ごめんね.多分そうじゃないかって思ってたの』
唯の口調が申し訳なさそうになった。
『何かあったのかい?』
『帰ってから聞いてもいいとは思ったんだけど,どうしても気になって』
『何を?』
『えーとね,子供の――ゲームの中で知り合った女の子なんだけど――再発を繰り返している白血病なんだって』
『それは大変だね』
黒江は少し驚いた。唯はこれまでゲームの中で知り合った友人のことを自分に話したことが無い。セキシュウやランスロット、グリシャムやアイエルすらである。
他者との深い関わりを避けているのか、それともコミュニケーションの障害を持つ自分のことを気にして友達関係を積極的に作らないでいるのかもしれないと考えていた。
『でしょう? 私、どうしても気になって.片親で,お父さんしかいないんだけど、お父さんも娘さんのために凄い無理をしているみたいなの.どこの病院がいいのかな.分かったら教えて』
唯の父親は、ヨーロッパで行方不明になったと聞いている。深く同情する要素があったのだろうか。
これは、唯がその人物に感情移入し始めているということなのかもしれない。
他者を理解しようとすること。
心の働きに大きな――より人間らしい方向への変化があったとしか思えない。
黒江は自身の中に生まれた興奮を抑え、唯の質問への回答を考えた。
『……そうだね。再発を繰り返すということは、がん遺伝子にかなり特殊な変異があるか、本人の遺伝子レベルで何か特異な変異があるか、かな』
『そういうのはちょっとわからないけど……』
『神戸の国立遺伝子治療研究所附属病院がいいんじゃないかな。ポートアイランドにあって、理化学研究所と共同研究しているはずだよ。あそこは外国からも治療に来ている人がいるはずなんだけど』
『神戸かー.焼きビーフンの会社,覚えている? 一階が美味しい福建料理の店なの』
『ああ、僕が見つけた店だね。初め唯はこんな所は怪しいって言ってた』
『でも,今は大好きだよ.ヤリイカのネギ塩ソースと,土鍋あんかけビーフンが絶品だもの.また行きたいな』
『そうだね、いつか行こうね』
『早くがいいな……あ,ごめんね.外来中だったね.今日も患者さん多い?』
『いつものことだよ』
明らかに彼女の内面を変える何かがあったに違いない。唯は今まで自分から外に出ようということなどなかった。それに、会話が流れるように自然だ。
今までは話の途中で突然黙りこくったり、逆に笑いだしたりすることも多かったのだ。
『あの……それとね……もう少しいい?』
『ああ、何だい?』
通話を終えそうな雰囲気だった唯は、慌ててまた話し始めた。
『こんな言葉が並んでたら,何を連想する?』
『えっ?』
唐突に話題が変わったので黒江は面食らった。それにしても、こんな唯は本当に珍しい。
『いい? リニアックス.305.白金組.ヘビーイオン.それと,メソ君ズ』
『何だそれ? メソ君って何? 泣くのか?』
『うーん,ゲームの中のことで,ちょっと説明が難しいけど……これと,苦しいとか』
……また意識が混乱しているのだろうか。
流石にそろそろ外来を再開しなければならない。
右手でタブレットを持っていた黒江は、左手で電子カルテを操作し、患者の待ち時間と病棟患者のマップをチェックした。
待ち時間はそろそろ一時間半になる。
看護師やメディカルクラークは黒江の事情を知っているとはいえ、さすがに困り顔になり始めた。
『……子供とか……』
唯はよく分からない単語を並べ続けている。
『もう世の中が嫌とか……』
全く意味が分からない。
逆に集中して聴いていると、哀しくなるような気さえする。
まだ正常な精神状態には程遠いという事実をつきつけられるように思えるからだ。
『ふむ……』
生返事で答え、言葉を聞き流そうとしていた黒江は、マウスを握る手をふと止めた。
待てよ……
電子カルテ上で、カーソルの先は放射線科の検査メニューの上をフラフラとさ迷っている。
『それは、もしかしてさっきの白血病の子供さんと関係がある?』
『う,うん,そうよ……』
『唯、それは全て……』
黒江が思いついたことを説明すると、唯は熱心にそれを聞いていた。
『うん,うん……分かった.やっぱりそうなんだ』
全部聞き終えた唯は電話の向こう――仮想世界で、何か興奮している様子だった。
『忙しいのに,ごめんね.昨日は家に帰れなかったから,今日は早く帰って休んでね.ほんとにありがとう』
『唯!』
『なあに?』
『あまり危ないことをするなよ』
『ゲームの中なんだから,大丈夫に決まってるじゃない.変なの.じゃあね.無理しないで頑張って』
そう言って唯は電話を切った。
大丈夫……
だが、ノルトランドとの戦争の時のことがある。
あの後一か月も続いたブラックアウト現象の時は、もう二度と妻と話すことが出来ないのではないかとすら思ったのだ。
必死の想いで、仮想世界ではあるがまた話ができるようになった矢先のことだった。二度と立ち直れないかと思ったほどの衝撃を受けた。
そして……彼女は自分では全く分かっていない。
とても危うい立場にあることを。
最強の脳機能を持つがゆえに起こってしまったパラドックス。
それは、たぶん自分だけが知る秘密だ。
塚原も、彼女と仲の良い人たちも、この病院の医療スタッフすら知らない大きな秘密だった。
黒江はふと、自分の首を触れた。そこにはひきつれたような瘢痕がある。指の先端に触れる、ガタガタした固い凹凸の違和感。押すと微かな痛みが走る。
唯のことを考えると心配は尽きない。
だが……確実に良い方向に向かっていると信じたい。
黒江は首を振って巡る想いを振り払い、再び忙しい業務に戻った。