13-1 地獄の門
アイエル――璃子は、ゆっくり目を開けた。
VRMMOマシン,第五世代ナーブ・スティミュレータ”シンクロン”のバイザー越しに自室の天井が見える。
独り暮らししている、ワンルームマンションのベッドの上である。
視野の片隅にゲーム・オーバーの文字が見える。
相打ちぎりぎりだったが、一応勝利と判定されたらしい。
ため息をついて頭につけた機械を外し、伸びをして首を回した。関節がペキペキと音を立てる。
「ああ、怖かった」
モードレットの断末魔の顔が脳裏に浮かび、身震いした。
そう呟くが、思わず口に笑みがこぼれてしまう。
もちろん、シノノメと一緒にベルトランと対決できれば一番良かったが、ノルトランドの四天王を倒すことができたのだ。みんなの役に立つことができたと思う。
しかも、憧れのシノノメの魔法を発動させて。
なかなかの活躍ではなかったろうか。
シンクロンの側頭部についた液晶パネルの表示時間を見た。
再ログインタイム可能時間まで、あと2時間、って判定だな。
最長で8時間、未成年なら4時間の使用時間制限がある。
だが、脳の過負担があると判定された場合や健康上の問題があると判断した場合には強制的に切断されることもある――もちろん、事前にメッセージが出てくるが。かなり脳を酷使したと判定されたらしいが、これであの戦いに負けていたら――要するに殺されていたら――ログイン可能時間はもっと先に延びただろう。
うまくいけば、戦争が終わるころにはもう一度参加できるかもしれない。
「あ……」
机の上の電話が鳴った。
スマホ――と言う昔からの名前で呼び慣れているが、形状からデバイス・カードと呼ぶ者もいる。
理論的にはもっと薄くできるらしいが、手で持ちにくいのでそこそこ厚みがある。折りたためるカード状の携帯端末だ。
ビューフォン――テレビ電話だった。
「あちゃ……」
表示された着信の名前を見て、若干ため息をつきながら通話ボタンのアイコンに触れて電話を取る。
「もしもし?」
『姉ちゃん! 姉ちゃん! 俺、感動したよ! 姉ちゃん、かっけぇ!』
弟の数馬である。
彼は一度シノノメやセキシュウ、そして姉――アイエルとともにパーティーを組んだことがある。
「ははは……見てたの?」
身内のべた褒めに、照れ笑いする璃子であった。
『当たり前だろ? 多分今日本中の人が見てるよ。海外配信もされてるから、アメリカとかオーストラリアの人も見てるんじゃね? 俺、今寮のテレビで見てた。姉ちゃん、すげえ! あれ、シノノメさんの魔法だよな?』
「まあ、最後は抜塞の型になっちゃったけどね」
『だからよー! 沖縄空手の技でとどめだろ! ウチンナチューとしては最高だよ! 最近ゼブラパンも食べれないし、スカッとしたぁ!』
「ゼ、ゼブラパンが県外にあるわけないでしょ。ポーク卵も、サンエーもないからね。あんまり言っていると恥かくよ」
弟の数馬はサッカーの推薦入学に合格し、地元の沖縄から静岡の名門高校に入学して,寮生活を始めていた。
『もう,一緒に見てたみんなも,カッコいー!って大騒ぎだよ。部の先輩も、アイエル姐さんに惚れたって言ってる。ネットアイドル並みの人気だね! きっと地元でも見てる人いるんじゃねぇの?』
「あんた、まさか正体があたしだってばらしてないでしょうね?」
璃子は真っ赤になっていた。
『わ、分かってるよ、さすがに言ってないって』
「それより、シノノメさん達や、みんなどうしてるの? もちろん、ネットTVじゃ全部の展開が見れるわけじゃないだろうけど」
プレーヤーでいる間は、全体の事態や戦況が把握できないのだ。素明羅の首都,斑鳩や、戦闘状態の南都の様子はほとんど分からない。
『早く、姉ちゃんも見た方がいいよ。南都の西門は陥落して、セキシュウさんがランスロットと戦ってる。でも、厳しそうだ』
「シノノメさんは?」
『まだ、テレビに出てこない。姉ちゃんのパソコンで見れない? 友達になってるから、見れるんじゃない? そう思って電話かけたんだ。 シノノメさんがベルトランに勝てば、みんな大丈夫なんだろ?』
ということは、シノノメとグリシャムはまだ廊下を移動しているということだ。第三階層の、ベルトランの部屋に向かっているはずなのだが……
璃子はベッドから飛び起き、机に敷いてあるマット状のノートPCを開いて立ち上げた。これも、空間投影型モニタがあるのだが、せまいマンションで他の物と重なり合うととても見づらいので、学生用の安い液晶モニタである。
マグナ・ビジョンのアイコンに触れ、IDとパスワード、検索キーワードを入力する。
アイエルの要望は承認され、ウインドウにシノノメとグリシャムが映し出された。タッチパネルをスクロールして拡大すると、監視カメラで見ているような画面になり、表情が見える。グリシャムが不安そうだ。
『どうなってる?』
「シノノメさんとグリシャムは、三階の回廊にまだいるね。……シノノメさんは、まだ目が見えないみたい……」
『シノノメさんなら,大丈夫だよ!』
「うん……そう信じたいけど……えっ! 今,何時?」
アイエルは,ふと気づいてディスプレイの端に表示された時間を見た.
