12-4 不射之射
昔,中国に弓の達人を目指す紀昌という男がいたという.
瞬きを止め,極限まで視力を鍛え,的を射れば百発百中は当たり前,さらに名人と呼ばれた師のもとで修業を積み,的に命中した矢の矢筈に次の矢を当てることもできるようになった.
やがて奥義奥伝を得た紀昌は,師に勝負を挑んだ.
ところが,互いに相手を狙って打ち合うと,すべての矢は空中で激突して落ちた.ここに至って,紀昌は師と全く互角の弓技を得ていた.
「師匠と勝負?」
「ああ,天下一の達人になるため,師匠をも殺そうとしたんだ.戦国の世では,それも常だ」
セキシュウがこともなげに答えた.
「えげつないな」
アルタイルが唸る.セキシュウは話を続けた.
「身の危険を覚えた師匠は,老賢者――まあ,仙人だな――のところに修行に行くように勧めた」
紀昌がいくつもの深山を越え,会いに行った老人――名は甘蠅といった.
非常な高齢で,表情は柔和.戦士の精悍さなど欠片もない.
おまけに手先は震え,耳は遠い.
とても弓技の達人とは思えなかった.
そこで,紀昌は一本の矢で五羽の飛ぶ鳥を落として見せた.
「デモンストレーションだな」
「ああ」
ところが,甘蠅老人は,断崖絶壁の不安定な岩の上に紀昌を誘った.言うに,この不安定な足場でも,同じ技を見せてみろと.
甘蠅は全く平然と立っているが,紀昌には弓を構えるどころか立つことすらできない.
「なるほど,どんな場所でもその爺さんは同じような技ができたということか.平常心,ということなんだろうか?」
「いや,アルタイル,違うんだ」
老人は,弓も矢も持っていなかった.
全くの素手だったのだ.
不安定な足場で,見えない矢をつがえ,見えない弓を引き絞り,遥か深山の彼方を狙った.
甘蠅は無形の弓を引き絞り,見えざる矢を放った.
すると,彼方を飛ぶ鳶が撃ち落とされたのだ.
「な……? そんな馬鹿な!」
老人は言った.
弓,矢という道具を要するうちは所詮‘射之射’,斯道の深淵とはすなち,‘不射之射’であると.
紀昌は老人の下で九年の修業を積み,やがて達人となった時‘弓矢’というものの存在をも忘れていたという.
「そ,それはボケただけじゃねえの? やっぱり,所詮,作り話だよな」
「いや,小説とはいえ,一応下敷きにした中国の古典はあるのだ.俺はあながち完全なフィクションとは思わん」
「というと?」
「中国武術,特に内家拳などでは最終目標を宇宙,道と一体になることを究極の目標とする.無為自然の働きに身をゆだね,自然の法則に自分の体が感応するようになるとな.剣禅一如を説く日本の剣術も,最後は自然との一体,無念無想を理想とする」
「それは,だから,概念的な話だろう? 俺が言いたいのは,そうじゃなくって……」
「ふふん,分かっているよ.だが,この‘不射之射’,本当にできるかもしれんと言ったら,お前は信じるか?」
「え? ……本気か?」
「俺も,片鱗ならば見せられるかもしれん」
「ま,マジかよ?」
セキシュウは少し悪戯っぽい笑みを浮かべた.
「やってみるか?」
「お,おう」
「立ってみろ」
二人は赤く染まる草原の中,立ちあがった.傍らではシノノメがそれを不思議そうに見ている.カタリナは優しく見守っていた.
「では,まず,俺を突いてみろ」
「どういう風に?」
「どういう風でもいい.思いっきり,好きなように殴れ」
言い終わるが早いか,アルタイルは右のストレートをセキシュウの顔にぶち込んでいた.
が,当たらない.
当たらないどころか,いつの間にか右外に移動したセキシュウの掌が顔に突き出されている.
慌ててアルタイルは身をよじって逃げようとしたが,セキシュウの掌は絶妙の位置にあった.
アルタイルは,ストン,と尻もちをついた.
シノノメがハハハ,と笑う.
「こら,シノノメ! ここは笑うところじゃねえ!」
「ごめんなさい」
シノノメがぺこりと頭を下げて,無表情に戻った.
「今,何故倒れた?」
「いや,かわそうとしたが,体が……」
勝手に倒れたのだ.
