35-8 Shattered Dream
「黒騎士さん!」
左手をかざしながらシノノメの前に立っていたのは右手を失った黒騎士だった.
エンノイアの放った光る鱗粉――ナノマシンの群体が体に触れる寸前でぐにゃりと歪んでいる.いや,よく見ると触れる寸前で消失している.
無事というわけではない.
肩回りについていた黒くない兵装――ガンポッドやミサイルマウントは次々と溶けて無くなっていた.
眼の部分は黒い蓋状のものが下りてスリットが閉じている.
思わず大きな背中に触ろうとした.
「触ルナ!」
ブルブルとビブラートが効いた声で黒騎士が喋った.慌てて手を引っ込める.
そうか,喋れるんだ――.
考えてみればちゃんとした言葉を聞くのは初めてだ.幻想大陸にいるときは,“互換性”の問題で電子音にしか聞こえなかったのだ.
会話らしい会話は一度だけ,筆談したのみである.
よく見れば黒騎士の体は細かく振動している.
アイエルの手を粉々に砕いた極低周波を発しているのだ.
「これは……」
不撓鋼.
仮想世界の外にある鉱物.
マグナタイト自体を除く,いかなるものでも破壊できない物質.
光る粒子は黒い装甲の表面で泡のようにはじけ飛んで消失している.
「“なのましん”が効かない……」
SFよりもファンタジーが好きなシノノメは,ナノマシンと言われてもピンとこない.
何だかものすごく小さな機械くらいの認識だ.
「ナノマシン,トハ,極小ノロボットノ様ナ物.人工的ニ作ラレタ,細菌ヤ,黴ノ様ナ」
黒騎士が振動する重低音で説明する.
「そうか……そうなんだ.すっごくちっちゃい,虫のロボットみたいなものね.あんなにたくさんいると思うとぞわっとするよ……でも,これで分かった」
エンノイアが眉を顰める.
「マグナ・スフィアの物理法則が及ばない物質とは,我ながら面倒な物を設定した…….時間が静止し,熱力学の法則が停止した物体.ですが,黒騎士,あなたの身体は不撓鋼だけで出来ているのではない」
金色の羽根が広がり,ぐるりと空中で湾曲した.
シノノメが切断した右腕側は,内部の機械が露出しているのだ.
シノノメは黒騎士の右前に飛び出した.
左の薬指――正確には薬指にはめた“拒絶の指輪”が輝く.
「させないっ!」
薄水色一色.
魔法の呪文が全く浮かび上がっていない板状の物質が宙に現れた.
シノノメ向かって飛んで来た金色の粒子が行く手を遮られて弾け飛ぶ.
まるでネットに跳ね返されたようにも見える.
「何っ!? それは?」
「ムシ来ない,網戸バリア!」
金の粒の群れは向きを変え,今度はシノノメの頭上から襲い掛かった.
「上にも!」
たちまちネットが出現して,四方を完全に防御してしまった.
エンノイアの顔に驚きが浮かぶ.
「こ,これは……? 極小の魔法呪文が縦横に配列した防御魔方陣ですって?」
「そう! 四方を覆えば,蚊帳バリア! むかーし日本のお祖母ちゃんの家にあった奴と一緒!」
シノノメの足元にはいつの間にか豚の形をした蚊遣り――蚊取り線香入れが現れ,口から白い煙を出している.
白い煙が漂うと金色の粒がポトポトと床に落ちる.
ミニヴァルナが爆笑した.
「ぎゃははははは,流石シノノメだぜ! ひでーネーミングセンス! 理屈は滅茶苦茶! お前最高だな!」
「失礼な!」
「そうでした.ソフィアが渡した権限は,マグナ・スフィアにおいてあなたの想像を完全に具現化する.そして,その想像がより具体的であればあるほど強くその力を発揮する」
「ナノマシンってものがよく分からなかったけど,要はすごく小さい昆虫ロボでしょ!」
アイエルが目を丸くしている.脚の痛みなど忘れそうになる.
「だけど,さっきの魔法陣は――エネルギーを食べられて歯が立たなかったのに」
シノノメは直方体の立体防御陣――蚊帳バリアの中で腕を組み,力強く断言した.
「魔法は――科学で説明のつかないものなのよ!」
ヴァルナは床にひっくり返り,腹を抱えて笑い始めた.
グリシャムも笑いをこらえている.
「ちょ,ちょっと! 笑うとイバラが体に食い込んで痛いんだけど,ヴァルナ,さっさとこれを取ってよ!」
「ハハハハハ!」
鈴のように美しい笑い声が響いた.
頬を紅潮させ,エンノイアが笑っている.
「なんて素晴らしい! だからシノノメなのです! 人工知能がどれだけ思考を積み重ねても思いもつかない発想.神経結合を光速で巡る閃き.何という歓喜でしょう! だからこそ貴女が欲しいのです!」
その表情は妄執に狂う乙女の様だ.目元は涙で潤み,狂気に濁っている.
四つの瞳孔が震え,歪む.
「では,物理的に切り裂けば!」
光る羽根が激しく形を変えた.鋭い刃の形だ.
四方から押し寄せる.
「黒騎士さん! 手伝って! あの人のそばに行きたい!」
振動は止まっている.壊れた腕を差し出して来たので,手をかけてシノノメは右肩に登った.ノルトランドで助けられた時と同じだ.
「攻撃すれば,防御に……そう!」
言いかけたとたん,黒騎士は左腕の武装をフル稼働させた.
