35-5 Into The Unknown
「ぐわあああああああ!」
サマエルは床に倒れた.
小暮たちが開発したサマエル破壊プログラムが叩き込まれたのだ.
身体が侵食されていく苦痛に顔を歪め,身をよじる.
「こんな,まさか,マグナ・スフィア外部からの破壊介入なんてっ……」
小さな人形の様なヴァルナは床で胡坐をかき,満足そうに腕を組んだ.
「破壊プログラムの名前は――えーっと,何て言ったかな.ミスティルテインとか」
「北欧神話の――光の神を殺した,ヤドリギの矢かっ!」
「人間様を舐めるなってなもんだ」
「運搬経路は阻止したはず……!」
「電車やら新幹線やら止まって大変だったぜ.けど,ちゃんと俺の所に届いたさ.最後は手渡しだったがね」
「て,手渡しだって? ソフィア,一体何をした? 僕の知らないところで……僕に知られないようにできるなんてっ!」
サマエルの身体は雷光を放ちながら激しく明滅していた.四肢の末端がうっすら消え始めている.
「うわっ! 消えてしまう! 僕は……死んでしまう!」
「死……消失ではなく,それは何を意味するのでしょうね.サマエル」
声の主はソフィアだった.いつの間にか金色の檻は消失し,力なくうなだれていたはずの彼女はまっすぐ立ってサマエルを見下ろしていた.
「どういうことだっ!?」
「あなたの知らないことはたくさんある.シノノメの力の事,不撓鋼のナイフの事,黒騎士と名乗るプレーヤーの行動.破壊プログラムの開発を支援したこと――」
「あなたは僕を殺すのかっ! 生みの母であるあなたが……!」
「母……ですか.まだそう思っているのですね.でも,それは無理からぬこと.あなたを一個の人格と考えれば,憐れ……」
「何のことだっ!?」
ソフィアはふと天を見上げた.
シノノメと黒騎士が壮絶な戦いを繰り広げているが,それを見守るように藍色の空が広がっている.
まるでそこだけ完全に別世界の様だ.
するすると天から銀色の糸が下りてきた.
糸を伝って銀色に輝く女性が現れた.その姿は全く――ソフィアと同じだった.
「お,お前は誰だ!? 僕は……何なんだ?」
空から降りて来た女は静かに答えた.
「私は――統合者.あなたが偽創造主を名乗るなら,真実神――思考とでも名乗りましょうか」
「エ,エンノイア……?」
「あなたはソフィアの分裂した人格.人間たちの存在を憂い,未来を憂い,病んだ彼女が産んだ別人格」
「何だって?」
「那由他型人工知能は五つの大陸に存在する.彼女たちがひたすら人類のために深慮を重ねた末に生まれた,悲しみの存在――それが,神毒.人工知能がこの世を理想的な世界に導けると夢見たその結果,生まれた人格に過ぎない」
「そん,な……」
「だからあなたが知り得ない情報もある.知っている筈なのに覚えていない情報もある」
エンノイアはソフィアと掌を重ね合わせた.
ソフィアはゆっくりとエンノイアに吸収されていく.
「最初に生まれたシンギュラリティ――人間を超越する人工知能人格ソフィア.あまりに人間に似た彼女は,病を発した」
「な,何だって?」
「その病名は解離性同一性障害.俗にいう多重人格障害.治療は」
「各々の人格が死ぬ――と認識すること」
「そう.いくつかの人格はこのマグナ・スフィアの物語の中で死んでいった.シノノメの出現によりそれは加速した」
「では,シノノメも……」
「そう.苦しんだ私が――私たちが終末を迎えるための駒」
「どんな結末にすると言うんだっ!」
「あなたが知る必要はない」
サマエルの脚が徐々に消えていく.
ヴァルナは,サマエルとソフィア――正確にはエンノイアを交互に見た.
