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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第16章 憂愁の眠り姫
96/334

16-8 潜入

 夫の帰りは,今日も遅いらしい.

 それを確認したシノノメは夕飯の支度を済ませ,再びマグナ・スフィアにログインした.家に帰るまでには一仕事――ナジーム商会会長宅に潜入するという大仕事なのだが――を済ませるつもりである.

 白い石の墓標が並ぶ緑の丘は月明かりに照らされ,昼の様に明るかった.

 シノノメとナーガルージュナの影が長く濃く墓石の上に伸びている.


 「ほう? 随分不思議な格好じゃな」


 ナーガルージュナはシノノメの恰好を見て首を傾げた.

 シノノメは上下黒のパンツスーツスタイルで,白いカッターシャツを着ている.黒いネクタイを締め,髪は後ろで結わえてポニーテールにしていた.


 「だって,潜入だもの.潜入と言えば,エージェントよ!」

 「うーむ.シノノメ殿の発想はいつも奇妙奇天烈,突飛じゃのう」

 「ありがとう! 格好良いでしょ?」

 「い,いや,褒めているわけではないんじゃが……」


 ファンタジー世界で現実世界のスパイの格好をしているのは全くの逆効果で,目立ってしまう,とナーガルージュナは言いたかったのだが,シノノメは全く気付いていなかった.黒いスーツの長所は,夜闇に紛れるといった程度だ.アラビアンナイトの盗賊衣装の方がよほど違和感がない.


 「サングラスをかけると完璧だと思うけど,夜だと見えなくなるからやめとくね.万が一のことがあったら,また榕樹精舎ここにログインしてくるよ.ここがセーブポイントだから.ナーガルージュナさん,どうもありがとう.私,必ず子供達を助け出すね」


 シノノメはラブを召喚した.空飛び猫はくるりと宙を一回転して音もなく草の上に降り立つ.

 

 「ラブ,大きくなれ!」


 ムクムクとあっという間にライオンほどの大きさになったラブにシノノメは跨った.


 「くれぐれも気を付けるんじゃぞ」

 「行ってきます!」

 ラブが翼をはばたかせると,手を振るナーガルージュナはどんどん小さくなって行った.

 

 ちょうど凪の時間だった.

 夜風は止んで,サンサーラ上空は静かに月明かりに照らされている.

 繁華街の明かりがぼんやりと地上に見えるが,昼間シノノメを探して旋回していたロック鳥や飛龍は姿を消していた.

 ラブの羽音を聞きながらシノノメは街を見下ろした.


 社会保障の概念が無い中世世界に,発達した経済が持ち込まれれば,格差は広がるのみ……

 

 街の明かりを見ると,ナーガルージュナの言葉を実感する. 

 遠くに見えるサンサーラ宮殿を含め,高台にある富裕者の豪邸は魔石と炎で煌々とライトアップされている.

 一方,ナディヤ達民間人が住まう街は暗く淀んだ淵の底の様だった. 

 好景気に沸くカカルドゥアはインフレが進み,物価が上昇している.

明かりや焚き付けに使える上質の魔石は庶民の手が届かないものになりつつあるのだ.ナーガルージュナの家にあった魔石も熱量が少なく,時々灯り代わりに使える程度の物だった.

 サンサーラの街そのものが現実の格差社会の縮図になりつつあるのだ.

 ラブは風を切り,輝く高台の高級住宅街へと向かっていた.


 ポン.

 その時,メッセンジャーが勢いよく立ちあがった.メールの着信を知らせる発信音だ.


 『シノノメ社長,ご無事ですか? どこにいるんですか?』


 手紙の主はニャハールだった.シノノメは慌てて返信した.


 『捕まらなかったの? ニャハール』

 『店の売り上げだけ持って,逃げました.チャットモードにしても良いですか?』

 返事を送ると,即座に返信が届いた.

 シノノメはモードを認証した.これなら電話の通話感覚で会話ができる.


