16-5 苦行林のナーガルージュナ
苦行林は,サンサーラ市の北西に広がっている,鬱蒼とした‘雨の森’の,さらにその中にあった.
サンサーラの上空では,何羽ものロック鳥や飛龍が飛び交ってシノノメを探している.まさに凶悪犯を追い詰めるための非常線,結界だった.
シノノメは何度も服を着替えて移動し,騎士団員が見張っている関所では透明ショールを使って通り抜けた.今はカカルドゥアにやって来た時に最初に買った,ペルシア風のセパレーツの服を着ている.肩と胸元,お腹が開いた青いシルクの服に,白いゆったりしたズボンである.カカルドゥアでは平均的な女性プレーヤーの格好だ.
何とか追跡は逃れたものの,広いサンサーラを歩いて縦断したのでクタクタだった.
「ふう……それにしても,変な所ね」
『ここより苦行林』と立札に書いてあるところは流石ゲーム世界だ.
雨の森の中にあって,苦行林というところは少し開けていた.
木の密度が低く,植生も異なる.
雨の森はユーカリとシダが多い.広葉樹がしっとりとした水分を蓄え,森の中にはいつも雨が降っているように露と霧が降り注いでいる.オーストラリアで遊びに行った熱帯雨林の森林公園のようだったが,このあたりだけは榕樹が中心で,東南アジアや沖縄の森に近い印象だ.また,木の密度が低く所々開けた場所――広場の様になっているところがあり,ちょっとした集会ができそうである.
雨の森にはレベル30から40くらいのモンスターが跳梁跋扈しているのだが,苦行林にはいないようで,そんなところも少し違っている.
柵の様に立ち並ぶ木々の間を抜け,シノノメはすぐそばにあった広場へと足を向けた.
土がしっとりと水分を含んでいる.カカルドゥアの雨季が近いのかもしれない.
「苦行って,どういうことかしら……きゃっ!」
シノノメは,それを発見して,思わずラブを胸に抱きしめた.
ゲーム世界,マグナ・スフィア.
滅多な事では驚かない.だが,そこにいた人間はシノノメの想像を超えていた.
首を地面の中に埋め,体だけ外に出している男がいたのだ.男は腰布だけを身にまとい,その他は裸で傷だらけだ.
「さ,殺人事件?」
だが,良く見ると男はしっかり息をしていた.腹と胸が緩く動いている.
「一体,どうやって息をしているの?」
「その男は,尻の穴で呼吸をしている.邪魔してはならん」
「うわっ!」
何気なく口にした自分の疑問に答えた男を見て,またまたシノノメは驚いた.
伸び放題の髭と髪の毛,腰巻一つの半裸はまだしも,体中に無数の釘が刺さっていたのだ.耳や鼻はもちろん,指には丁寧に一本ずつ,お腹や背中にも特大の釘が刺さっていた.
「い,痛くないの?」
「痛いよ」
男は,さも当たり前といった様子で答えた.見ているシノノメの方が痛くなる.思わず体をさすった.
「うう,ぞわっとする! 誰かに刺されたの?」
「はっはっは!」
釘男は愉快そうに笑った.
「自分でやったよ」
「えーっ! どうしてそんなことするの?」
「だって,ここは苦行林だから.ほら,あそこを見てごらん」
釘男の指差す方向を見ると,不思議な集団がいた.
さっきの地面に埋まった男と反対に,首だけ地面から出して埋められている男.
片足を縛り,片足だけでじっと立ち続けている男.
イバラのベッドを作り,その上で寝ている男.
樹に逆さ吊りになっている男.
「こ,これは? 変態?」
「ぎゃははははは!」
釘男は爆笑した.
「ここにいるのはみんな,行者なのだよ.修行者,苦行僧とでもいうかな.インドのサドゥーを聞いたことが無いかね?」
「あー,何だか,旅行ものの漫画で観光客目当てのお坊さんがいるって読んだことがある……」
「インドでは借金から逃れるためとか,就職できなくって出家する人もいるらしいからね.我々は,純粋に苦行を通して悟りを開こうとしているんだよ」
「えー!? ゲームの世界で?」
「ゲームの世界だからだよ.インドに行きたくても金も暇もない.それに,現実世界でこんなことしたら,病院に連れて行かれてしまう.しかも,何度死んでも生き返るから,極限まで修行ができるし」
「それって,何だか変.スカイダイビングとかバンジージャンプみたいな,エクストリームスポーツみたい……」
「おお,なかなか面白い表現だな」
釘男は,鼻に刺さっていた釘を無造作に抜き,頬に刺し変えた.血が噴き出すが,全く気にしていない.シノノメは思わず顔をしかめた.