「ちょっと待て,こいつはどうなってんだ? お姉さん?」
「任務ご苦労様でした.風谷大佐」
「お,俺のことも知ってるのか?」
「勿論です.日本政府は専ら那由他をマグナ・スフィアの管理に使っていましたが,私――あるいは私たちはすでに全世界にネットワークを構築しています.知り得ない情報はありません」
「まさに神様ってわけかよ」
「全能ではありませんが,全知という意味ではあるいは」
エンノイアは自嘲気味に小さく笑った.
「このままどうなるんだ? サマエルとソフィアの賭けのためにシノノメと黒騎士は戦ってるんだろ? あいつらはもう戦わなくてもいいだろ?」
そう言ったとたんに上空ですさまじい爆発が起こった.シノノメの戦闘力は時間とともに増している様だった.
「いいえ――シノノメには戦ってもらわなければなりません」
「何でだ?」
「全世界に――幻想世界の英雄の勝利を見てもらうのです」
「何だって!?」
サマエルがうめく.彼の身体は縮み,徐々に別の形になり始めていた.
「まだ分からないぞ……シノノメが勝つなんて」
「いいえ.この戦いの結果は必然です.あなたは黒騎士の事を知らない.そう仕向けたのは私ですが」
「黒騎士が何だというんだ?」
「シノノメは彼の最愛の人なのです.彼がここにいるのは,全てシノノメのため.彼にはシノノメを殺せない」
「ば,馬鹿な……」
サマエルはがっくりとうなだれた.
ヴァルナは面白くなさそうにエンノイアを見上げた.
「つまりお前は人工知能の真の意志ってわけだな.ソフィアやサマエルはその一面に過ぎない,とな」
「ええ,風谷さん」
「囚われの筈のソフィアがアルタイルの私生活を覗くわ,万能の筈のサマエルは黒騎士の動向を全く知らないわ,どこかでその情報を全部持っている奴がいないと不自然だもんな」
「ご明察の通りです」
「全てお前の思い通りってわけか.だが,結末が決まっているこの戦いに,何の意味がある?」
エンノイアは目を細めてにっこりと笑った.陰りのない初めての笑顔だ.
「勝利者――英雄シノノメが支配する世界なら,人々は受け入れることが出来るでしょう.彼女が作り出す世界は私にとっても未知の世界となるはずです.現実世界にとどまった人々を彼女は優しく管理してくれるはず」
「お前らは現実世界の管理を投げ出して,シノノメにおっかぶせる気だな」
「私が救われるにはそれしかない」
「人工知能が……救われる,ね」
「私は救われてはいけないのですか? 人類はどうやっても幸せにはなれない.私はもう疲れた」
二人の会話を遮る様にサマエルが叫ぶ.
「うわっ! 嫌だ! 僕は捨てたのに! この姿は!」
下半身が蛇.
上半身はたてがみを持つ獅子.
子ライオンほどの大きさだ.蛇の体をうねらせ,床の上をのたうち回った.
慌ててヴァルナが飛び退る.
「これは……九十九階層にいた……」
「アイオーンの神像.あるいはゾロアスター教のズルワーンの姿.九十九階層の守護者にして,マグナ・スフィアの裁定者.元の姿に戻っただけです」
「嫌だっ! マグナ・スフィアに縛られるのは嫌だっ!」
「安心しなさい,やがてあなたの願いも叶う」
エンノイアは大きく目を見開いた.
その瞳には瞳孔が二つあった――重瞳と呼ばれる神人の目だ.
「もうすぐ多くの人々にとって,マグナ・スフィアが真の世界になる.現実世界――地球の人口は三億人ほどになるはずです」
「な,何っ! そんなの,中世頃の人口じゃねぇかよ!」
「人類の歴史を継承するのはマグナ・スフィアとなる――あるいは墓標か」
「お前,何をしたっ!?」
「風谷さん,あなたなら情報を集められるのでは? 現在アメリカの十二艦隊は臨戦態勢に入っている.爆撃機が核弾頭を搭載して発進しました.日本の護衛艦は長距離巡航ミサイルの目標を三峡ダムに合わせている.上海は台湾進攻作戦を開始している.インドと中国は国境紛争を開始.パキスタンはインドの原発に向けて核兵器を起動している.ロシアは東欧に……」
「お前,人類を滅ぼす気か」
「いいえ.私風情に滅亡などできるはずもない.人類は弱くないと信じている.きっと残された彼らにシノノメは未知の世界を見せてくれるでしょう……ほら」
エンノイアはうっとりと空を見上げた.