 『もしもし,ニャハール?』

 『ああ,良かった.社長,無事やったんやね.あの後店に騎士団が来て,えらいことになっとったんですよ』

 『それより,ニャハール.いろいろな事が分かったの.ナジーム商会は子供達を誘拐して,それでお金を儲けていたのよ』

 『えーっ! マジ? エライ事ですやん.その罪を社長に押しつけたっちゅうわけでっか? なんちゅう極悪非道やねん! 社長,今どこに隠れているんですか? 俺,駆けつけますよ! 何ができるか分からんけど』

 『今から,ハメッドさんの家に行くところ.ナジーム商会の社長さん』

 『ええっ!? どうするんでっか? まさか……殴り込み?』

 『違うよ.潜入するの.子供達を誘拐しているという証拠をつかんで,私の身の潔白も晴らすの! こそこそ隠れているだけなんて嫌だもの.悪い奴は,やっつけないと』

 本当は潜入ではなく,爆撃しそうな勢いだったのをナーガルージュナに止められたのだが,それは言わなかった.

 『はーっ! さすが社長……まさかまさか,もうこれから行くんでっか?』

 『当然! こうしている間にも,ナディヤさんと子供達の命が危険にさらされているかもしれないでしょ! ニャハールも来る?』

 『いや……俺はとても役に立ちそうにないんで……』

 『分かった.とにかく自分の身は自分で守ってね.それから,お金の使い込みをしちゃダメだよ!』

 『はっ! 分かりました!』


 ニャハールとの通話を終えたころ,目的の場所が見えてきた.

 小高い崖の上にある巨大な屋敷――ハメッド邸である.

 屋敷というよりもその豪奢さは宮殿シャトーという規模であった.

 シノノメがかつて幽閉されたベルトランの私邸よりやや小さいくらいだ.

 建物の高さこそないが,ぐるりと方形の高い壁で囲まれ,屋敷の中には小川が流れていた.庭には随所に小さな森が作られている.

 だが,暗がりが少ない.庭園に飾られた神像の手や動物像の口にはめ込まれた魔石が明るく照らしているためだ.装飾のためだけではなく,侵入者を照らしだす警備のためのライトアップでもあるのだった.

 敷地の崖よりは三層からなる石造りの城――屋敷の建物があった.白亜の豪邸だが,飾り窓を覗き装飾は少ないシンプルな作りである.

白いレアチーズケーキみたいだな,とシノノメは思った.

 上空から簡単にシャトーのレイアウトを把握した後,海側からゆっくり旋回して屋敷の裏へラブは飛んだ.


 「あ,あれかな?」


 二階の角部屋に赤い魔石ランプの光が灯っている.

 窓が開き,淡い茶色のカーテンが静かな海風になびいているのが見えた.

 窓に近づいたり遠ざかったりしている,小さな人影.

 シノノメは窓の下側から慎重に近づき,ヘリコプターのホバリングの様にラブに空中で静止してもらった.徐々に高さを上げ,そっと窓の中を覗く.

 ピアノの発表会の様な――白いブラウスの上にフリルのついた薄桃色のワンピースを重ね着した少女が,所在無げに部屋の中を行ったり来たりしていた.

 赤い林檎色の髪の毛に,くるくるとよく動く大きな眼.

 マユリだった.

 部屋の中に他の人間の気配がないことを確認し,シノノメは窓から滑り込むように部屋の中に入った.

 毛の長い手織りのペルシャ絨毯に,黒いハイヒールの靴底が音もなく沈み込む.


 「今晩は,マユリちゃん」


 自分では颯爽としているつもりで,シノノメは挨拶した.

 マユリはシノノメを見ると,目を瞬かせた.驚きのあまり思わず大きな声が出そうになったのか,慌てて両手で自分の口を抑えていた.

 「シノノメさん! 来てくれたんですね!」

 口からゆっくり手を離して胸の前で重ね合わせ,マユリは慎重に言葉を発した.

