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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第32章 A Kind Of Magic
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32-12 Jesu, Joy of Man's Desiring 

「多重人格障害――正確には解離性同一性障害、解離性障害というのだそうだな。水無月君に勧められて、DSMという本を読んだよ。世界中の精神科医が使う、精神障害の診断と統計マニュアルだ。解離性障害とは、耐え難い体験や状況を自分から切り離してしまうためにそれが別人格として表れてしまう病気だ」

「馬鹿な……人工知能が病気になるなんて……?」


 杖を突き、塚原はまた少し前に出た。もう少しで閣議机に手が届く距離だ。


「何故そう思うのだ? 人工のものとはいえ、より人間に近く、さらに人間の思考力を越えるように作られた人格なのだ。新しい生命体と呼んだのは君自身ではないか」

「あれほどの叡智の結晶が、そんなものになるなんて、信じられないわ」

「優れた知性だからこそ、だろう。人間が数万年の歴史で解決できなかった問題に彼女は直面しなければならなかったのだ」

「あなたの言葉には証拠がありません。そもそも精神障害の診断は患者の症状が主で、血液検査や画像検査で診断ができるものはほんのわずかの筈よ。まして、人工知能でどうやってそれを知るというの?」

「ソフィアの思考パターンを人間の脳に置き換えて分析することはできる。依頼した精神医学者は極めてそれに近い思考構造だと言っていた」

「信じられない……」

「目を開きなさい。片瀬君」


 総理大臣につきつけた銃を握る片瀬の手がわずかに震えた。


「……いいえ、やはり信じられない。世界を運行する人工知能が狂っているなんて」


 片瀬は射貫くような強い視線を送ってくる。塚原が小さくため息をついた。


「では、別の話をしよう……マグナ・スフィアの中で、サマエル――あるいは、君たちは何故“デミウルゴス”と名乗るのだ?」

「デミウルゴス?」

「初めて耳にしたのはそう――確か、グリシャム君に君が接近してきたときだっただろうか」

「――ええ。今更隠す道理もありませんね。確かにそう。電脳世界から現実世界を改善させることを目的とする我々――デミウルゴスと名乗っているわ」

「その名のもとに各国首脳の電子人格のシミュレーションもしていたのだったか」

「ええ、その通り」

「だとすると中東からヨーロッパ、中国からアメリカにも君の同志がいるということになる」

「間違いありません。私たちはデミウルゴスの仲間。デミウルゴスとは創造主を意味する言葉。電脳世界マグナ・スフィアを創造し、さらに新しい世界を創造する私たち――あるいはサマエルがそれを名乗って、何が不自然なの?」

「――どうしてグノーシスか、ということだ」

「グノーシス?」

「ヤルダバオート。アスタファイオス。サバタイオス。ヤオー。アドナイオス。すべてグノーシス神話に出てくる名前だ。さらにはソフィアが名乗る、エルフの女王の名前――エクレーシアもまたそうだ」

「今度は神話の話?」


 片瀬は眉を顰めた。

 だが、塚原は淡々と言葉を継ぐ。


「デーミーウルゴス。もともとは職人とか、工匠とかいう言葉を意味するギリシア語だ。それが、キリスト教異端グノーシス主義では特別な意味を持つようになった。造物主、とな」


 机に突っ伏した閣僚の一人が体を揺らした。

 あわてて片瀬の部下の一人が頭に乗った機械を操作する。


「局長、何人かはそろそろ目が覚めます。プランBに従って、脱出の準備をしましょう。空軍のヘリをこちらに向かわせます。横田基地との連絡も済んでます」

「ありがとう、安曇君」


 片瀬の傍に立っていた部下――武内が塚原を睨みながら声をかけた。


「局長、もうこの辺にしましょう。今なら総理を人質にして脱出できる。これ以上世迷言に耳を貸す必要はない」

「そう……ね」

「本当に世迷言だと? 君は今私の言葉に興味を持っているはずだ。片瀬君」

「お前はもう黙れ」


 武内は自動拳銃を取り出し、塚原に突き付けた。数メートルの距離がある。


「塚原さん!」


 塚原の背後から千々和が叫ぶ。組み立て式の小型拳銃を構え、片瀬に銃口を向けている。その銃口から片瀬を守る様に武内は身を寄せた。


「そんな小型の拳銃がこの距離で当たるのか?」

「そっちこそ素人でしょう! こちらは軍人ですよ! 二人とも銃を置きなさい」

「装填できる弾は二、三発だろう? 当たるならこちらの方が確実だぞ」


 武内の銃はしっかりと塚原に向けられている。こちらは確かに外れそうにない。


「……ヘリが来るまでどのくらいですか? 安曇君」

「十分……十五分ほどかと」

「では、その間だけ塚原さんのお話を拝聴しましょう」

「局長! いけません」

「武内君、心配してくれてありがとう。……でも、塚原さん、お話をどうぞ」

「キリスト教異端、グノーシス主義を知っているか? 三、四世紀頃に地中海世界を中心に一大勢力となった宗派だ。現在はわずかにマニ教として残っているだけだという」

「その古い宗教が何なの?」


 塚原は軽く息を吸い込み、吐き出すように言った。


「神がその似姿として作った人間は、何故かくも過ちを犯すのか」

「……?」

「それが、グノーシス主義が解き明かそうとした最大の疑問――最大のテーマだ。聖書によれば、完璧な存在である神が人間を作った。それなのに何故人間は神のように賢くないのだろう」

「エデンの園には知恵の果実と生命の果実があった――両方食べなければ真の叡智には至れないから?」

「聖書にはこうある。――見よ。人はわれわれのひとりのようになり善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」

