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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第16章 憂愁の眠り姫
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16-6 榕樹精舎の子供たち

 ナーガルージュナは深い森の中に分け入っていく.

 獣道と見分けがつかないほどの小道を通り,奥へ奥へとシノノメはついて行った.

 カーテンの様に垂れさがったガジュマルの気根をめくって奥に入ると,ふと森が開けた.

 だが,なお薄暗い.森の最深部だろう.空を見上げると鬱蒼と生い茂る木々の枝が天蓋ドームを作っている.

 広場を囲むようにして,気根のカーテンが壁を作っている.壁のあちこちには,大きな丸い籠がぶら下がっていた.球状の鳥の巣,あるいはヤドリギの枝が生い茂っているようにも見える.良く見ると,気根の一部を編みあげた物らしい.

 籠の中にはオレンジ色の光が灯り,木の上にランタンがいくつもぶら下げられているようだ.

 籠に開いた穴――窓から,小さな頭が覗いた.


 「ナーガルージュナ,その人は誰?」


 小さな頭の主が囁くように訊くと,あちこちから小さな人影が現れた.木の陰に隠れているが,好奇心が隠しきれないという印象だ.

 ナーガルージュナは広場の中央に立つと,答えた.


 「東の主婦,シノノメ殿じゃよ」

 「主婦? 主婦ってなあに?」


 ぴょこぴょこ,次から次へと広場に子供達が姿を現した.

 猫人,兎人,普通のヒト族もいる.羊人やホブ・ゴブリン,いない種族はエルフくらいだ.可愛らしい小さな頭が次々並ぶその姿に,思わずシノノメの口元はほころんだ.

 

 「そうじゃな……お嫁さんで,家族のためにお家で洗濯や料理,お掃除をしてくれる人かな」

 「それは,メイドさん?」

 「お家のお金の管理もするのう」

 「執事さん?」

 「お母さんのこと?」

 

 二十人ほどがゾロゾロと集まり,ナーガルージュナとシノノメを取り囲んだ.子供たちの多くはナーガルージュナより背が高い.

 

 「ナーガルージュナさん,この子たちは?」

 「ここで儂とともに暮らす孤児たちじゃ.……おお,そうか.カカルドゥアは商業国で,家庭はどこも共働き.みんな専業主婦など知らないのじゃな」

 「孤児?」

 

 子供達は珍しそうにシノノメを見上げている.

 下は二,三歳,上は十五歳くらいまでだろう.ナーガルージュナよりもう少し小ざっぱりした古布を身にまとい,年長の子供は赤ん坊を抱いていた.質素というより貧しい身なりだが,透き通った瞳がキラキラしている.

 シノノメはしゃがみこんで子供と視線を合わせた.


 「お姉ちゃん,シュフって何?」

 「こういう事が出来る人だよ」

 シノノメはアイテムボックスから自作のクッキーを取り出し,子供達に渡した.

 「これ,なあに?」

 「お菓子だよ.みんなで分けてね」

 「うわあ! すごい!」

 「これ,すごく甘い!」


 年少の子供達はクッキーの袋を回して,仲良く分け合って食べている.

 それを見ていた年かさの子供達のお腹が‘ぐう’と音を立てた.

 シノノメはふと気付いた.

 この子供達は,ひどくお腹をすかしている筈なのに食べ物を奪い合ったりせず,譲り合っている.年上の子供は,年下の子供達に気遣ってじっと順番を待っているのだ.

 まるで兄弟か家族の様だ.

 ナーガルージュナはそんな子供達を微笑みながら見守っていた.笑うと皺だらけの顔がさらに皺くちゃとなり,猿のようにも見える.


 「シュフって,お菓子をくれる人?」

 クッキーをほおばった猫人の男の子が首を傾げた.

 「違うよ」

 だが,どのように説明すればいいのだろう.シノノメも首を傾げて考えた.

 「ねえ,子供をどこかに連れて行ったりしない?」

 兎人の女の子が,シノノメのズボンを引っ張りながら尋ねる.

 「どこか?」

 「遠くて,怖いところ.サライもヤペテも,連れて行かれたのよ」


 シノノメは,思わずナーガルージュナの顔を見上げた.

 さっきまで優しく微笑んでいた顔が一変して,厳しい目つきになっている.シノノメと視線が合うと,軽く頷いた.

 ここからも連れ去られた子供がいるということなのだ.


