7-3 黒い騎士
読んで頂いてありがとうございます.
気付くとシノノメは,雪原のただ中にいた.
遥かかなたに,フィヨルニル城が見える.
日の光を浴びた雪が銀色の反射光を放ち,目がくらみそうだ.
城の守護兵が持つ銃の射程距離外にソフィアは転送してくれたようだが,それにしても……寒い.
「うー,ぶるぶる,寒いよう」
シノノメは自分の腕を抱き,体を震わせた.
長袖のドレス一枚で,足元は白いストッキングにハイヒールである.保護色になって見つかりにくいのかもしれないが,雪原を歩く格好ではなかった.
特に大きく開いた胸元に冷たい空気が容赦なく吹き付ける.
アイテムが使えないか試してみることにした.
「急がないと,凍死しちゃう」
ここで死ねばログアウトはできるかもしれないが,再びログインすればまたあのシャトーの中に逆戻りに決まっている.
シノノメは右手をかざしてスクロールした.
「とりあえず暖かい服を着て,ラブちゃんで暖を取ろう」
ラブとは,シノノメの召喚獣で空を飛ぶ猫の名前だ.モフモフの猫で温まりながら一刻も早くここを離れたかった.
駄目だった.
どういう仕組みか,ログアウト以外のメニューアイコンが全部灰色の半透明――ノン・アクティブである.怪しい術を使う宮廷道化師ヤルダバオートの魔力がこの山岳地帯全域に及んでいるのか,それともシノノメ自身に何かされたのか.
悩んでいてもしょうがない.方向は良く分からないが,とにかくシャトーに背を向けてシノノメは歩き始めた.雪はシノノメの膝ほどまで積っている.ストッキングにくっついた雪が解け,足が痛いほど冷たい.徐々に足先の感覚が怪しくなってきた.
……あなたを守ってくれる人のところにまでなら送り届けられるでしょう.
確かソフィアはそんな事を言っていたっけ.
辺りを見まわしたがそんな人はいない.とにかくなだらかな傾斜を辿って麓へと向かう.
歯がカチカチと鳴り始めた.
やがてまばらに灌木が生えた林に着いた.
下草に熊笹がたくさん生えている.足で熊笹をかき分けると,脛にちくちくと茎が当たって痛い.
どこか獣道でもあれば良いんだけど……
雪がわずかにへこんだ場所を見つけ,歩き始めた.一面の雪景色なので確認できないが,しっかりと足元が踏み固められている.林道なのか獣道なのかはさっぱり見当がつかない.
時折ウサギが後ろ足で立ってこちらを見ていたが,今のシノノメには可愛いの一言を口にする気力もなかった.
ガサガサガサ……
林の中から近づいてくる音に気付き,シノノメは足を止めた.
熊?
狐?
一番まずいのは,ノルトランドの森の王者ティンバーウルフだ.
凶暴で,極めて賢い.
わずかばかりのスキルが発動できるかという今の状態で何ができるか分からない.
一つ可能性があるのは,まだ試していない火の魔法だ.
シノノメにとっては一番得意で簡単な魔法である.
だが,炎が立ち上れば追手に居場所を知らせるようなものだ.
音は徐々に近づいてくる.
かなりの速さだ.
シノノメは近くに落ちていた木の枝を拾って構えた.
気配は右斜め後ろ.
「えい!」
シノノメは振り向きざまに力を込めて枝を叩きつけた.
ゴン.
中身の詰まった鐘を打ち鳴らすような,鈍い音がする.
手にビリビリと伝わる振動.
そこに立っていたのは,黒騎士だった.
シノノメの所属する主婦ギルドが経営しているカフェ,マンマ・ミーアにいつも来ている常連の機械人間である.
黒いフルプレートの甲冑を着こんだ姿に似ているためそう呼ばれているが,甲冑に見える装甲は彼の体そのものなのだ.そして,実際の名前は誰も知らなかった.
「ビュ……」
黒騎士の口のあたりから音がする.
機械文明の国アメリアで使われている高度な機械は,魔素の濃いユーラネシアではうまく働かない.ユーラネシアでは彼の言葉は単なる機械音としか聞こえないのである.
黒騎士はシノノメを指差し,自分の胸を手のひらで押さえる.
どうやら,シノノメを助けに来たと言いたいようだ.
「助けに来てくれた,っていうこと?」
「ブビュン」
黒騎士は頷く.
顔のスリットから光る青い眼でじっとシノノメのドレスの裾を見ている.泥雪がついて汚れ,ところどころ熊笹の茎で破れていた.
