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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第34章 A Whole New World
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34-9 I’ll Be Seeing You

 雨が強くなった.

 この階層はもともとシェヘラザード――涼香すずかの意志を反映する.

 泣いている――シノノメは思った.


「……記憶から消したかったんだね……ううん,自分そのものを消してしまいたかったんでしょう」

「何を……」


 燃え盛っていたシェヘラザードの翼が,黒い羽の翼に戻った.

 雨に濡れた翼は羽根がよれて力なく震えている.


「大好きだったお母さんが壊れてしまったこと.……そして,その手で殺してしまったこと」

「お前は何を見た……?」


 よろり,とシェヘラザードは後ずさった.


「法律を大事にしていたお父さんが,法律を破ってあなたを守ろうとしたこと.お父さんもお母さんも……あなたの事を愛していたこと」

「……違う.私は…お前の様な……母みたいな女は虫唾が走る……」

「たとえ壊れてしまっていても,愛していたんだね」


 ***


 あの日。

 自分の事を忘れた母は、黄色い歯をむき出しにして怒鳴った。


「出て行け、この女。私の家族を奪うな」

「母さん……」

「涼香、気にするな。お母さんは病気なんだ。病気と思えば……仕方がない」


 少し少女趣味とも思える、優しい人だった。

 法学者である父は、幼い頃の涼香にとって堅苦しく冷たく感じられた。

 無教養で学歴の無い母は――それとは全く逆。

 快活で寛容な――。

 だが、久しぶりに戻った実家は地獄だった。

 子供の時に母と一緒に飾った部屋中の写真も絵も――可愛らしい壁紙も植物も――全て引きちぎられ、汚物で汚されていた。

 まだ規定の年齢に達していない母親は介護サービスが使えず、父がほとんど独りで面倒を見ていたのだ。家の中の事をほとんどまかせっきりにしていた男親が出来ることなど限られていた。


「危ないっ!」


 台所から包丁を持ち出した母は涼香に向かってそれを振った。


「死ね! 出て行け!」


 痩せた体が大きく泳いだ。

 咄嗟に手を突き出した。

 半回転した刃が母の首筋に刺さる。

 噴水のように血が噴き出した。


「ああっ!」


 慌てて包丁の柄を握る。

 血まみれになった母が滅茶苦茶に首を振ってもがく。


「母さん! じっとして! お願いだから!」

「ぎええええ! 何をする! 放せ!」


 だがその時思ってしまった。

 この肉体は母の抜け殻だ。悪鬼にとりつかれた――何か別の醜い生き物。

 一瞬手に力がこもった。


 ――こんな生き物――死んでしまえばいい。


 引き抜くはずが。

 涼香はゆっくりと包丁の刃を進めたのだ。


 ***


 消せない記憶.書き換えたはずの記憶が蘇る.

 シェヘラザードが頭を激しく振る.


「違うっ! 違うっ! あれは断じて,私の母などではない! 母さんの精神こころはもうあそこには無かった!」

「……」


 シノノメはゆっくり立ち上がった.

 美しい堕天使は黒い翼を震わせながら,自らの肩を抱いて下がる.


「人間の崇高な精神は脳にある.精神活動が壊れた人間など,価値はない――人間ではない」

「そうやって誤魔化し……ううん,そう思わないと自分が壊れてしまうと思ったんだね」


 シェヘラザードは目を剥いて口を開いた.


「黙れえええっ!!」


 魔女サイレーンの絶叫だ.

 高周波数の音波が耳をつんざく.

 六枚の羽根が大きく展開し,雨粒を吹き飛ばした.

 傍に雷が落ちた.

 耳を抑えながらユグレヒトが唸る.


「くそっ,徐々に階層支配の能力が戻りつつあるのか!」


 雷の柱が天地を貫き,無差別に空から降り注ぎ始める.

 ぬかるむ地面を踏み,シノノメは前に進んだ.

 震える手で剣を掲げながらフレイドがそれに続く.


 ***


「す……ちゃ」


 死にゆく母の口がブツブツと泡を吹きながら何かを呟いている。

 血の池に沈む母を抱く放心状態の涼香に、父が声をかけた。


「涼香、しっかりしなさい」

「お父さん……私は」

「いいか、これは……事故だ。あとは父さんに任せなさい」

「それは!」


 堅苦しいまでに法を遵守しようとする父親の言葉とは思えなかった。

 全てを察した。

 いつの間に父はこんなに白髪が増えていたのだろうか。

 いつの間にこんなに皺が増えていたのだろうか。

 いつの間にこんなに皮膚は艶を失い、カサカサになったのか。

 疲れ切った眼の奥に薄暗い青い光が灯った様な気がした。


「お前には将来がある。たくさんの世界を見なさい。いいか、ここでは何もなかった。お前はすぐに東京に戻ったんだ。いいな」


 後のことはあまり覚えていない。

 血まみれの服を着替え、気づけば東京のアパートに戻っていた。

 まさにその日――父が言った通り、実家に少しだけ顔を出して戻って来た、というように。

 翌日――。

 電話をとった涼香に、警官が父の死を告げた。

 全て彼女が予想した通りの言葉――物語シナリオだった。

 そしてその物語で――自分の記憶を書き換えたのだ。

 私は物語の語り手。

 父の叡智を愛し、母の無知を憎む。

 人間を人間たらしめるのは、知恵。


 ***


「世界には無知と不寛容が溢れ、人が人を傷つけている……無知にあふれたこの世界を私は変えるっ」

「あなたが壊したいのは,あなた自身でしょう!」

「違うっ!」


 シェヘラザードが大きく翼を羽ばたかせた.