あれ以上身をよじってもかわしきれないと,体が判断した.
「そうだ,体が勝手に倒れるように動いただろう.一種の反射だな.倒れることが最も安全と,お前の体が判断したのだ」
「なるほど,でもこれが……?」
セキシュウが手を差し出したが,アルタイルは自分で立ち上がった.
「ここからが本番だ.少し離れた所から,俺を突いてみろ.また,好きなように,で構わない」
「分かった」
少し離れた所から突く――となると,どうしても拳法や空手に似たスタイルになる.刃物を持って突くスタイルにも似る.とりあえず,アルタイルは一歩下がり,ファイティング・ポーズをとった.
セキシュウは向かい合って立ち,今度は構えた.
空手の正拳突きを放つ前のポーズ――左下段払いに手を構え,騎馬立ちの横半身である.右拳は脇につけ,肋骨の下の方の高さだ.
アルタイルは,一歩踏み込んでパンチを放とうとした.
が,できない.
セキシュウから,恐ろしいまでの殺気が伝わってくるのだ.
「む……」
しばらく,じりじりと見つめ合いが続いた.
そして,ふっ……と一瞬,セキシュウの気が抜けた.
「シュッ!」
呼気とともに,アルタイルが大きく踏み込んで左ストレートを打ち込もうとした瞬間……
「倒!」
ブルッと鋭く震えるように,セキシュウの体が動いた.
腹に,衝撃を感じた.
「うわっ!」
今度は軽く吹き飛ばされた.派手に転んだので,またシノノメが笑った.
見上げると,セキシュウは拳を突き出しているが――その先は,自分に届くはずのない場所だ――.
「どうした? 俺の拳はお前に触れていないぞ?」
セキシュウがにやりと笑う.
「な……何だこれ? お前,き,気でも出せるのか? 何とか波,とか?」
今度はセキシュウの手を借りてアルタイルは立ち上がった.
「ははは,非科学的だな」
「非科学的って……魔法のスキルなんて,お前持ってないよな?」
「武術としての気,気合は出したが,漫画やアニメみたいに,手からエネルギーやビームが出る訳ないだろう.おっと,今ここはゲームの世界だった」
シノノメはよほど面白かったらしく,キャッキャと笑っている.アルタイルはシノノメを少し睨んだが,それよりも自分の身に起きた現象を知りたくて仕方がなかった.
「暗示……感応と言った方が良いのかもしれないがね.人間の脳は,錯覚を起こすようにできているという事だよ.催眠術で,体を傷つける暗示をかけると実際に傷ができるというのは聞いたことがないか?」
「ああ……幼い子供とかでは,あるって聞いたことがある.箸を持たせて,焼けて熱いぞ,とか言うとほんとに火傷ができるとか」
「お前は,実際に俺の拳のダメージを予想し,それを体が感知して――脳が錯覚して信号を受け取ったという事だ.程度に大小はあるが,格闘技の選手はフェイントでこういう技を使っている.さらに言えば,バレーボール選手のブロックや,バスケットボール,サッカー選手が相手をかわす動きでも見ることができるぞ.体の筋肉の収縮や姿勢,重心の移動――目や触覚,振動,聴覚で相手の動きを誘導しているんだ.それは皆多かれ少なかれやってる事さ.良くあるのは,街で道の譲り合いをして,同方向に動いてしまう事があるだろう?」
「だが,これは,それとはレベルが違うぜ!」
アルタイルは,腹を撫でながら言った.間違いなくここに拳が当たったように感じたのだ.彼にしては珍しく,素直に感動していた.
「俺たちの脳は,不思議な誤作動を起こすということだ.前に合気道の達人が,銃弾の軌道が見えたという話をしたことがあるだろう? 俺が思うに,相手の銃口の位置や筋肉の緊張の度合い,引き金にかかる指,あるいは視線,そう言った情報を処理して,脳がそう見せているのではないかな?」
「むう……」
「優れた舞踏家の舞踊もそうだ.歌舞伎や能では,たいした小道具やセットがなくても,舞い散る雪や紅葉の葉を感じることがある」
「確かに,そうだな……」
芸能人という職業柄,観劇の機会も多い.アルタイルはうなずいた.
