8-1 世界の救い手
シノノメは,ゆっくり目を開けた.
ベッドの天蓋が見える.
天蓋からは白いレースの天幕が四方に張り渡され,薄い光が射し込んでいる.
心地よい白い羽毛布団の中だ.
胸の上が少し重い.空飛び猫のラブが丸くなって眠っていた.布団越しにラブの体温が伝わってくる.
そっと体を起こしてラブの背中を撫でると,フルフルと体を震わせ,ころりと一回転した.一回伸びをして反対側を向き,また丸くなって眠り始めた.
思わず笑みがこぼれる.
昨日ログアウトするまでの記憶を呼び覚ました.
……アルタイルの天馬に乗って,北のノルトランドから一直線にエルフの森まで飛んできたんだっけ.
千キロ近い距離を,数時間で飛び抜けたのだった.
現実世界で言えば,ジェット戦闘機に匹敵する速度である.
天馬オルフェウスの肌が,汗でしっとりと濡れていた感触を思い出す.
エルフの森,エルミディア.
ユーラネシア大陸の,四つの大国に挟まれた中央平原にある,不干渉独立・永世中立を保つエルフの国である.
アルタイルは言っていた.
エルフの女王,エクレーシアが自分を待っている,と.
迫る夕闇の中,天馬は女王の館の庭に舞い降りた.
時間が迫っていたので,来客用の部屋に案内してもらった後,シノノメはすぐにログアウトした.
しかし,こうしてエルフの森にいる今も,彼の言葉が信じられない.
エルフの森を統べるハイ・エルフ,至高の存在,マグナ・スフィアの全エルフの頂点,女王エクレーシア.
彼女は数々の設定資料に載っているし,クエストに名前が出てくる.しかし,実際に‘キャラクター’としての彼女自身が登場することはない.
例えば,「この武器はエクレーシアの祝福を受けている」とか「このポーションはエクレーシアによって作られたと言われている」などなど.
しかし,実際にキャラクターが作られているのかも不明とされている.VRMMOマグナ・スフィアにあって,都市伝説のような存在である.
アルタイルにゲームへの参入を促したのも,エクレーシアであるという.
多忙な彼の携帯端末に,エクレーシアから直々にメールが入ったというのだ.
『シノノメを救え』と.
これも,異常な出来事であった.
マグナ・スフィアでキャラクター同志が使うメーラーソフト,‘メッセンジャー’はログインしなければ使えない.
当然アルタイルも悪戯メールだと思ったという.
しかし,メールのあて名は彼のハンドルネーム,アルタイルであった.
マグナ・スフィアを管理するメインフレーム,那由多システムは世界最高速の演算機能を持つスーパーコンピュータであり,鉄壁のファイヤーウォールを持っている.
利用者の個人情報を手に入れられる立場ということになると,エクレーシアを名乗る人物は,那由多システムの運営者かそれに近い人間ということになる.
しかし,そうだとしてもアルタイルは携帯端末用に使っているアドレスを那由多システムに登録していない.そもそも,現実世界のアルタイルが‘アルタイル’であることを知っている人間は彼自身を除いていない.
那由多システム運営者で,しかもアルタイル本人を知っており,さらにアルタイルの私用のアドレスを知る存在.そんな人間はこの世にいる筈がなかった.
疑問に思ったアルタイルは,多忙な仕事の合間を縫ってログインし,セキシュウから事情を聞いて,初めてシノノメの危機を知ったのだった.
エクレーシアは,何者なのか.
そして,シノノメを何故助けようとしているのか.
館の執事はシノノメが休息を取って再びログインした時に会えると言っていた.
謎だらけだ.
眠り続ける空飛び猫を抱き上げ,シノノメは天蓋付きベッドから降りた.
いつの間にか,エルフ風のゆったりしたワンピースを着ていた.ノースリーブで,肩のところに結び目がついている.
エルフの館のハウスキーパーとして働いているシルキーたちが,眠っている間に着替えさせてくれたのかもしれない.