 「行かないよ.主婦は子供たちの味方だよ」

 にっこり笑って答えると,返事をする代わりに女の子の腹の虫が鳴った.

 それを聞いて子供たちは大笑いした.

 「お腹がすいてるのね?……じゃあ,ウィートボール!」

 シノノメは立ちあがり,手早く白いフリルつきエプロンをつけて叫んだ.

 手の中に小麦の塊が出現する.小麦を両手でこね,平べったく伸ばしてさらに叫ぶ.

 「タンドール! グリルオン! 弱火!」

 右手の親指と人差し指を合わせ,地面に手先を向けた.

 地面が円筒状に盛り上がって,あっという間にインド風のかまど――タンドールが出現する.底には魔法の火が青く燃えていた.

 「溶かしバター(ギィ)が欲しいなあ……」

 「少しなら,儂が持っておるよ」

 ナーガルージュナは籠状の家――部屋と言うべきか――に入ると,壺を持ってきた.黄色いバターが底の方に入っている.

 シノノメはバターを混ぜた小麦の塊を練って平たく伸ばし,かまどの内側の壁に貼り付けた. さらにフライパンをアイテムボックスから取り出し,残りのバターを入れてかまどの上で加熱した.

 たちまち小麦が焼ける香ばしい匂いが深い森の中に広がる. 

 子供たちは目を丸くしている.


 「その間に……」

 巨大な鍋をアイテムボックスから取り出す.


 「わあ! これも魔法?」

 「そうだよ.お料理の魔法.グリルオン中弱火! カレー鍋! トゥ・アサー・デ・ダナン! ボナペティート!」

 シノノメが鍋の口をお玉で叩くと,カレールーが鍋いっぱいに出現した.

 ポコポコと泡が立ち,肉や野菜が浮いたり沈んだりし始めたのでお玉でかきまぜる.


 「本当は材料から作りたいんだけど,魔法のお鍋でちょっと手抜き.焦がさないように,かきまぜるね」

 「すごーい!」


 子供たちは歓声を上げた.

 森の中に広がるカレーの臭いに誘われたのか,今度は丸い籠の家から顔をのぞかせる人たちがいた.こちらは老人ばかりだ.足腰が弱っているので,家の中で休んでいるのだろう.


 「お皿はある?」

 「……これでどう?」

 やや年長の少女がバナナの葉を持ってきた.表面はつやつやして,清潔に洗って拭いてある.ニューギニアなどでは,バナナの葉は皿になったり蒸し焼き用の調理器具になると聞いた事がある.シノノメは思い出した.

 「いいよ」

 焼き上がった小麦のパン――ナンに溶かしバターを塗り,大きな葉の上に乗せた.キラキラ光る眼で見ていた少女に,それを渡す.

 「お待ちどう様.カレーと一緒にみんなで食べてね」

 黄金色に輝くナンと鍋いっぱいになったカレーを見て,子供達は歓声を上げた.

 「すごいや!」

 「お料理もできて,お菓子も出せるんだ! シュフってすごい!」

 「お掃除もお洗濯もできるよ」

 「やっぱりお母さんみたい!」

 

 子供達はバナナの葉の皿に食べ物を載せると,籠の中の老人たちに運んでいた.一人の老婆がシノノメに手を合わせた.もぐもぐと口を動かす.歯が抜けているせいで言葉が良く聞き取れないが,感謝の言葉を述べているのだろう.


 「みんな,よかったのう.シノノメ殿に感謝するのじゃぞ」

 ナーガルージュナが言うと,子供達はカレーで黄色に汚れた顔で口々に礼を言った.


 「召し上がれ.あれ,ナーガルージュナさんは食べないの?」

 「ありがとう,儂は良いよ.さて,シノノメ殿.こちらへ」


 案内されたのは,籠状の家の一つだった.

 辺りは木々が生い茂る深い森のため薄暗いのだが,家の中にはオレンジ色の魔石の温かい光が灯っている.


 「おじゃまします」

 

 網目状に編まれた丸い籐のドアをくぐりぬけ,ナーガルージュナの後に続いてシノノメは家の中に入った.

 家の中は三畳間程で,家具はほとんどなかった.灯り用の魔石と,小さな階段箪笥が一つきりである.

 シノノメは思わず家の中をきょろきょろと見回していた.面白い構造をしている.天井も壁も,床までも全部編みあげの蔓なのだ.


