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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第7章 邂逅
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7-2 白い女神

読んでくださってありがとうございます.

「わわわ,ランスロット,何考えてるの?」

 シノノメはランスロットの腕と顔の下からするりと脱出した.

 ランスロットは暫らく壁に右手をついたまま,自分から身を遠ざけるシノノメをずっと見つめている.

 金の前髪が左目を隠している.鼻筋が通り,横顔は一見女性と見紛うような凛とした細面だ.こうしていればノルトランド最強の騎士とはとても思えない.


 いくら格好いいとは言え,恋愛感情云々の前にひたすら驚いていた.

『結婚すべきだ』って,何で?

 大体既婚者に対して……これはゲームだし……と,結構冷静なシノノメである.


「いや……考えていてくれ」


 考える余地はないでしょう,と心の中で言っているシノノメを背に,ランスロットは大股で礼拝堂の出入り口に歩いて行った.

 茶色い木のドアを開け放ち,人を呼ぶ.

「フレイド! 話はすんだ.客人を部屋までお連れしてくれ!」


「はっ!」


 礼拝堂の外から声がして,一人の騎士が現れた.

 シノノメにとって見覚えのある男である.

 ラージャ・マハール迷宮と,西留久宇土シルクート砦の攻防戦で二度会っている.そして,グリシャム,アイエル,ユグレヒトらの友人でもある.さすがに人の顔と名前を覚えるのが苦手なシノノメも覚えていた.


「シノノメ殿,こちらへどうぞ」

 騎士は丁寧に頭を下げた.

 フルプレート完全武装の青銀色の鎧で,ヘルムは外している.

 ランスロットとの話振りから,彼が信頼されている腹心の部下である事が分かった.


 フレイドの後についてシノノメは礼拝堂を出た.小さな空中庭園である.季節が冬なので緑は枯れていたが,瀟洒な屋根つきの回廊が建物の中に続いていた.

 フレイドは回廊を早足で歩いて行くので,体の小さいシノノメはついて行くのに少し苦労する.

 そうだ.ここはあの部屋の外だから……

 シノノメは少しフレイドと距離が出来たのを見計らって,右手を宙にかざした.

 やっぱりだめだ.

 ウィンドウが立ちあがるが,アイコンはノンアクティブだ.

 魔法を使おうとすれば,手から力なくポシュッと煙が出そうである.


「無理ですよ.ここでは……というか,今のあなたに魔法は使えません」

 状況を察したフレイドが,回廊の端でそんなシノノメを眺めていた.

「フレイドさん,久しぶりだね.一体,私のこれってどうなってるの? ログアウトもできないよ? ユグレヒトさんと一緒なの?」


「……ユグレヒトは,今朝公式には処刑されました」

「えっ? 捕まったの?」

 フレイドは辺りの目を気にしているようだった.

「公式には,です」

 フレイドは,指を一本立てて口にあてた.


 そうか,身代わりを立てて処刑されたお芝居をしたんだ.

 じゃあ,目的は最初から私?

 セキシュウさんの言っていた通り,罠だったっていうことなんだ.

 でも,何のために私をさらったんだろう.

 まさか,ランスロットと結婚させるため?

 略奪婚!?


 ゲームの世界と割り切って,良い返事をしてもいいかな,なんてね.

 あ,私ちょっと悪い子かしら.

 時間がたってから,シノノメは少しだけ頬が熱くなるのを感じた.


 フレイドは,微笑を浮かべたままでそんなシノノメを見ていた.

「行きますよ」

 シノノメは腕組みをしながらあれこれ考えつつ,フレイドの後に続いた.



 シャトーの本館に続くドアを通り,らせん階段を上に上がっていく.

 内装は黒が基調になっており,特に梁と廊下が黒に近いオーク材なので,全体的に薄暗い印象である.

 廊下を歩いていくつかの部屋を行き過ぎ,フレイドが立ち止ったのは重厚な黒檀のドアの前だった.

 メイドが傍らに立っている.

 黒い制服にエプロンドレスを着けた猫人の娘だ.白いカチューシャを挟むように黒い耳が頭から飛び出している.

「お客様を案内した.後は頼むぞ.丁重に,失礼のないようにな」

「はい,フレイド様」

 メイドはフレイドとシノノメに頭を下げた.


「それではこれで失礼します.シノノメ殿.捕虜とはいえあなたは大事なお客様です.このシャトーの中は,自由に移動できますので」

フレイドはシノノメに一礼する.