「悟りって,本当に開けるの?」
「分からん.だが,レベルが上がると神通力が使えるぞ」
「神通力って,魔法みたいなもの?」
「まあ,そうだな.六神通――神足通,天耳通,他心通,宿命通,天眼通,漏尽通――かの釈尊が持っていたという超能力だ.今風に言うと,テレポーテーションに,超聴力,テレパシー,予知能力,千里眼かな」
「お釈迦様って超能力者だったの? 私,孫悟空を捕まえられるくらい大きくなれる話は知ってたけど……でも,それで,強くなって,クエストに行くの?」
本当なら確かに凄い.超能力者という職業があるようなものなのだろうか.結構強そうだ,とシノノメは思った.
「いいや,我々は俗世とは隔絶した身だから,そんな低俗なものには参加しない.また,ひたすら修業に明け暮れるのさ.そして,サドゥーとしてのステイタス,レベルが上がったことを喜び,競い合う」
「ふーん……あまり,面白そうじゃないね」
「いや,これがたまらん楽しさのだよ.より過激な苦行に身を委ねていくのだ.そうすれば,現世の欲望やつまらない物事が消え去っていく」
「苦行林の外の世界に出ないの?」
「出ない!」
きっぱりと釘男は答えた.
「煩わしい人間関係など,御免だ! 苦行林の同志だけで十分!」
じゃあ,何のためにVRMMOゲームをしているのだろう.家の中に引きこもるのでは駄目なのだろうか.
全くその気持ちが理解できなかったので,シノノメは何とも言えず苦笑した.
この男達は,ゲームという閉鎖された空間の,さらに閉鎖された空間に閉じこもろうとするプレーヤーなのだ.
ふと,思った.
……家から外に出るのが怖い自分……他人から見れば,滑稽な臆病者にすぎないのだろうか.
「ところで,お嬢さん.あんた,どうしてここに来た? 女性用の苦行林は反対側だぞ.銭湯やトイレと同じで,一応男用と女用があるから.向こうでは今,猛獣に自分から食べられるのが流行っていると聞いた」
「わ,私は苦行しに来たんじゃないよ!」
シノノメはライオンや虎に食べられる自分を想像して,慌てて答えた.
閉鎖された環境で苦行にふける彼らは,ニュースなど見ない.幸か不幸か,シノノメが指名手配犯であることに気付いていないのだ.
「用事があって,えーっと,ナ,ナーガルージュナって人に会いに来たの」
複雑な名前だったので,うまく言えたことにシノノメはほっとした.
「ナーガルージュナ?」
だが,それを聞いた釘男の顔色が一変した.
「あんた,知り合いか?」
「ていうか,友達から会いに行くように言われたの」
なんだか様子がおかしい.そう思いながらシノノメは答えたが,すでに遅かった.
場の雰囲気がキリキリと張り詰めたものになった.
苦行者たちが一斉に苦行を中止し,シノノメに向かってくる.
首を地面に埋めていた男も,地面から頭を引っこ抜いて振り向いた.伸び放題の頭髪と髭が土にまみれているが,炯炯とした眼光で睨みつけてきた.
気づくと,十人ほどの行者に囲まれていた.全員,殺気立っている.
「ならば,ここより先は通さない」
「え,何で!?」
「奴は,我々を,いや,我々の苦行を否定しているからだ」
逆さ吊りになっていた男が,青黒い顔で睨んだ.
「そうなの? でも,私はそんなことしないよ」
「奴の仲間となれば,その言葉は聞けぬ」
片足で立った男が呟く.上げたままの脚が枯れ木のようにやせ細っているのに対し,立っている方の脚は丸太の様に太い.
「帰れ!」
「帰れ!」
「立ち去れ!」
それは,闖入者――よそ者というよりも,自分たちと異なる価値観を持つ者に対する強烈な敵意だった.