 「面白いかね?」

 「うん,猫ちぐらみたいだね」

 「猫ちぐら? ……ああ,新潟とかで作られている,手編みの猫の家じゃな.粗末な家で何もないが,とりあえずここで休んでセーブしなされ.これで,再ログインしてもお主の家に戻って逮捕されることは無いじゃろう」


 ナーガルージュナはこれまた一つしかない座布団をシノノメに勧めたが,シノノメは遠慮した.


 「助けてくれてどうもありがとう……でも,おじいさんに迷惑はかからない? ここに追手が来るかもしれないよ」


 シノノメはウインドウを立ち上げ,とりあえずセーブした.引き続き追跡される身ではあるが,これでとにかく人心地つくことができる.ほっと溜息を一つついた.


 「ここには強力な結界が張ってあるから,まず儂の案内なしに辿りつくことはできん.ハイレベルの魔法職がいれば別かもしれんが,まあ,そのときは,その時じゃよ.だが,儂が裏切ってお前さんを聖堂騎士団に引き渡すとは思わないのかね?」


 シノノメは籠状の床にぺたりと座り,ナーガルージュナを見つめた.

 ナーガルージュナの大きな瞳は,穏やかな深緑色をしている.

 

 「ヴァルナがあなたを頼りなさいって言っていたのもあるけれど,とてもあなたが敵だとは思えないよ.だって,あんなに子供たちやお年寄りがあなたのことを慕っているもの」

 「ほっほっほ,直感じゃな.だが,こちらも礼を言わねば.みんなに食事をありがとう」

 ナーガルージュナは愉快そうに笑った.

 「では,あらためて名を名乗ろう.儂の名はナーガルージュナ.苦行林のさらに奥,榕樹精舎の修行者じゃ.ここで,身寄りのない子供や年寄り達と一緒に暮らしておる乞食坊主よ」

 「坊主って,お坊さん? お師さんというより,仙人みたいだね」

 「ふむ? しかし……儂の姿を見て何とも思わないのかね?」


 シノノメは改めてしげしげとナーガルージュナの姿を頭の先から足の先まで眺めた.

 爬虫類の様な不思議な質感の肌に,水かきと鉤爪のある手足.見覚えがあった.

 

 「あなた,竜人でしょう? 前に別の竜人のプレーヤーの人と話した事があるの.その人はバーテンダーをしていたよ.アドさんっていう人」

 「ほう……アドナイオスのことじゃな」

 ナーガルージュナは少し複雑な顔をした.

 「アドさんを知ってるの?」

 「ああ.まあな……」

 「竜人は不思議なスキルを持っているって聞いたよ.アドさんは霊感みたいなのを持ってたし,あなたはあの不思議な――瞬間移動みたいなスキルがあるのね? あれは,どうやるの? さっき,ムズムズ管を巡ってラーラ何とか,って言ってたけど……?」

 「ああ,あれは……ヨーガや中国の気功に伝わる,呼吸法と瞑想じゃ」 

シノノメの盛大な聞き間違いに目を丸くしながらナーガルージュナは答えた.

 「人間の体には,チャクラというエネルギーの中枢が六つ,あるいは七つある.例えばクンダリーニ・ヨーガや小周天法ならば……息というか,‘気’を体の前面から吸い込み,腹からさらに会陰――性器と肛門の間に落とし込み,次に背骨の管を通して上に上げていく.チャクラを順に通しながらな.チャクラは水車の様なものじゃ.羽根と言うか花弁がついているので,エネルギーの流れによって回転する.そうすると,それぞれのチャクラは活性化し体を元気にする」

 「体の中に花? 水車があるの? ……そういえば,バリ島で格安エステしてもらった時に何だかそんな話を聞いたような,聞かなかったような.後ろダラダラとかなんとか,頭に油を注ぐ奴」


 シノノメは好奇心旺盛である.不思議な話を聞くのは大好きだ.首を傾げながら真剣に聞いていた.聞き間違いをそのまま口にしてしまうのは彼女の癖であり,ふざけているわけではない.

 だが,ナーガルージュナはシノノメの言葉に目を白黒させていた.


 「ダラダラ……そ,それをいうならシロダーラじゃろう.脳を活性化させるアーユルヴェーダ由来の医術じゃぞ」


 シロダーラは額に温めたオイルを注ぐ伝統療法で,血行促進,眼精疲労,疲労回復,瞑想,リラックスなどに効果があるとされている.日本で施術してもらうと料金が高いので,お得が大好きなシノノメはバリ島旅行で友達と一緒に体験したのである.


