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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第34章 A Whole New World
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34-5 On My Way

 父親は背中を丸めていつも机に向かっている。

 その後ろ姿は酷く陰鬱で、近寄りがたい。

 どんなに優しい笑顔を向けてくれるとしても。

 家電をうまく使えない。

 だらしない。

 生活力がない。

 会話が面白くない。

 人を馬鹿にしている。

 稼ぎが少ない。

 時々母がひどくなじっていても、それは父がそういう人間だから仕方がない。

 小学校に上がるまで、涼香すずかはそう思っていた。

 その感情に徐々に疑問を覚えるようになったのは、いつの事だろう。

 成長するにつれ、違和感は強くなるばかりだった。

 学校の勉強を父に教わると、とてもわかりやすい。

 自分がどこを理解できなかったのか――それを押し付けでなく、自分で気づかせてくれる。

 質問をしたのは自分なのに、いつの間にか出来るようになっていて、それを褒めてくれる。

 頭を撫でる手が温かい。

 難しそうな洋書や英語の論文を読みこなしている。

 普段はそれをおくびにも見せる事はないが、素晴らしく博学だ。

 難しい言葉も子供の自分が理解できるように説明してくれる。

 父を自然に尊敬するようになる。

 そうこうするうちに幼い時からの自分の感情に疑念を抱き始めた。

 何故自分は負の感情をこれまで父に抱いていたのかと。


 ある日悟った。

 自分がそう思っていたのは全て――母の言葉のせいだと。


 一種の刷り込みだ。


 自分はクラスメートの数倍の速さで授業を理解でき、答えが分かる。

 小学校五年生のころには、学校の図書館の本はあらかた読みつくした。

 自分の知識欲、思考力、趣味、嗜好――頭脳は父譲りだ。


「あなたは――父さん似ね」


 満点の答案を持って帰るといつも苦笑する母を見て、その理由が分かった時、涼香の胸のつかえがとれた。

 母が父をなじるのは、劣等感ゆえだ。

 動物の行動で言えば、マウンティング――自分の方が立場が上と示すための示威行動。


 そもそもなぜこんな行動をとるのか。

 父と母はいわゆる学歴格差婚というものだった。

 法学部の大学院を卒業した父と高卒の母。

 法学者と専業主婦の夫婦。

 二人はアルバイト先で出会ったのだという。

 父が弁護士にも検事にもならなかったことに、母は大いに不満を抱いているのだった。


 「こんなはずではなかった、貴方の同僚はみんな稼いでいるのに。」


 そんな言葉をしょっちゅうぶつけられても、父は目を細めて静かに笑っているだけだった。

 大学で法学を教えている父は、純粋に学問を追求することの貴さを知っていた。

 だが、母にはそれが理解できなかった。

 父は決して怒りを見せることがなかった。

 だが、それがなおさら母の自尊心を傷つけていたのかもしれない。


 ――あんたはそうやって私の事を馬鹿にしている、私のことは馬鹿だと思っているのだろう。

 ――気が弱いのだろう。

 ――感情がないの?


