終戦と涙
月はすっかり中天に昇り,満天の星空とともに下界を照らしている.
「ギャハハハハ!」
ヤルダバオートが夜空に向かって笑い狂った.
「その様子では,もう戦えないな! ソフィアの指輪がなければこのまま連れ去るのだが……それはまたの機会としよう.はははは,さらばだ,主婦! 俺はまた,ノルトランドで王となる人間を探すことにする」
ヤルダバオートはそう言うと,シノノメの方を横目で睨みながら歩き出した
シノノメは,ぽっかりと開いた黒い穴――ディスポーザーのそばに座り込み,うなだれている.
黒騎士は傍でそんなシノノメをじっと見守っていた.
黒騎士の目は寂しげな薄緑色に光っている.
どうしたら良いのか分からないように,時折虚しく両手を上げてシノノメに触れようとしては,それを躊躇っていた.
「おお,火の手が上がって来た,まずいな.ここはもうすぐ爆発する.飛竜でも呼んで逃げるかな?」
広間の床にできた巨大な割れ目を覗き込み,ヤルダバオートは言った.
広間はすでに,完全な廃墟となっている.
ヤルダバオートは瓦礫の上に這い上り,夜空を見上げて指笛の形を作った.
「そうは,させるか!」
瓦礫の後ろから現れた何かが,それを阻んだ.
人間の手の形をした木の枝である.つかむというより,腕にからみついている.
「お前のような悪魔の犠牲になる人間など,これ以上出させるものか」
「だ,誰だ,お前は!」
ヤルダバオートは,自分の手足を拘束する物を目で追った.
白っぽい太い枝に,幹.
長い根が,幹や枝からたくさん枝分かれしている.まるでそれは,蛸の足の様だ.
生い茂る細い葉の中にあるのは,間違うことない,ベルトランの顔だった.
「お,お前,ベルトラン! 生きていたのか! 何だ? この,ふざけた体は?」
ギリギリと木の枝が,ヤルダバオートの首を締め上げていく.
「ぐげえええ……」
ヤルダバオートの小さい体が,絞首刑の様に徐々に宙に吊られていった.
樹と化したベルトランの足元には,深緑色の服を着た魔女が立っていた.手には,箒を持っている.
「かたじけない,緑陰の魔女グリシャム.これで動くことができる」
「どういたしまして,ベルトランさん.ですが,あなたが‘歩く木’をご存じとは,驚きでした」
「引きこもっていると,色々な知識だけは増えるのだよ.ガジュマルと言った方が良かったかもしれないが」
ベルトランはヤルダバオートを木の両腕で捕えながら,根の脚を動かして歩いた.
「あそこにある黒い穴は,主婦シノノメ殿が作った穴――ディスポーザーだな」
「ええ,生ゴミを処理する穴です」
グリシャムは挫いた足を箒で庇いながら,樹の後を追うように歩いた.
彼女は乾坤一擲,ベルトランの提案に賭けたのだった.
沖縄やオーストラリア,南米には歩く木の伝説がある.
ガジュマルなどはその代表で,陽射しを求めて根の形成と分離を繰り返し,場所を移動する植物なのだ.
ベルトランを‘樹人’として再生することにより,再び害をなすのではないかという心配もあったが,この世界に対する彼の真摯な姿勢を信じてみることにしたグリシャムだった.
精神支配から目覚めたベルトランは,責任感と強い悔悟の念を抱いていた.
万能樹の種をベルトランの残った体に植え,十分大きくなることを待つのに数十分.
先ほどようやく目標の大きさになったベルトランは,不安定な床の瓦礫の上から彼女をここまで運んでくれた.運んだあとグリシャムが乗っていた床材はすぐに崩れ落ちてしまったので,本当に間一髪だった.
「粗大ゴミだが,放り込んでやる」
「くそっ! ベルトラン! 放せ! 放せ!」
ヤルダバオートが見苦しく暴れるが,ベルトランの枝葉を揺らし,小さな枝をへし折ることしかできなかった.
「俺を殺しても無駄なのだぞ! 俺を殺しても,デミウルゴスのアルコーンの,ほんの一部を傷つけるだけだ!」
「ならば,惜しむ命ではあるまい? だが,これで,お前というキャラクターはこの世界から消滅する.ノルトランドをかきみだした悪の道化がな」
「く,くそうっ! すべて俺の仕業だというのか! この引きこもりめ! お前に理想を,夢を与えてやったのは俺だぞ!」
「俺に責任が無いはずがない.だが,だからこそ俺の手で決着をつけるのだ」
ベルトランは雄々しい樹木の脚で,ゆっくりと進んだ.
「シノノメさん……」
グリシャムは,ディスポーザーの黒い穴のそばで座っているシノノメの顔が,蒼白なのに気付いた.
シノノメは大きな目を開けたまま,とめどなく涙を流していた.
傍らにはいつか斑鳩で見た黒い機械人間が立ちすくんでいる.
こんなにつらく悲しい顔をしているシノノメを見るのは初めてだ.
