10-3 突入
ノルトランドの大砲の音を合図に,シノノメ達の戦いが始まった.
ベルトランの移動要塞も,これまでのユーラネシア大陸にない乗り物である.
ラグビーボル型の巨大な気球に,高密度の魔素を詰め,それを横に4つ並べて繋ぎ合わせ,土台とする.その上に筏状に鉄骨と石材,木でプラットフォームを組み,城を建てている.
プラットフォーム上の要塞の重さで気球は空高く飛べないが,魔法使いが管理することで陸を行く船,ランドシップとでもいう物になっていた.現実世界でいえば,ロシア軍が保有しているような巨大な軍事用ホバークラフトに似ている.もっとも,建造を命じられたのが異世界人なのでそこはそれ,デザイン的には陸の上に浮かぶ城である.
この移動要塞を背後から襲う者がいないか,近づく敵はいないかを調べるため,飛竜の哨戒部隊が配備されていた.特に,ホウテン山の裏は要塞から死角となる.それを配慮していないベルトラン,あるいはノルトランド軍ではなかった.
アイエルの放ったフレシェット弾は,見事に数羽のワイバーンを撃ち落とした.距離にして三百メートル.ワイバーンの乗り手は,シノノメ達の接近には全く気付いていなかったようである.
「やった!」
「まだだ!」
グリシャムとアイエルの乗る箒の背後から,白銀の矢が飛ぶ.
矢は先頭から二番目の男の持っていた水晶玉を貫いてそのまま男を射落とした.
「本隊への連絡を阻止しなければ! 安心している場合じゃない,一羽でも本体に帰すわけにはいかない!」
グリシャムの痛罵から復活したアルタイルは,次から次へとつるべ打ちに矢を放った.
一発必中,一本の矢が確実に一羽のワイバーンを倒して行く.乗り手は魔石になって光りながら落ちるワイバーンとともに,遥かな地面に墜落して行った.
「さすが!」
初めの高飛車な態度はともかく,弓矢の腕前は流石に伝説級だ.
アイエルは感心しながらも,自分のクロスボウに次々矢を装てんしては発射していった.
エルフの女王に下賜された‘黒豹のクロスボウ’には強力な貫通力が供えられている.アルタイルほどの正確さはないものの,時には二羽のワイバーンを貫いて倒していた.
「あと何匹!?」
「あと十匹はいるよ!」
グリシャムが箒の先をホウテン山の向こうに向ける.
できるだけ敵の武器の射程外から倒したかったが,飛竜部隊は二手に分かれ,攻撃に向かって来た.二羽は踵を返してホウテン山の向こう側,つまり本隊の方に飛んで行こうとしている.水晶玉を失ったので,直接敵襲を知らせるつもりなのだ.
「そうはさせるか!」
アルタイルの白馬が音速で宙を駆ける.衝撃波で軽く吹き飛ばされ,グリシャムとシノノメは態勢を立て直した.
アルタイルと天馬は瞬く間に接近し,伝令の飛竜を撃墜した.さらに振り向きざまに残った飛竜を片づける.
「こら! こっちに向けて撃ったら危ないでしょ!」
シノノメは怒るが,もちろんアルタイルは正確に飛竜を撃ち落として行った.
「あ,シノノメさん,そっち行った!」
一羽の飛竜の乗り手が,剣を抜いた.飛竜部隊は銃を持っていない.飛竜は銃声が苦手なのだった.
「おのれ,素明羅の犬め!」
人狼だ.鋭い牙を剥き出し,口元には黄色い泡を吹いている.グリシャムは薬剤師という職業柄,一瞬狂犬病の犬を思い出した.それほど兵士の様子は尋常ではなかった.
「えー,久しぶり,ノンフライヤー!」
シノノメが人差指と小指を立てて右手を回すと,飛竜と人狼は,外はサクサク,中身ジューシーな揚げ物になって川に墜落して行った.
高温の熱風を吹きつけることにより,油がなくてもヘルシーなフライができるのである.
当然,この程度でシノノメのMPは減りもしない.
「全く,相変わらずふざけた魔法だな」
飛竜を全部片付けたアルタイルが,川に浮かんでふやけた巨大な揚げ物を見下ろして,シノノメを揶揄した.
「だって主婦なんだから,いいじゃない!」
「そーだ,そーだ! 主婦魔法最強です!」
完全に女子,特にグリシャム対アルタイルの構図になっているのだった.初見の態度が,余程グリシャムの癇に障ったようである.