「これらのことは,幻覚や単なる神秘体験と断じてしまうには単純すぎると俺は思う.さすがに,鳥を落とすのは無理だろうが,人間同士なら,こういった情報を十分に受け取れば,体にダメージを感じるという事は十分考えられる」
「なるほど……俺にもできるかな?」
「ああ,修練すれば,そして一定の条件が整えばできる筈だ.それに,ここはゲームの電脳世界だから,もっとやりやすいかもしれない」
「どういう事だ?」
「感覚器――目や耳,実際の触覚などを介さず,直接脳同士の情報のやり取りだからさ.機械を介してとはいえ,こちらの脳情報が,直接相手に伝わるわけだ.特定の条件で伝われば……ひょっとしたら,飛ぶ鳥さえ落とせるかも知れんぞ?」
「すげえ! 俺に教えてくれよ!」
「いいだろう……実現するための条件は三つある」
***
夕日に染まったセキシュウの顔を思い出し,アルタイルの口元にわずかな笑みが浮かんだ.
目の前には,仁王立ちで双剣を構えるグウィネビアがいる.
美しい顔は狂喜で歪んでいた.
やってみるしかねえ……
あの後セキシュウから聞いた,‘条件’をアルタイルは思い出していた.
まず,体を真っ直ぐに,正中線を立てる――.
『一つは,その所作が完璧であることだ』
『演技,っていうことか? 迫真の演技なら,得意だぜ?』
音楽活動もするが,俳優は彼が最も力を入れている仕事の一つである.
『いや,アルタイル.それは,演技であってはならない.本物の殺気と,気合を込めなければならない』
――一つ目,本物の動きであること――
アルタイルはゆっくり矢筒から矢を抜き取り,いつもしているように左手の弓につがえた.精神統一するなら,和弓の動きがいい.
弦をゆっくり引き絞り,狙いをグウィネビアにつける.
左腕に鈍い痛みが走る.
力いっぱい弓を引く.胸筋と腕の筋肉が盛り上がる.
矢筈をつかむ右手と,弓を握る左手.そして目に,本物の殺気を込める.
「何だ? お前? 頭でもおかしくなったのか?」
グウィネビアの顔から笑みが消えた.
『次に,自分の技を信じることだ』
『信じる……?』
――この一撃,一射が,確実に相手を倒すと信じ切ること.自分の技が当たれば,確実に相手を倒すことができるという,自信を持つこと.
「……いいや,これこそ,今の俺に出来る究極の奥義さ」
いつしか,アルタイルの顔には静かな笑みが浮かんでいた.皮肉屋の彼がいつも浮かべている苦笑や,嘲笑ではない.古拙の笑み――仏像の笑みにも似た笑みである.
「……不射之射」
静かに呟く.彼のたたずまいは,波一つない水面のようであった.
「馬鹿な! 無手で矢を放つなど……」
グウィネビアは逆にうろたえていた.
アルタイルの射線を外すべく,体を左右に開いてみるが,無形の弓を握る左指の先は,ぴたりと自分に向けられている.
というより,見えない矢をどうやってかわせばいいのか.
いや……こんなのはただのハッタリだ.
しかし……音に聞くアルタイルほどの戦士が,そんな事をするだろうか.
もしかして,自分の知らない特殊なスキル,何かのアイテムがあるのではないか.
そうだ,ここはVRMMO世界,ゲームの世界だ.それをアルタイルが身につけていてもおかしくない.
いや……やっぱり,そんなことはない.
見えない矢なんて,聞いたことがない.
でも,しかし……でも…….
彼女の心は疑心暗鬼,行き処のない迷路に陥っていた.
鼓動が早まり,視界が狭くなり始めた.
双剣を握る手に,にじむ汗を感じる.
アルタイルが実際に,光る弓と矢を持っているような錯覚を感じ始めた.
それは黄金色の光を放ち,彼の背丈をも越える,巨大な弓矢だ.
心臓を打ち抜かれれば,自分の体は簡単に四散してしまうのではないか.
実社会で自信が持てない女――グウィネビアはそう自覚している.
昔に比べて随分女性の労働環境が改善したとはいえ,やはり社会の中で要職についているのは男性が多い.その中で,自分はかなり頑張って来た方だと思っている.
だが,仕事ができても,‘女にしては’と思われているのではないかと思ってしまう.逆に,仕事ができなければ‘女だから’と思われているのではないかと思う.
男性から容姿を褒められても,相手が嘘をついているのではないかと疑ってしまう.
仲がいい筈の同僚の女性が,陰で自分の悪口を言っているのではないかと不安になる.
