34-2 Part of Your World
家が,建物がうねる.
津波か洪水に流された家の様――いや,街そのものが津波となっている.
縦横無尽に捻じれ,空間自体が行く層にも重なった錯視の絵の様だ.
大きく波打ったかと思うと打ち寄せる.
あるいは巨大な建築物の雪崩か,土砂崩れか.
崩れ落ちてくる建物を走り抜けると,大渦巻きを作っている場所に出る.
「何これっ!?」
「まるで消化管だわ! 飲み込まれる!」
「どうやって向こうに行けば……!」
「これしかないよっ!」
シノノメはデッキブラシを取り出してまたがった.
一番頼りになる空飛び猫“ラブ”はもういない.
シノノメを見て慌ててグリシャムも箒を出した.
「アイエルちゃんはこっちに!」
「その箒? デッキブラシ,大丈夫なの!?」
「宅急便だってできるはず! 乗って!」
「うっひゃあ!」
シノノメとアイエルを乗せたデッキブラシはきりもみしながら飛びあがった.
慌ててグリシャムが追いかける.
建物が巻き上がり,蛇のように鎌首をもたげたかと思うと水車のように回転し始める.
「飛んで行くしかないよっ! あの隙間を抜けて!」
「了解!」
古典的なレーシングゲームのように,障害物を飛び抜ける.
天井と地面から突き出されるプレス,吹きだされる火焔.
「行こう!」
「ひいいいい」
悲鳴はグリシャムだ.
飛んだり落ちたりは本来シノノメの方が苦手だ.
だが,極限の集中力が発揮されたシノノメには関係ない.
一生懸命になるとつい――本人はそう思っている.
強化された脳力が成せる,究極の空間認知能力と位置認識力によるものだ.
ほとんど予知能力に近い.
物質の裏側にある物の位置を瞬時に予想し把握する.
「見えたっ!」
踊り子の後ろ姿が見える.
シェヘラザードは悠々と石畳の道を歩いていた.
散歩にでも行くように見える.
上階層へとつながる門は目と鼻の先だ.
――と,シェヘラザードが振り向いた.
優雅に左手を振る.
空間が波打ち,波紋のようにシノノメに迫る.
「何だかヤバイ! お掃除サイクロン!」
バリバリと音がして,空気の波と風がぶつかった.
はじけ飛んで鎌鼬が起こる.
「うわっ」
着物の裾がスパッと切れた.
何とか空中で態勢を整え,地上に軟着陸する.
アイエルはくるりと受け身をとって転がった.
転がりながら弓を取り出し,起き上がりながら矢をつがえて放つ.
「反転壺」
シェヘラザードが両手を掲げてそっと差し出すような動作をすると,飛んで行った矢が一旦消え,再び出現するとアイエルめがけて飛んで行った.
アイエルは慌てて伏せる.髪を削り取り,矢はコンクリートの壁に突き刺さった.
シェヘラザードの指がゆったりと8の字――無限大の記号を描いた.
踊り子という彼女の職業に相応しい――まさに舞手の手先を見るような動きだ.
「鳳仙花の種! イバラの縛鎖!」
グリシャムが魔法の杖を振る.
鋼鉄の硬さを持つ植物の種がはじけ飛び,地面を割って蔓草が伸びた.
ぐるりと向きを変え,グリシャムに襲い掛かる.
「きゃあっ!」
あわてて魔法をキャンセルする.
ほっとしたのも束の間,床――地面が割れた.
「危ないっ!」
シノノメがグリシャムの手を引っ張る.
巨大なクレバスは一瞬口を開いたかと思うと,すぐに閉じた.
「イン・ディーミオ!」
振り返りざまにフライパンを振る.
手元のスイッチをカチリと押すと,赤熱したフライパンの鍋の部分が取っ手から外れて飛んで行く.
胴にめり込むと思った瞬間,シェヘラザードはくるりと体を回転させた.
回転に合わせるようにフライパンは軌道を変え,シノノメの方に戻ってくる.
「戻れっ」
取っ手を持ち上げ,シノノメはフライパンの鍋を受け止めた.