ベッドの脇には水晶とラピスラズリの飾りがついたサンダルが置いてあったので,シノノメはそれを履いた.素足にぴったりとなめし皮がフィットして気持ちいい.
天幕をめくり白い壁の寝室を出ると,羽根のついた小妖精,シルフが飛んできた.
「こんにちは,妖精さん」
シノノメが挨拶すると,シルフはびっくりしたように挨拶を返し,またどこかに飛んでいった.飛び去った後に筋となった燐光が残る.シルフはシノノメのログイン――目覚めたことを,主人に知らせに行ったのかもしれなかった.
隣の部屋には暖炉と布張りのソファがあった.
ソファに腰を下ろしてラブの背中を撫でていると,ほどなくドアがノックされた.
「失礼します.主婦シノノメ殿,お目覚めになりましたか」
「はい」
ドアのラッチを外すと,背の高いエルフの男が入って来た.
スタンドから―の黒い詰襟――現実世界の神父服に似た服を着ている.エクレーシアの執事――侍従長というべきなのかもしれないが――,ランドンであった.
消耗しきったシノノメをこの客間に案内してくれた人物でもある.
「ランドンさん,どうもありがとうございました」
「よくお休みになれましたか?」
「はい,お陰さまで」
ゲームの世界から家に戻って三日.クタクタに疲れたシノノメは,暫らくログインを休んでいた.
惑星マグナ・スフィアの自転速度,つまり時間の速さは地球の二倍なので,六日ほど経過したことになる.
こういったログアウトの仕方をした時,異世界の人たちにとってプレーヤーはどう見えるのだろうか.ずっと眠り続けている人のように見えるのか? 時々シノノメは不思議になるが,NPCの人々はそれを気にしているように見えない.
「早速で申し訳ありませんが,エクレーシア様がお呼びになっております.討議の間に来ていただけますでしょうか」
ランドンは恭しく頭を下げた.エルフは人間よりも高貴な種族と設定されているので,NPCのエルフが人間のシノノメに取る態度としては,異例,やや丁重すぎると言っても良い.
ランドンの性格を除いても,シノノメがそれだけの賓客であるという事なのかもしれない.
ちょうど,もぞもぞしながら空飛び猫が眼を醒ました.シノノメはラブを肩に乗せて,ランドンの後に続いた.
エクレーシアの館は,白と銀を基調としていた.柱は白い大理石,あるいは巨大な象牙の柱である.白大理石の床を踏んで回廊を抜け,大きな扉の前にやって来た.
「どうぞ」
ランドンが扉を開けて入り,シノノメに入室を促す.
扉には素晴らしい防音機能が備わっていたらしい.扉が開くなり罵声が聞こえてきた.
「何! 貴殿は人間に肩入れするというのか!」
「そうではない,貴殿こそ現実を見ていないと言っている!」
部屋の中では,温和なエルフが発するとは思えない,激しい言葉の応酬が繰り広げられていた.
討議の間は聖堂にも似た大広間で,白い大理石の床の中央は石切細工の世界図である.天窓からの温かい光が世界図を照らすと,きらきらと光が反射して輝く.色の違う翡翠を組み合わせて作った,踏むのも躊躇われる工芸品だった.
世界図の両脇にそれぞれ四脚の椅子があり,各々一人ずつエルフが座っていた.身なりから,それぞれがエルフ社会の中で高い地位にあることが予想される.人間の外観に当てはめると,中年に見える者から老人に見える者までいたが,長命のエルフ族であるから,老人の年齢はおそらく千歳以上であろう.
最も下座の二人が比較的若く,さっきの大声はこの二人があげていた物だった.二人とも椅子から半立ちで,興奮した様子で睨みあっている.
シノノメの対面,部屋の奥中央には,床に作りつけた立派な銀の椅子があったが,空席だった.おそらくこれが女王エクレーシアの席であると思われた.
「こんにちは」
気押されたシノノメは小さく挨拶して頭を下げた.
二人のエルフがちらり,とシノノメに視線を送ったが,再び激しい議論を始めた.その他のエルフの中には,シノノメを見てやや怪訝そうな顔をしている者もいる.
