14-1 壊れた境界
唯はゆっくり目を開けた。
いつものリビングのソファだった。
慌ててVRMMOマシンを頭から外し、窓の外を見る。
……いけない。もうすっかり薄暗くなっている。
夕空にはいつもの雲が浮いている。
時計を見ると、6時半だった。
……急いで夕飯の支度をしなくっちゃ。
きっと、今日も遅くなる。疲れて帰ってくるから……
「ふう……」
……今日のゲームは、怖い内容だった。
素明羅対ノルトランドの大戦争。
ベルトランとの死闘――最後は、竜になってしまった。
黒幕ヤルダバオート。
盟友ランスロットの自決。
「え?」
唯は、ある違和感に気付いた。
結婚指輪が右の薬指にはまっている。
「おかしいな……」
眠っている間に、無意識にはめ変えたのだろうか。
指輪を外し、左の薬指にはめ直した。
あれ……?
でも……何より怖いこと……
気づいてしまった……
欠けた……記憶……?
「そんな……やだ、いや、違う。そんなはずない!」
慌ててソファから体を起こし、エプロンをつけた。
自分の中ににわかに巻き起こった疑問を打ち消すため、一階に向かった。
唯の家は、結婚を機会に建てた新築住宅である。
都市の郊外なのであまり広い土地が買えなかった。人口減少と不動産価格の下落が話題になっているが、都市周辺部の環境のいい場所は地価がどうしても高い。
夫婦の要望を目一杯詰め込むと、三階建てになった。
子供のころに育ったアルザスのような山小屋風と、好きな和モダン風を混ぜたようなデザインである。
一階には客間用の和室があり、その奥に納戸がある。納戸には夏物の衣類や結婚記念にもらった品、そして、写真のアルバムが保存してあった。
「この辺だったかな……」
納戸の扉を開け、段ボールを開けた。
結婚式の写真がある筈だ。
なぜか、無性に自信が無くなったのだ。
まさか、まさかね。
そんな馬鹿なことなんて、ない……
自分の夫の顔が思い出せないなんて、名前が分からないなんてことがあるはずない。
目的のアルバムがなかなか見つからない。
唯は次第に焦り始めた。
そんな、確かにこの辺りにあったはずなのに……
ピンポン!
そのとき、ドアのチャイムが鳴った。
「わ!」
集中していたので、思わず声を上げた。
廊下に出て、ドアホンの画像を見た。
通話ボタンを押す。
「どちらさまですか?」
……唯、僕だよ。
「なんだ、あなたか」
なんだとは随分な言い方だが、今日はもっと遅く帰ってくると思っていたのだ。
マグナ・スフィアに没頭していたので、夕ご飯はまだできていない。
困ったな、と思いながら唯は玄関に向かえに行った。
玄関の開閉スイッチを押す。
「おかえりなさい。早かったね」
「ただいま。おや? 一階にいたのかい?」
夫は廊下に上がり、スリッパを履いた。
「そう。ちょっと、納戸の整理をしてたの。」
「納戸?」
「結婚式のアルバムを探してたの。どこにしまったか覚えてない?」
「……」
夫は、答えない。
「どうしたの?」
「フフフ……お前は、まだ分からないのか」
突然声が変わった。
「この顔が、わかるか」
夫――と思っていたその男は、にやりと笑った。
その顔は――
異様に大きい眼球と小さな瞳,薄笑いをいつも浮かべている顔.
「ヤルダバオート! サマエル!」
ベルトランとともに、フードディスポーザーの中に落ちて行ったはずである。
いや、そもそも、なんで現実世界にゲームの中のキャラクターがいるのか。
ヤルダバオートはもっと小柄だった。体は普通のスーツ姿、中肉中背なのに、顔の部分だけ無理やりくっつけた様にヤルダバオートになっている。
アンバランスで不気味だ。
「きゃぁ! な、何で!?」
夢……これは、夢!?
ヤルダバオートは、そんな唯の考えを打ち消すかのよう右手をつかんだ。
「や、やめて!」
咄嗟に唯は相手の手をつかんで左足を踏み出し、くるりと回転して向き直った。ほとんど反射的に体が動く。
肩関節が極められ、ヤルダバオートの体が大きくのけぞった。そのまま唯が右足を大きく踏み込むと、ヤルダバオートの後頭部は床に強く打ちつけられた。
「ぎゃっ!」
ヤオダバールトは蛙の様な悲鳴を上げた。合気道の四方投げである。十分なキレがあれば、これほど受け身のとりにくい投げ技はない。
「えっ!?」
唯は自分で自分に驚いた。
こんな武術、習ったことなどない――ゲームの世界で、セキシュウに習った以外は。
「ううう……」
手が放れたので、唯はそのまま家の奥に逃げた。
咄嗟に飛び込んだのは和室だが、一番安全なのは丈夫な納戸だろう。
慌てて走り込み、内側から鍵をかけた。
「くそう……! シノノメめ……」
ヤルダバオートの声がする。
「どうしよう……怖いよ」
携帯電話も固定電話も二階だ。警備会社はお金がかかるので契約していない。
ふと見ると、部屋の奥が青色に光っている。
光っているのは、わずかに開いた衣装箪笥の中だった。
「これ……何だろう?」
恐怖感を一瞬忘れ、箪笥の扉を開けた。
ジャケットやコートがかけてあるが、光っているのはその奥だった。
唯は頭を突っ込み、手を伸ばした。
触れるはずの箪笥の背板が触れない。伸ばせば、奥へ奥へと手が入っていく。
子供の時に読んだ童話,ナルニア国物語を思い出した。
衣装箪笥が異世界の入り口になっている物語である。
「嘘……まさか……」
ガチャガチャ。
納戸の扉をこじ開けようとする音がする。
唯は、思い切って衣装箪笥の中に飛び込んだ。
四つん這いで這って入っていくと、手に軟らかく冷たい物が触れた。
苔?
奥へ奥へと入っていく。
やがて、頭上に解放感が広がる。
薄暗いトンネルの中だ。遥か彼方に出口――青い光が見える。
立ってみた。
狭い衣装箪笥の中ではない。
鍾乳洞?
洞窟?
「唯……」
後ろから声がするような気がする。
逃げなければ。
唯は、走った。
ひたすら走った。
息が切れるほど走る。
薄暗い闇の中、唯の左の薬指――指輪が青く光る。
暗いトンネルはどこまでも続いている。
走り,走り……
周囲の風景が流れ,それはやがて鬱蒼とした森になり――
出口を抜けた先には,高い青空と美しい平原が広がっていた.