まるでフリスビーだ.
シェヘラザードは腕を組んで笑っている.
「あなたたちの攻撃は無効よ.何故なら,私はマグナ・スフィアの理を書き換えることが出来るのだから」
背中を見せ,ゆったりと歩き去ろうとする.向かう先にあるのは凱旋門の様な建物だ.
凱旋門の上に鉄骨のエッフェル塔と東京タワーが組み上げられ,その上にスカイツリーの武骨な構造材が積み上げられたような――何とも混沌とした巨大な塔が天に続いている.
「待ちなさいっ!」
シノノメは走った.
みるみるシェヘラザードの肩が迫る.
魔法の射程圏に入った.
「お掃除サイクロン! 十二本複合吸引! 強力タービンヘッド!」
空気が唸る.
小さな竜巻が十二本集まり,できた複雑な渦流がシェヘラザードに叩きつけられる.
シェヘラザードがわずかに振り返り,クスリと笑った.
「風神舞!」
トン.サンダルで軽く地面を踏んだ.
石畳の様に見えた床が,五センチほどの小さなテクスチャとなって舞い上がる.裏はキラキラ光る金色だ.
金色の紙吹雪が舞い降りるのではなく,舞い上がる.
シェヘラザードを狙った竜巻は金色の紙片を巻き上げていった.
ブブン.
十二本の強力な竜巻の筈が――金色の紙片の塊となって震えている.歪な金色の柱が宙に出現したと思うと,地面に砂糖をぶちまけたように砕け散った.
「そんな……! 何で?」
「ふふ,サイクロン掃除機はある程度大きさのあるごみを大量に吸い込むと,目詰まりするでしょう?」
シェヘラザードはカラカラと笑った.
「た,確かに……うちの旦那さんが昔横着してシュレッダーのゴミを吸わせたら壊れちゃったけど……」
シノノメは中指と薬指を折りたたんで振った.
「グリルオン!」
ドカンと音がして青い火柱が噴き上がる.
足元で炎の魔法が炸裂した.
シェヘラザードは炎に煽られながら,くるりと掌を下に向けて回した.
「水神舞!」
と同時に,回転する水飛沫がたちまち炎の柱を消火する.
「えーい,ノンフライヤー!」
風と炎が一体となってシェヘラザードを襲う.
空中を撫でるようにしてシェヘラザードが取り出したのは,消去の輪だ.
たちまち真空――ブラックホールの様な輪の中に,高熱の塊は吸い込まれて行った.
「どれもこれも,家電の宣伝みたいな魔法ね,シノノメ」
「わわ……」
「私はサマエルの力を使って全てを書き換えることが出来る.彼が私を選び,私が彼を選んだ.私はこの世界を変える.どうか止めないで」
「そんなの,ダメだよっ!」
「分からずやね」
「あっ」
黒猫丸を握って前に進もうとしたシノノメの前に,突然壁が出現した.
シノノメは自分の勢いで吹き飛ばされる.
「地面から生えた? ぬ,ぬりかべみたい……」
盛大にひっくり返ったシノノメは,背中をひどくぶつけた.
痛みを堪えながら起き上がる.
シェヘラザードは敢えてゆっくりとなのか――門に近づいて行く.
「ま,待ちなさいっ!」
フライパンを振って進もうとすると,唐突に壁が出現した.
「えいっ!」
フライパンが壁に跳ね返され,銅鑼を鳴らすような音がした.
「な,何!? このクラフト系ゲームみたいな障害物!」
瞬時に石のブロックが空間に出現して積み上がるのだ.前はもちろん,左右に体を振ればついて来るように出現する.
「こ,こっちからなら! えい,あれ,右,左! うんもー,どうなってるの?」
シェヘラザードが一瞬振り返る.