 突風とともに刃となった黒い羽が飛んで来る.


「鍋蓋シールドっ!」

「羽根よ! 魔剣に変わり結界を破れ!」


 黒い羽は黒い剣に変わり,防御の魔法陣を貫いた.

 シノノメの肩と大腿を切り裂く.


「うっ!」

「死ね! シノノメ!」


 震える手で剣を構えていたフレイドが吼えた.


「させるかっ!」


 宙を舞う黒い刃を剣で薙ぎ払う.手の力はまだ十分でないのだが,体幹を使って振っている.セキシュウに習った動きだった.


「お前たちとは違う! 日々の生活が大事なだけの低俗な人間たちとはっ!」

「日々の生活こそが大事なんでしょっ!」

「黙れ!」


 翼が凝縮して黒光りする鉄塊の束に変化した.

 鋼鉄の腕になったかと思うと,空気を切り裂いてシノノメめがけ振り下ろされる.

 フレイドの剣が火花を立てて鉄の腕にぶつかり,砕け散った.


「危ないっ!」

「シノノメさん,逃げて!」


 グリシャムが悲鳴を上げる.だが,下がれない.下がれば逆に餌食となる.

 前に出るしかない.

 そして――瞬時にやるべきことを悟った.

 冷たい金属が体に触れる.

 瞬間――シェヘラザードの中にあるそれを想った.


「潰れろ! シノノメ!」


 ふわり.

 シノノメの頭を叩き潰すかと思った二つの黒い鉄の翼がほどけた.

 たちまち美しい羽毛に戻る.

 さらに変化を続ける.

 翼の先端からモコモコと形を変え,伝うようにシェヘラザードの体へと進んで行く.

 喉の奥から湧き出す血を拭いながら,注視したユグレヒトは目を見開いた.


「何だ!? これは!?」

「く,クマのぬいぐるみ?」


 手に乗るくらいの小さなクマのぬいぐるみだ.

 シノノメに触れた場所から感染したかのように,翼は柔らかい人形の塊に姿を変えていた.

 おもちゃ売り場の棚を翼の形にしたようだ.

 シェヘラザードがたじろぐように体を捻じった.

 ポロポロとクマのぬいぐるみが翼から落ちる.

 白い顔が真っ青になっている.


「母さんの……」


 彼女が幸せだった時.

 彼女が心から幸せを感じた瞬間.

 記憶の残滓の中に置き去りにされていた物.


 ****


 どうしてもそれが欲しかった。


「やめておきなさい。商業主義のつまらない物など、買い始めればきりがない」

「何を言ってるの、お父さん。良いじゃない」

「外で買えば同等のものがもっと安く買える。何故ここで買わなければならないんだ? 客に余分な金を払わせようとする戦略に乗る必要はない」


 違うのだ。

 ここ――この遊園地の中で買うから意味があるのだ。

 何故なら――今日は本当に楽しかったから。

 いつもは堅苦しい父親が、苦笑しながら手をつないでくれたから。

 三人で初めてここに来られたから。

 大事な大事な記念なのだ。

 だが、まだ四歳の涼香には上手く伝えることが出来ない。


「ねえ、すずちゃん。お父さんはつまらないわよね」


 そう言うと母は棚に手を伸ばして渡したのだ。


「どの子をお家に連れて帰ろうかしら。どれが一番かわいいかしら?」


 母に手渡されたものが一番いい。涼香は抱きしめた。


 やさしさは全て……母さんから。

 

 ――私はその人の命を絶った――この手で。


 ****


「うわああっ」


 シェヘラザードが背中を震わせ,叫んだ.


「父さん……! 母さんも!?」


 口を手で覆い,背筋を伸ばして硬直させている.

 彼女が見ているのは自分の前に立っている中年の夫婦だった.

 それは半分透明なシルエットだ.

 この階層を支配するシェヘラザード自身が生み出した幻影なのか,自分の意志に感応したものなのか,シノノメ自身にも分からなかった.

 影はシェヘラザードに向け,両手を広げ差し伸べている様に見える.


「やめなさい! こんなまやかしで私を惑わすのは!」

「――これが本当に,一番欲しかったものなんでしょう?」

「私の頭の中を,覗くなっ!」


 シェヘラザードが再び絶叫すると,黒い翼がバラバラになって落ちた.

 よろよろと数歩後ずさりする.

 ユグレヒトが血を吐きながら叫んだ.


「今だっ!」


 ドン.

 背中から思わぬ衝撃を受け,シェヘラザードの体が大きく揺れた.

 胸を金色に輝く剣が貫いている.

 背中越しに振り向くと,剣の柄を握るダークエルフの少女がいた.


「お前は……」


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