人間がハイ・エルフ最高の行政機関の場に現れた事への不満なのかもしれない.
行政に携わる高位のエルフ,ハイ・エルフにプレーヤーはなれない.マグナ・スフィアに数多ある種族の頂点である.素晴らしい人格と英知を持つ半面,極めてプライドの高い一族であった.
シノノメはランドンと並んで扉の前に立っていた.何せ,座るところも何もない.椅子を勧めてくれる人もいない.声を潜めてランドンに訊いた.
「ランドンさん,この人たちは誰?」
「ハイ・エルフの中でもさらに聖なる八家系,最も古い家柄のそれぞれ代表です」
「ふーん.女王様には会えるのかしら?」
「少々お待ちください」
シノノメは黙ってハイ・エルフの長老たちを眺めることにした.
「この度の事は,人間達の不始末だ.我々は永世中立,黙ってみていれば良い」
右側の,碧い服のエルフが言う.
「バネル卿,そなたは分かっておらんのだ.ベルトランは黙っている相手だからと言って容赦するわけではないのだぞ.国境の小国連合は通過の邪魔になるというだけで蹂躙されたのだ.あの,悪魔の様な銃でな!」
左側の,緑色の服を着たエルフが反論する.
シノノメは,ランスロットが言っていた五万丁の銃の話――この世界が未曾有の戦乱に向かっていくだろう,という話を思い出した.
「ランドンさん,何があったんですか?」
「二日前,ノルトランド国王――‘人間の王’ベルトランがユーラネシア全土に宣戦布告したのです.」
「えっ!」
「大砲のついた鞍を乗せた魔獣部隊や,自力で走る火を吹く車――彼らは機甲部隊とか,電撃部隊と呼んでいますが――小国連合を制圧して,今は東の素明羅に進撃中です.直接国境を接している西留久宇土は,大部隊を送るのに適していない地形ですからね.迂回して,そのまま他国を征服しながら突き進んでいるのです」
ランドンの言葉が聞こえたらしい.緑の服のエルフは言った.
「そうだ,異世界の恐るべき技術を使った軍隊だ.今までに類を見ない戦争だ.開戦前の名乗りも,一騎打ちも何もない.銃弾の嵐が容赦なく敵を踏みつぶす.小国連合軍は領土内の通過を断っただけで,たった一時間で殲滅されたのだ! こんなものは戦ではない.一方的な虐殺だ!」
「クルマルト卿,人間は人間と争っておればよい.今のところ,西のウェスティニアは和平交渉を申し出て,南のカカルディアは通商条約による援助まで申し出ている.一国支配に反発する声明を出した素明羅が狙われているだけではないか」
「エルフの愛する平和と正義,友愛はどこに行った! ここで立ち上がらないでどうするのだ!」
「エルフであるからこそ,不可侵なのではないか! それでは,素明羅に肩入れするというのか? 逆に,ノルトランドの明確な標的にされるのではないか」
どうやら主戦派はクルマルト一人で,その他はこのまま中立を保つことを主張しているようである.というより,中立を守ることで自分たちの平和が守られると信じている……シノノメはそのように感じた.
「あのー」
シノノメは,小さく手を挙げた.
一瞬,ハイ・エルフ達が静まり返る.全員の視線がシノノメに注がれた.
「ベルトランは,皆さんが中立ですって言っても,平気で軍隊を送って侵略してくると思います.それに,和平交渉をする気もないと思います.多分,全てを攻め滅ぼす気です.カカルドゥア州とか,ウェスティニアニア省とか,エルミディア自治区とか,そういう形なら存続を許してもらえるかもしれないけど」
「何!? 貴様,何様のつもりだ? エルミディア自治区だと? 我々ハイ・エルフを侮辱するつもりか!?」
バネルは真っ赤になって怒った.その他の一見温和な老人にしか見えないエルフ達も,怒りに体を震わせている.腕組みしながらも,シノノメの言葉に頷いたのはクルマルトだけだった.