さっきヤルダバオートが何か囁いていたが,小さな声だったのでグリシャムには聞こえなかったのだ.
「シノノメさん……一体何があったの?」
「グリシャムちゃん……」
シノノメは,グリシャムの姿を虚ろな目で捉え,口を開いた.
「私ね,あの人に初めて会ったとき,あの人,小さい子と遊んでたの.それで,いい人だなって思って,おばあちゃんが付き合ってみたら,って言ったの」
「シノノメさん……?」
シノノメは,笑っていた.泣きながら,笑っていた.
「初めてデートに行った時,カレーが食べたいって言ったら,インド料理の店に連れて行かれたの.私,ナンを食べるのが初めてで,びっくりしたの.マナーブックには,手づかみで食べて良いなんて書いてなかったから,どうやって食べたらいいか分からなくって」
「シノノメさん……どうしたの?」
「クリスマスイブに,プロポーズしてくれたの.すごく嬉しくって,泣いたの.クリスマスプレゼントだと思ったら,婚約指輪で.でも,クリスマスカードがもっともっと嬉しくって……今でも,取ってあるよ」
グリシャムは,シノノメの手を取った.
「シノノメさん?」
「手がとってもあったかいの.手をつないで,一緒にあちこちに行ったの.オーストラリアの研究所に挨拶に行ったら,みんながコアラのケーキを作ってお祝いしてくれて,それで,シドニーで,オペラを見て……」
「シノノメさん……」
シノノメの眼は,グリシャムの眼を見ていた.盲しいていたときの眼ではない.ここではない,どこかずっと遠くを見つめていた.
「時々素敵なディナーに連れてってくれるよ.でも,お家でご飯作ったら,いつも美味しい美味しいって喜んで食べてくれるの……」
「シノノメさん,シノノメさん!」
グリシャムはシノノメの魂を呼び戻すように,肩をゆすり,名前を呼んだ.
シノノメの体は,人形のように力なく揺れた.
「大好きなの.大好きな気持ちは,いっぱいあるの.あの人のことを考えると,胸が苦しくなるの」
「分かってるよ! シノノメさんが,いつもそうだったのは,知ってるよ!」
「でも,でもね,私,あの人の顔が,分からないの.名前が,思い出せないの.どうしても,思い出せないの」
シノノメは,もう一度笑った.とめどなく泣きながら笑っていた.
後から後から涙が頬を伝い,服が破れて露わになった鎖骨のくぼみに池を作っていた.
「優しい声も,温かい手も,髪や頬を撫でる感触も,みんな,覚えてる.でも,でも……記憶がないの」
「……!」
グリシャムは,一瞬言葉を失った.
シノノメは泣き続けている.
「変だね……こんなの,おかしいよ……」
「シノノメさん,でも……大丈夫,大丈夫だから!」
大丈夫なはずがないのは分かっていた.だが,グリシャムにはそれしか言えなかった.
「グリシャムちゃん,どうしよう……私,どうしたらいいの?」
「……大丈夫だよ! 私,そばにいるから!」
どうしたらいいかなど,グリシャムにも分からない.
「どうして,気付かなかったんだろう.何故,忘れていたんだろう.私は,一番大切な記憶を無くしちゃった……」
グリシャムは,どうすることもできずにシノノメを抱きしめた.
グリシャムの肩を,シノノメの涙が濡らす.
シノノメの体はどうしようもなく華奢で,小さく感じられた.
「こいつは,人の感情を玩び,それに付け込んで人間を操るのだ.その人間にとって一番つらい事実を平気で踏みにじる……シノノメ,辛かろうな……」
樹人ベルトランが,そんな二人を見て言った.
自分の負い目を弱点として責められたベルトランには,立場は違えど,どこか理解できるものがあるのだった.
すでに彼はディスポーザーの黒い穴のほとりに立ち,その暗い闇の向こうを見つめていた.腕の中には足をバタバタさせてもがくヤルダバオートがいる.
「うわあ! 嫌だ! 俺は,死にたくない! 死にたくない! 放せ,ベルトラン!」
「見苦しいぞ,ヤルダバオート.お前も,この世界の多くの命を殺したではないか.今更何故自分の命を惜しむというのだ?」
精神支配をうけていた時,ベルトランはシノノメが言う「命が無くても生きている」という言葉が理解できなかった.だが,体のほとんどが樹木になった今,その意味が少し分かる気がしていた.
「ち,畜生! 俺は,七つのアルコーンの一つ,ヤオート! 獅子の顔を持つもの! そして,またの姿はサバタイオス! ぎらつく炎の顔を持つものだぁ!」
ヤルダバオートの体は,突然炎に包まれた.
炎の舌はベルトランを見る見る間に舐めつくし,彼は炎に包まれた.
「ははぁ! 燃えろ燃えろ! 俺は,死ぬものか! 死ぬのはお前だ!」
ヤルダバオートは叫んだが,ベルトランは火に包まれた顔で静かにそれを見つめていた.燃える樹木の手はヤルダバオートを捉えて放さなかった.
