33-1 A House Is Not A Home.
唯はゆっくり目を開けた.
見覚えのある天井が見える.ベージュがかった白い壁紙に,茶色い梁が横渡しされている.和モダンで,少し山小屋風でもある.夫と二人で選んだ内装だ.
「いつもの……家の中」
見慣れた自宅のリビングだ.頭にVRマシンを被って横たわっているのは,お気に入りのソファの上.
心地よい布の手触りと,良く磨かれたひじ掛けの感触.
だが,もう知っている.
ここは偽りの空間だ.窓の向こうにはいつもの――全く同じ形の雲と,同じ色の青空が見える.向かいの家の裏側はがらんどうになっているのだ.
唯はゆっくり体を起こし,頭からナーブスティミュレータのヘッドセットを外した.
軽く頭を振ると,押し潰されて型のついた髪の毛が揺れてほどける.
ずっと本物の家だと思っていた.だが,今考えればすべてがおかしい.
いつの間にか充填される食材に,全く同じ風景と季節感の無い温度.
しかし自分はそれすら気づかず,この場所から電脳世界に向かっていたのだ.
立ち上がってフローリングの床を踏み,スリッパをはいた.
「感じるものは何もかも一緒.でも,すべて嘘なんだね」
既視感に似ているかもしれない.カーテンも柔らかい日差しもすべて非現実の存在なのだ.
数歩歩けばダイニングテーブルがある.
四人掛けのがっしりした和家具なのだが,天板をスライドすると六人掛けになる優れモノだ.夫と二人で,いつかお客さんを呼ぼうと言っていた.子供が生まれても広ければ大丈夫とも言って.
「こんなものまで……完璧なまでにリアルね」
ここで一緒に食事をしていた夫は一体何だったのだろう.一人で寂しいだろうと言ってVRマシンを手渡されたのもこの席だった.
「あれは……」
顔はやはり靄がかかった様で思い出せない.頭に浮かぶのは見慣れた手と声,そして胸元辺りまでのシルエットだ.
「あのときのあの人は本物だった……そんな筈ないのに,そんな気がする」
決して帰ってくるはずのないこの場所で,何も知らずにずっと彼を待っていたのだ.
唯はそっと自分の椅子の背もたれに触れた.いつものように二つ折りにしたエプロンが掛けてある.
テーブルの上を見ていると,向かいで並んだ食器が二組並んでいる様な気がする.
虚ろな食卓――かつて確かにあったぬくもり.団らん.
その温度を探すように,唯は天板に指を這わせた.
「私はいつからここにいたんだろう……」
頭の奥に鈍い痛みが走る.それは,マグナ・スフィアで感じたのと同じ痛みだ.
「記憶に鍵がかかっている……」
祖母――正確には祖母の姿をしたナーガルージュナはそう言った.
「鍵を探さなくっちゃ」
窓の外に目を向けると,隣家の黄色っぽい壁が見える.
家の外には何もなかった.
挙句の果てに彷徨って危険な泥沼のような場所にはまり込んでしまったのだ.
「外に無いとすると……家の中?」
キッチンに回った.対面型の台所の流しには何もない.きれいに整えてある.いつもの自分の習慣だ.ガスレンジの上にはピカピカに磨いた鍋とフライパンが置いてある.
唯は辺りをゆっくり見回した.
冷蔵庫が目に入る.
冷蔵庫の横側の壁にはゴミ捨ての予定表.そして,動物の形をしたマグネットでカレンダーが貼りつけてある.
「そうだ……私は」
カレンダーの日付にグルグルと赤い丸印がつけてあった.
「記念日……? 私は……準備をしていたんだ」
再び流しを見ると,そこにあるはずのない食材が並んでいる様な気がした.
「鶏肉と……お魚と……そう……」
何かが思い出せそうで思い出せない.ふと前をよぎった食材の幻は,水を手でつかむようにするりと流れて消えた.
「ここにはもうない……」
ここにはもう手掛かりはない.そう直感する.