「くそっ,こんなに女に虚仮にされるのは,生まれて初めてだ……あの魔女め……」
ブツブツ言いながらアルタイルは手綱をひいてオルフェウスの鼻先をホウテン山の向こうに向けた.
山の稜線に沿って高度を少しずつ上げながら回り込んでいく.
頂上近くになって,やっと巨大な褐色の城が確認できた.
移動要塞である.
馬が走るほどの速度で,草原の上を移動している.ゆっくりに見えるが,それは要塞が巨大すぎるせいだった.
先行する騎馬軍団がその前に見える.黒っぽくずんぐりしているのは鋼鉄の箱車――戦車や,ゾウや竜を装甲で覆って戦車に仕立てた乗り物のようである.
「やっぱり,まだいるね」
シノノメの言葉に,グリシャムとアイエルが頷いた.
要塞の真上をゆっくり旋回する鳥のようなシルエット.
上空からの敵を迎撃するための飛竜,そしてずんぐりしたシルエットは炎竜だろう.国王を守るための部隊が控えている.
ただし,背後と両脇を守る部隊は比較的少なく,歩兵と騎馬のみで構成されていた.ノルトランドの背後を突ける者などいない,という自負の表れだろうか.あるいは,要塞の戦闘力に絶対の自信があるのかもしれない.
ただし少ないといっても,それぞれの部隊が一万人単位である.
「見たところ,右翼の守りは重槍部隊だな.銃は少ないと見た.銃の射程外から弓で倒して行って,血路を開くか……」
アルタイルは不敵に笑っていた.彼はゲームジャンキーで,危険なクエストほど面白がる性質がある.
「うーん,それはどうかな」
シノノメは首を傾げた.
「じゃあ,どうするっていうんだ?」
シノノメの言葉は感覚的だが,意外に鋭く本質を突くことがあるのをアルタイルは知っている.少数突破のこの布陣で,確かに犠牲は最小限にしたい.
「竜だけ相手にしようよ」
「どうやって?」
「ヒューって,真上から行けばいいよ!」
「な! マジか?」
「はい,私に賛成の人!」
「ハイ! シノノメさんの意見が,いいと思います!」
「ジェットコースターは怖いけど,はい!」
シノノメの言葉に,グリシャムとアイエルが即座に手を挙げる.
「はい,多数決! 三対一! 決定!」
このメンバーで,アルタイルの意見が通る筈はなかった.
***
「それじゃあ,頑張ろう!」
四人は目立たないように慎重に上昇して,雲の高さに到達していた.
上空五百メートル.風が強く,飛竜や炎竜の上がって来れない高度である.
地上からは三つの点にしか見えないに違いない.
シノノメの思いつきは,つまりは要塞の直上から急降下で飛びこむことだった.
確かに,対空砲や高射砲はさすがに開発されていないので――もちろん,シノノメがそんなことまで熟慮していたわけはないのだが――有効ではある.しかも,高速で落下する物体は銃で狙う事も難しいし,竜は体の構造上,自分と同じ高さや下にいる敵には強いが,上から来る敵には弱い.
狙うは,移動要塞の城壁の中,普通の城ならば中庭にあたるスペースだ.
ウッドデッキを張った甲板上の構造で,中央に三層の城館が建っている.基本的に要塞の城壁に備えられた大砲は外側の攻撃に備えた物なので,防空部隊の竜たちを突破して城中に侵入できれば,気にしなくてよくなる.
あとは,城塞内の衛兵――といっても,上位レベルの騎士たちが待機しているのであろうが――を倒せばベルトランに行きつけるはずだ.
「うわぁ,結構これ,高くないですか? バンジージャンプ的な……」
アイエルがトランプのカードくらいの大きさになった移動要塞を見下ろす.
「あ,私意外と行けます.遊園地の落ちる系アトラクション強いんです」
グリシャムは言葉通り,平気そうである.
「うわー,ほんとだ.ちょっと失敗したかな」
意外にシノノメの顔が引きつっていた.
「私,落ちるの苦手だった」
「お前,ひょっとして馬鹿か?」
アルタイルの不躾な,いや歯に衣着せぬ言葉に,グリシャムが睨む.すでに彼女の中でアルタイルは完全に‘敵’認定されている.
「おいおい,そんなに睨むなよ.それで,どうするんだ? ゆっくり下りるなんてできないぞ?」
「頑張って落ちる! 目をつぶってれば大丈夫だよ! きっと!」
「いや,待て,目をつぶってたらまずいんじゃないか? だって敵のど真ん中だぞ?」
常識的な突っ込みを入れるアルタイルである.