 「お待ちしてました.どうぞ,こちらへ座ってください」

 「ありがとう」


 マユリは外を確認しながら,そっと窓を閉めた.誰かに見られているということはなさそうだ.

 シノノメは部屋の真ん中に置いてあったソファに座った.豪奢な布張りで,植物をあしらった手織り模様がついている.体を預けると大きくクッションに沈み込んだ.シノノメが座ったことを確認してから,マユリも小さく「失礼します」と言って隣に腰かけた.

 大人びているし礼儀正しい.しかし,ちょっとした仕草からおそらく見た目通り十代の半ばくらいの年齢に思える.育ちの良さをうかがわせるが,大人らしくしていなければならない何かそれ以上の事情があるのかもしれない――愛らしいマユリの横顔を見て,シノノメはそんなことを考えた.


 「マユリちゃんは本当にしっかりしてるね」

 「いえ……本ばかり読んでいるので,理屈っぽいってよく言われます.でも,あのー……シノノメさん,その恰好は?」

 「だって,潜入と言えばエージェントでしょう?」

 「な,なるほど……?」

 納得しているのか納得できないのか,マユリは少し口ごもった.

 「ところで,私に相談したいことって何?」

 「そ,そうでした.あの,実は,私見たというか,聞いてしまったんです」

 「何を?」

 「多分,子供の誘拐事件にかかわる大事な事です.父の部下が,怪しい人と話をしているところを聞いてしまったんです」

 マユリは大きく深呼吸をしてから話し始めた.


 昨日のことだという.

 マユリは広い屋敷の中が面白く,あちこちを探検していた.

 ナジーム商会の店舗・社屋はサンサーラの中心部にある.ハメッドが私邸としている,この郊外の屋敷シャトーはもともと地方豪族マハラジャの城だった.

 冒険系プレーヤーのクエストとまでは言わないが,仕掛け扉や秘密の階段がそこかしこに隠されている.ちょっとした迷路の様で,十分な一人遊びができた.


 「クエストは危ないからって言って,父が行かせてくれないんです」

 マユリは苦笑した.

 「ショックが大きいと,体に良くないって言って……」

 「体に?」

 マユリの顔は少し曇ったが,話を続けた.


 屋敷には応接室――商談室がある.豪華な客間で,賓客を迎えて接待する部屋だ.壁はたっぷり厚く造られており,その中に人が入って客を観察できるようになっている.客の人柄や敵意を確かめたり,商談であれば待たせている間の表情や言葉で有利な情報を聞き出すためである.


 「忍者屋敷みたいだね」

 シノノメは伊賀や戸隠で見学した忍者屋敷を思い出した.もともと迷路やからくり屋敷が大好きで,‘誰か’と一緒に行った記憶がある.

あれは……そうか,あれは,きっとあの人なんだ.前に長野の松本城のことを思い出した時も,誰と一緒に行ったのか思い出せなかった.

 戸隠も長野県だ.もし一緒に行ったとするならば――顔が思い出せないのも辻褄が合うかもしれない.

 少しだけ記憶の欠片を取り戻したような気がした.


 「西洋のお城や,京都の商人の家にも,そんな部屋があったって聞いたことがあります」

 マユリが頷いた.

 

 そのとき,マユリは壁の中に忍び込んで客間の中を覗いて遊んでいた.

 のぞき穴がちょうど暖炉の上に繋がっており,中にいる人の様子が見渡せる.メイドや書類を持った秘書,父親が行き来するのをこっそり見ては楽しんでいた.他愛もない光景なのだが,向こうはこちらが覗いているのを全く気付いていないというのは面白い.

 だが,昼近くになると誰も来なくなった.退屈になってきたので,そろそろ外に出ようかと思っていたその時だった.


 『ここなら,今誰も使っておりません』


 囁くような声が聞こえてきたのだ.

 聞き覚えがある声だったが,なぜこんなに人目を忍ぶような話し方なのだろう.そう思ったマユリは,そっとのぞき穴を覗いた.