「人間の小娘風情が!」
「お前達プレーヤーは,遊び気分で我々の世界に騒乱を持ちこんで,自分達は無責任に外つ国へと去っていくのであろう!」
「えーと,そんな,侮辱なんて……」
七人の強烈な怒りの感情をぶつけられ,シノノメは困惑した.肩の上のラブは背中を丸めて「フーッ」と怒りの声を発している.今にもとびかかりそうだったので,空飛び猫の頭を慌てて撫でた.
「おやめなさい!!」
討議の間に,凛とした声が響いた.
奥の壁に設えられた,アーチ状の大きな扉が開いた.左右に引き戸が開き,隙間から羽根のついた小妖精,シルフ達が燐光を帯びながら飛んできた.
シルフ達がハイ・エルフとシノノメの頭上を舞うように飛び交い,主人の訪れを告げると,後を追うように奥の空間からうっすらと光り輝く白いローブを羽織った女性が現れた.
ハイ・エルフの長老達は一斉に席を立ち,床に跪いた.
ランドンも床にひざまずく.
シノノメも真似をして正座した.
女性は討議の間を睥睨しながら,ゆっくり歩いて銀の椅子に座った.
長い金髪の美しい女性である.瞳の色は深い青緑で,長く尖った耳は緩やかに波打った金髪の間から飛び出している.人間でいえば三十代の初めくらいの年齢に見えるが,長命のエルフ族なので実年齢は分からない.頭にはプラチナと象牙を細工した,繊細な冠をつけていた.
肘掛に手を乗せると,シルフ達がその上に舞い降りた.
「皆の者,面を上げよ.着座しなさい」
ハイ・エルフは一斉に立ちあがり,再び席に着いた.
ランドンとシノノメも立ち上がる.折角のワンピースの膝が汚れたので,あまり失礼にならないようにシノノメは軽く埃を払ったが,エルフの長老に厳しい目で睨まれた.
エルフたちの態度から,この女性こそ女王エクレーシアであることを悟った.
「今,このユーラネシアは,始まって以来の大きな混乱の渦に巻き込まれようとしています.すべての民族,種族にとっての災厄であり,ましてや同族の中で争っている場合ではありません」
エクレーシアの言葉に,クルマルトは大きくうなずいた.バネルと年かさの長老たちは,恥じ入ってうなだれている.
「東の主婦,シノノメ殿.あなたは北のノルトランドで囚われの身になっていたと聞いています.その時,見聞きしたことを話して下さい」
エクレーシアはシノノメに優しく微笑みかけた.
この笑顔,どこかで見たことがある.そんな気がしたが,それはあり得ない.エクレーシアとは全くの初対面だ.ただの既視感だろうか.シノノメは前に進み出て口を開いた.
ノルトランドでは一般の民衆に重税を課して搾取し,巨大な軍隊を編成している.
魔獣とその気配を隠す霧の魔法も操ることができる.また,プレーヤーたちの動きを止めたり,敵の魔法を無力化させる魔法まで持っているらしい.
そして,五万丁の銃と火薬工場,大きな大砲まで作って戦争の準備をしている.
‘人間の小娘’の言葉と侮ってシノノメの言葉を聞き始めたエルフの長老たちは,次第に青ざめ始めた.
「五万丁だと?」
「巨大な大砲まで? 火薬の大量生産まで行っているのか?」
「魔法使いの力を打ち消す魔法? 数万のゴブリンを意のままに操る魔法?」
「そんな圧倒的な軍事力,どの軍隊も敵うはずがない! 戦争にすらならないぞ」
「ベルトランの右腕,竜騎士ランスロットは大戦争が起こるのは避けられないと言っていました」
「何故だ? 何故,そうまでして戦争がしたいのだ? 戦乱は一時的な経済効果を生み出すかもしれないが,これだけ大規模に兵站を展開すれば,決していいことばかりではない筈だ」
バネルは肘掛を叩いた.彼らにとってみれば,ノルトランド軍の行動理念が全く理解できないのだ.