「では,シノノメさんがちょうどいい高さになったら,教えてあげます.それと,フルーラ・バブルで包みます.そうしたら,落下速度も落ちるし,攻撃からも身が守れますよ」
「ありがとう,グリシャムちゃん!」
「うーん,ゆっくり落ちたら意味無いんじゃないのか? シノノメに過保護だよ」
「お黙り!」
グリシャムは再びアルタイルを睨んだ.
フルーラ・バブルはグリシャムのオリジナルで,シャボン玉のような透明の被膜が出せる魔法だ.包んだ対象を攻撃から守ることができ,包んだ物が落下する場合には,空気抵抗を増やして落下速度を緩めることができる.
「ええい,分かったよ! 行くぞ!」
アルタイルはオルフェウスの手綱を右の腕に巻き,宙に身を躍らせた.
グリシャムとアイエル,そして最後にシノノメが続く.
アルタイルは天馬の翼を小さく畳み,空気抵抗を最小限にした.太い首に手を回し,真っ逆さまに落ちて行く.
耳元を轟々と風が打つ.
……これだから,止められない.
どんなライブも,仕事も,この高揚感には代えられない.
俳優の仕事で,危険なアクションをこなしてみた事もある.しかし,それはすべて現実で出来る範囲のものだ.あるいは,自分が負傷することを保険会社が恐れ,本当に危険なスタントはさせてもらえない.
胃がせり上がりそうで,心臓がヒリヒリするような感覚.
スカイダイビングよりも,カースタントよりも,何よりも鮮烈な刺激.
だからこそ,わざわざ高価なVRMMOマシンを二台買ってアメリア大陸でもデスゲームに興じているのだ.
みるみる移動要塞が大きくなってくる.
シノノメの考えることはいつも無謀――滅茶苦茶だが,最高でもある.
アルタイルにとってシノノメは生意気な妹みたいな存在だ.
アメリアと,シノノメ.
ふと思い出した.
シノノメに何故,闇騎士――黒いサイボーグは近づいていたのだろう.
マグナ・スフィア史上,最強最悪のプレーヤー.
あいつは,シノノメを守ろうとしていたようにも見えたが……
何故だ?
そこまで考えたところで,炎竜が落下線上に現れた.
炎竜の上に跨った竜使いと目が合う.
驚愕している.
「な! 何だ! 貴様!?」
燃えるような赤い髪の竜使いは,咄嗟にどうしたらいいのか分からないようだ.手綱を引いても,竜が上を向くと自分が振り落とされてしまうので,口から出せる炎を使ってアルタイルを迎撃することはできない.
アルタイルは,しっかりオルフェウスの胴を脚で挟み,矢をつがえ弓を構えた.
一撃必中.
急降下の速度が加わったオリハルコンの矢は,竜使いごと炎竜を貫いた.
炎竜は魔石の結晶となって砕け散る.
「よし!」
思わず空中でガッツポーズをする.
通りすがりのおまけに,飛竜を続けて三羽屠った.
ほどなく着地だ.移動要塞の中庭,装甲甲板が迫ってくる.
天馬オルフェウスは翼を広げ,すっくと降り立った.強靭な四本の脚は落下の衝撃を吸収し,たてがみが風になびいた.
見事に城塞内への侵入に成功した.
急いで城館に侵入しなければならない.
城壁の上の兵士たちが慌てて回廊を走っているのが見える.侵入者をほとんど想定していなかったのだろう.
アルタイルが見上げると,ローブとスカートの裾を翻しながら,緑色の魔女が降りて来る.後ろのダークエルフの娘は魔女の胴にしがみついているようだ.
飛竜が巨大な顎を開いて襲ってきたので,アルタイルは素早く射殺した.
魔法の箒は甲板上で一度減速し,二人は足をついた.
「よう,遅かったな.一足先に降りてたぜ」
「それはどうも.助けていただいてありがとうございました」
グリシャムは箒をしまい,杖に持ち替えた.変節によって新しく手に入れた,緑色の木の杖だ.プイッとアルタイルから目をそむける.
「はあ,ちょっと怖かった」
アイエルは少し膝が笑っていたが,堪えて立ち上がった.素早くクロスボウを構え,上空の飛竜を撃ち落として行く.
「シノノメは?」
「そろそろです」
シノノメは空飛び猫と一緒にシャボン玉に包まれ,ふわふわと降りて来た.
玉の中でしっかりと目をつぶっている.