 

 『例の品は順調に売れております.アメリアの買い手も大喜びで.はい』


 父の部下で,アメリアとの貿易を担当しているNPCだった.目の白目が多く,上目づかいで前歯が出ている.ネズミの様な印象の男で,マユリはあまり好きではない.アングリマーラという名のその男は,卑屈なほど頭を何度も下げていた.


 『そんなことは分かっている.お前が売り上げを着服していることもな』

 冷徹な――氷の様な寒気を感じる声だった.

 

 話し相手は,黒いマントで全身をすっぽりと覆っていた.顔も頭巾と面布で覆われ,鋭い目と前腕しか見えない.背がすらりと高く,痩せている.雰囲気と声からだけではあるが,男だと思った.

 

 『そ,そんな,滅相もございません』

 『まあ,いい.上納金をしっかり収めてくれれば文句は言うまい.それより,原材料は十分集まっているのか?』

 『ご注文の,四歳以下ってのはなかなか簡単ではないのですが……貧しい家から買い上げるだけではなかなか……この前苦行林から手に入れた子供はどうでしたか?』

 ヒヒヒ,とアングリマーラのいやらしい笑い声が聞こえたかと思うと,風を切る鋭い音がした.

 『ギャッ!』

 

 マユリには何が起こったのか分からなかった.謎の男の黒いマントが一瞬ひるがえったような気がした.だが,額を押さえるアングリマーラを見て思わず声が出そうになり,慌てて口を手で押さえた.

 アングリマーラの額はざっくりと横に切れ,血が噴き出ていたのだ.

刃物で切られたのだろうか.だが不思議なことに,謎の男の両手には何の凶器も握られていなかった.


 『言葉に気をつけろ.どこに鼠がいるか分からん』


 謎の男が暖炉の方を振り向いたので,マユリは背筋を凍らせてしゃがみこんだ.分かる筈はないのだが,覗いているのに気付かれたのかと思ったのだ.心臓が早鐘の様に拍動する.


 『も,申し訳ございません.お,‘大きい素材’は首尾よく入手しております.‘工房’には着々と納品されているかと.ですが,徐々に市民の眼もうるさくなっております』

 『そのことについては,任せよ』

 『如何なさるおつもりで?』

 『東の主婦を犯人にする.余所者ならば誰も文句は言うまい』

 『東の主婦を?』


 シノノメさんのことだ! 

 好奇心が恐怖に勝ったマユリは,再びそっとのぞき穴を覗いた.


 『始末するのですか?』

 『聖堂騎士団に捉えさせる.あるお方が生きたまま手に入れたいと御所望なのだ』

 『あるお方! 大公殿下ですか?』

 謎の男は意味ありげに,ゆっくり首を振った.

 『五聖賢の方々ですか?』

 男はさらに首を振る.

 『何と,もしかして宗主様……!?』


 アングリマーラはいきなり膝をつき,手を合わせて拝み始めた.額から流れる血液をまるで気にせず,偉大な神の名前を耳にした狂信者の様に恍惚の表情に変わっていた.


 『畏れ多くも,宗主様の御下命とあらば……このアングリマーラ,一命に変えましても協力させて頂きます』

 『その言葉に偽りはなかろうな』

 『身命にかけて』

 『良かろう.では,期日までに大十,小十.素材の残りは,必ず俺によこせ』

 『ははっ!』

 『そして,この指示に従え』


 謎の男は封書を渡すと,頭を下げるアングリマーラを一顧だにすることなく去って行った.

 マユリは隠し部屋の中で震える自分の肩を一生懸命抱いていた.


 「そんなことがあったんです.その時は何のことかわからなかったけれど,シノノメさんが指名手配って聞いて,いてもたってもいられなくなって……」

 「……苦行林から子供を手に入れたって言ったのね……」


 シノノメの表情が険しくなった.

 ナーガルージュナの話と合致していた.

 子供の誘拐事件には三通りある.