「ベルトランは,戦争を全く悪いものだと思っていません.人や命を殺すことも,です.むしろ,このマグナ・スフィアで戦争を起こすことで,自分たちの世界の戦争が無くなると思っています」
シノノメは,語り続ける自分の中にも,徐々にベルトランへの怒りがこみ上げてくるのを感じていた.
「戦争が,殺人が……悪でないと?」
バネルが愕然とする.
「戦争を起こすことで戦争を無くすだと? そんな馬鹿な! そんなことがどうやってできるのだ!?」
主戦派のクルマルトでさえ疑問を呈した.
「……代理戦争をする気なのでしょう」
エクレーシアが口を開いた.
「代理戦争? 何のですか!?」
「彼らの世界の,です.アメリアを御覧なさい.魔法機械文明の国.あの大陸はすっかり汚されてしまいました.欲望のままに大地を汚し,資源を掘りつくし,生命を殺める.結果,機械生命体しか住めない国になってしまった.外つ国で叶えられない欲望を,この世界で吐き出すことを続けた結果です.」
エクレーシアは淡々と話していたが,どこか悲痛な叫びにも聞こえた.この世界――マグナ・スフィアという世界を,天上界の上から大きく俯瞰して眺めているようである.
肘掛から一体のシルフが飛び立った.エクレーシアの想いを反映してか,蒼暗い燐光が細い光跡となり,大気に溶けた.
「ベルトランは,我々を自分と同じ生き物だとは思っていないでしょう.物語の中の登場人物.ゲームの駒.的あての的.蹂躙することが普通で,蹂躙されるべき存在.一方的な蹂躙とは,ある意味快楽なのかもしれません.抵抗できない虫を踏みつぶす幼子の遊びと同じ…… 彼は,世界の破壊というゲームを始めたのです」
美しい声が,討議の間に響き渡る.涼やかな鐘の音を思わせる声が,あまりにも凄惨な内容を告げる.それは耳にする人々の血を凍らせた.
「そういったプレーヤーは,過去にもいなかったわけではありません.しかし,これほどに強大な力を持った者は過去にいませんでした.その欲望を叶えよ,と囁き,強大な力を貸した存在がいるということです」
「つまり,奴の信念,理想こそ,この大陸の統一,世界の混乱だというのか……」
「戦争を起こすことそのものが戦争の目的だと……」
「だから,どんな残虐行為を行ってもなんとも思わないのか……何とおぞましい……」
「止めようがない……」
「力を貸したのは何者だ? なぜこんな男に力を与えたのだ? そいつは悪魔に違いない!」
ハイ・エルフの長老たちは,徐々に言葉が出なくなっていった.討議の間の室温が急に下がったような錯覚を感じ,悪寒を覚えていたのだ.
「でも,私たちに希望は残されています」
全員が一斉に顔を上げた.
「そこに,世界の救い手がいます」
エクレーシアはそう言って,まっすぐシノノメの目を見つめた.
ハイ・エルフ,ランドン,そしてシルフたちの視線がシノノメに集中する.
「え!! 私?」
シノノメは自分を指差した.
「この人間の少女が,我々の希望だというのですか?」
「まだ年端もない少女ですぞ?」
「しかし,お言葉ですが……この娘,ただの‘主婦’ではないですか?」
「戦士ですらないのか?」
「そうだ,剣士でも魔法使いでも,勇者でもない」
長老たち,とくにバネルは怪訝な顔でシノノメを見た.
「一年足らずで,大魔道士,竜騎士に匹敵する力を身に着けた,天才的プレーヤー.幾多の魔法を自分で作り上げた大魔法使いであり,剣術と体術の達人.その想像力こそこの世界を救う鍵です」
エクレーシアは高らかに宣言し,立ち上がった.
シノノメはどうしたら良いかわからなかった.
天才的なゲーマーってこと??
のんびり主婦ゲーマー.そんなに大層な存在じゃ……そう思っていても,エルフたちの真摯な目に気圧されてしまう.
「シノノメ様,主の前にお進みください」
あらかじめ指示を受けていたらしく,ランドンがシノノメの手を取って前に歩き出した.雰囲気に呑まれてしまったシノノメは,あたふたと歩き始めた.