「うーん,はい.どうもありがとう」

 何やら納得いかない扱いである.シノノメは一応礼を返した.


「そうだ,東の主婦シノノメ殿,再会の記念に,握手して頂けませんか?」

 フレイドが手を差し出したので,シノノメも手を握り返した.

「ありがとうございました.失礼します」

 フレイドは踵を返し,来た時と同じ大股で部屋から去って行った.


「それでは,こちらがシノノメ様のお部屋ですので,我々に随時なんなりとお申し付け下さい」

 メイドが部屋を開けた.


 廊下の黒とは打って変わって,白い壁の部屋だ.

 大きな窓に白いレースのカーテン,キングサイズのベッドのシーツも白,枕も白である.部屋に敷き詰められた赤い絨毯は毛足が長く,手織りの高級品のようであった.

 バスルームもトイレも,ドレッサーもある.

 バスタブは猫足で,洗い場が別になっている.

 高級ホテルのデラックスダブルルームのようだ.

「今,何かご不明の点は,あるいは御入り用の品はございますでしょうか?」


 窓は開くの?と言いかけてシノノメは止めた.どうせ開かないに決まっているし,魔法が使えないなら飛んで逃げるわけにもいかない.

「えーと,ありません」

「では,ここで控えております」

 いや,それはまずい.早く独りになりたいシノノメは,慌てて用事を考えた.


「じゃあ,紅茶を下さい」

「はい,何にしましょうか? ダージリン? アッサム? アールグレイ? ロシアンティー? それとも……」

「あー,アッサムのミルクで.ロイヤルミルクティができたらもっと嬉しいなぁ」

 ロイヤルミルクティなら茶葉でミルクを煮出すから少し時間がかかるかもしれない.ちなみに,ロイヤルミルクティは和製英語である.


「シテュード・ティーでございますね.承知いたしました.では,行ってまいります.もし私が留守の際に何かご用事がございましたら,そこに呼び鈴がございますので,それをお鳴らしください」

 猫人のメイドはテーブルの上を指し示すと,スカートの裾をつまみあげ,右足を半歩下げて優雅に挨拶し部屋を辞去した.


「はあ.至れり尽くせりだなぁ」

 ため息をつきながら,シノノメはベッドの端に腰かけた.

 暖炉には薪がくべられている.暖炉というものは調整を間違えるとひどく煙くなる暖房器具だが,当然完璧な火加減で調整してあった.メイド達の管理が隅々まで行き届いているのだろう.

 しばらくパチパチと音を立てて燃える薪を眺めていたシノノメだったが,部屋の中に完全に一人なのを確認して,ゆっくり手を開いた.

 右手の中には,フレイドがひそかに渡した紙片が入っている.


 何重にも厳重に折りたたんだ小さな紙を丁寧に開いた.


 『ノルトランド全軍で,会話やメッセンジャーを使ったメールのやり取りは,すべて監視されています.どうやって,どこまで聞かれているのかは分かりません.

 アイエル達にあなたの事は知らせてあります.

 この紙は,読み終わったら必ず燃やしてください』

 

 シノノメはアイエルの名前を見て少しだけほっとする自分を感じた.

 自分はたった一人ではない.皆とつながっている.その想いは随分気持ちを落ち着かせてくれる.


 しかし,ノルトランドの結束も一枚岩ではないのかもしれない.

 国王ベルトラン一人が暴走しているのだろうか.ランスロットの複雑な態度もそれが原因なのだろうか.

 あの不気味な道化は何者なんだろう.

 フレイドは味方なのだろうか.それとも,今度はアイエル達が罠におびき寄せられているのだろうか.

 何が本当で,何が嘘かが分からない.


「このままいたらランスロットと結婚させられちゃうのかな?」


 そこまで考えたところで,部屋のドアがノックされた.

「お待たせしました.ロイヤルミルクティーでございます」


 メイドは二人でやって来た.先程の猫人の娘と,もう一人はポニーテールの人間の娘だった.一人がドアを開け,もう一人が茶器と茶菓子を乗せたワゴンを押して入ってくる.


「あ,ありがとう」


 シノノメは何事もなかったように暖炉に手紙をそっと放りこみ,窓際のテーブルに移動した.

 人間のメイドはテーブルの上にティーカップを置き,ポットから紅茶を注いだ.

