35-11 I Swear
あの人の声が聞こえる.
……ゆい.
あの人の声が聞こえる.
……唯.
……東雲……唯.
あの人の声が聞こえる.
……シノノメ.
私の結婚前の苗字だ.
全身が痛い.
暗くて,苦しくて――私はどうしていたんだっけ.
ローズマリーの香りがする.
そうだった.
結婚記念日の夕食を作っていたんだ.
白身魚の香草パン粉焼きを作ろうとしていて――.
私は買い忘れに気付いた.
カモミール.
バジル.
タイム.
ミント.
レモングラス.
なのに,どうしてだろう,一番基本的なローズマリーを切らしているなんて.
もうすぐ彼が家に帰ってくる.
エプロン姿で家を飛び出し,車に乗った.
そして…….
一瞬で目の前が暗くなり――.
暗くて,苦しくて,指一本動かせなくて.
……唯.
……唯.
そんな時,あの人の声がしたのだ.
何度も何度も.
私の名を呼ぶ声が.
頬を涙が伝う感触で,シノノメは目を醒ました.
ゆっくり目を開けると,目の前にはローズマリーが生い茂る地面があった.
思い出す.
ここは――欲望の塔の頂点,百階層.
私は確か,エンノイアと名乗る人工知能と戦っていて――.
上から巨大な金属の塊を落とされた.
その時確か黒騎士が…….
「……唯」
また自分を呼ぶ声がする.
頬に枝が当たって痛い.
シノノメは両手を突いて体を起こした.
「あっ」
頭が何かにぶつかる.
自分が倒れていた空間がこんなに狭いとは思っていなかった.
注意しながらゆっくり体を反転させた.頭を低くしてやっと座れるほどの広さだ.
「これは……」
辛うじて人型だったとわかる金属の骨格が,体の上に覆いかぶさっている.
残骸となってしまった黒騎士だ.
背中に残っていた不撓鋼のおかげで完全に潰れずに済んだらしい.
自分を守るために盾になったのだ.
「黒騎士さん!」
単眼のカメラアイの奥に,かろうじて小さな光が宿っている.
「ユイ……」
胸のあたりから声がする.
胸当てに当たるパーツが壊れて半ば開き,声がするのはその中からだ.
中に入っているのは,確か機械人の中枢部品――コアだ.
慌ててパーツに手をかけ,左右に開いた.
カカルドゥアで見せてもらった,青白色の人形が収まっている.
不器用な作り手が作ったせいで,熊かウサギか分からなくなってしまった大きめの縫いぐるみ――そんな印象だ.
胸に尖った金属の部品が刺さって赤い体液がじわりと滲み出している.一目で深い傷だと分かる.
洋服のボタンそっくりな黒い目に向かってシノノメは話しかけた.
「黒騎士さん!」
「ああ……唯.無事……だったか……良かった」
「こんなに……こんなにボロボロになって」
「いいんだ…….やっと君と話が出来た」
頭には耳なのか角なのか分からない垂れた突起が二つ付いている.それを覆うヘッドホンのような機械がチカチカと赤く点滅していた.
コアにダメージを受けたせいか,苦しそうな声だ.
だが,間違いない.
あの人の声だ.
紛れもなく,ずっとずっと聞きたかった”せんせい”の声だ.
声を詰まらせながら,あの質問をもう一度繰り返した.
「黒騎士さん……あなたは,あなたはどうして……どうしてそんなにしてまで……私を守ってくれるの?」
唇を動かすだけで涙が零れ落ちそうだ.
コアの表面がわずかに震えた.
「だって,あの日……誓った……から」
「あの日?」
「……あのクリスマスの……夜」
「あ……あ!」
***
あのクリスマス・イブ。
私たちにとってただ一つのクリスマス・イブ。
心が震えた、人生最高の夜。
「僕と結婚してください」
指輪とともに差し出された,一通のクリスマスカード。
あの仮想の家のどこにも見つけられなかった手紙。
私にいつも勇気をくれる手紙。
そこには小さな絵が描いてあった。
可愛らしい王女の前にひざまずく、黒い鎧を着た小さな騎士。
騎士が王女に誓う言葉が添えてあった。
――僕はずっと君を護ります。
***
「でも,だから……だからって,こんな地獄みたいな世界で……たった独りで戦って……口もきけなくなって……ボロボロに傷ついて……」
「口がきけなくても……この姿なら……いつか分かると思ってた」
「あの時の……」
「う……ん」
***
あれは初めてのデートの時。
子供のころ外国暮らしだった私は、日本語の名前の読み方に疎かった。
彼が病院で胸につけているネームプレートの漢字を見て、こう言ったのだ。
「でも,変な名前ね?」
「そ、そうかい?」
「クロエって,フランスじゃ女の子の名前よ。それに,キシなんて、騎士みたい」
「いや、それは……」
「え? そんな読み方なの? 日本語って本当に……」
私の間違いに彼は苦笑していた。
でもそんな彼がとても可愛く見えた。
「じゃあ……いつまでも守ってくれる? 私の黒い騎士さん?」
***
黒い騎士.
それはくだらない語呂合わせだ.
くろいきし.
くろえ,きし.
――黒江,貴史.
「……貴史さん……」
「すまない.僕が……ただもう一度……君に会いたいと願ったばかりに……こんな辛い思いを……させてしまった……」
どうして世界一大事な人の名前を忘れてしまっていたんだろう.
彼は物言えぬ身体で,ずっと自分の名前を叫んでいたというのに.
どうして気づかなかったんだろう.
ずっと自分のそばにいてくれてたのに.
「……君のいない世界の方が……僕には……地獄だった……本当に,すまない」
涙で何もかもが歪んで見える.
胸が熱い.
声を出そうとするたびに次々涙が溢れてくる.
「すまない……なんて……!」
***
あの結婚記念日の――事故があった日。
時間が無かった。
もうすぐ彼が帰ってくるのに、肝心の香草が無い。
家のそばに危ない一方通行の道がある。
表道路から路地に入るときに、人工知能の自動運転から手動に切り替える大型トラックが沢山通る道だ。
事故が多いので、彼と約束したのだ。
決して通らないと。
でもあの事故の日。
香草の品ぞろえが多いスーパーには、その道が一番の近道だった。
私は彼との約束を破った。
どうして私は約束を破ってしまったんだろう。
そのために幸せな日常を失うことになるなんて。
***
彼が守り続けた大きな約束.
私が破った小さな約束.
後悔と罪の意識から,私は自分の記憶に鍵をかけたのだ.
ローズマリーの記憶とともに.
「ごめんなさい……ありがとう……ごめんなさい……」
「泣かないで……唯……それより,僕はもう……活動限界が……近い」
黒騎士のコアにシノノメはそっと手を伸ばし,抱き上げた.
胸から流れる赤い液体が手を濡らす.
止めどなく流れる涙が人形の黒い目を濡らす.
「もう……離れない.ずっと一緒だよ……」
コアから微かな温もりが伝わってくる.
ずっとずっと求めていた温もりだ.
固く抱きしめた.
「……一緒に……お家に帰ろう」