 普段はおおらかで優しい母が一転してヒステリックに怒鳴る姿は、とても歪んで見えた。


 それを静かに受け止めているのは本当に気弱なのか。

 内向的であるにしても、寛大なのか。

 これが夫婦愛なのか、それとも包容力なのか。


 創立以来の秀才――そう呼ばれて、涼香は小学校から中高一貫性の名門校に進学した。

 金のかかる私学の進学校を勧めたのも父だ。

 年を経るにつれ母親を見る眼はどんどん冷めていった。


 どうしてこの女性はこんなに感情的なのだろうか。

 理性的に物が考えられないのだろうか。

 明治維新もよく分からない、時々読めない常用漢字がある。

 数学に至っては意味のない暗号であるらしい。

 まるで異人種だ。


 “勉強が面白い”と感じる自分と母の間に越えられない境界線がある様な気がした。

 そんな母の悪口を言うと、父には優しくたしなめられた。


 ……教養もまた人間を否定する要素としては適切でない。母さんには他にもっと良いところが沢山あるのだから、止めなさい。と。


 最早大学に入るころには、涼香の母を見る目は軽蔑に変わっていた。

 軽蔑は言い過ぎかもしれない。

 だが、父親のように彼女の無知や蒙昧さを愛することはできなかった。


 無知であれば学べばいい。

 無知のままでいることは、人間として怠惰ではないのか。


 尊敬する反面、強く言い返さない父に対する不満もつのった。

 大学入学を機に、涼香は実家を離れて東京に出た。

 実家を出ることを勧めたのも父だった。

 国立の最高学府なので、授業料はさほど問題ない。しかし一人暮らしをするとなれば、それなりの仕送りが必要になる。

 母は金が掛かると言って反対した。


 ――女性にとって大学などどこも同じだと。


 多くの大学はオンラインで聴講できる。

 オンライン講義のみの大学は一般的に偏差値が低いのだ。

 地方公立大学など、涼香にとって容易く合格できるレベルだった。

 だが、外の世界を知るべきだと父が母を説得してくれた。


 大学とは、学問だけを学ぶところではない、と。


 父の言葉を噛み締めて都会で生活するうち、次第に実家から足が遠のいていった。


 そして――都会の生活に馴染んだ頃。

 母が病気になった。

 若年性アルツハイマー病だった。

 時折帰省して様子を見に行くことにした。

 徐々に自分の記憶が母から零れ落ちていくのが分かった。

 記憶だけでなく、人格までも変わって行く。

 鷹揚でおおらかな部分は鳴りを潜め、次第に刺々しく攻撃的になって行った。

 罵詈雑言を吐き、糞尿をまき散らす。

 焦りからか家具を壊し、血まみれになって震えている。

 徘徊し、今は無い田舎の家に帰ろうとする。

 父は仕事を辞め、辛抱強く介護を続けていた。


「涼香は気にせずに勉強しなさい――学問は君を必ず助ける」


 疲れた顔をしていても、父は尊敬する父だった。

 だが、この――不気味な生物は何だろう。

 白目をむき、髪を振り乱して涼香を睨んで唸っている。


「お母さん……」

「出て行け、この女。私の家に入るな」


 母は娘を父の愛人と思い込んでいるようだった。

 そしてそれが、涼香が最後に聞いた母の言葉だった。

 東京に戻ってすぐ、警察から連絡があった。

 自宅で両親が死んでいたと。

 母の手には刃物の痕があった。

 そして、父の腹部にも傷があった。だが、致命傷ではなかったらしい。

 父は鴨居に首を吊って死んでいたのだ。

 年配の刑事が言い難そうに説明してくれた。


「状況からして――こういうことでしょう」


 床に出刃包丁が落ちており、母の指紋と父の血液が付着していた。

 母は興奮して包丁を持って暴れたらしい。

 父はそれを止めようとして、何度か刺された。

 もみ合っているうちに母の胸に包丁が刺さり――苦にした父は自ら命を絶った。


「侵入者の形跡は全くありませんでした。介護のヘルパーさんが訪問して発見して」


 遺体安置所に並ぶ二人を見て、涼香の心は妙に空虚だった。

 疲れ切った父の顔と、あらゆる感情が抜け落ちたような表情の母が目を瞑って並んでいた。

 涼香は考えた。


 人間を人間たらしめているものは何だろう。

 遺伝子か。

 ならば遺伝子疾患を持つ人間は人間でないのか。

 その形か。

 知性か。

 少なくとも万物の霊長であり得るのは――その知力故ではないのか。

 ならば、この母親は人間の形をした何かだ。


「父さん――母さんも――さよなら」


 生まれ育った町を去って一年後。

 涼香は国家公務員一種試験に合格し、官僚になった。

 胸の中で熾火のように燃える想いがあった。


 世界を変えるのだ。

 この世界を不幸にするのは、無知と憎悪。

 無教養と怠慢。

 世界を救うのは純然たる崇高な叡智であるべき――。


 それからさらに十数年後。

 涼香は人間を越える至高の知恵に出会うことになる。


 ***********


 シェヘラザード――涼香は氷のような視線をシノノメに向けた.


「あなたのように与えられた環境に安穏として,幸せを享受するだけの怠惰な人間に――嫌悪を感じる」

「きょーじゅ? 怠けた事なんて無いよ?」

「どこが勤勉だと?」

「美味しいお料理を作ったり,部屋の掃除を効率的にしたり,洗濯物の畳み方を研究したり日々努力だよ!」

「くだらない.ソフィアやサマエルが,なぜあなたに固執するのかさっぱり分からない」

「私だって知らないよ」

「会話にならない.お終いにしましょう!」


 シェヘラザードは両腕を振った.