「これ,まずいよ! すごくまずい! シノノメさんも,グリシャムも,気付いてないのかな!?」
『姉ちゃん,どうしたの?』
「これじゃ,ベルトランに勝てない! もしかすると,絶対に……少なくとも,とんでもないピンチになる……ユグレヒトが何か対策を考えていればいいんだけど……」
『ど,どういうこと?』
「それは……」
***
「シノノメさん,大丈夫?」
「うん」
グリシャムはシノノメの手を引きながら歩いていた.
シノノメは魔包丁を仕舞い,右手に杖の代わりなのか――布団叩きを持って歩いている.
視覚障碍者がするように,布団叩きの先で時々床を叩いていた.
「まだ目は見えない?」
「ぼやーっと少し,な感じ」
二人は三階に上がり,回廊を歩いていた.
やはり不気味な装飾がそこかしこにある.
骸骨,爬虫類,甲殻類.
シノノメの目が見えていたら,間違いなく,「キモい!」を連発するところだ.
グリシャムは次の行動に迷っていた.
時間が惜しい.
そのまますぐにベルトランの広間に向かうか,あるいはシノノメの目の回復を待つか.
確か,モードレットはダメージを三倍にして返すと言っていた.
彼がシノノメの‘電球魔法’に目をくらませ,シノノメがスケルトンたちを片付けていたのは十分から十五分程度.ということは,三十分から四十分の間目が見えないということになる.
「大丈夫,もう少ししたら見えるようになるよ.だから,このまま行こう」
グリシャムの迷いを察して,シノノメが言った.
「でも,目が……」
「早くベルトランをやっつけないと,みんな大変でしょ? それに,だいぶ慣れたよ」
シノノメはそう言って笑顔を作った.
「えーと,……右に,柱と変な彫刻があるでしょ? 当たってる? それから,左の奥の方……あれが扉かな? 真正面の向かい,顔の高さくらいに小さな窓があるね」
「え……?」
全て当たっている.
見えているのだろうか?
グリシャムは一瞬シノノメの目を覗き込んだ.
しかし,グリシャムの顔に焦点が合わない.
「どうして分かるの?」
そう言えば,さっき階段を上がりきるころから,自分の手にすがってくる感じが少なくなっていた.最初はシノノメの手を引っ張っていたのに,今は手をつないでいるだけである.
きちんと方向が分かって,自分で歩いているのだ.
「えーとね,これで叩くでしょ」
シノノメは,布団叩きの先で石畳を軽く叩いた.
「そうすると,右の方からドの音がして,前にずっと広がって音がなかなか帰ってこないし,左から高いミの音がするよ.これは木の音だと思うよ」
そう言うと,シノノメは右手の柱から突き出た不気味な装飾――苦悶の表情を浮かべた兵士の彫像――をひょいと避けた.
「舌鼓でもわかるよ」
シノノメはコロコロと舌を鳴らした.可愛らしい音が回廊に響く.
「床は石だけど,絨毯があるね.足の感覚でも分かるし.あと,グリシャムちゃんがどっちに動くかでも感じ取れるよ.そこ,床に出っ張りがあるね.ここで曲がるんだね」
床近く,柱の装飾が突き出た部分を,グリシャムはまたいだ.
角を曲がれば塔の深部に繋がる方向だ.ベルトランの間の方向,奥へ奥へと思って進んでいたのだが……
「お,お前達,ここから先は,通さないぞ!」
角を曲がると,一人の兵士が出て来た.単発銃を構える手が震えている.
兜には穴が開いており,白くて長い耳が飛び出している.
NPCの兎人兵士だった.
残念ながらちっとも強そうに見えない.一般のクエストなら,モブキャラとしてあっという間に命を落とすかもしれない.