黒騎士は何も言わず,シノノメを横抱きに抱え上げた.
「うわっ」
慌ててシノノメは黒騎士の首にしがみついた.
黒騎士の装甲は冷たくて固い鋼鉄なのかと思っていたが,何かの樹脂と金属が入り混じったような不思議な感触の素材でできていた.一番感触が似ているのは亀の甲羅である.ほんのりと温かい.
「あったかーい」
冷え切った体には,少しの暖でもありがたかった.
「ビュウン」
黒騎士が何か言うと,さらに表面の温度が上がった.どうやら,体温調節が自分でできるようだ.
「電気アンカみたいだね」
「ビュ?」
黒騎士は首を傾げ,歩き始めた.
敵意は感じない.
彼が何者なのかは分からないが,シノノメはソフィアの言葉を信じることにした.
「ありがとう.麓の村まで連れてってくれるの?」
「ビュ……」
黒騎士は淡々と歩いて行く.
熊笹も小さな木もものともしない.全て金属の足で踏みつぶし,道なき道を進んでいく.
大きな両手でそっとシノノメを抱えている.野球のグローブほどもある手も体と同じ材質で,指腹には滑り止めらしいザラザラした突起がついていた.少し力を入れるとシノノメの上腕骨を握りつぶしてしまいそうな太い指だったが,腕や大腿に少しも食い込まないように細心の注意を払っているように感じた.
……それは,まるで,とても大事なものを扱うようだった.
身長は二メートル近い.ノルトランド国王,ベルトランよりもまだ少し大きいかもしれない.両肩には道具箱くらいの大きさの四角い突起がついていた.それこそ,道具箱のように蓋がついている.何かの武器が入っているようだが,ユーラネシア大陸で作動するのかはよく分からなかった.
男の子が組み立てるプラモデルのロボットに似ている,とシノノメは思った.
「ステイタス見て良い?」
頷いたので,シノノメは黒騎士のステイタスウィンドウを見てみた.
Ji?rn+ iuアトevn iphr|c>pijawvj*cnu$$pcai●neiupvracpn emi?no oep nnp;p
文字化けがひどくて,ほとんど読めなかった.
機械文明の大陸,アメリアの色々なものはユーラネシアと互換性が乏しいとは聞いていたけど,これほどとは.
やっと読めたのは,三つの単語だった.
DARK KNIGHT
LV00
「闇騎士……本当に,名前は黒い騎士さんなんだ」
白樺の枝が黒騎士の肩に当ったが,お構いなしに歩くので枝がはじけ飛んでいった.もちろん装甲には傷一つつかない.その間も木の枝がシノノメを傷つけないように注意しているらしかった.
「LV00……レベルゼロってどういうこと? 文字化けかな」
マグナ・スフィアのゲームはレベル1からスタートするので,これは明らかにおかしい.
「ブブン……」
黒騎士は首を振った.しかし,言葉が通じないので詳しく説明できないようだ.手振りを使うか雪の上に字を書けばいいのかもしれないが,今はシノノメのために両手がふさがっている.
「そっか,仕方がないね.いつかうまく話せたらいいね」
「ビュブン」
巨大な黒騎士に恐れをなしているのか,不思議に熊や狼が襲ってこない.
これも少し不思議だった.普通の動物ならともかく,魔獣のティンバーウルフにとって両手のふさがったプレーヤーとアイテムの使えないプレーヤーの二人組は絶好の餌である.針の体毛を武器に集団で襲い掛かり,喉笛を狙ってくるのが攻撃パターンなのだが,時々遠吠えが聞こえこそすれ姿すら見せようとしない.
それでいて,黒騎士には何の威圧感もないのだ.強さすら感じない.体越しに伝わってくる体温と同じような温かさしかシノノメには感じられなかった.
静かな強さ,とでもいうものがあれば別だとして.
黒騎士は黙々と森を切り開くようにして歩いていった.
と,森が切れた.
森林を伐採した後なのか,急斜面となった渓谷である.時々露出した岩塊がなければ,直滑降のスキー競技場にも似ていた.
「ここ,どうやって降りるの?」
「ブビューン」
大丈夫,というように黒騎士は声を出した.
黒騎士の足元から雪がもうもうと舞い上がり始める.
そのまま黒騎士は斜面を飛び降りた.
「うわあっ!」
ジェットホバリングだった.足裏から噴出された高速の空気と炎が彼を地面からわずかに持ち上げ,浮き上がりながら斜面を滑り降りていく.