 一つは,年少の子供.これは内臓をアメリアに輸出するために殺されている.可哀想な苦行林の子供達は,遺体となって帰って来たのだという.

もう一つは,やや年上の子供.これはまだ目的が分からない.

 そして最後に,プレーヤーの子供達.戦ったり抵抗した形跡がなく連れ去られている――というよりも,失踪しているようでもある.


 ナーガルージュナの推理によれば,それぞれ目的が違う犯罪を三つ同時に行う事で,狙いが分からないようにカモフラージュ,複雑化させているのではないかという事だった.

 確かに,サンサーラ市内で聞きこみをすれば「子供の誘拐」でひとまとめの返事が返って来る.ただ単にそれだけ聞けば,悪い誘拐団か犯罪組織が片っ端から無差別に子供をさらっているようにしか思えない.事実,シノノメもそう思っていた.ヴァルナの言う通り,もっと大掛かりな企みが裏にありそうだ.


 「父も……子供達の誘拐に関わっているんでしょうか……」

 「……そんなこと,ある筈ないよ.マユリちゃんみたいな可愛い娘がいるお父さんが,よその子供をさらうなんて」

 「そう……ですよね」


 だが,時としてそうとは限らない.子を持つ親が自分の子供に暴力をふるう事すらあるのだ.マユリは賢い子供だ.何かを感じ取っているのかもしれない.彼女の曖昧な返事を聞いて,シノノメはそう思った.


 「お父さんは知らなくって,その,ドングリ何とかって言う人が,きっと勝手に悪い事をしているんだよ」

 「ふふふ,あの,シノノメさん,ドングリじゃなくってアングリマーラです」シノノメの勘違いが可笑しかったらしく,マユリの口元に小さな笑顔が戻った. 「でも,ドングリと言えばリスと言うより,ネズミみたいな顔の人ですけどね」

 「ネズミ?」


 シノノメは直感した.

 ナディヤの危機を伝えに来た男.

 もぬけの殻になったナディヤの家に案内し,聖堂騎士団を手引きした男.

……アヒンサーだ.


 「そいつ,間違いない! 私を罠にはめた人だ! 今どこにいるの? 捕まえて布団叩きの刑にしてやる!」

 「ふ,布団叩きですか? えーと,でも,今は夜なので自分の家に帰っていると思います.多分明日になれば会社かこのお家に出勤してきますよ」

 「うーん,家を襲撃してやりたいなあ.でも,ログアウトして家に戻らなきゃいけないし,明日にお預けかな……」

 シノノメは腕組みして唸った.


 「それよりも,まだ相談したい事があるんです.多分,これも誘拐に何か関係があるんじゃないかと思って……」

 「誘拐と?」


 マユリはソファから立ち上がり,壁際に置かれた文机の引き出しを開けると一枚の紙片カードを持ってきた.


 「このカード,今日私がログインしたらこの部屋のベッドの上に置いてあったんです」


 シノノメはカードを受け取った.現実世界で言うところのプラスティックをコーティングしていあるような特殊な手触りだ.ユーラネシアでよく見かける羊皮紙や手すきの和紙ではない.

 カードには一匹の赤い幻獣が描かれていた.

 シノノメの良く知る図柄である.


 「デミウルゴス……」

 上半身は獅子.下半身はとぐろを巻く大蛇.

 ナディヤの子供たちが連れ去られた現場に残されていたカードにもこの絵が描いてあった.

 ヤルダバオートがその一部にすぎないといっていたモノ.


 シノノメはそれが組織なのか,サマエルの別名なのかはっきりしたことを知らない.それが何なのかを現時点でおぼろげながら一番理解しているのはセキシュウとグリシャムなのだが,二人と話していないシノノメには知る由もなかった.


 「NPCのメイドさんやこのお屋敷の執事さん,それからギルドの従業員さんも,誰に聞いても置いてない,知らないって言うんです」

 「それは確かに気持ち悪いね……でも,これが,どうしたの?」

 「裏も見てみて下さい……」

 シノノメはカードをひっくり返した.そこには謎めいた文章が書いてあった.