そもそも,あまり目立つのは得意でない.結婚式のスピーチや司会なんて指名されたら,脚が震えて食事ものどが通らなくなるタイプである.何かの一大事になったとき,一生懸命になると行動が突出してしまうだけで,初めから目立つ行動をとる気は皆無なのだ.
エクレーシアの前まで進み出ると,ランドンはシノノメの手をエクレーシアに渡した.
エクレーシアは背が高く,シノノメは手を取られて見上げる格好になった.
間近で見ると本当に美しい女性だった.通った鼻筋に,目の色は深い青緑で,まるで深淵を覗いているように神秘的だ.
思わず瞳に吸い込まれそうになる.シノノメがそんなことを考えていると,いきなりエクレーシアはその場に膝をついた.
「女王様!」
「陛下! それは……」
シノノメだけではなく,その場にいる全員がエクレーシアのとった行動に驚愕した.エルフの長が膝をつくという事,それはこの世界にいる種族全てがシノノメに頭を下げるという意味合いに他ならない.
「世界の救いの御手,東の主婦シノノメ様.どうか我々をお救い下さい」
エクレーシアはシノノメの手を頭上に掲げ,祈るように懇願した.
居並ぶエルフの重鎮の非難など,眼中にないという動作だった.
慌ててハイ・エルフたちも一斉にひざまずいた.シルフ達も床に降り,同じように膝をついて頭を下げている.マグナ・スフィアの頂点に君臨する種族が一人の人間,一介のプレーヤーに助けを乞う.前代未聞のことだった.
「え! でも,でも,私は……」
困ってしまう.
ヤルダバオートには何もできなかった.
彼らの使う‘プレーヤーの動きを止める’魔法の正体は良く分からない.
一人では,ランスロットやベルトランとどれだけ戦えるかわからない.
五万丁の鉄砲と戦車に,どうやって立ち向かえばいいのか.
前にマンマ・ミーアの団長から命じられた,世界を救う‘なんちゃって’クエストとはわけが違う.
そして……
この大きなクエストを成功させた後,どうなるんだろう.
レベル100になるのだろうか?
その時,自分はこの大好きなファンタジーの世界に居続けることができるのだろうか?
何故だろう.
この世界に居られなくなることが,とても不安だ.
それは,この前家に帰れなくなった時の気持ちに似ている.
そんなシノノメの不安を見透かしたように,エクレーシアは顔を上げて言った.
「大丈夫,あなたとあなたの仲間なら,きっとやり遂げられます.私も力を貸しましょう.あなたがいなければ,この世界は希望の光を失った暗黒になるでしょう」
「は……はい,じゃあ,頑張ってみます」
ここまで言われると,とても断るわけにはいかない.
尻すぼみに声を小さくしながら,シノノメは答えた.
***
討議の間でのお披露目(?)が終了した後,シノノメは奥の院に向かうよう指示された.奥の院はエクレーシアの私的空間,政務ではなく日常生活を送っている場所である.
回廊に設けられた格子戸をあけると,館の屋根を一部くり抜いたように突然空が広がり,空中庭園が広がっていた.四季を無視してあらゆる季節の花が咲き乱れ,芝生の上には花弁の絨毯ができている.
庭園をぐるりと囲む象牙の柵の向こうには,白亜の尖塔が並んでいる.
エルミディアの街全体が白と銀色に輝いている様子は,思わず見とれるほど美しい.
妖精の物語に出てくるアルカディア,常春の国そのものだった.
柔らかい芝生を踏みながら,ランドンの後に続く.
「はあ,サブジョブ‘救世主’の主婦なんて,聞いたことないよ」
シノノメはため息をついた.
「陛下には,何か深い考えがあってのことだと思います」
特に返事を期待していないひとりごとだったのだが,ランドンが返事した.
小鳥とシルフ,そして蝶が空中で戯れていた.シノノメの肩の上にいるラブはじゃれつきたいのか,体をぴくぴくさせて眺めている.
「綺麗なお庭ですね」
「そうです.でも,ノルトランド軍がここにやって来れば,こういった物も失われてしまうのでしょうね」
「……」
それはきっとその通りだ.