普段のシノノメだったら相手にせず,そのまま帰ってしまう.だが,今は行くところが無い.頼れるのはヴァルナとその仲間だけなのだ.
「変なの! 悟りを開こうとしている人が,人に意地悪するなんて! 仲間やみんなの役に立たない力なんて,無意味じゃない!」
シノノメの言葉は行者たちの気持ちを一層逆なでした.敵意はほとんど殺意に変わっていた.
「うるさい! 立ち去らぬのなら,追い払うまでだ! 喰らえ!」
釘男が両の拳を握り合わせて叫んだ.
全身の釘が抜け,シノノメに向かって弾け飛んだ.その数数百本.
釘の雨が降り注ぐ様子は,ほとんど散弾銃だ.
「鍋蓋シールド!」
だが,シノノメの叫びに応じて空中に現れた鍋蓋型魔方陣が,釘を全て弾き飛ばした.
「な,何者だ! 貴様!」
「何者って……主婦?」
「主婦だと? ふざけやがって!」
一本足の男がジャンプして,太い足で飛び蹴りを放った.
シノノメは軽く体を開いて躱す.首や上体を逸らすのではなく,彼女の場合はあくまで正中線を保ったままだ.傍から見るとダンスのステップのように見える.
男の蹴りは背後の榕樹を蹴り折った.一抱えほどもある大木だ.生い茂った葉がちぎれ飛び,根茎がバキバキと音を立ててちぎり折れた.
「どうだ!」
男はさらに足で地面を蹴ると,空中で一回転して再び蹴って来た.
「もう,めんどくさいなあ……えい」
シノノメはふくらはぎを下から軽く無造作に叩いた.
「う,うわっ!」
男はバランスを失って空中で一回転すると,地面に頭から落ちて失神した.
「ぬ,ぬう……」
それぞれが超能力――というよりも,妖力――を持った行者たちは,慎重にシノノメを囲む輪を小さくした.一斉に技を放つ心づもりである.
「地中で呼吸をつづける超肺活量で,吹き飛ばしてくれる」
「太陽を見続けて盲いた目から放つ眼光で,焼き焦がす」
「火に身を投じて手に入れた,炎を出す力を喰うが良い」
「イバラも通さぬ鋼鉄の体で,叩き潰してやる」
痩せこけた苦行者たちが睨む様子は,ハイエナかリカオンの群れの様だった.独特のすさんだ凶暴さを内に秘めている.苦行により現世の欲や不満,苦悩を昇華させるはずが,それは仮想世界での鬱屈したエネルギーになっているのだった.
「物騒だなぁ.もう,ヴァルナも,こんなに皆に嫌われてる人に会いに行けだなんて……」
「最後の警告だ! 出て行け!」
行者たちが叫ぶ.
「そういう訳にいかないの!」
シノノメが答えるのと同時に,行者たちは一斉に妖力を浴びせかけた.
目からほとばしる熱線が,口から吹き出される風が,炎がシノノメを襲う.
「えーい,ヘルシー過熱水蒸気! ウォーターオーブン!」
親指と小指を立てた右手,そして人差し指と小指を立てた左手.シノノメは両手を胸の前で交差させて,一気に振った.
「スーパースチーム!」
ブオオオオン!
爆音が苦行林に響き,シノノメを中心にもうもうと蒸気が噴出した.
「ぎゃああ! 熱い! 熱い!」
「うわあああ!」
「何だ? これは!?」
「うぎゃあっ! 体から変な汁が出る! 止まらない!」
三百度の水蒸気が地面から発生し,暴風となって行者たちを焼いた.
皮膚から脂分が吹き出し,水分が奪われていく.一気に大量の熱が加えられるので,体の脂肪分が溶けて体外に排出されてしまうのだ.
こんがりタヌキ色になった行者たちは四肢をけいれんさせて倒れた.
少し離れた場所に立っていた釘男と,イバラで体表を鍛えていた行者だけが何とか難を逃れ,顔を青くして立ちすくんでいる.
「余分な脂分と塩分は吹き飛ばし,ビタミンCはキープ!」
シノノメはにっこり笑って言った.