兎人なんて,一番戦闘に向かないのに……それほどにも塔の中の警備には気を遣っていないという事ね……
そう思いながらグリシャムは杖を向けた.
「フルーラ・バブル」
グリシャムとシノノメをシャボン玉が包む.
「う,うわあ!」
怯えた兎人は誤って引き金を引いたが,弾はバブルに柔らかく弾かれて,コロリと床に落ちた.
「あなた達,NPCは私たちには勝てません.降参しなさい」
兎人がそれでも震える手で刀を抜こうとするので,グリシャムは杖を構えた.
「待って,グリシャムちゃん」
「どうしたの? シノノメさん」
「あなた,ミウっていう兎人の子知ってる? 三歳くらいの女の子」
シノノメは,見えない目で兎人の方を見た.
「ど,どうして……」
兎人は刀を抜く手を止めた.だが,震える手も止まっている.
戦闘の興奮状態から,‘平時の自分’に帰ったのだ.
シノノメの言葉が,彼を日常に呼び戻したと言ってもいい.
「アスガルドに行った時に会ったの.あなた,あの子の声にイントネーションが似てるよ.お父さんなの?」
「た,確かに,ミウは私の娘です……それが声だけで分かると? 」
「ミウのお父さん,あなたの名前は? 」
シノノメは頷いて質問した.
「バーニルです……あなたは,ミウを知っているんですか? ……まさか,侵入者でなく,秘密警察の方?」
バーニルはすっかり毒気を抜かれ,逆に怯えている.
「違うよ.ミウは,食料品のお店で,おばあちゃんと一緒に店番してたよ.お腹がすいたって言ってたから,チョコレートをあげたら嬉しそうにしてた.あなた達,無理やり戦争に連れて来られているんでしょう?」
「お……おお……もう,あの子にもお袋にも当分会ってない……」
バーニルは感極まったらしく,泣き始めた.
「こんな所にいないで,早くお家に帰ってあげて.ベルトランは,私がやっつけるよ.」
「べ,ベルトランを!? ……あなたは一体,何者ですか?」
「私は,シノノメだよ」
「あ……あなたが,東の主婦? 侵入してきたとは聞いていましたが……まさか本人とは!? ……もっと恐ろしい,魔女みたいな人かと思ってました」
「こう見えても,魔法は使えるよ?」
「ノルトランドには,本当に恐ろしい魔女がいるんです」
バーニルはちらりとグリシャムの方を見た.
「噂に聞く,‘邪眼のモルガン’ですね? メデューサみたいに,見た物を石にしてしまうという……」
「そうです.石化の魔法を使うのです.もう,何人が刃向って石にされたか……」
「じゃあ,さっきの彫像も……」
「そうです,もとは同僚の兵士です」
シノノメは顔をしかめた.内心,相当怒っているに違いない.
「こっちへ進むと,ベルトランのいるところ?」
「そうですが……そうか,あなたは彼を倒しに来たんでしたね.でも……いや,何故か,私はあなたならやってくれる気がしてきました」
「じゃあ,案内してくれる? あなたは私に脅されたっていう事にすればいいよ」
「……分かりました.では,ご案内します.」
バーニルは涙をぬぐい,前を歩き始めた.
「こちらを回れば,もう警邏の兵士はいません.そして,会ったとしても,皆私と同じ地区から集まって来た兎人しかいませんから大丈夫です」
「ありがとう,バーニルさん」
グリシャムとシノノメは後に続いた.
シノノメはもうすっかり自分の足で方向を見つけて歩いている.時々舌をチチ,とかコロコロと鳴らしていた.
……これって!
グリシャムはあることを思い出した.
……エコー・ロケーションだ!
イルカやコウモリは,超音波を出してその反響を捉えることにより,障害物を避けたり,獲物を捕らえたりしている.
その能力が,エコー・ロケーションである.
それと同じことができる人間が,まれにいるのだ.
多くは,幼いころに視覚を失ったり,先天的に視覚のない人たちだ.
杖で物を叩いたり,舌を鳴らした音の反響によって,物の立体的な位置関係や,形までも把握してしまう.
言わば,耳で物を見る能力だ.
SFの中の話ではない,現実にある超能力と言ってもいいかもしれない.
しかし……
まれに自然に身につけるケースはあるというが,習得するには基本的に長時間の専門的な訓練が必要なはずだ.
細胞移植で視覚が改善できない患者さんには,そういう訓練をすることがあると,同僚の眼科医や視覚療法士に聞いたことがある.
なのに,シノノメは,二階からここまでやってくる僅かな時間に,自分でその能力を身につけてしまったことになる.