「あっ! ベルトランさん!」
グリシャムはシノノメを離し,箒をとった.
しかし,グリシャムにはもう水の魔法で消火する余力はない.
シノノメは虚ろな目で燃える樹人を見つめていた.
「よい.グリシャム殿.野望の炎に身を焦がし,道を誤った愚かな王の最後にふさわしい」
「ああっ! お前,まさか,一緒に死ぬつもりか! よせ,俺は,死にたくない,死にたくない!」
ベルトランは,ゆっくりと黒い穴の上に足を踏み出した.
「ベルトランさん,あなたは――電脳空間ではありましたが,確かに王者にふさわしい人でした」
「ありがとう,グリシャム殿……そして,シノノメ.俺とは違って,お前には友がいる.信じてくれる人たちがいる限り,お前はきっとまた立ち上がれるだろう.お前との戦い……久々に,心が躍ったぞ.感謝する,好敵手よ」
そう言うと,ベルトランは黒い穴の上にその樹木の体を躍らせた.
「さ,行こうぞ.道化よ.二人で愚かな夢の続きを見よう」
「嫌だ,嫌だ,ああーっ!」
唸るような低い音の後,ヤルダバオートの絶叫が消えた.
そして,暗い闇が二人を飲み込むのと同時に,広間の床が揺れて爆発した.
「きゃあっ!」
床が轟音と共に陥没する.
さらに誘爆が続く.
それは,ヤルダバオートの断末魔の叫びの様だった.
体が沈むのに反応して魔法の箒の浮力が発動したので,グリシャムは,腕一本で箒にぶら下がる形になった
だが,シノノメはまだ床とともに沈みゆく塔の上だ.
わずかに残った床の残骸の上に立っている.
「シノノメさん! つかまって!」
グリシャムは,目一杯手を伸ばした.
だが,シノノメは呆然と立ち尽くしてグリシャムを見上げるばかりだ.
まだ,目から涙が流れ続けている.
「シノノメさん,さあ! 手を! 手を伸ばして!」
グリシャムの眼に涙がにじむ.
「シノノメさん! みんなのところに,帰ろう!」
シノノメは,いやいやをするように,ゆっくり小さく首を振った.
「駄目,シノノメさん!」
爆音が響く.
ベルトランの野望の塔が,崩壊する.
塔は誘爆の連鎖反応を起こし,次々に崩れて行く.
「う……もう限界……」
箒をつかむグリシャムの手が,次第に開き始めた.
だが,まさに箒を離して落下しそうになる瞬間,白い影が高速で飛んで来た.
影――天馬に乗った人物は,グリシャムの胴を抱え込んだ.
「おい,魔女! 危ないぞ!」
「あ,アルタイルさん!」
天馬オルフェウスに乗ったアルタイルが救出に来たのだ.
「シノノメはどこだ?」
「あそこです! まだ,あそこにいます!」
グリシャムはアルタイルに横抱きにされながら,必死で崩れゆく塔の一角を指差した.
「よし! 馬にしっかりつかまってろ!」
グリシャムを自分の前に乗せ,アルタイルはオルフェウスの鼻先を塔に向けた.
手綱を取り,超高速で突っ込む.
しかし,行く手を阻むように土砂と瓦礫の山が飛び散った.
天馬とアルタイルは人馬一体となってそれを躱し,塔に近づいていく.
グリシャムは必死でオルフェウスの首につかまり,目を凝らした.
シノノメは降り注ぐ瓦礫と立ち昇る粉塵の中,幼い子供の様に体を震わせて泣いていた.黒騎士が倒れてくる梁や柱を体で受け止め,シノノメを守っている.
「シノノメさーん!」
シノノメに声が届かない.
降り注ぐ瓦礫のせいだけではない.
彼女の心が,自分の手の届かない遠くに行ってしまった.
「シノノメさん!」
必死で叫ぶ.
だが,立ち昇る粉塵が,倒れくる巨大な瓦礫が彼女との距離を引き裂く.
「く……これ以上は……もう無理だ!」
「駄目です! あきらめないで! アルタイルさん!」
「無理だ!」
アルタイルはやむなく高速離脱した.
そして,爆音と共に,塔が完全に崩れ落ちた.
グリシャムが最後に見たのは,シノノメの頭上に降り注ぐ大量の瓦礫を黒騎士が必死で支えている姿だった.
「シノノメさーん!」
グリシャムは慟哭した.
中天の月は,グリシャムの哀しみとは裏腹に,清々しいばかりに輝いていた.
冴え冴えとした月の光が,戦いの汚濁にまみれた電脳世界を静かに美しく浄化していく.
ユーラネシアの大地と全ての人々に,平和が帰ってきたのだ.
地上から,塔を脱出したアルタイルとグリシャムを讃える声がする.
シノノメが救った兎人や,素明羅の猫人達,反乱軍の兵士たちが一斉に手を振っているのが見える.
みんな,シノノメを待っている.
「シノノメさん……」
グリシャムは,もう一度泣いた.
第二部,カカルドゥア編に続きます.