「ぐうう……てめぇ,馬鹿にしやがって……」
二人ともアイテムボックスから半月刀を取りだした.それはすでに行者の態度ではなく,プライドを傷つけられ怒りに狂ったプレーヤーのそれにすぎなかった.
「やめよ.やめよ.お主らが何度戦っても,その御仁には敵わぬぞ」
その時,苦行林の奥から深く重々しい声が響いた.
声の主はゆっくりと榕樹の間から姿を現した.
小さな人影だ.身長は百三十センチくらいで,尖った耳がある.体つきはドワーフともゴブリンとも違っていた.うっすらと赤い燐光を帯びているようにも見える.
「……ナーガルージュナ……」
倒れていた行者たちが身を起こし,その人物の名を呼んだ.
「お主らは,悟りを得ようとする行者ではない.自分の体面を守ろうとするだけの偏狭なプレーヤーにすぎぬ」
ナーガルージュナはゆっくりと日の光の中に姿を現した.
不思議な姿だった.
小さな角と,鱗の生えた皮膚,尖った耳.体色はくすんだ緑色だ.体格は人間のそれだが,マグナ・スフィアで一番外観を持つ生き物は竜の幼生だろう.ゲーム世界で実年齢を推測することは無意味なのだが,皮膚の表面には無数の皺があるので,とてつもない高齢に見えた.
ゆったりと体にまとった茶褐色の襤褸布の端からは,棘が生えた尻尾が覗いていた.鱗と水かきが生えた手は印を結ぶように,腹の前で握り合わせている.
「普段から言っておろう.ゲームの世界ですら自分を解放する事が出来ず,死の危険を伴わない自殺行為を行うなど,ただの甘えた遊び.鬱屈した感情を処理できないジレンマ,不安定な精神が生むただの自傷行為,自己嫌悪じゃ.そんな者に高潔な精神など宿らぬ.人々から離れることで,特別な自分になりたいのであろう.侮蔑されている自分を意識しているからこそ,人々を見下ろして侮蔑したいのであろう」
「おのれ……」
二人の行者は唸って半月刀を握りしめた.ナーガルージュナの言葉は,どこか彼らの核心をついていると思わせるところがあるのだろう.
「ゴータマ・シッタールダ――仏陀も苦行をやめてから悟りを開き,人々を救う道を説くことを選んだ.イエズス・キリストも荒野で厳しい戒律の生活を送るエッセネ派から独立し,人々の中に戻ったという説がある.一休宗純は禅庵から巷間に戻り,ムハンマドも砂漠の修行から民の中に戻った」
この言葉は誰に語りかけているという事のない独り言のように聞こえた.
「くそっ! お高くとまりやがって! お前達年寄りがのさばって金や仕事を持っていくから,俺たちは苦労するんだ!」
それこそが現実世界で彼らが置かれている立場の本音なのかもしれない.
釘男とイバラ男は刀を振りかぶってナーガルージュナに襲いかかった.
「危ない,おじいさん! グリル……」
シノノメは助けようとしたが,ナーガルージュナはゆっくり右手を挙げてそれを制した.
「よい」
二つの白刃が小さな老人を両断する……というか,したはずだった.
刀はするりとナーガルージュナをすり抜け,地面を叩いた.
「所詮,このゲーム世界は夢幻.自分の体も,今いる位置ですら,意識の産物,電子情報じゃよ.」
ナーガルージュナはそう言うと姿を消し,二人の行者の後ろに立っていた.
素早く走ったのでも,シノノメやセキシュウの様に武術の足さばきで回り込んだのでもない.
空気に溶けるように体が消えたと思うと,また現れたのだ.漫画やアニメで出てくるテレポーテーションを実際に見ているようだった.
「こんな,馬鹿な……」
「これが伝説のスキル,神足通?」
釘男とイバラ男は立ちすくんだ.
「正しくプラーナをスシュムナー管にめぐらせ,王冠のチャクラを活性化させるのだ.さすれば,何も不思議は無い.去るが良い.お主らでは,儂にすら敵わぬよ.いや,失敬.ここはお主らの場所じゃな.我々が去るのが道理というもの.さあ,主婦殿,参ろうか.ついて来なされ」
ナーガルージュナは呆然としている二人を残し,踵を返してゆっくりと歩き始めた.
シノノメはあわてて後を追った.