そんな馬鹿な……
それに,さっき反響音を音階で表現していた.あれはおそらく,絶対音感ではないだろうか.兎人の親子も声で判別していた.
「シノノメさん……耳がいいんだね……」
「ううん,別にそんなことないよ.目が見えなくなっちゃたから,耳を澄まして頑張らないとね.ベルトランに会うまでには,戻るかなあ」
シノノメはそれを別に不思議なことだと思っていないようだ.
人の顔や名前を覚えるのは苦手なのに,何故だろう.
「シノノメさん,本業は音楽家か何か?」
「へ?」
「だって……」
「普通の主婦だよ」
「え! ということは,本当に主婦なの?」
「あー,言っちゃった.でも,内緒にしててね」
シノノメは悪戯っぽく笑った.
また一つ,シノノメのプライベートを知ることができたが,その反面,謎が増えた.
普通の主婦が,何故こんなに明確なボディ・イメージ,体の位置感覚を持ち合わせているのか.
何故一年足らずのうちにVRゲームのトップになることができたのか.
奇抜な発想力と卓越した想像力.
異常に高い身体能力.
そして,エコー・ロケーションに絶対音感.
パーシヴァルとの対決を見ていて感じたが,情報処理能力の全く違う脳を持っているとでもいうのだろうか.
口ぶりからは,自分より何歳か年下,十代の終わりか二十代の前半のようだが――時々,びっくりするくらい幼いように感じる時もある.それが魅力でもあるのだが……
そういえば,アルタイルは初めてシノノメに会ったとき,人形の様だったとか妙なことを言っていた.
……シノノメさんって,何者……?
ふと見ると,敵地にあって,それも最大の決戦を前にして何故かシノノメの顔はほころんでいた.
「どうしたの?」
「えーと,お家のことを考えてたの」
「幸せそうだね.もしかして新婚さん? 旦那さんのこと?」
シノノメは突然真っ赤になった.どうやら図星だった.
「大好きなんだね」
シノノメの顔はますます赤くなる.まるで熱があるようだ.
とても幸せそうに見える.だが……叙勲式の日の,セキシュウのあの言葉は何だったのか.
『あれは……とても幸せとは呼べない……』
グリシャムがそんなことを考えながらバーニルの後についていくと,回廊は終わりに向かっていた.
突きあたりに,大きな両開きの扉がある.
ブロンズ色で,門の表面には苦悶の表情を浮かべた人間たちが埋まりこんで装飾となっていた.外観は彫刻家ロダンの作品,‘地獄の門’に似ている.
しかし,おそらく扉の彫像は石化された人間そのものなのだろう.
――この門をくぐるものは,一切の希望を捨てよ――
ダンテの神曲,地獄篇の一節がグリシャムの頭をよぎった.
門の前には,茶色の耳を持った大柄な兎人の兵士が立っていた.
「おい,バーニル! そいつらは!? あっ! 東の主婦じゃないか!」
「ありゃ? 私の事知ってるの?」
「西留久宇土攻略戦の時に,見たぞ.羽根の生えた猫に乗って空を飛んでいただろう! 俺も従軍してたんだ!」
「じゃあ,タジン鍋で蒸し焼きにした人?」
シノノメが見えない目を瞬かせた.
「ど,どういう事だ? バーニル! お前,裏切ったのか?」
「いや……! ウラビミル,そうじゃない……」
ウラビミルと呼ばれた兎人の兵士は槍を取って,シノノメに向かって突き出してきた.兎人としてはなかなか鋭い動きだが,もちろん,パーシヴァルに及ぶべくもない.
シノノメは布団叩きで槍をからめ捕り,ウラビミルを引き倒してしまった.杖術の要領で,完全にウラビミルの肩関節をロックしている.
もちろん目が見えないので,彼の足音や振動,空気の流れで距離や動きを感知して技を使っているのだった.中国拳法の聴勁に似た技法で,セキシュウから習ったものなのだが,シノノメは全く無意識に使っていた.
ウラビミルは槍ごと床に体を抑え込まれ,目を白黒させながら言った.
「バーニル! 俺たちは,みんな連帯責任なんだぞ! こんなことがばれたら,俺もお前も,一族郎党まで処刑されるんだ!」
「そんなことは私がさせないよ?」
シノノメの目の焦点が自分を見ていない――目が不自由な状態であることに気付いたウラビミルは,戦慄した.自分では,シノノメに全く敵わない――同時に,ここにいるという事が意味すること――シノノメが下の階層を守るベルトランの側近達を退けてきたことを悟った.