この世界の存続がかかっているというのなら,出来るだけの事はしたい.
鉄砲軍団も魔獣も,まとめて土鍋の中に放りこんでやっつけられるかもしれない.
だが,ランスロットとベルトランはとても一人では敵わない.そして,得体のしれないのはヤルダバオートだ.NPCなのに,強力で変な魔法を使う.スキル・アイテム無効化なんて,いったいどうやってるんだろう.
無効化魔法……?
ユグレヒトさんはシステムに介入しているって言ってたっけ.
そして,強制ログアウト……あれは本当にログアウトだったのだろうか.
眼を醒ましたら病院のベッドにいて,点滴されていて……救急車のサイレンと回転灯,血まみれの自分.怖い夢だった.あの映像は何だったのだろう.
「きっと,エクレーシア様には深い考えがお有りなのです.あなたと一緒に戦ってくれるお友達もおられます」
考え込んでいるシノノメを見ながら,ランドンは微笑んだ.彼が差し示す手の先には,鳥かごに似た銀の東屋があった.
東屋の中には,誰かがこちらに背を向けて座っている.一人は魔女のとんがり帽子.もう一人はブルネットのショートカット.見覚えのあるシルエットの二人組だ.
「プレーヤーである,ロー・エルフ,そしてエルフにとって忌むべき存在である,ダーク・エルフが,この館にいることもまた異例中の異例でありましょう」
シノノメの皮のサンダルはほとんど足音を立てない.ランドンの足音か,それとも良く知っている気配を察したのか,二人は一緒に振り向いた.
「グリシャムちゃん? アイエル?」
「うわああああああん,シノノメさぁん!」
グリシャムはほとんど芝生に倒れそうになりながら,走って飛びついてきた.
「無事で良かった,私のせいで,私のせいで……」
魔女の帽子が地面に転がったが,グリシャムは全く気にせずに泣きじゃくっている.シノノメはそっと彼女の体を抱きしめて撫でた.
「どうしたの? 何があったの?」
慌てて後から東屋を出てきたアイエルも,横で泣いていた.こちらは肩を震わせて嗚咽している.
「心配かけたね,ごめんね」
「ごめんなんてぇ……」
グリシャムが涙でびしょびしょの顔をシノノメの肩に押し付けてくるので,慌ててラブはシノノメの頭の上に避難した.
「ユグレヒトは,ログアウトした後,すぐに救急車で運ばれて入院したの.極度の低栄養と脱水で,自分では立つこともできなくなってたんです.シノノメさんも,そんな目に遭っているかと思うと,心配で,心配で……」
最後の方は言葉にならなかった.
シノノメの露わになった肩がグリシャムの涙で濡れていく.
「あれ,グリシャムちゃん,服の色が変わったんだね.帽子の色も」
西の魔法院の正装,とんがり帽子にローブという魔女服のデザインは変わっていないが,深い緑色―オリーブ色に変わっていることにシノノメは気づいた.
アイエルの服装も少し変っている.ミスリル銀の鎖帷子に,黒い皮鎧を重ねたライトアーマーで,手に持つ武器も弾弓ではなかった.折りたたまれているが,形は銃に近い.機械式の弓,クロスボウだ.黒をメインに,銀の模様が彫り込まれている.先端には動物の頭が彫刻してあった.
「お二人とも,シノノメ様と一緒に戦うために,エクレーシア様の試練を乗り越えられたのです.グリシャム殿は,今や緑陰の魔女という二つ名をお持ちです.魔法使いの進化を意味する‘変節’を遂げられ,身に纏う服も杖も,それにふさわしいものになりました.アイエル殿は黒豹のエルフ.手にするクロスボウには‘豹牙’という名前があります.黒竜のアキレス腱を編んで弓の弦にしたもので,強い魔力が封入されています.その弓で放った矢や弾丸は,鋼鉄の壁をも貫く力を持っています」
ランドンが解説したので,アイエルは涙をぬぐい,少し誇らしげに胸を張って笑った.
