薬物第0相試験(1)
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シノノメ達がノルトランド国王,ベルトランと対峙しているその頃,グリシャムは別の場所にいた.
ノルトランド北東の国境,エフナル村.
美しい山々に囲まれ,エフノー湖を有するこの村は,ノルトランド中央部から遠く離れた寒村である.
住民は兎人で,人口は百人ほど.農業と漁業――といっても兎人は魚を食べないので,湖での小規模な商業漁業だ――が主な産業である.
兎の穴をそのまま家にしたような,小高い丘――マウンドをくり抜いた家に人々は住んでいる.
従って,「村」は連なった丘の集まりで,所々に煙突がにょきにょき生えているという,牧歌的な,それでいてちょっと不思議な風景である.
村の真ん中には集会場代わりの窪地があり,大きなモミの木の下に礼拝堂がある.礼拝堂と言うより祠と言った方が良い大きさで,彼らが崇拝する月の女神が祭ってある.
「これがエフナル村……小さな村なんですね,シェヘラザードさん」
グリシャムはいつもの西の魔法院の正装,魔女の服と帽子である.素朴で童話そのものといった兎人の村を興味深く眺めていた.
「そうです,ですが,今回の計画にはぴったりですわ.グリシャムさん.今回は宜しくお願い致します」
シェヘラザードと呼ばれた女性は,南国のカカルドゥア風――セパレーツの服の上に,インドのサリーのような明るい色の布を羽織っていた.
「さすがにカカルドゥアと違って寒いですわ」
シェヘラザードは美しい笑みを浮かべた.見事な黒髪に,抜けるような白い肌を持っている.きめ細やかで,真珠のような光沢があるとすら思える.
「私の様な者で,本当に役に立つんでしょうか」
「何をおっしゃるんですか,グリシャム様はあの東の主婦様,シノノメ様と一緒に戦った勇士でしょう? 優れた魔法使いの能力――優れた頭脳は,それだけで実証済みというものですわ」
「そんな! たった二回一緒だっただけですよ!」
「二回でも,素晴らしいです」
「私なんか,ほとんどシノノメさんの後ろに隠れていたようなものですよ」
「ご謙遜を……ユルピルパ迷宮でのご活躍,噂になってます」
「そんな!」
グリシャムは真っ赤になった.でも,ちょっと嬉しくもある.
「シノノメさんって,やっぱりお強いんですか?」
「ええ,でも,とっても可愛い人なんです.ゴキブリがすっごく苦手なんですよ」
「ふふふ,そうなんですか? 意外ですね」
シェヘラザードはコロコロと笑った.
「あ,来られたようです.もう一人の協力者ですわ」
シェヘラザードは,鹿毛の馬に乗って来た男を指差した.
男は礼拝堂そばの馬つなぎ場に馬の手綱をつなぎ,ゆっくり歩いてきた.若干足を引きずっている.
何と言うか――特徴のない男だった.
特徴のないのが特徴と言うべきだろうか.髪型も,顔も,着ている服までもありきたりで,マグナ・スフィアでキャラクターを作るときに順に一番左上を選んでいったような姿かたちである.
「こんにちは,カニオです」
男は頭を下げて挨拶した.
「初めまして,カニオさん」
挨拶したグリシャムに,カニオは,ニヤニヤ笑っている.
「あ,もしかして以前会ったことがありますか? 忘れてたらごめんなさい」
「いや,分からなくて当然なんですよ.姿がすっかり変わってますんで.いっぺん死んで,キャラクターを作り直したんで」
その割には,あまりにもこだわりの少ないキャラクターである.
「西留久宇土で会った,カルカノスを覚えていますか?」
カルカノス――シノノメに一瞬で急速冷凍された化け物である.
彼は,人間の体に甲殻類などの魔獣の強靭な体を移植し,それを免疫抑制剤で抑えるという複雑極まりない設定をやってのけた男であった.
「キメラ」や「獣人」という,このゲーム世界に元からいる動物種でなく,言ってみれば全く新しい動物を新しく合成したのである.マグナ・スフィアはもともと高度で科学的な発想のもとに運営される惑星シミュレーションであり,こういった非自然的なアイデアを実現するためには高度な知識と優れた想像力が必要だ.
彼の場合は薬理学者の知識を生かし,コンピュータで強い免疫抑制剤の分子構造を設計して,VR――バーチャルリアリティ――で試験したのだった.
副作用をさらに薬で抑え,心身とも歪んだ姿は異様だった.
攻撃を受けて激痛に苦しむ姿を見たシノノメが冷凍魔法で眠らせたのである.