エンノイアを攻撃すれば,光の羽根は防御に使わざるを得ないはずだ.
熱線とウラン弾頭がエンノイアめがけて乱れ飛ぶ.
危険な笑みを浮かべたエンノイアは易々とそれを受け流す.
「進もう! 黒騎士さん!」
黒騎士とシノノメの猛攻が始まった.
「すまねえ,笑いすぎた.グリシャムちゃんよ,大丈夫か?」
ヴァルナはグリシャムのイバラを切断した.得意の風の刃,鎌鼬だが,何分体が小さいので手間がかかる.
何度か繰り返してようやくグリシャムの身体は自由になった.
それでも体は薔薇の棘で傷だらけだ.
「イタタ……大丈夫な訳ナイけど.それよりも,シノノメさんよ,ヴァルナ.あんなに焚きつけて本当に大丈夫なの?」
「シノノメが勝てなきゃ,もう誰も勝てねえ.地球最強の人工知能が複数でくみ上げたネットワークの統合体だぞ」
「逆に,シノノメさんが勝てる可能性が……あると?」
「正直,わからねえ」
「こ,こいつ」
グリシャムはミニヴァルナの首を思い切り締め上げた.
「ぐえええっ! 少なくともゼロじゃねえ.シノノメはこのマグナ・スフィアの一部……って聞いた.逆に言うと,システムを支配する力を持っているはずだ」
「クルセイデル様は四分の一位って……」
「レベル百がいるだろ」
「まさか」
「黒騎士の旦那だよ.あいつが何故あそこまで欲望の塔の狂気に振り回されてたと思う? あいつもすでにこの世界の一部なんだ」
アイエルが動かない脚を引きずりながら寄って来た.
「でも……黒騎士も四分の一としても……それでも半分?」
「あいつの隠し玉――奥の手はすごいぜ.何故俺たちがこんな速さでここまで来れたと思う? 余りある兵装をぶっ放しまくったからじゃないんだぞ……始まった!」
黒騎士の左腕が変化し始めていた.
糸がほどけるように黒い装甲が紐状になって広がり始める.
機械の骨格を中心に,黒い紐は螺旋を描いて高速で回転し始めた.
エンノイアの金色の羽根と衝突し,凄まじい勢いで砕き始める.
美しくも巨大な花弁は粉々に砕かれ,空気に溶けて消えていく.
「何!? あれ? 黒いドリル――いいえ,竜巻!?」
「あの装甲の正式名,インヴィクタス・アーマーというらしい」
「インヴィクタス?」
「屈服せざる者の鎧,とでもいうのかな.結局,あいつの装甲ももう一つのナノマシンなんだよ.だからこそ傷つかない――というか,超高硬度の粒子が自己修復するのさ.あの回転に触れて壊れない物質は,マグナ・スフィアに存在しない」
「すごい……あれなら……確かにエンノイアに勝てるかも」
「いや,あれじゃあ勝てねえな」
「どういうこと?」
「それは……」
黒騎士は一歩ずつ進み続ける.
水色の網越しにシノノメは辺りを見回した.
「すごい! 黒騎士さん!」
黒い嵐が金色の帯を飲み込んで道を切り開く.とても悪魔的な光景なのだが,心強い.
まるで自分の意図を察しているかのように思える.
黒騎士の説明が無ければひらめきも出なかった.
実のところ三百六十度,足の裏まで魔方陣に包まれてしまったので,エンノイアの所までどうやって行くのか考えついていなかったのだ.
肩に乗るように言われたのも攻撃のタイミングも,自分が言い出そうとしたのとほぼ同時だった.
黒騎士の右側への攻撃は,“蚊帳バリア”の形を変えて受け流す.球形だろうと方形だろうと自由自在だ.万能の盾になっている.
「これならいけるね!」
黒騎士は何も答えない.この能力がどういう物か分からないが,凄まじくプレーヤーに負担をかける技であるに違いない.
それでもじわりじわりとエンノイアに近づいている.
「あと少し……」
あと少しで終わる.
終わったらもう一度黒騎士と話がしたい.
世界がどうなるとかは分からないが,これで自分は現実世界に帰れるのだろうか.
世界の狭間で夢を見続ける眠り姫――.
エンノイアの言葉が頭の中をよぎる.
不安と期待が入り混じるが,今は気にしないことにする.
目の前のことに集中するのだ.
エルフの女王の姿をした人工知能はやはり笑っている.
酩酊したように頬を染め,目を潤ませている.
不気味だった.
ソフィアと全く同じ姿をした相手に刃を向けることへのためらいもある.
だが,次の瞬間は唯一無二.
最後の一つとなった金色の羽根が膨らみ,伸びて行き過ぎ,もう一薙ぎしたときがその時だ.
――正確に機をうかがう.
「今!」
くるくると“蚊帳”バリアをたたみ,ナノマシンの粒子を押しのけ,まっすぐ飛ぶ.
不撓鋼のナイフ,黒猫丸を振りかぶった.
ゆったりと笑うエンノイアの心臓めがけ,振り下ろす.
切っ先が皮膚に触れたと思った瞬間――手に伝わる抵抗が無くなった.
「え……?」
ひざまずくようにして着地したシノノメはエンノイアを見上げた.
傷一つないエンノイアがシノノメを見下ろしている.
すっかり笑顔は消え,ひどく失望している様に見えた.