 金の腕輪がシャランと音を立てる.

 再び当たりの空間が目まぐるしく動き始めた.まるで万華鏡だ.

 瓦礫と建築物が複雑なパズルのように回転しながら組み合わさる.

 機械式時計が時を刻むように,ブロック化した景色が刻々と動き回り,姿を変える.

 シノノメはふと思い当たった.

 この景色に何となく思い当たる物があるのだ.


「これは――でも,イライラしている? 怒り? 何だろう? この複雑な感情は――あの部屋と同じ……」


 かつて人の気持ちが斟酌できず,人形の様と呼ばれたシノノメだったが,今となっては色を見るように分かる.

 マグナ・スフィア世界の一部となっているからなのか,あらたな脳の機能が開けたのかそれは分からない.

 シノノメが思い出したのは,魔法院の奥の院にあった秘密の庭園だ.

 祖母カタリナの墓標があった魔法の空間だ.

 シノノメの感情のままに天気が乱れ,あるいは快晴になった.


「この階層そのものがあの人の気持ち――あの人のこころなんだ」

「天真爛漫? 無邪気? ――まるであの人だわ.私の前から消えなさい!」


 シェヘラザードの言うあの人とは誰か,シノノメには分からない.

 激しい感情が暴風のように自分に吹き寄せてくる――そんな感じだ.


「子供じみた魔法が好き? ならば,これはどう? 戦士舞踏フィダーイー・ターンダバ!」


 キン.

 高い金属音がしたかと思うと,切り取られた空間と壊れた建物がグルグルと捻じれて積み上がった.

 現れたのは鉄仮面と三角定規を合わせたような姿の巨人だった.

 幻想大陸ユーラネシア風に言えば,ゴーレムか.だが,その身体は幾何学図形を組み合わせたようで,キュービズムの絵画――キリコの絵に描かれる人間に似ている.

 異常なまでに尖ったピンヒールの様な足を動かすと,キンキンという高い音が響いた.

 両腕は大きな三角形の刃物になっている.

 金属の騎士とでもいう怪物は五体.

 機械的な足取りで,シノノメに迫る.


「うひゃっ!」


 頭上を銀色の刃が通過した.

 躱した方向には渦巻く空間の歪みが発生する.

 いつの間にか辺りはコンクリートの打ちっぱなし――都会の冷たい高層ビル群の様な景色に変わっている.

 石畳だった足元は廊下の様なリノリウム張りだ.


「ミキサー車みたいにプレーヤーを破砕する罠をそこに仕掛けてみたわ」

「なんとかクラフトみたいに空間を作り変えるなんて?」

「容易いことよ」

「きゃあっ!」

「グリシャムちゃんっ!」


 巨大な刃物は石やコンクリートでもチーズのように切り落とす.

 ユグレヒトとグリシャムが閉じ込められていた石牢の角が削ぎ飛ばされた.

 おかげでグリシャムは体を捻り出すことが出来たものの,生きた心地がしない.

 十枚のギラギラ光る金属板がシノノメの逃げる方向を囲むように宙を飛び交っている.


「ここから離れてっ!」


 叫んだ瞬間,石牢が粉々に砕け散った.

 転身した巨人の足が当たったのだ.


「シノノメさんっ!」

「大丈夫! 作戦は分かってるから!」

「作戦?」


 首をわずかに傾げたシェヘラザードに,黒い鳥の群れが襲い掛かった.


「くだらないっ! 陰陽師ユグレヒトの式神か!」


 シェヘラザードが頭を軽く振るだけで鳥たちは燃える紙片になって地面に落ちた.


「折り紙の鳥など,何になるというの? 仲間があなたを助けてくれるとでも? 所詮烏合の衆だわ」

「みんな危険なマグナ・スフィアに飛び込んできてくれた友達だよっ!」

「愚かな選択だったと,後に後悔するでしょうね.――その時に思考できる脳があればだけれど」


 目も鼻も口もない,銀色の仮面をつけた巨人に先導されるように,シェヘラザードは歩み出た.

 背後には上階層に上がるためのゲートが見える.

 シェヘラザードの感情を反映してか,鏡の外壁に変わっていた.

 装飾を一切廃した金属骨格の冷たい構造物だ.


「あれがあの人の心の中だとするなら――世界をこんな風にはさせない.決して」


 シノノメは唇を噛み締めた.


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