「シノノメさん! そろそろ大丈夫ですよ!」
「ホント?」
「ていうか,お前,早く目を開けろ!」
炎竜が二頭,迫っているのだ.一頭はシノノメを見つけてゆっくり飛んできているし,もう一頭は甲板の上に降りて,獲物――アルタイル達を見つけ,迫って来ている.
シノノメは,長い睫毛を瞬かせて大きな目を開いた.
「うわ!」
炎竜はフルーラ・バブルごとシノノメを齧ろうと巨大な口を開けている.シノノメの目に,鮫状に何列にも並んだ歯と,青紫色の血管が浮き出た巨大な舌が映った.
巨大な歯が食い込むと,フルーラ・バブルはぐにゃりと歪み,弾けて割れた.
「死ね! 火炎攻撃!」
背中に跨った竜使い(ドラゴン・ライダー)が叫ぶ.
喉の奥に,炎の火種が出現するのが見えた.
「ウィ―トボール!」
シノノメの手に,白い球が現れる.
「フラワー・ボム!」
ポイッと炎竜の口の中に玉を放り投げた.思わず反射的に口を閉じる炎竜.しかし,口と鼻腔の中で,小麦粉が急激に拡散する.
ボン!
炎竜は轟音とともに爆発し,火の塊になった.
西留久宇土砦戦で偶然発見した,シノノメの新技であった.
バラバラになった死骸と,召喚獣を失った乗り手が甲板めがけて墜落した.それらは,もう一頭の炎竜の上に火の雨となって降り注いだ.
「すごーい!」
「一撃! さすがシノノメさん! その魔法,いいと思います!」
グリシャムがシノノメに手を振った.
「ふんじん爆発だよ!」
空飛ぶアメリカンショートヘアーは,シノノメを乗せて羽ばたきながら甲板に降りた.シノノメの足が地面に着くや否や,すぐに体を小さくして,主人の肩に飛び移る.
「え,いや,俺もさっき一撃で倒したんだけど.ていうか,皆さん,あっちにもまだ炎竜がいるんですけど」
完全に三枚目,普段の自分のキャラではない.いろいろな意味で生涯初の体験が続くアルタイルであった.
もう一体の炎竜とその乗り手は,降り注ぐ炎の雨を這う這うの体で避けながら近づいてきた.
まだ燃えさしが乗り手の肩で白煙をあげている.
「くう……よくも!」
男は牛の角の様な飾りをつけた兜をつけている.自慢の甲冑はあちこちが焼け焦げていた.
「炎竜よ!」
命令とともに炎竜は口を開け,火炎を吐きだした.
さながら巨大な火炎放射器である.
四人は慌てて飛び退ったが,甲板は小さな体育館ほどの広さしかないため,逃げるところもさほどない.
「ここは私が! イバラの縛鎖!」
グリシャムは杖を甲板に突き立てた.
みるみる杖の先からイバラが生まれ,炎竜を締め上げる.しかし,木の属性の魔法では炎の竜を止めることはできない.外皮が放つ熱のせいで徐々に焼けて脆くなっていくので,あくまで足止めだ.
すかさず,アルタイルが矢を放つ.炎竜の眉間,赤い甲殻を貫いた.
「命中!」
しかし,巨大な爬虫類は動きを止めない.そもそも,炎竜は召喚獣系では最強魔獣の一つである.巨大な鳴き声を上げて,暴れ狂った.
「侵入者だ!」
「炎竜を援護しろ!」
爆音を聞きつけた城館内の衛兵に,回廊から降りてきた兵士たちが合流してやって来た.二,三十人といったところか.強力な戦闘力を持つプレーヤーではなく,NPC達だった.
「銃を構えろ!」
あたふたと銃を構え,シノノメ達を包囲する.まだ銃の取り扱いに慣れていないのだろう.槍を構える兵士の方が様になっている.
「くっそう! 前門の竜,後門の虎,いや兵士か!」
悪態をつきながら,銃を構えた兵士からアルタイルは弓の狙いをつけ,速射で矢を放って行った.しかし,一人が倒れれば,隣の兵士が銃を拾って構える.
「私が炎竜を攻撃します!」
アイエルは鞄から碧い弾丸を取り出し,クロスボウにセットして射出した.
弾丸は空中で水色の竜に姿を変え,炎竜に襲いかかる.
「水属性の魔法か!」
アイエルはダークエルフだ.魔法と剣の両方が使えるのだ.