 いつまでも夢の中に留まっていたいと願う子らへ。

 この護符に祈るがいい。

 永遠に夢が続かんことを。

 さすれば、願いは叶えられん。

 やがて時は満つ。

 時来れば迎えられよう。

 すべての苦しみが無い世界へ。

 ―笛吹き男―


 「何? これ? 意味が分からないよ.これ,書いてある通りに解釈すれば――ずっと夢を見ていたい子供は,このカードにお祈りすれば,お迎えが来て苦しみが無い世界に連れて行ってもらえるっていうことになるのかな?」


 シノノメはカードの文字を読みながら首を傾げた.

 だが,詩的な文章の奥に何か不気味な意図を感じる.

 今回の事件にハーメルンの笛吹き男の物語を連想していたが,まさに謎の人物はその名を騙っている.

 そして,シノノメには妙に気になる一文があった.

 一行目の‘夢の中’という文句である.

 ソフィアやサマエルが口にしていた言葉と妙に合致する.

 

 ‘夢の中の夢から醒めたとき,あなたが心豊かであらん事を’

 

 ‘お前なんて,夢の中で夢を見ているようなものじゃないか’


 未だに意味が分からない.


 「このカード,もしかして子供のプレーヤーに配られてるんじゃないでしょうか?」

 マユリは不安そうな顔で言った.

 「……あっ!」


 マユリの言おうとしている事に,シノノメは気づいた.

 プレーヤーの子供たちの誘拐事件――どこにも抵抗した形跡がなく,忽然と姿を消している――.

 もしかしてそれが誘拐や拉致ではなく,子供たち自らが望んで‘笛吹き男’について行ったのだとしたら……

 自由意志なのだから,そこには戦闘などある筈がない.


 ハーメルンの笛吹き男……シノノメは思い出した.

 笛吹き男の物語は,ドイツのハーメルン市であった‘実話’なのだ.

 1284年6月26に130人の子供が失踪したという記録が,今も教会のステンドグラスに残されている.

 祖母と両親とで一緒にそれを見たのだが,その時,父が説明してくれた.

 失踪した子供達は人さらい――人身売買の被害者になったという説もあるが,新天地である東欧を目指し,希望して旅立った若い移民達のことだったという説があるのだと.


 「つまり,マユリちゃんの推理だと,プレーヤーの子供を誘拐した犯人がこの手紙カードを送ってきたっていうことね」

 「そうです.私もプレーヤーですし,みんなもしかして,このカードの差出人について行ったんじゃないかと思います」

 マユリは興奮で顔を赤くしながら,一生懸命言葉を選んで話していた.

 「うーん……でも,いくら子供でもこんなカード一枚に騙されるかな? こんな甘い言葉,嘘に決まってるもの.全く苦しみのない世界なんてないよ」

 シノノメは腕組みをして言った.


 辻褄は合っている.だが,誘拐事件のことを耳にしたマユリの恐怖心が悪質な悪戯と結びついて生まれた空想かもしれない.このカードがマユリ以外のプレーヤーに配布されたという証拠はないのだ.


 「いいえ……あります」

 マユリはしばらく躊躇った後で呟くように言った.


 「えっ?」

 「この世界,マグナ・スフィアの世界です.私,こんなに楽しい世界は知りません」

 「でも……マユリちゃん……十四,五歳よね? そのくらいの歳だったら,ゲームじゃなくって現実の世界にも楽しいことがいっぱいあるじゃない.学校で友達と遊んだり,お喋りしたり,お洒落も,部活もあるよ?」

 「そんなの,何もないです」


 シノノメは耳を疑った.それほどマユリの言葉は強く,きっぱりとしていた.