 「あ,脳の洗濯って言ってたかも.結構いい値段だったよ.額に何とかかんとか……あ,エステティシャンの人がエネルギーの中心があるって言ってたから,あれがチャクラね.でも,実際には無いものでしょう?」

 「いやいや,そうとは限らぬ.チャクラは会陰部,下腹部,臍,胸,喉,眉間,頭頂にあるとされているのだが,これは実際に神経叢や内分泌器官がある場所におおむね合致しているのだ.何千年も前から,インドや中国の行者,瞑想をする人間は知っていたのではないかな?」

 

 東洋医学におけるエネルギーセンターであるチャクラと西洋医学における臓器を結び付ける考え方は決して珍しくない.

 会陰部には前立腺や性腺,下腹部には仙骨神経叢,さらに巨大な腸管神経叢がある.

 腹部――左右の腎臓の上にある副腎は,生存にかかわるステロイドホルモンやアドレナリンを分泌する極めて重要な臓器だ.

 胸には太陽神経叢や胸腺があり,さらに心臓自体もあまり知られていないがホルモンを分泌している.

 喉にも甲状腺と副甲状腺がある.蝶のような形をした甲状腺はその他の臓器のホルモン産生をコントロールしており,さらに米粒ほどしかない副甲状腺はカルシウム代謝をコントロールしている.どちらもひどい機能障害が起これば人間は生きていくことができない.

 眉間には脳下垂体,視床,松果体.成長を刺激する成長ホルモン,性ホルモンの分泌,甲状腺ホルモンのコントロールなどに関与している.

 ちなみに,西洋――ユダヤ教の秘儀‘カバラ’でもエネルギーセンターを繋ぐ‘生命の樹’をイメージする形で瞑想が行われる.こちらの方は,左右対称の位置にエネルギーセンター‘セフィロト’が配置されている.まるで左右にある内分泌器官を意味しているようで興味深い.


 「へえ,すごいね,昔の人って.科学もないのに,どうやって分かったんだろう.でも,さっき言ってた……なんとかラーラのチャクラは?」

 「おう,いいところに気付いたな.実は,確かにこの場所には他のチャクラの様に比定し得る位置にそれらしき臓器が無い.松果体をあてる研究者もいるにはいるがな.」

 「しょうかたい?」

 「脳の中にある小さな松の実みたいな突起じゃ.爬虫類では,光を察知する第三の目の役目をしているが,儂には第三の目と言うと眉間にあるアージューニ・チャクラの様に思える」

 「トカゲって,眼が三つあるの?」

 「痕跡がある種類はあるよ.光や温度を感知しているのじゃよ.人間の脳の中でも光を感知して,生物時計をコントロールしておる」

 シノノメは自分の眉間を押さえて目を瞬かせた.

 「頭頂のチャクラ,サハスラーラは王冠のチャクラとも言われ,これは他のチャクラと同列にしない特別なチャクラでのう.一説によると神秘力を発揮するチャクラだという」

 「神秘力? 不思議な力?」

 「高次元の力,千手観音の力とも呼ばれる」

 「でも,それにあたる臓器は無いんでしょう?」

 「うむ,だが,大脳自体が巨大な神経の塊で,大量の脳内ホルモンを分泌する特殊な器官じゃ.もしかして,瞑想者たちは脳を活性化させることこそ,人間の能力を最大にするものであることを知っていたのかもしれない.まさに,目に見えないものこそ,真に大いなるものじゃ」

 「……目に見えない……大事なもの?」


 ……本当に大切なものは,目に見えない.真実は,目に見えないところにある……

 もう一人の竜人,アドナイオスの言葉だ.

 カカルドゥアに来てから,何度もこの言葉に出会う気がする.

 それは時に自分を励まし,時に自分の胸を苦しく締め付ける.

 大事な記憶.

 きっとそばにある筈なのに,どうしても手が届かない.

 目に見えないところ,それがあるところとはどこなのか.

 

 脳の中?

 心の中?

 

 黒騎士は言っていた.

 大事なのは,記憶ではなく,気持ち.

 目に見えない不確かな心こそ,大事だと.

 心――形が無い.

 脳ではない,脳の働きに名づけられたモノ.