アメリアにいて全出力が出せれば,ひょっとしたら空も飛べるのかもしれない.
「すっごい!」
風にシノノメの亜麻色の髪がなびく.前髪がひっくり返って少し広めのおでこが丸出しになったが,爽快なスピード感に思わず感嘆の声が出た.
あっという間に斜面を下りると,黒騎士は再び歩き始めた.
もう麓が近いようだ.
積もった雪はすっかり少なくなり,地面はなだらかである.
ゆったり歩くリズムで,シノノメは少し眠くなった.
ゲームの中で眠るというのも変だが,VRMMOマシンは脳に負担をかけるので,ある意味肉体よりも精神的に疲労するのである.
安堵の気持ちもある.
頭を黒騎士の左胸に預け,少しの間目を瞑った.
ドクン.ドクン.
心臓の音がする.
モーターではないんだな,と思った.
機械の心臓なのか,生身の心臓なのかはわからない.
ドクン.ドクン.
規則正しく,それはとても力強い.
……このリズム,どこかで聞いたことがある.
思い出せない.
思い出せないことがたくさんある.
忘れてはいけないこと.
大事なこと.
だが,不思議に頭痛は襲ってこなかった.
思い出せないときの不安がない.
思い出せなくても,とても安心した気持ちになる.
心が温かくなって,ちょっとどきどきする感じ.
シノノメはやがて本当に眠り始めた.
寝息に気付いた黒騎士は一瞬シノノメの顔を見て歩みを止めたが,眠りから覚まさないように,そっとまた歩き始めた.
***
どれくらい歩いただろう.
決して長い時間ではなかったが,シノノメは力強い羽音で目を醒ました.
もう雪山はすっかり下山して,雪に埋もれた街道を黒騎士は進んでいる.
上空を,巨鳥を思わせる影が舞っている.
「何?」
黒騎士も歩みを止め,空を見上げた.
日が落ちて空は茜色と紫色に染まり始めている.雪の積もった大地も白から同じ色に染まっていた.
「シノノメ!」
自分の名前を呼ぶ声を聴いて,シノノメは黒騎士の腕の中で体を起こした.
黒騎士を中心に,上空を高速で旋回するそれは,翼のある白い白馬だった.
「貴様,シノノメを離せ!」
天馬の乗り手が叫ぶ声が響く.
「ブビュ?」
黒騎士は困ったように天馬を見上げた.
天馬は一旦黒騎士から距離を取ったかと思うと,猛烈なスピードで接近してきた.
馬の蹄が,黒騎士の頭を薙ぐ.
黒騎士はかわすというより,馬の蹄からシノノメを守るように体を避けた.
天馬は再び翼を翻して黒騎士に迫る.
ヒュン!と今度は,風を切る鋭い音がした.
高い金属音とともに,黒騎士の首と肩の継ぎ目に白羽の矢が突き立つ.
シノノメはまじまじとその矢を見た.
矢に彫り込まれた月桂樹の紋章.
そして,貫通こそしないが機械人の装甲にも突き刺さるオリハルコンの矢じり.
それを放つ弓の絶技.
「アルタイル! アルなの!?」
シノノメは叫んだ.すぐに気付くべきだった.
白い天馬の乗り手はユーラネシアに二人といない.
かつて自分と同じパーティーに所属していた伝説の弓の名手,エルフのアルタイルだ.
放浪のエルフ,彷徨のアル.
孤高の射手.白銀の射手.
ペガサスライダー.
多くの二つ名を持つ最強の弓使いプレーヤーである.
次々矢は黒騎士を襲う.
かわすことはできるのかもしれないが,ほとんどの矢を背中で受け止めていた.
シノノメには分からない,何かの機能を持っているらしい背中の突起物や腰の部品に,矢が刺さっていく.
それは,万が一にも矢がシノノメを傷つけることがないように庇っているようでもあった.
「やめて! アル! この人は私を助けてくれたんだよ! 味方だよ!」
叫んだシノノメも声に呼応するように,天馬から男が舞い降りた.
彫りの深い顔立ちの金髪のエルフは緑のマントを翻し,軽やかに地面に立った.
地上に足が触れると同時に弓を引き絞り,ピタリと黒騎士の目に狙いをつけている.
深緑色の瞳が怒りに燃えていた.
「話はシノノメを開放してから聞く.今度はお前の目を射抜くぞ! 黒い狂戦士め!」
「狂戦士?」
シノノメは黒騎士の顔を見た.機械である彼の顔からは何の表情も読み取れない.しかし,青白く光る眼が何故か哀しそうに感じられた.