 「現実の世界にあるのは,痛いことと灰色の天井と,ガラスの窓」

 「それって……どういうこと?」

 「同室の友達も,ナーブスティミュレーターをつけたまま,今でも意識不明なんです.カカルドゥアの海に冒険に行くって言ったきり……シノノメさん,私,怖い」

 シノノメの質問には答えず,マユリは両手に顔を埋めて泣き始めた.

 「同室?」

 シノノメはどうしていいか分からず,泣きじゃくるマユリの肩を抱いた.


   ***


 マユリ――由莉奈ゆりなが病気になったのは小学校四年生の時だった。

 特に体をぶつけてもいないのに、体にあざの様な出血ができる。

 動悸や息切れがする。

 かかりつけの小児科を受診して血液検査を受けた後、すぐに小児医療センターに紹介された。

 診断名は急性リンパ性白血病だった。

 小児の白血病自体は、決して昔の様に非常に難しい病気ではない。

 抗がん剤治療や放射線治療、造血幹細胞移植,さらに遺伝子治療が効果を発揮すれば治癒率は95パーセントを超えている。

 一年間に渡る闘病生活の後、一度は由莉奈も退院する事が出来た。

 だが、残念ながら彼女はわずかな5パーセント以下の患者だった.

 癌遺伝子の特殊な変異が見られ、二年も経たないうちに再発して治療が再開されることになったのである。

 薬が進歩して合併症を抑えられるようになったとはいえ、抗がん剤は基本的に玉砕――正常な細胞を傷つけながらがん細胞を殺す治療である。

 激しい吐き気や脱毛、下痢や感染症に苦しんだ。

 食べた物を吐いて,胃が完全に空になっても尚吐き続けると、口から緑色の胆汁が出る。

 黄色やオレンジの不気味な色をした点滴を恨んだが、自分の病気を治すために必要なものである事は子供ながら理解できてしまっていた。

 免疫細胞が大きくダメージを受けている期間は、水槽の様な無菌室クリーンルームに入っていた。

 学校の授業はほとんど院内学級で受け、僅かな楽しみは滅菌されて届くゲームと本,そして一生懸命看病してくれる母の笑顔だった。

 中学校の入学式は、病院の中で迎えた。

 母に支えられようやく退院したのが去年。

 その母親は心労から体を壊し、復学を見届けると安心したかのように亡くなった。

 仕事に忙殺され,娘の看護のほとんどを妻に任せていた父親は、大いに後悔した。

 そして,奮い立った.

 今自分が娘の支えにならなければどうするのか、と。

 仕事の量を減らし、会社の多くの業務を部下に任せ、できるだけ娘の側にいる決意を固めた矢先――半年も経たずに医師の口から告げられたのは,再再発と言う無情な診断だった。


   ***


 「お父さんは,毎日私の病室に来てくれるようになったの.お母さんが来られなくなったから,今までの埋め合わせをさせてくれって言って……」

 「じゃあ,今,マユリちゃんは病院に入院しているの……?」

 マユリは泣きながら頷いた.

 「今は,無菌室クリーンルームの中よ.水槽みたいに,ガラスで囲まれた部屋の中.お父さんに触るのも,滅菌ガウンと手袋越しなの」


 「そんな……」


 マユリが初めて見せる,ある意味本当に子供らしい態度にシノノメは少し戸惑っていた.


 「お父さんが,新しいVRマシンを持って来てくれたの.これを使えば,二人で手もつなげるし,どこにでも行けるからって言って」

 「新しい機械?」

 「うん,お父さんの会社が作った第六世代の機械は,本当にすごいの.プレーヤーの体力や体調の足りない面を補って,体の動きを補正したりしてくれる.現実の私はクタクタで,手も足も枯れ木みたい.でも,ここにいたら,走る事も,跳ぶ事だってできる……夢……この夢みたいな世界から醒めなければいいって,何度思ったか……」


 最後の方のマユリの言葉は涙声で聞き取れなかった.

 大人の様でいなければならないという,人生への諦観の様な物が‘しっかりした’立ち居振る舞いにさせていたのだろう.

 今まで押し殺していた想いを吐きだし,感情が堰を切ったように溢れだしたのだった.