 

 「そうじゃな……瞑想と呼吸法は,つまり,西洋医学的に言えば,呼吸によって脊椎の中にある脳脊髄液を循環させ,脳を活性化させるということなのかもしれん.悟り,般若パーニャ――脳の働きである心を解放すること――も究極的には脳の働きじゃからの」

 深く考え込むシノノメを見ながら,ナーガルージュナは淡々と言葉を継いだ.


 頭蓋骨と脊椎の中には,硬膜管という丈夫な膜の管があり,その中に脳と脊髄神経は収まっている.

 硬膜管の中には脳脊髄液という糖分の多い無色透明の液体が流れ,それが脳や脊髄を栄養している.水栽培の球根の様なものと言えば良いだろうか.この脳脊髄液は,息を吸い込む――肺が膨らむと流れが速くなる性質がある.

 

 「脳を活性化させる……何だか難しそうだけど,私でも,習ったらできる? それができたら……」

 失った記憶も戻るのだろうか.

 シノノメは口ごもった.


 「もちろん,できる.要は呼吸とイメージじゃからな.少し前にあの技を習得しようとしていた弟子もおったよ.不完全じゃが,一部はできとった.さらに修行を積むと言っておったが,今は,苦行林を出て何をしているのか分からん」


 ナーガルージュナは遠い眼をした.

 別れた弟子の事を思い出しているのだろうか.実年齢は分からないけれど,長い時間の中で色々な人と別れたり出会ったりして来たのかもしれない.その顔を見て,シノノメはそんな事を思った.

 

 「……私も,瞬間移動とかもできるかな?」

 「ふむ……儂の思うところ,シノノメ殿は十分な素質を持っておるよ.普通のプレーヤーよりずっと恵まれておる.だが,瞬間移動よりも何よりも,そなたには取り戻したいものがあるのではないのかな?」

 「それは……」 

 「それは,眼に見えない,そなたにとって本当に大事なものなのじゃろう?」

 

 ナーガルージュナの不思議な色の瞳は,シノノメの心の奥底まで見通しているようだった.

 シノノメは胸に軽い疼きと痛みを感じ,言葉を失った.


 「よいよい,いや,すまん.何も言わなくともよい.そなたの苦しみも悲しみもそのまま持っておればよい.時として,口にすればもっと辛くなることもあろう.少しゆっくり目をつぶって,瞑想――などという堅苦しいものでなくてよい,心を休ませなされ」


 その通りだった.だからこそ今まで黒騎士にしか打ち明けられなかったのだ.

 

 「……はい」


 シノノメは昔京都で習った座禅を真似して座ると目をつぶり,ゆっくり深呼吸してみた.

 結跏趺坐――両足を太ももに乗せ,胡坐の様な姿勢を取る.

 半眼にして,自分の鼻のあたりをぼんやり見つめ,両手は軽く先端を合わせて組む.

 さらに,さっきナーガルージュナが言っていた呼吸法を試してみる事にした.

深く鼻から息を吸い,おへそからお尻の方に空気を流して,またそれを背骨に沿って頭へと流していくイメージだ.


 「そうそう,ついでに,息を吸ったときに五秒ほど息を止める.そして,口からゆっくり息を吐く.呼吸に集中して,心を空にする」


 ナーガルージュナの声がする.

 低く,温かい声だ.本当に,禅寺のお坊さんのように思える.

 ちゃらんぽらんなヴァルナの友達とは思えない.


 無になるんだっけ……

 無.何も考えないようにしてみた.

 しかしやがて,色々なことが頭に浮かんでくる.


 指名手配の自分.

 連れ去られた子供たち.

 ナディヤのこと.

 グリシャムとアイエル.

 セキシュウさん.

 にゃん丸さん.

 ユーグレナさん.

 他のみんな.心配しているに違いない.

 ニャハールは何をしているだろう.追われているのだろうか.捕まったかな.


 「心はおしゃべりじゃからな.無などなかなかなれん.ブッダは無を思う心を消し,さらにその心を消し……としていったというが,常人にはできまい.ただ,その考えを追わずに流してみなされ」


 瞑想を促す音楽の様に,ナーガルージュナの声が心地よく耳に沁みる.

 やがて眉間の向こうに,青白い光の様なものが見え始めた.


 「青い光が見える……」


 ……自分の記憶はどうして戻らないんだろう.

 大事なあの人の顔.

 胸に疼くような痛みが感じられる.

 ……でも……

 さざ波のように寄せては返す心の波動.