三階のベッドルーム……いや,そうだ.
唯は階段を降り,客間の奥に向かった.以前ヤルダバオート――幻なのか何だかよく分からないが――が夫のふりをしてやって来たときに逃げ込んだ場所だ.
ここには使わない季節ものを収納したクローゼットと――普段使わない記念品などをしまい込んだ段ボール箱がある.
「この箱の中……前は確か,結婚式の写真とかが消えていたんだっけ」
箱を開けるとアルバムが出てきた.旅行先で撮った写真を整理したものだ.
長野.
北海道.
沖縄.
京都.
神戸.
オーストラリア.
ヨーロッパ.
インドネシア.
色々な場所でとった写真が貼ってあった.
夫が自分を撮影したものばかりで,二人で映ったものが見当たらない.
記憶に鍵がかかった,この架空の家だからなのかもしれない――唯はそう思った.
だが,どの写真もファインダーに向かって笑っている自分が映っている.
「楽しかったんだ――楽しかったよね」
写真に写っている自分はもう一人の自分のようで,今一つ実感がわかない.だが,そうに違いない.思わず語りかけていた.
「これは……結婚してから……確か初めての旅行.これは……二回目の夏……」
自分の記憶の中を旅している様だ.
段ボール箱の底へ底へと探っていく.アルバムと写真は徐々により古いもの――昔のものになっていく.
「あ……これは」
結婚する前の自分が映っている.今より髪が長く,“シノノメ”のアバターに近い気がする.
楽しそうに笑っているはずだが,どこか翳りを感じる.結婚した後の笑顔とはほんの少し雰囲気が違う.
写真の背景にクリスマスツリーが映り込んでいる.街の気配からして,クリスマス前の準備期間とでもいう様な慌ただしさが伝わってくる.
「クリスマス……」
黒いカシミアのコートに身を包んだ自分の目に映るその人こそ,夫の筈だ.
「だって,これは……この時は……そう」
あれが自分を変えたのだ.
自分を包む世界がもたらす一切の不安から解放されたあの瞬間…….
唯は直感した.
あの手紙.
文面も思い出せないあの手紙.
あの手紙は,この箱の中に無い.
この箱――いいえ,この家の中にあるものは,鍵がかかっていない記憶のものたち.
それでも念のため箱の中を探してみた.
他の箱――結婚式の時にもらった記念品が入った箱にも,衣類の入った箱にももちろんない.
だが,無いからこそ正解――.
「あの手紙――あれが鍵なんだ」
そして,ならば――あの鍵を見つける場所は,マグナ・スフィアの中をおいてない.
根拠はない.全て直感だ.
だが,唯は確信していた.
欲望の塔の頂点に行かなければならない.
本当の現実世界に帰るために.
目を覚ますために.
****
「ふう,ふう」
ネムは大きなため息をついた.
足が棒の様だ.
ビルで言えば四十階以上を歩いて上がったことになるのではないか.途中で面倒臭くなって数えるのを止めたので,正確にどのくらい上がったのかよく分からない.
時折蛇や蜘蛛に似た監視機械が近くを通り過ぎて行ったが,息をひそめてやり過ごした.
「ヤバかったのは蜘蛛ロボだよネー」
蜘蛛に似た監視機械は尻――腹部の一番後ろについたワイヤーでぶら下がり上下するだけではなく,ネムが上がっている階段の手すりやタラップに足をかけてウロウロ動き回ったりするのだ.しかも,大型犬ほどの大きさがある.
透明ローブの端が蜘蛛の足に触れたときなど,生きた心地がしなかった.
「普段が普段で運動不足だからネー」
肩掛け鞄を抱きしめるようにすると,ネムは最後の一段を上がった.
そっと音がしないように座り込んだ.
「ここがゴールかな.足がガクガクするヨー」
小さな踊り場になっている.だが,この場所にずっとじっとしているのも危険だ.