「お砂糖はおいくつですか?グラニュー糖は加えてありますが」

「えーと,じゃあいいです.でも,後は自分でするよ」

「いえ,そういうわけには参りません」

 メイドはティーポットをワゴンに戻し,ティー・コージー(ポットカバー)を被せた.

 カップからふんわりとアッサムの甘い香りが立ち上る.シノノメは一口飲んだ.


 何を言ったらいいか分からない.

 会話は監視されているらしいし.


「あの,じゃあ,一緒にお茶しない?」

「いいえ,そんな恐れ多い事です.それに,私は猫舌ですので」

 猫人の娘は,本当なら思わず笑ってしまいそうな言葉を至極真面目に言った.


「えーと,じゃあ,二人も申し訳ないから,一人だけいてもらったらいいよ……」

「承知しました.では,私は失礼させて頂きましょう.マリア,シノノメ様に決して失礼のないように」

 猫人のメイドは再び恭しくお辞儀して部屋を去って行った.


 マリアと呼ばれたメイドはまだ猫人の娘に比べると経験が浅いらしい.直立不動でピリピリしながら起立していた.

「マリア? あれ?」

 シノノメはマリアの顔を見て思い出した.間違いない.歓迎の儀式の時に,アスガルドの宮殿で支度を手伝ってもらった女の子だ.

「マリアだ! 今度はこちらに来たんだね! 言ってくれたらよかったのに!」

「あ,あのー,そうです.あの時はありがとうございました.私の事などお忘れになっているかと思って.いえ,第一プレーヤーの方々に私たちが対等に話をするなんて失礼なことは……」

「何言ってるの! 座って,座って!」

 それでも恐縮するマリアをシノノメは無理矢理座らせた.

「お茶,入れてあげるね! 良い匂いだね.マリアが入れたの? 上手だね!」

「あわわわわ! シノノメ様!」

 部屋の奥にカップを探しに行ったシノノメに,マリアはすっかり慌てふためいていた.


「あの後,どうなったの? もちろん,知らない事は話さなくていいから」


 マリアは背中を真っ直ぐにしてぽつぽつと話し始めた.


 歓迎のパーティーは,シノノメの途中退出を無視するように進められ,滞りなく終わった.アイエルがずっと探していたが,ノルトランドの警備の兵士たちも 全く知らない様子だった.

 翌日,念波放送でユグレヒトの処刑が中継された.

 ただし,素明羅公使からの人道的な配慮に関する抗議を受け入れたとされていた.

 本人の顔は見えないように覆面を被せ,中継の水晶玉からは遠い位置で映像が映っていたので,実際にはあまり良く分からない画像だった.

 その後も,シノノメの事には一切触れられなかった.

 素明羅公使を無事ゲートに送り返したところまで新聞と念波放送のニュースで報道されたという.


「はあ,私,まるで消えちゃったみたいだね」

 なるほど.公には自分は完全に行方不明になっているらしい.フロイドがアイエルに連絡したことも随分危険な橋だったのではないのだろうか.


「ええ,ですからここでシノノメ様をお見かけした時は,私心臓が止まりそうになって……」


「あれ?」

 その時,シノノメは大変な事に気がついた.

 昨日の昼頃からログインしているとして,今は何時間経っているんだろう?


「大変だ!おうちに帰らなくっちゃ!」

「お家? 素明羅の御自宅ですか?」

 マリアにはもちろんVRMMOの外の世界の概念はない.


 厚生労働省のガイドラインで,VRMMOマシンはどのメーカーの物も健康上の理由で八時間経てば強制ログアウトされるはずである.慣れたプレーヤーは時間いっぱいに上手に遊んで切りのいいところでセーブ・ログアウトする.

 気を失っている間,どうなっていたんだろうか.

 ひょっとしてまさか,ずっとログインしたままなのだろうか?

 その割には不思議に空腹を感じない.もともと食が細いのでそこまで食べなくても大丈夫ではあるが,現実世界の体はどうなっているんだろう.


 自分の家に戻らなければならない.

 自分の家に戻れない.

 その気持ちは異常なまでに自分を不安にさせる.

 動悸が早まる.

 底知れない不安感が心の奥から次々に噴き出してくる.


 シノノメは無駄だと知りつつ,窓を開けようとしてみた.

「無理です,ここの窓は開かないようになっています」

 マリアがシノノメの様子を察して言った.


 シノノメは窓の外を眺めた.

 本格的な要塞ほどではないが,シャトーは城壁に囲まれている.その向こうに何かが見える.雪原の上に飛ぶ,白い動物.