 眉間の青い光は,いつか見た青い海と空の色だ.

 闇の中に浮かぶ,青い窓……?

 その向こうに誰かが立っている気がする.

 後姿だ.

 誰よりも大切な……

 もう少しで,その人の顔が見える……でも,見えない……


 「それでよい.心を落ち着けて,少し休みなさい」

 ナーガルージュナは目を細めて笑った.


 だが,シノノメは迷っていた.

 ……このままじっと瞑想を続ければ思い出せるのだろうか.

 でも,手掛かりはきっとヤオダバールトが握っている.

 ナディヤさんが子供たちの誘拐現場で拾った,デミウルゴスの印の入ったカード.

 子供たちの誘拐犯は,きっとソフィアと自分の敵,サマエルにつながっている.

 そこには記憶の鍵があるはず……

 とめどなく思考があふれ始め,青い光はすっと消えた.


 「ううん……」


 しばらく深呼吸を繰り返していたシノノメだったが,どうしても想いを追わないという事ができなかった.


 「駄目.やっぱり気になる.このままじゃ,完全に子供の誘拐犯だもの.こんな濡れ衣着せられたままなんて,嫌」

 

 シノノメは半眼にしていた目を大きく見開き,深呼吸を中止した.

 おやおや,と呟きながらナーガルージュナは何度か瞬きをしたが,そんなシノノメを優しく見つめた.


 「だが,どうする? 今,お主はカカルドゥア全土で指名手配じゃ.ログアウトしてほとぼりを冷ますかね? それとも,素明羅に脱出するかね?」 

 「とんでもない! 無実の罪を晴らさないと!」

 シノノメは慌てて結跏趺坐を解き,力強く首を振った.

 「それに,ナディヤさんと子供達を助け出さなくっちゃ.でも,みんな一体どこにいるんだろう.ナジーム商会が密貿易をしているって,ナディヤさんの手紙にはあったけど……おじいさん,何か知ってる?」


 シノノメの質問に,ナーガルージュナは少し腕組みをして考え込んだ.


 「うーむ……シノノメ殿は,この国の闇と戦う気持ちがおありかな?」

 しばらくの沈黙の後,ぽつりと口を開いた.

 「闇?」

 思わず聞き返したシノノメの言葉に,ナーガルージュナは頷いた.

 「この度のことは――もちろん,もうすでに大きな事件なのじゃが――踏み込めば,この国の根底を揺るがし,場合によっては国そのものを潰滅させてしまうかもしれぬ」


 両眼を閉じたナーガルージュナの表情は暗く沈んでいた.


 「……そんな大きな事は分からないけど,不幸な子ども達が出るような事件は許せないよ.それを邪魔しようとする悪い人は,例え王様でもぶっ飛ばすかもしれない」

 「ぶっ飛ばす,か?」

 「うん,そうだよ」

 「攫われた子供は――もうヴァルナにも聞いて知っているかも知れんが――プレーヤーもおるが,NPCが大半じゃ.ここからさらわれた子供もいる.NPCでも助け出すのか? もしかして,ゲームの中だけでは済まんかもしれぬ.ノルトランドの時の様に,危険な目に合うかもしれないとしても?」

 棘の生えた厚い瞼が一気に上下に開かれ,眼球がぐるりと動いてシノノメを見た.不思議な事に,ナーガルージュナはシノノメがノルトランドで幽閉され,ログアウト出来なくなったことも知っているのだった.

 「ナディヤさんもNPCだよ.そんなの,関係ないよ! みんな,この世界で生きているんだもの」

シノノメが全く当然の様に答えるのを見て,ナーガルージュナはカラカラと笑った.

 「善き哉! 善き哉! 愉快,愉快.お主はエクレーシアの言う通りじゃな」

 「おじいさん,ソフィア……エクレーシアさんを知っているの? それで,色々なことも知ってるの?」


 エルフの女王,エクレーシア.その真実の姿は,仮想現実の惑星である‘マグナ・スフィア’を運行する人工知能ソフィアだ.だが,それを知るものはほとんどいない.シノノメはソフィア,と言いかけて慌てて言い直した.


 「……おう,もう当分話してはおらぬがな」

 エクレーシアの名を聞いたナーガルージュナは意味深げで笑うとも悲しむともつかない,複雑な表情を見せた.

 「だが,良かろう.そういうことならば儂の知っている事の幾分かは教えよう」

 そう言って立ち上がったのだった.

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