数多く裏切られる経験をしたから,というのもある.子供の頃,母親に手ひどく怒られてばかりいたのもあったかもしれない.
原因は自分でもよく分からない.
だが,他人の言葉を信用することができない.
自分に自信がどうしても持てない.
いつも,不安に苛まれ怯えている.
その反動として,マグナ・スフィアでは相手を徹底的に叩き潰さないと気が済まない.男性の戦士以上に戦士らしく振る舞わなくてはと思ってしまう.
いわば,虚構のプライド――虚勢だ.
これまでの敵は双剣で切り刻めば戦士の誇りを失い,止めを刺してくれと哀願する奴ばかりだった.
だが,アルタイルは何だ?
堂々として,自信に充ち溢れている.
こうやって,傷だらけで,ほとんど丸腰で立っている今も,なぜ自分を信じていられるのか.
グウィネビアは,動揺していた.
アルタイルの心の中に,セキシュウの言葉が響く.
『最後に,完璧な機を捉えることだ』
「――相手の動作の起こり,終わり.精神が弛緩するわずかな隙を捉え,迷わずそこに全身全霊を込め,技を叩きこめ」
アルタイルは,静かにグウィネビアを‘観て’いた.
武術や伝統芸能で,他人の術技,技の深奥を見取る’観の目’である.
いまや,彼女の内面の動揺が見えた.
強圧的な態度は,自分自身への不信の裏返し.
そう察し,さらにその考えも頭の中から消えて行く.
グウィネビアのさらに向こう,塔の壁を透見し,山の向こうの鳥まで見える気がする.
やがて,手の中に握っている筈の弓矢の存在すら既に忘れていた.
グウィネビアが,ひどく無防備に前に出てきた.
正中線が崩れ,スピードがない.自分の動きに迷いが出たに違いない.
――機が来た――
「倒オオオオオオオオ!」
アルタイルは咆哮し,無形の矢を放った.
グウィネビアは,胸に鋭い衝撃を感じた.黄金の巨大な矢が鎧の胸あてを貫き,背中まで貫通した――そう確信した彼女は,思わず双剣を取り落とした.
「ぎゃあっ!」
胸を押さえ,前屈みになる.
「ああっ!」
突然,全身に受けた矢傷の激しい痛みを感じた.見えない矢に戦闘の高揚を打ち砕かれ,忘れていた痛覚が全身を襲う.グウィネビアは激痛のあまり,がっくりと膝をついた.
「うおおおおおおおお!」
さらなる機を見逃さず,アルタイルは走った.
右手に最後の矢を握り,グウィネビアの左鎖骨上窩――鎖骨の上のくぼみに突きたてた.
ここは,真っ直ぐ棒状の物を突き刺すと,自動的に心臓に到達するという急所中の急所だ.心臓に刺さらなくとも,鎖骨下動脈,腕神経叢といった重要な臓器が集中している.
「喰らえ!」
グウィネビアの両腕が,アルタイルを引きはがそうと宙を掻く.
アルタイルは体に走る激痛に歯を食いしばり,矢を固く握りしめた.
残された最後の力をかき集めて,全体重を矢尻の先に集中させる.
ズブズブと矢がグウィネビアに突き刺さっていく.
ふと,何かをつぶしたような感触が手に伝わってきた.
「ぐぬっ……」
アルタイルに残された最後の矢は,肺を貫き,見事にグウィネビアの心臓に刺さったのだ.
「あ……ああ!」
グウィネビアは倒れまいとして,アルタイルにすがりつくように抱きついた.
「なぜ……そんな……自信が……欲しい」
彼女の体はゆっくりと細かいピクセルに分かれ,空気中に消えて行った.
「へへ……やったな……」
アルタイルは床に大の字になって倒れた.
ホールの扉を激しく叩く音がする.ノルトランドの本陣防衛部隊が辿りついたのだろうか.
「くそ,もう一歩も動けねえ……」
扉が開けば雑兵どもが殺到して自分を殺すのだろう.だが,限界だ.できれば殺される前にはログアウトしたい.
「だが,何でもいいや.シノノメ,頑張れよ」
不思議に満ち足りた気持ちで,アルタイルは目を閉じた.
それは,アメリア大陸でのデスゲームでも,ユーラネシア大陸の彷徨でも,ずっと得られなかった充足感だった.