 鳥よりはるかに大きく,鷲のように雄々しく優雅に羽ばたいてる.


「あれ,もしかして……」


 タアン!


 高い音が響いた.城壁の上の見張りの兵士が飛翔する動物を狙って発砲したのだ.

 どうやらこの城の兵士達はすでに銃で武装しているらしい.城の外周りは遮蔽物のない雪原である.狙撃兵に銃で狙われたらひとたまりもないだろう.

 白い動物は一瞬バランスを崩したが,再び大きく羽ばたいて旋回し,飛び去って行った.

 独特の美しいフォルム,間違いない.


天馬ペガサスだ! あれ,アルタイルの天馬だ!」

 シノノメは思わず叫んだ.


 エルフのアルタイルはシノノメがかつてセキシュウやランスロットとともに所属していたパーティーの仲間だ.

 マグナ・スフィアのプレーヤーの中でも伝説級の弓の達人であるが,ゲームにはごくたまにしか参加してこないため,放浪のエルフとか,彷徨のアルという二つ名を持っている.

 白い天馬は彼の召喚獣で,戦闘力ではグリフォンに劣るものの,空中戦における機動力はトップクラスである.


「助けに来てくれたんだ! 何とかここから出なくっちゃ!」


 シノノメは部屋を飛び出した.後から慌ててマリアが付いていく.

 廊下を走り,階段を駆け下りて回廊を回り,玄関ホールへと急ぐ.


 玄関のドアにシノノメは体当たりした.

 ドアはびくともしない.

 駄目でもともと,手をかざして魔法を発動させようとしてみる.

「グリルオン!」

 何も起こらない.

「お掃除サイクロン!」

 何も起こらない.

「ノンフライヤー!」

「フーラ・ミクロオンデ!」

 何も起こらなかった.

 静かな館の中に,シノノメの荒い息だけが響く.


 こんなのってない.

 自分はどうしてこんな大事な時に何もできないんだろう.

 無力感と怒りと悔しさで,シノノメの肩は震え始めた.


「シノノメ様,無理です……」

 ようやく追いついたマリアが息を切らせながら言う.


「マリア,これは何事ですか!?」

 騒ぎを聞きつけ,別のメイドがやって来た.

「メイド長様!」

 青いショートカットの髪に,マリアと同じメイド服を着ている.

 マリアよりやや年上の背の高い女性である.ただ,その表情は硬く険しく,有無を言わせない厳しさを感じさせた.

「シノノメ様.大変失礼ですが,この屋敷の中であなたの魔法は一切使えません.」


 ライオンの装飾がついたドアノブを何度も押したり引っ張ったりしているシノノメの背中をそっと抱いて,メイド長は優しく囁いた.


「シノノメ様のお世話の事は厳しく主人から仰せつかっております.もし粗相があれば――私たちが厳しく罰せられます」


 分かっている.分かっているけれど,ここを出なければいけない.

 どうやって?

 どうすればいいのか分からない.

 シノノメは硬くこぶしを握り締めた.


「マリア,お客様に御無礼のないようにお部屋にお連れしなさい」

「はい」


 マリアは力なく体重を預けてくるシノノメの肩を抱き,廊下を戻り始めた.

「シノノメ様,お部屋で少し休みましょう」


 無言で部屋に戻ったシノノメは,ぐったりとベッドに座り込んだ.

「大丈夫ですか?」


 マリアの優しい慰めの言葉を聞くと眼から涙がこぼれ落ちそうになる.

 でも,泣いたら何かに負けるような気がする.

 涙は,こんな時に流す物じゃない.シノノメは唇を噛んでぐっと堪えた.


「私には,何もしてあげられません……」

 自分をじっと見つめているマリアの視線を感じた.マリアの困惑が伝わってくる.


「ううん,マリア……マリアが悪いんじゃないよ」

「せめて……シノノメ様の願いが叶うように……白い女神様にお祈りします」

 マリアは胸の前で固く手を握り合わせ,目を瞑って祈り始めた.


「ありがとう,やさしいね,マリア」

 

 シノノメは窓の外に目を向けた.

 少し日が傾いて来ているような気がする.

 相変わらず北方山脈の白い稜線は美しいが,今の自分には淋しい光景に見えてしまう.

 大きなため息をついた.


「シノノメさん」

「何?」


 ふとマリアに話しかけられ,シノノメは顔を上げた.

 マリアは祈りの手を胸の前で組んだまま,じっとシノノメを見つめている.