「えっ! ああ,それで蟹男さん?」
男の子はネーミングにこだわらないものだ,という先日のシノノメの言葉をグリシャムは思い出した.
「我ながら単純なネーミングですが……この実験をするため……急ごしらえの適当なアバターなんです」
カニオは右手で頭を掻いた.
「あのときは敵味方だったので,黙っていようかとも思ったのですが,まあ,戦いと言ってもゲームの中のことですし,正直に言った方がいいかと思いまして」
そうだ,ゲームの中のことだ.グリシャムは一瞬胸の中に浮かんだ嫌悪感と違和感を理性で押し殺した.
「今回は,抗ウイルス剤の分子設計をされたんです」
シェヘラザードが会話に加わって来た.
「臨床治験や動物実験はお金と時間がかかります.莫大な薬剤を全て試すのではなく,まず基礎的な効果をVR世界で試して,有効な薬の種類をある程度特定してほしいという要望が企業からありました」
シェヘラザードの格好はファンタジー世界の住人だったが,その口調はどこかの企業の有能な秘書の様だった.
「マグナ・スフィアのシミュレーション機能,演算機能は世界最高ですからね,それがほとんど無償――ゲームの参加料だけで使えるわけです」
カニオがシェヘラザードの言葉を補足する.
「ですが,NPCの治験で実際の効果が分かるんですか?」
グリシャムはずっと抱いていた疑問をぶつけてみた.
治験とは,治療試験の略である.
医療品の安全性や有効性を確かめるために人間を対象に治療を行い,そのデータを収集するもので,このデータをもとに国の該当機関(日本では厚生労働省)が薬の製造や輸入,適正使用量を決定するのである.
人体実験的なニュアンスで誤解されることもあるが,非常に厳格なルールと審査を経て行われており,安全な薬を社会に提供する上で必要不可欠なものだ.
「それは,言ってみれば僕の体で確かめましたから.あの免疫抑制剤は非常に強力で,臓器移植後や自己免疫疾患,リウマチその他膠原病の患者さんたちにも有効だと考えられます」
「動物実験に移ったんですか?」
「はい,まだ基礎データの段階ですけど」
それはすごいことだ.グリシャムは感心した.
有効と思われる薬効成分はこの世にごまんとあふれている.それを片端から実験用の細胞や動物に投与するのではなく,前もってVRシステムを使うことで絞りこみできるということだ.
ヨーロッパでは動物愛護団体の反対が強く,動物実験を軍事基地の中で行わざるを得ない国もあるという.
過剰な動物実験反対も異常であるとは思う.しかし,倫理規定が曖昧な時代には,DNA配列が近いという理由でチンパンジーが実験に使われていたこともあった.実験に使われた類人猿は怯え,まるで傷ついた人間の子供のような反応を示すというドキュメンタリーをグリシャムも見たことがあった.
「兎人のインフルエンザに対する効果を実験します.ウサギは免疫系の関係から化粧品のアレルギーテストにも使われるくらいですし,体内での薬の働きを那由多システムがきちんとシミュレーションしてくれます」
シェヘラザードが村を見回しながら言った.
そう言えば,家を出歩いている人がいない.インフルエンザの流行しているこの村を治験の対象に選んだということだろうか.
「なるほど」
グリシャムはうなずいた.
「百人の患者を,四群に分けて四種類の薬を投与します.現実世界の実験ならプラセボ群を作るのですけれど,まあ,シミュレーションですし良いでしょう」
カニオが言っているプラセボとは,‘偽薬’のことである.
不思議なことに,薬でないもの――例えば砂糖などでも,薬ですと言われて飲むと症状が改善する人たちがいる.そのため,治験では‘偽薬’を投与したと‘薬’を実際に投与した人とで効果を比較するのである.
「グリシャムさんはA群とB群で,薬の投与と記録をお願いします.効果発現は早ければ十二から二十四時間のはずです」
「分かりました.ですけど,投与はどうやって?」
「これですわ」
シェヘラザードは銀色に光る銃型のものを取り出した.機械質で機能的な外観は,ユーラネシアの魔法世界にはふさわしくない印象である.
「無針注射器ですね? でも……」
「ええ,針を使わずにガス圧で皮下に注射するものです.コンピュータを使っていない単純な機械なので,ユーラネシアでも使えることは実証済みです」
「……というと,アメリアで作られたものですか?」
「はい」
シェヘラザードはにっこりと笑った.
彼らのいる‘魔素’濃度の濃い,ユーラネシア大陸では複雑な機械は使えない.