黒騎士は体を屈め,そっとシノノメを地面に下ろした.
シノノメを離すことがとても苦痛であるように――手が触れている瞬間を少しでも引き伸ばしたい――そう言っているように,機械の指をゆっくりゆっくり,一本ずつシノノメから離していった.
「黒騎士さん,ありがとう」
「シノノメ,早く離れてこっちに来るんだ!」
アルタイルは矢をつがえたままで叫ぶ.決して黒騎士の目から矢の狙いを外そうとはしない.
シノノメはアルタイルの剣幕に戸惑いながら黒騎士から離れて行った.
「早く!」
シノノメの歩調に焦れたアルタイルが急かす.
「ビュ……」
黒騎士はシノノメに向けて手を伸ばすが,もう決して届かない距離にいた.
「動くな!」
アルタイルはシノノメを自分の背中側に庇い,黒騎士に矢を向け続ける.
「狂戦士,去れ!」
「アルタイル!」
あんまりと言えば,あんまりだ.シノノメは弦を引くアルタイルの手を握った.
「あいつは,アメリア大陸でも最強最悪のプレーヤーで,狂戦士と呼ばれている.勝つためなら手段を選ばず,アイテムを買い漁り,不意打ちに闇打ち,奇襲に擬態,何でも使う.1週間くらいぶっ続けで連続ログインして相手を殺すし,クエストになれば大量破壊兵器を乱発して他のプレーヤーごと殺戮してしまう.闇騎士,黒い悪魔って呼んでいる奴もいる!」
黒騎士を睨んだまま吐き捨てるようにアルタイルは言った.口に出すのも汚らわしいといった口調だ.
「悪魔?」
とてもそんな風には思えなかった.
いつもマンマ・ミーアに来ているときだって,おとなしくお茶を飲んだりご飯を食べたりしているだけだし……
ついさっきの態度も……
シノノメはアルタイルの肩越しに黒騎士を見た.
無表情な青白い目の光がゆらゆらと光っている.
「汚い手の連続で,数か月で最強レベルに到達したと言われている,ものすごく危険な奴だ.この俺でも,ユーラネシアでなければまともに戦えないかもしれない」
「……そうなの?」
最強の弓使いにとっても極度の緊張を必要とする対峙であるらしい.額につけた緑のバンダナがじっとりと汗を吸っている.
黒騎士はアルタイルの説明に耳を傾けているシノノメを見て,がっくりと肩を落として背中を向けた.敵意がない事を示しているらしい.
黒騎士に戦闘の意思がないと見て,アルタイルは構えを解いて鋭い指笛を吹いた.しかし,その間も油断なく決して黒騎士から視線を外さない.
指笛に応えて降りて来た天馬はアルタイルの傍らに控え,巨大な鷲の翼を畳んで首を垂れた.
「シノノメ,早くオルフェウスに乗れ!」
「えっ?」
「急いでノルトランドを脱出するんだ.お前には時間がないんだろう?」
確かにそうだ.家に帰らなければならない時間が迫っている.
シノノメは鐙に足をかけ,天馬オルフェウスの背中に乗った.
黒騎士が背を向けたまま動かないことを確認したアルタイルも,素早い体さばきで天馬に飛び乗る.
「行くぞ!」
手綱を引くと,瞬く間に天馬は空に舞い上がった.
黒騎士は空を見上げ,去っていくシノノメをじっと見守っている.
「黒騎士さん! ありがとう!」
シノノメは叫んだが,もはやその声が届いているのか分からなかった.
「ビューイ……!」
風に乗って黒騎士の哀切な声が届く.みるみる小さくなっていくその姿が,何故かシノノメには泣いているように見えた.
天馬オルフェウスはその声を断ち切るように雲を追い越し,風のように飛んでいく.
さながら夕暮れの空を切り裂く白い矢のようだ.
今にも風圧で吹き飛ばされそうになる.流れる風は容赦なく顔を打ち,目も開けづらい.
シノノメはアルタイルの腰にしがみつき,貸してもらった緑色のマントを羽織ってフードを深くかぶった.
「アルタイル,どこへ行くの!?」
「エルミディア! エルフの森だ!」
「エルフの森!? 中央平原の? そんな遠くに何故?」
風が声をかき消してしまいそうになるので,大声でシノノメは訊いた.
「エルフの女王,エクレーシアがお前を待っている!」
アルタイルは,吠えるように叫んだ.
黒騎士の過去の物語は第20部にもあります。是非ご覧下さい。
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