 マユリはシノノメの胸にすがりついて泣きじゃくっていた.

 シノノメの胸元がマユリの涙で濡れる.


 こんな時,どうしたらいいんだろう……

 シノノメは困惑していた.

 前は,その答えを知っていたと思う.だが,今の自分は分からなくなってしまっている.

 何か色々なものが欠けている気がする.

 きっと,記憶だけではない.足りないものがいっぱいあるんだ……

 だが,こうしていると何かを思い出す気がする――遠い昔,母がしてくれたこと.優しい祖母がしてくれたこと――それは随分昔の様でいて,何故か最近あったことのようにも思える.


 不思議に――セキシュウ達のパーティー,永劫旅団アイオーンにいた時の事をシノノメは思い出していた.

 ウェスティニアの聖女と呼ばれるカタリナは,シノノメの一番の相談相手だった.

 白い魔女の服を着たカタリナと,白いエプロンをつけた自分が,身を寄せながら座っていると,白フクロウの親子みたいだと言って,アルタイルがからかうのだ.

 その頃のシノノメはクエストで質問したり情報を聞き出したりするのが苦手だった.

 笑うとそんなことで笑うなと怒られ,怒るとそんなことで怒るなと言って笑われる.モンスター相手なら苦労しないのに,NPCも含めて人物,特にプレーヤーとのコミュニケーションが上手くとれない.アルタイルは気にするなと笑い飛ばすが,シノノメはひどく悲しい気持ちになっていた.

 『ねえ,カタリナ.悲しんでいる人を慰めるのは,どうすればいいの?』

 シノノメがそう尋ねると,プラチナブロンドの髪を揺らしてカタリナは答えた.

 『簡単よ.あなたのお祖母ちゃんがあなたにしてくれたように,その人にしてあげなさい』

 そう言ってカタリナは……


 こうしてくれたんだった.


 シノノメはマユリをすっぽりと包みこむように抱きしめた.


 マユリはこんな自分を頼ってくれている.

 自分が抱きしめているのか,抱きしめられたときの自分の気持ちを思い出すためなのか.

 ……足りないものを埋めるため?

 ただ,こうしていると抜け落ちてしまったたくさんの物を思い出せる気がする――

 そばにいてあげることが,何より大事……カタリナはそう言っていた.


 シノノメは黙って抱きしめる腕に力を込め,髪を撫でた.

 マユリは一層声をあげて泣いた.

 肩を震わせ,やがて少しずつ声は小さくなり,静かな嗚咽に変わった頃.


 コンコンコン……


 誰かがドアをノックする音がした.


 「お嬢様? まだお休みになっておられないのですか? 実は,聖堂騎士団の方々が捜査の協力を求めていらっしゃっています.お部屋に入ってよろしいでしょうか? 鍵を開けて頂けますか?」

 「え! いいえ! ちょっと待って! 身支度しますから!」

 マユリは慌てて袖で涙を拭き,ドアに向かって叫んだ.

 「ど,どうしましょう? どうしてこんな時間に聖堂騎士団が……?」


 本来のマユリはログアウト――就寝している時間なのだ.何者かがシノノメが入って来るところを見たのか,通報したのだろうか.


 「窓から逃げようか?」

 シノノメは忍び足でそっと立ち上がり,窓を開けた.

 「でも,それじゃすぐに追手がやって来ます.そうだ!」


 マユリはソファから立ち上がって目尻に残った涙をぬぐい,壁に作りつけられた燭台を下に引いた.

 ゴトン,と低い音がすると,反対側の壁が扉の様に開いて隙間ができた.ちょうど人一人が入れるほどの暗い空間が奥に続いているのが見える.


 「うわ,本当に忍者屋敷みたい」

 「さっき話した,隠し通路の一つです.こちらに来て下さい!」


 マユリはシノノメの手を引き,壁の向こうの空間に体を滑り込ませた.

4月25日 誤字修正しました.

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