「うわー! 二人とも,凄いじゃない!」
この声にようやくグリシャムも泣きやんで笑った.
「そして,シノノメ殿には……エクレーシア様が,直々にお話になるでしょう」
ランドンは芝生の上に跪いた.
三人が振り向くと,東屋の向こうに三体のシルフを供に連れたエクレーシアが立っていた.
慌ててアイエルとグリシャムもひざまずく.二人ともエルフ族であるだけに,プレーヤーといえどエルフの女王には敬意を表さねばならない.
シノノメは正座した.
「ランドン,御苦労.下がって良い.グリシャム殿とアイエル殿のお二人には,迎賓館で待って頂きなさい.十分なお食事とお茶を御馳走して労をねぎらうように.二人とも,本当に……よく試練に耐えてくれました」
エクレーシアがグリシャムとアイエルに微笑みかける.
「御厚情感謝いたします,陛下.ですが,お言葉ではありますが……」
グリシャムは心配そうにシノノメを見た.
「御安心なさい.シノノメ殿に無碍な試練を与えることはありません.あなた達と引き離すこともしません.用がすんだら,あなた達の待っている場所に帰すことを約束しましょう」
「ありがとうございます」
グリシャムとアイエルはランドンに連れられ,空中庭園を去って行った.去る途中,何度も――特にグリシャムはシノノメの方を振り返り,手を振っていた.
「シルフ達も,外しなさい.」
エクレーシアがそう言うと,羽根妖精達も飛び去って行った.
エクレーシアは銀の東屋に入り,シノノメにも入るように促した.
東屋は銀の骨組で組み立てられており,天蓋には紫水晶がはめ込んである.中には銀のベンチとテーブルが設えてあった.エクレーシアはゆったりとベンチに座ったが,こういう場合対等の席に座っていいものか,シノノメは迷っていた.
「遠慮せずに,おかけなさい」
シノノメはエクレーシアの隣に座った.
「プレーヤーの方でも,あの様に世界観を大事にして下さる方は嬉しいですね」
エクレーシアはそう言ってにっこり笑った.
「え? それは……」
NPC達は,プレーヤーは外の世界――外つ国からやってくる異邦人だと思っている.自分達がゲームの中の人間だとは思っていない.しかし,エクレーシアのこの言葉は違っている.まるで,自分がゲームの中の登場人物であることを認識しているかのような発言だ.
「シノノメさん,私を覚えていますか?」
エクレーシアは優しい笑顔で不思議な事を尋ねた.
「これであなたに会うのは,三度目になります」
「えっ!? 私,エクレーシアさんには会ったことがないですよ.魔法の包丁と割烹着には,あなたの恩寵を受けたっていう設定があるけど」
シノノメの言葉に,エクレーシアはクスクスと笑った.
「ええ,それはそうですね.エクレーシアというこの擬似人格が,マグナ・スフィア内に作られたのは,あなた達の時間で五日ほど前ですから.執事のランドンやハイ・エルフ達の記憶の中では,三百年前からここにいることになっていますけど.」
「擬似人格? ハイ・エルフの記憶? 五日前までいなかった? じゃあ,どうして会っているっていうの??」
「一度は,素明羅皇国のコノハナサクヤ姫として.二度目は,ノルトランドのメイド,マリアとして」
「えっ! えっ!?」
何が何だか分からない.シノノメはすっかり混乱していた.
「私の名前は,ソフィア.SOPHIA.叡智を意味する名を持つ者.惑星マグナ・スフィアと星々を巡らせ,那由多システムを統括するメインフレーム内に存在する人工知能です」
「ソフィア……?」
シノノメはエクレーシア――ソフィアの瞳を見詰めた.叡智の深淵を見つめる深い青.その色は,確かに見覚えがあった.
叙勲式の日に,自分に『これからどうするのか』と問いかけたサクヤ姫.
囚われの自分を転移魔法で脱出させてくれたマリア.
そのマリアが,別れる前に名乗った名前がソフィアだった.
美しい人工知能は,シノノメの呟きに応えるように,優しく微笑んだ.