「あんたが強いのは知っている.よく分かったぜ.だが,俺たちはどうすればいいんだ? これじゃ,エフナルの親戚まで殺されてしまう……」
ウラビミルはがっくりとうなだれた.力が抜け,抵抗の意志がない――というよりも,抵抗を諦めたことに気付いたシノノメは,ウラビミルの体を解放した.
「エフナル村ですか? 私,魔女のグリシャムです.その節はどうも……」
グリシャムは帽子をとって頭を下げた.
「おお! あなたがあの!? 皆の命を救ってくださった!」
ウラビミルは顔を上げた.
グリシャムは‘デミウルゴス’という組織の人間に利用されたことがある.
新しい薬の開発に是非協力してくれと言われ,エフナル村の兎人を実験台に薬物治験を行ったのだ.
その結果多数の人に副作用が起こり,あわや死人が出るところを,何とか救命したのである.
「あれは,私が騙されたのであんなことに……お助けしたのは当然です」
「いや,エフナルの連中の語り草ですよ.その時に悪い魔法使いもあなたが追い払って下さったんでしょう? あなたが救った子供,ピーターは私の甥です」
シノノメに向けた敵意は消え去り,グリシャムへの畏敬の念からウラビミルの言葉は改まっていた.
「あ,あなたはピーターのおじさん? ピーターは元気ですか?」
「大丈夫です.アスガルドに比べれば,あそこは食糧事情もいいですから.ただ,父親は徴兵されてしまいました……」
兎人達が迫害されている様子を聞き,シノノメは怒っていた.
「ウラさん,そこの扉がベルトランの部屋の入り口?」
「あ,ああ……」
「通して.私達,みんなやっつけてくるよ」
「そんな! いくらあんたでも,無理だ!」
シノノメはウラビミルよりも小柄だ.どう見ても自分より華奢な女性の二人組である.とても強そうには見えない.
だが,間違いなく奇跡のような力を持った素明羅最強の戦士なのだ.
信じたい気持ちはもちろんある.さっきは驚異的な技を見せつけられた.
西留久宇土で颯爽と空飛び猫に乗って戦う姿も見ている.
もしシノノメが自分たちを解放してくれたら……
その反面,負けたらどうなるのか……
敵を手引きした自分たちは,間違いなく処刑される.
ウラビミルは逡巡していた.
「中にいるのはベルトランだけではないんだぞ! 邪眼の魔女モルガンも,謎の魔法を使うヤルダバオートもいるんだ.正直,ベルトランよりも奴の方が怖い.我々の間では,ベルトランはすでに奴の傀儡になっているという噂もあるんだ!」
声をひそめながら,ウラビミルは忠告したが,シノノメは首を振った.
「分かってる.でもね,私は,やらなきゃいけないの」
「だが……たった二人で?」
「そう」
シノノメの言葉に,グリシャムも相槌を打つ.
「それから……ここはどうなるか分からないから,早く逃げてね」
「逃げる……?」
ウラビミルとバーニルは顔を見合わせた.
「そうです.逃げてください.危険です」
グリシャムは頷いた.
彼女はシノノメの最大魔法が発現した時の様子を知っている.この移動要塞ごと消滅させかねない.
「この下らない戦争は,もう終わりにするから.他のみんなにもそう伝えて.もうすぐ家族そろって,ビーツの入ったボルシチが食べられるようになるよ」
シノノメの言葉に,二人の兎人は目頭を熱くした.
人間の王が支配する剣の王国ノルトランドにあって,戦闘に向かない人種として最下層の扱いを受けて来たのだ.
こんな言葉をかけられたことは,そして希望を与えられたことすらなかったのだ.
「分かりました.私たちはあなたを信じます.そして,要塞中の兎人に声をかけます.ですが,ただ逃げることはしません.あなたとあなたのお仲間を,必ずお助け致します」
ウラビミルは心を決め,力強く頷いた.いつしかシノノメに対する口調も丁寧な物になっていた.
「無理しないでね」
シノノメは笑った.
「ですが……本当に……これでは,正面突破ですが……それでいいのですか?」
「開けた時,一番最初に出てくるのは,モルガンっていう,石化の魔女なんでしょう?」
「おそらく……」
「だったら,大丈夫.開けてちょうだい」
力強くうなずくシノノメの言葉を,ウラビミルは信じることにした.
彼は取っ手に手をかけ,力を込めた.バーニルも手伝う.
ベルトランの広間――地獄の門がついに開かれた.
鋼鉄の門がゆっくり両側に開いていく.
グリシャムは思わず唾を飲み込んだ.
シノノメの口元にはいつもの微笑が浮かんでいた.