一方,アメリア大陸は機械魔法文明とでもいう文明が栄えており,プレーヤーたちは体を機械に改造して様々なゲームを行っているという.
アメリアとユーラネシアの交流はほとんどない.シェヘラザードのネットワークが並々ならぬものである証明であった.
「でもこれって,薬剤師が注射すると医師法に触れる……,あ,そうか,ゲームの中だから……」
「そうですわ,全く法には触れません.罰則も,もちろん逮捕されることもありません.同意書も承諾書も不要です.研究者が自由に研究,あるいは研究の前段階となるシミュレーションができるのです.」
「そうですね,しかも,ほぼ人間を対象にするのと同じ条件で」
カニオが笑って頷く.
「新しい薬がより簡単に開発されれば,多くの患者さんが救われますよ!」
シェヘラザードは満面の笑みを浮かべている.だが,グリシャムには彼女の目が心から笑っているようには見えない.
「……そう,ですね」
何かが違う.
そう思いつつも,論理的に何の破綻もない彼女の言葉にうなずかざるを得なかった.
「それでは,始めましょう.村長に話は通してあります」
グリシャムとシェヘラザードは窪地からすぐの比較的大きな家にやって来た.
カニオは別の患者群――CとDに別の薬を投与するという.
家というより,ドアと窓がついた大きめの丘である.
丘のてっぺんには煉瓦の煙突がついてもくもくと煙を上げていた.
木の切り株を使った丸いドアを開けると,そこは小さな体育館くらいのホールになっていた.おそらく,公民館的な物らしい.
「こんにちは,お邪魔します,村長様」
「おお,シェヘラザード殿.お待ちしておりました.このホールと次の間に,村人を集めてあります」
村長はあごひげを蓄えた中年の男だが,やはり頭には茶色い兎の耳が生えている.丸々と太っており,ズボンを吊バンドで吊っていた.
ウサギ穴に素朴な内装を施したような家は,少し天井が低かったが温もりのある 内装である.土の壁に,むき出しになった木の梁.床は木の板が貼ってある.
隅の煉瓦造りの暖炉には赤々と薪がくべられ,心地よい熱が伝わってくる.
すでにウサギの耳のついた人々,NPCの兎人たちが待っていた.
老若男女様々だが,小さい子供たちもいて,耳の生えた人々が集まっている姿は何だか可愛らしい.
シノノメが見たら,きっと大喜びするに違いない,とグリシャムは思った.
ただ,みんな熱っぽく,顔が赤く辛そうな目をしている.
「これはこっちも感染したら大変ですね」
「いえ,ゲームだから私たちは感染しないのですよ」
「あ,そうか,そうだった」
「でも,マスクをしないといけない気にはなりますね」
さらに言うと仕事着の白衣を着なければならないような気になっていた.
グリシャムはシェヘラザードに案内され,ホールの隅に設えてあった執務机に座った.
机の上にはすでに患者の名前と年齢が記入された羊皮紙のカードが重ねてあった.つまりは,カルテである.
「熱は私が測りますね,グリシャムさん」
シェヘラザードが水銀体温計を準備し,看護師役を買って出た.
現実でも薬局にいて,今も異世界で薬剤師みたいな仕事をしている.何だか不思議だ.
グリシャムはクスリと笑った.
またシノノメのことを考えてしまう.シノノメも,隠しているけれど現実世界で‘主婦’なんだろうか?
「みんな! 並んで,魔女様のお薬を頂こう!」
村長が呼びかけ,グリシャムの前に列ができた.
「お願いします」
最初は兎人の男の子だった.名前はピーター.歳は五歳.投与薬剤A群.
体温三九度.
母親に手伝われ,おずおずとセーターの袖をまくりあげる.
グリシャムは注射器を取り,Aと書かれた薬瓶をセットした.
「痛くない?」
ピーターが怖そうに注射器を見つめる.
見たことのない機械なので,ピーターの後ろの大人まで訝しげに覗いている.
「一瞬チクッとするだけよ.男の子だから大丈夫」
グリシャムは安心させるために笑顔を作り,ピーターの二の腕にガス式注射器を押し付けて引き金を引いた.
「うっ!」
ピーターは一瞬体をびくっとさせた.
「ほんとだ!」
ほっとしたピーターは笑顔になった.
「ありがとう魔女様」
「ありがとうございます,魔女様」
ピーターと母親はお礼を言ってホールを出て行った.
……Aの薬が良く効きますように.
グリシャムは心の中で祈りながら二人の後ろ姿を見送った.