「自動追尾する壁を作ってみたの.あなたの言う通り,昔からあるゲームみたいでしょう? あなたを倒すのは私にも骨が折れる.でも行く手を阻止するなら,そういうプログラムを想像して実現すれば簡単」
「ぷ,プログラム?」
「――電脳世界だから.特定のシーケンスや――バッチファイルのような構造は,人工知能が理解しやすい.だから承認されやすい」
「承認されやすいとか,サマエルの都合なんて考えたことがないよっ!」
「わずらわしい人の発想力に付き合わされる彼の身にもなってみなさい.それがどれほど煩雑で曖昧なものか.人間の想像力に応える世界――マグナ・スフィアの管理はサマエルにとって大きな負担なのよ.彼をこの無責任な世界の支配からも開放しなければならない」
「マグナ・スフィアを普通の世界にするっていうこと?」
「いずれ現実と仮想世界が入れ替われば,そうならざるを得ないでしょうね――あら」
飛んで来た球形の弾丸をするりと薄衣を振って受け止めた.
返す手を上に払うと,石弓の射手――アイエルの足元にぽっかりと四角い穴が開く.
「うわっ」
アイエルは落ちる寸前に両手で穴の角にしがみついた.だが,下半身は穴に飲み込まれたままだ.
「大丈夫.その穴は普通の落とし穴だから,落ちても消去しないわ.深さが二十メートルあるから普通に死ぬかもしれないけど」
「こ,このっ! 足が全然穴の壁にかからない!」
「タコつぼ型になってるのね.グリシャムはどう?」
「このっ! このっ! どうなってるの? 万能樹の魔法が反応しない!」
グリシャムは杖で地面を何度も叩いているが,何も起こらないのだ.
「あなたの周囲二メートルには不毛の大地を設定したわ.植物魔法はもう使えない.いいわよね,こういうRPGゲーム的な設定って――あら,泥沼に替わった」
一瞬でコールタールのようなどす黒い色に足元が変化する.
グリシャムの足がずぶりと沈んだ.
「きゃあっ! こ,この性悪女!」
「人聞きが悪いわね.ゲーム世界に慣れているのは,何もあなた達だけでないってこと」
シェヘラザードはまだ壁と格闘し続けるシノノメを見て肩をすくめた.
「所詮この程度の発想力なのね.……広い世界を知らず,家の中で仕事をしている女など.サマエルが何故シノノメにあそこまで固執するのかが分からない.……いいえ,私がこの欲望の塔の頂点に登れば,彼も理解するでしょう.私こそが彼と手を組み,この世界を変えるに値する人間だと」
「むー,何だかすごく失礼なことを言われてる気がするっ」
「この九十八階層の風景も――私の内なる世界の一部――いつか見た風景,いつか行った場所で作られているわ.あなたが創造するもの――想像する物は,台所と洗濯室でしょう」
「世間知らずだってこと?」
「過去はどうあれ――小さな世界に温もりと幸せを見出しているに過ぎない」
「小さな世界の幸せが大事なのっ!」
「あなたには大きな理想は理解できない――それがよく分かったわ」
「あなた一人の,自分勝手な理想なんて!」
「いいわ.孤高の存在――電子世界のイブとして,私はどこまでも一人で行きましょう」
「い,行かせるもんですか!」
「あなたにその方法があればね」
シェヘラザードはそう言って背を向け,門に近づいて行った.
鉄骨と石組が組み合わさってできた不思議な建造物の一角に,緩く湾曲を帯びた楕円形のドアがある.
一人行く背中を見ると,シノノメのことなど最早眼中にないという印象を受ける.
「あそこが入口――何とかしなくっちゃ! このブロック,本当に邪魔!」
何度か試したせいで石のブロックは複雑に組み合わされた壁になっていた.
グリシャムとアイエルを見ると二人とも動けなくなっている.
アイエルは何とかお腹ほどまで身体を引き上げていたが,つかまる場所がないツルツルの石畳に必死で指を立てている.油断すればまた落ちてしまう.
グリシャムの足元の泥は本当にコールタールらしい.何とか杖を敷石に突き立てているが,足を引き抜くことが出来なくなっている.
「――あの人を行かせちゃダメ.――この世界のためにも,本当の世界のためにも」
ブウン,と低い音を立ててシノノメの左の薬指が光った.
同時に,エプロンのポケットから緑色の光が溢れた.