ふと手すりの向こうを覗き込んで見ると,自分が出発した場所ははるか下で視認できない.
文字通り目のくらむような高さだ.
「ブルブル,こっち見るのやめよ」
上はパイプだらけの天井だ.そうすると,ここからは横に開いた丸い穴を通って行くしかない.直径一メートル半ほどの暗い円筒状の通路だ.水が流れていない下水道とでもいうべきだろうか.
ちょうど足が疲れたので這うようにして中を進むと,すぐ行き止まりになっていた.
「あれ? おかしいナー.何か強力な武器でもないと開けられないのかしらん」
だが,落ち着いてみると上から光が差し込んで来るのが分かる.
星明りに似ている.天井は格子状のスリットになっていて,そこからキラキラと弱い光が漏れてくるのだ.穴の中の埃が光を受けて舞っているのが見える.
ネムは格子に手をかけて背伸びしてみた.
呆気ない程簡単にパカリと開いた.
フードを被った頭でそのまま押し上げ,手をかけて覗いた.
「何? ここ? 天国?」
九十台後半の階層なのは分かっている.だが,一見して頭に浮かんだのはそれだった.
とても静かだった.
がらんとした空間がぼんやりと薄暗く青色に光っている.
ドーム状になった天井には明滅する小さな光が沢山見えた.
「プラネタリウムみたいだナー」
動くものは何も見えない.武器らしきものも皆無だ.
ツルツルに磨き上げられた床に天井の星のような光が映っている.
星空の下の氷原というか,ウユニ塩湖の夜というか――どちらもネムは実際に見た事はないのだが,そんな言葉が浮かぶ.
ただひどく静かな空間だ.
「あまり危険は無いのかナ」
自分には何の武力もない.だが,今は透明で見えないはずだ.
とりあえず進むのが自分の役目なのだから――.
通路の壁に足をかけ,ネムは這い出すようにしてよじ登った.
どんな危険があるか分からない.
透明ローブをすっぽり羽織ってノロノロと匍匐前進した.
鏡のような床に自分の姿が映っていないのを見て,少し安心する.
床は冷たく,冷気が伝わってくる.
「ホントに氷みたいだネー.でも,誰もいないみたい」
――クスクス.
ほっと溜息をついたのも束の間,ネムは震えあがった.
誰かの笑い声がする.動きを止めて耳を澄ましてみたが,物音一つしない.
吐息が白くなりそうで慌てて口を押えた.
「気のせい……カナ.気のせい……だよネ」
――気のせいだって.
「ひゃっ」
今度は間違いない.声が聞こえた.ネムは思わず体を起こした.キョロキョロ見まわしてみたが,殺風景な景色に何の変りもない.
「相手も透明なのかナ」
――違うよ.
「だっ誰!?」
――ハハハ,慌ててるよ.
――慌ててるね.
――なんて滑稽なのかしら,あの姿.
「お化け!?」
――ハハハ,欲望の塔にお化けだって.
――頭が悪いんじゃない.
ネムは気づいた.相手が自分の頭の中に話しかけていることに.
「テ,テレパシー?」
――生体電波,脳磁場の波長を合わせればこんなことは普通さ.
――無駄無駄,この娘そんなことが分かる様な頭じゃないよ.
「あ,頭は良くないけど」
――ハハ,こいつ自分はくだらない人間だって知ってるよ.
男女入り混じった複数の声が頭の中に響く.
声とともに天井の星のような光源がしきりに明滅していた.
――友達に無視され,学校に排斥され,社会に要らない人間だと言われているんだろう.
――だから電脳世界に逃げたのさ.
――電脳世界なら生きていけると信じてね.
――そんな筈ないだろう.異世界に行ったって,クズはクズさ.
――お前の居場所なんて無い.自分の家にも,この世界にもね.
「何で,何でそんなこと言うのヨ? あんた達誰? ここは何?」
――ここは第九十六階層.霊魂の座.別名,ゴースト・ドーム.
――真実の自分に出会う場所.