 雰囲気が一変していた.


 瞳の紺色が深い.

 さっきまでの戸惑う少女の様子は皆無で,落ち着き払って見える.

 まるで一瞬で何歳も年を重ねたようだ.

 口元にわずかな笑みを湛えた表情は,神秘的ですらある.

 その目の焦点はシノノメにではなく,遥かずっと遠くに合っているように感じた.


「マリア?」


「シノノメさんは,どうしてそんなに誰にでも優しいんですか?」


 どこかで聞いたことのある口調だった.

 ただ,シノノメにはそれをいつ聞いたのか思い出す事が出来なかった.


「だって……命があっても無くっても,考えて,動いている――生きているものがひどい目にあうって,嫌だもの」

 うまく説明できないが,それはシノノメの心からの答えだった.


「命がなくても……生きている?」

 少し不思議そうにマリアが尋ねた.


「妖精たちには魂はないんだよ.永遠の魂は,動物も妖精も持っていなくって,人間しか持っていないの.でも,人間と恋をしたり,友達になったりするんだよ」


 シノノメは水の妖精ウンディーネの物語を思い出していた.

 騎士と恋に落ち,結婚して永遠の魂を分けてもらった水の乙女ウンディーネ姫.

 夫の心変わりのために,妖精の掟に従って彼を口づけで殺す結末を迎える悲恋の物語だ.


 ……この物語,誰に教えてもらったかな.

 おばあちゃん?

 おばあちゃん……あの人は……

 陽だまりで車いすに座る祖母の傍らに立つ誰か.思い出しそうで,思い出せない.

 また頭痛が始まった.


 シノノメは頭を押さえ,しばらく口をつぐんだ.

 頭を振って頭痛を追いやるシノノメを,マリアはじっと見守っていた.

 その表情は,どこか哀しげで優しい.


「これからどうなさるのですか?」

 再びマリアは口を開いた.

 この言葉もどこかで聞いた気がする.だが,今のシノノメに思い出す力はない.


「……ここから出たい.お家に帰りたい.それから,みんなを――助けたい.こんな素敵な世界を,悪意で真っ黒に染める人たちから守りたい」


 シノノメの絞り出すような言葉を聞いて,マリアはにっこりと笑った.


「あなた一人なら,ここから出してあげられます」

「え?」

「転位魔法を使います」

 マリアは何事もないように微笑を浮かべて言った.


「あなた,魔法が使えるの?」

 驚くシノノメに,マリアはこっくりと頷いた.

 マリアは魔法使いではなく,普通の人間の少女のはずだ.しかもNPCなので,そんな強力な魔法が使えるなんてありえない.


「でも,私を逃がしたらあなたが罰せられるんじゃ……?」

「いいんです.あとは何とかします.全て私に任せて下さい」

「何とかって……」

 どうする気なのだろう.今の政治体制のノルトランドなら,一族郎党逮捕して強制労働,処刑するなんて事もやりかねない.

「急ぎましょう.現実世界に帰らなければならない時間が迫っているはずです」


 現実世界? NPCが認識できるはずない世界を,何故? この子は一体?


「どうして……?」

 どうして助けてくれるの?

 さらに言葉を重ねようとするシノノメの唇を,マリアはそっと右手の人差指で塞いだ.


「あなたは,この世界にとって大事な人です」


 マリアはゆっくりと左手を挙げた.

 左手を中心に,空間が渦を巻いて歪み始める.

 良く見慣れた転移魔法発動初期の状態である.


「マリア!?」

「今の私の名は,ソフィアです.どうか覚えていてください」

「ソフィア?」

マリア――いや,ソフィアは優しく笑った.

「あなたのお友達が待機している,ふもとのユーミール村までは転送できないようです.彼の――ヤルダバオートの力が強すぎます.ですが,あなたを守ってくれる人のところにまでなら送り届けられるでしょう.」


 空間の渦は,徐々に広がって大きくなると,シノノメを飲み込み始めた.

「守ってくれる人?」

「あなたの事を,とても大事に思っている人です」


「ソフィア! あなたも一緒に来て!」


 ソフィアは首を振った.

「いいえ,この魔法は一人しか送れません.そして,終わったら空間を閉ざさなければなりません」

「ソフィア!」

「さようなら,また会いましょう.シノノメさん」


 転移魔法の渦に巻き込まれるシノノメの目に最後に映ったのは,歪んだ部屋の中で小さく手を振るソフィアの笑顔だった.

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