36-2 Ever Ever After : 帰るべき場所
気付くと唯は、エメラルドグリーンの海に浮かんでいた。
いつかと同じで、裸だ。
水温は心地よく温かい。
雲一つない青空が広がっている。
記憶の海だ、と思った。
カカルドゥアでナーガルージュナに助けられた時、漂っていた海。
ふと見ると、頭の横を小さな生き物が泳いでいる。
「ワニ? ……違った、竜? ナーガルージュナさん?」
小さな竜は答えずに、すうっと泳ぎ去って行った。
「ナーガルージュナさんがいるわけないか。もう私の中に溶け込んでしまったものね」
でも、自分の中にいる。
想えば、話すことが出来る。
人間の心に直接触れたことがない――触れることが出来なかったエンノイアに、心を届けるように教えてくれたのは、ナーガルージュナだと思う。
産まれてたった五年で、究極の英知を持ってしまった幼児。
それがソフィアだった。
孤独の中一人で悲しみ、絶望して自殺――あるいは、人類と心中しようとしていた彼女に、手を差し伸べさせたのは、祖母の教えかもしれない。
心を自由に解き放つように背中を押してくれたのは、心の中のクルセイデルだ。
「みんなまるで、守護母みたい」
守護母――代母。カトリックで子供の洗礼式に立ち会う女性のことだ。生涯見守ってくれる後見人のような存在でもある。シンデレラにガラスの靴を与えたのも、妖精守護母だ。
「本当にシンデレラみたいだったな」
何せ、一瞬でドレス姿に変わったのだ。
竜と二人の魔女。
キリスト教の教えからすればとんでもないけれど。
それに、ゴッドマザーなんて言うとクルセイデルに「そんな歳じゃないのよ」って叱られそうだ。
……自分は見守られている。
だから、もう大丈夫。
迷う事はない。
くるりと身体の向きを変え、泳ぎ始めた。
自分は知っている。
この海の向こうに目的地がある。
自分の大切な人たちがいる場所だ。
水平線近くに薄く島影が見える。
あそこが目的地だ。
ゆったりと手足を動かし、泳いでいった。
***
唯はゆっくり目を開けた。
眩しい。だが光が柔らかい。
カーテンを通した自然光なのかもしれない。
睫毛を風が揺らす。
重い瞼を少しずつ開けた。
手足が重い。
水の中から急に上がったようだ。
指を動かすと関節がきしみを立てるような気がする。
眼球まで重くなっている気がする。
白い壁と白い天井が見えてきた。
ぼんやりとしていた焦点が徐々に合ってくる。
口を少しだけ開けた。
唇が貼り付いていたようで、動かしにくい。
「あ……」
自分の声が聞こえた。
ベッドサイドにいる誰かが、顔を覗き込んでいる。
そちらに焦点を合わせる。
ゆっくりゆっくり、目が顔の輪郭を捉え始める。
眼鏡をかけた人だ。
酷い顔色をしていて、目が落ちくぼんでいる。
頬はげっそりとこけていた。
「唯」
懐かしい声がした。
だが、声が震えている。
「唯、僕のことがわかるかい?」
喜びがほんの少し。
それでいて、不安そうな、哀しそうな、それでいてほっとしている様な。
――何かに怯えている様な。
眼鏡の奥で見つめる目が、今にも泣きだしそうだ。
彼は答えをじっと待っている。
……答えなくっちゃ。
筋肉がこわばっていて、口がうまく動かない。
何度かつばを飲み込む。
右手に力を入れた。
何て重いんだろう。
腕って、どうやって動かすんだったか。
手が震える。
肘に、肩、手首、指。
必死に引き上げる。
……あの目から涙がこぼれる前に。
やっと手が顔に届いた。
彼は大事そうに手を握ると、自分の頬に当てた。
それでもまだ目から不安の色が消せない。
何か言わなくちゃ。
「こ……」
「こ……?」
「こんなにやつれてちゃ……分からないよ。前は、熊さんみたいで、可愛かったのに」
「唯……」
周りからどっと笑い声が起こった。
気付いてみれば、ベッドサイドにたくさん人がいる。
看護師さんもいる。
小麦色の肌の女の子がいる。きっと、アイエルだ。
「クマさん?」
猫のように細い目になる女性がいる。きっとグリシャムだ。
「そりゃナイわ、可愛いって」
その隣にいるすらりとした男性は日高雅臣――アルタイルだ。
感じが悪い猫背の男の人がいる。ヴァルナに違いない。
「ひゃはは、実物も天然かよ!」
「先輩、そんなこといったら失礼ですよ!」
ボーイッシュな小柄な女性は、クヴェラだろうか。
車いすに乗った壮年の男性は、もしかしてセキシュウさんかもしれない。
大きな口をあけて笑っている女性は、アーシュラだろう。
いかにもお母さんっていう感じの人は、多分ミーアさんだ。
みんな笑って、そして泣いていた。
「ううううう……」
せんせいは私の手を握りしめて、ずっと泣いている。
手が涙でぬれていく。
力の入らない指で、頬を撫でた。
温かい。
「ただいま」
私は帰って来た。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
シノノメの物語はこれで終わりです。
感想、評価等頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。