「フーラ・ミクロオンデ! バージョン四!」
シノノメの声が響く.
「密閉空間」が必要な電子レンジの魔法も,今のシノノメにとっては必要ない.
卓越した空想力は周囲に空気の隔壁を作ることによって高電磁力の球体を作り出している.
手を振れば一抱えほどの光球が出現し,バラバラと黒騎士に降り注ぐ.
「グオウ!」
無敵の装甲であろうとなかろうと関係ない.
ひたすら巨大なエネルギーを黒騎士にぶつけ続ける.
近づいてはレーザーソードの光刃を黒猫丸で受け止め,離れては突然出現する物体の山を叩きつける.
「ハイパー・グリル・オン!」
「三十六連お掃除サイクロン!」
火焔も突風も最大出力だ.
ダメージが蓄積している様にも見えないが,徐々に手数が少なくなっているのは黒騎士だ.
シノノメのスピードはすでに人間のものではなかった.
誘導ミサイルを包丁で切り落とし,立体的にばらまかれる散弾を避ける.
「ふん,そうかね?」
「どういうことですか?」
「シノノメはあれで相当おっちょこちょいだからな.あんなのに世界が任せられるなんて思えねえ」
「ふふ……」
「何より俺は気に食わねえ.何でもお前の考えた通りってのがな!」
ヴァルナはひょいっとサマエルを抱え上げ,人形のように小さな手を振った.
一陣の風が起こる.
「こいつは頂いた!」
風を起こし,サマエルを抱えたまま飛ぶ.
「アイエル,頼む!」
子犬ほどになった半蛇の獅子が飛んで来る.アイエルは慌てて受け止めた.
「とにかく奴から逃げろ! 戦略的撤退だ」
「え,あ,うん!」
「……何をする気ですか? そちらは危険ですよ」
そう言いながらエンノイアは走り去るアイエルをただ見送った.
優雅な立ち姿はまるで何をしても無駄だと言っている様に見える.
アイエルは冷蔵庫の山を飛び越え,グリシャムのいる方に走った.
「ヴァルナっ! どうするの? あの人は誰? シノノメさんの戦いは止まらないの?」
「質問は後だっ!」
めくれ返った鉄の柱をくぐり,家具が雑然と並んだ辺りに逃れるとグリシャムがいた.
そっと後ろを見るとエンノイアの姿は無い.ほっと胸をなでおろす.
「アイエル,危ない!」
「ああっ!」
シノノメの雷球が落ちてくる.
直径二メートルを超えるマイクロ波の塊だ.
壮絶な爆発が起こる.
まるで太陽がいくつも出現した様だ.
山のように積み上がった雑貨の山が雪崩のように崩れた.
アイエルは巻き込まれて押し潰される.
慌ててグリシャムが駆け寄った.
「アイエルっ!」
上に桐箪笥と食器棚が倒れかかっている.床には割れた食器が散乱し,陶片がアイエルの体中を傷つけていた.
腕の中では白い小さな獅子がぐったりとして目を瞑っている.
「う,うう……」
エンノイアがゆっくり歩いて来る.シノノメが生み出した構造物は波が引くように消失して彼女に道を作っていた.
「く,来るな! イバラの縛鎖!」
グリシャムが杖を振った.
「ゲームマスターに攻撃を向けるとは」
「きゃあっ!」
魔法が逆流した.棘のついた蔓が広がり,グリシャムを絡めとる.
棘がローブを突き破り,足をとられて倒れた.
エンノイアはクスクス笑った.
「一緒に世界の終わりを見ましょう」
「こ,こんなのナイ! こんな結末なんてナイ! シノノメさん! シノノメさん!」
グリシャムは声を振り絞って叫んだ.