魔法の水龍は水でできた体を炎の竜に巻きつかせて,ギリギリと締め上げる.炎竜が暴れて首を滅茶苦茶に振りまわしたので乗り手は振り落とされた.しかし,制御を失った炎竜は暴走して辺り構わず炎を噴射した.
「水だ! じゃあ,私も魔法使うね!」
ベルトランとの最終対決のために,できればシノノメのMPは温存したかったが,この状況ではやむを得ない.
「お願いします!」
グリシャムが頷いた.
シノノメは右の親指と人差し指,左の親指と人差し指を合わせて,丸を作り,その手を交差して,捩じるように回した.
「大渦巻!」
アイエルが放った水龍が大きく膨らみ,水の塊,逆巻く川の流れに変わった.ごうごうと音を立てて流れ始める.
激流はシノノメ達四人を中心にぐるぐると回転する大渦巻をつくり,やがて炎竜を飲み込み,兵士たちを洗い流すように押し流していった.
「何だ! 水が!」
「馬鹿な! 城の中で洪水なんて!」
「うわあああ! 助けてくれ!」
「俺,泳げないんだ!」
炎竜と兵士たちは水に溺れながら目を回し,何度も城壁の内側に叩きつけられた.銃や槍など持っていられない.城壁の出っ張りにつかまって流されないように抵抗するのがやっとだ.
城壁の中はさながら巨大な縦型洗濯機の水槽だ.城館は嵐の海に浮かぶノアの箱舟の様になってしまった.
シノノメ達のいる場所は渦の中心なので,円筒状の水の壁に囲まれているが,足元はそれでも乾燥したままである.
哀れな兵士と炎竜は波間に浮いては沈み,流れる水に翻弄され続けた.
「お母ちゃん!」
「ゴボゴボゴボ……!」
「ゲボゲボゲボ……!」
「ほんとは洗濯ものが痛まないから,ドラム式が好きなんだけどなあ! ラーブ,ランジュ(洗濯機)!」
全員しっかりと洗浄したところで,シノノメが新たな呪文を唱えると,水はどこかへ排水され,脱水と乾燥が始まった.今度は高温の竜巻に吹き飛ばされ,炎竜と兵士たちは並んで城壁の角に干され……いや,意識を失ってぐったりと引っかかっていた.
城塞の甲板はすっかり洗い清められ,ピカピカと綺麗に光っている.
「むふふ,洗濯と同時に床掃除もした感じになったね」
すっかり敵が片付き,上機嫌のシノノメである.しかし,大技で消費したため,999あったMPは900になってしまった.
「おお,主婦魔法! 強力!」
「私の水龍が,こんなに強力に変化するなんて!」
「でたらめだろ,こんなの……」
アルタイルは頭を抱えた.真面目でシビアなゲームの世界が,シノノメの手にかかるとたちまち‘愉快なほのぼのバトル’になってしまう.
「しかし,お前MP使いすぎだからな.後で使えるように温存しておけよ」
「うん,このままあそこから入ろう!」
アルタイルの指示を聞いているのか聞いていないのか,シノノメは水が滴る城館の扉を指差した.
鉄の鋲で補強された,頑強な両開きの木戸である.車庫並みの大きさがあるので,馬車や物資の搬入路にもなっているのだろうか.
「おいこら,正面突破かよ? だが,どうやって開けるんだ?」と,アルタイルが言うや否や,扉は内側から勢いよく開け放たれた.
中から現れたのは,完全重武装の騎士だった.
猪を象った黄金色のフルアーマーに身を包んだ男は,身長二メートル以上.右手に持った巨大な槍はさらに長く,三メートル以上ある.槍の先端には横に突き出た斧と鉤が付いており,いわゆる槍斧と呼ばれるものだった.
歩くたびに重厚な金属音が響き,兜の隙間から荒い息が聞こえる.
バイザーを開けると,充血した眼球が見えた.
目玉も大きい.
高い頬骨に,頑丈な下顎.
顔には無数の小さな傷があった.一目見るだけで歴戦の猛者であることを雄弁に物語っている.
男はぎろり,と目を動かしてシノノメ達を睥睨した.
「我こそはノルトランド騎士団四天王の一人,大槍のパーシヴァル.素明羅の鼠ども,叩き伏せてくれるわ!」
パーシヴァルは長い槍斧を軽々と頭上で一回転させ,切っ先をピタリとシノノメに向けた.
「貴様か,東の主婦とかいうふざけた小娘は!」
「私の名前は主婦じゃないよ! シノノメだよ!」
風に吹かれて顔にかかる亜麻色の髪をさっと払いのけ,シノノメは颯爽と答えた.