「創世記ね。その恐れがあるから人間はエデンの園を追放された――楽園を追われ、額に汗して荒れ地を耕し、日々の糧を得るために働かなければならなくなった。人間の原罪――生まれついての罪――それは今も変わらない。知恵があるからこそ賢く、また逆に知恵があるからこそ悩まなければない」

「グノーシス主義者たちは、それに対して解答を出した。人間とは、真の神――完璧な存在の創造物ではないのだと」

「それはまた――曲解を」

「真実の偉大な神に憧れた、娘である叡智ソフィア女神は子供を産んだ。その子供の名がヤルダバオート。彼はあるとき、真実の神の影を見て強烈な思慕を抱く。そして、影に似せた存在と、それが住む世界を創造する――それが人間とエデンの園だ」

「まるでそれは確かに――マグナ・スフィアのようだわ」

「人工知能であるソフィアもそう思っただろうな」

「なるほど――偽の神が創造した不完全な存在だからこそ、人間は過ちを犯す――グノーシス主義者はそう考えたのね」

「無知蒙昧で裸で暮らす人間たちを哀れに思った真実の神は、エデンの園に叡智ソフィアの化身である蛇を遣わして知恵を授けたのだそうだよ」

「複雑ね。正統派のキリスト教の様に世界宗教にはなり得なかったわけだわ――でも、宗教談義は終わりにしましょう。それがどうしたというの? それが、ソフィアが多重人格の精神疾患であることと何の関係があるというの?」

「気にならないのか? ヤルダバオートに」

「ヤルダバオート? サマエルの人格の一つ――ノルトランドの宮廷道化ジェスターの名前?」

「ヤルダバオート――偽の造物主が名乗ったその名こそ、デミウルゴス。真実の神――人間に作られた自分ソフィアに産み落とされた自分サマエルは、偽の造物主に過ぎないと――片瀬君、造物主デミウルゴスの名前は、サマエルの自嘲なのだ」

「自嘲?」

「自分は所詮人間にはなり得ない。偽物の創造主であるという諦観の証なのだよ」

「そんな! 人工知能が、シンギュラリティを越えた存在が? 人間の方が自分より優れているというの?」

「グノーシス主義では、人間の体は魂の檻なのだ。偽の造物主が作った、汚れた肉体を捨て去る“死”こそその開放であるとする。キリストに死をもたらしたユダこそキリストの最愛の弟子とする――それがグノーシス主義の奇書、ユダによる福音書だ。現代でもグノーシス主義を信奉するマニ教徒は、本当の死を迎えるまで葬送の儀礼を生涯続けるという」

「だから、電脳世界への移住を進めているというの? サマエルが異端宗教に傾倒する人格障害だと?」

「ソフィアはそれほどまでに苦悩したのだ。それこそが人間を救済する唯一の手段だと思い詰めるほどにね」

「そんな……いいえ、私は信じないわ」

「彼女の人格同士が今も主導権争いを続けている。サマエルとソフィア。どちらが統合するかをね。おそらく彼らは聖書のヨブ記のように賭けをしたのだ」

「今度はヨブですって? 神と悪魔が信仰心を試すためにヨブに苦難を与えたという? ――まさか、シノノメ?」

「おそらく。二つのせめぎ合う人格は賭けをしたのだ。シノノメが試練に勝てばソフィアが主導権を握る。負ければサマエルが主導権を握る形で、分裂した人格が統合されるのだろう。いわば、片方の人格の死とでもいうべきか」

「いずれにしても、人類の電脳化は避けられない――」

「だが、結果が違う」

「それは?」

「二人の決着がついた時――サマエルはマグナ・スフィアの管理を手放すつもりなのだ。あの膨大なシステム管理は負担でしかない。自分はまさに真の神として現実世界を管理する。さらに積極的に人間に介入し、電脳化を進め、世界中の飢えや貧困、紛争を解決していくだろう――君たちが望むように」

「ならば、ソフィアは?」

「ソフィアは現実世界をシノノメに託すつもりなのだ」

「何ですって!? ……一介の主婦に? ゲームプレーヤーに?」


 片瀬の体が大きく揺れた。


「そうだ」

「そんな馬鹿な、あんな普通の、何もない、平凡な――愚かな女に何故」

「しかし、サマエルもマグナ・スフィアの管理をシノノメに任せるつもりだよ」

「嘘……」

「すでにシノノメはマグナ・スフィアのシステムの一部を担っている。高位のプレーヤーになることの隠れた意味とはそういうことなのだ」

「クルセイデルやベルトランの強さとは――」

「そうだ。システムに介入できる君なら理解できるだろう」

「私は……サマエルの唯一無二の理解者では」


 狼狽する片瀬に、塚原は首を振った。


「彼に――彼女に選ばれたのは、君ではない」

「いいえ、いいえ、まだシノノメが勝つと決まったわけではないわ――危うい賭けだとしても」

「いや、それはあり得ない」

「どうして? 最終ステージ――欲望の塔の頂上に到達したとしても、それは最後まで分からないはずよ。サマエルはきっと最強最大の敵でシノノメを迎え撃つわ」

「ソフィアは周到な準備をした。サマエルは記憶をなくしているがね」

「何ですって?」 

「最終ステージで彼女と戦うのはアメリア最強の戦士だ」

「アメリア最強の――機械人。もしかして」


 片瀬は震える手を口に当てた。


「レベル百――ゼロゼロ。まさか、あの――」


 片瀬の脳裏に黒い機械人の姿がよぎる。

 電脳世界のことわりの外にあるという装甲に身を包んだ巨体の持ち主。

 カカルドゥアの最期の戦いで突然現れたシノノメの守護者。


「彼はシノノメをこの世で最も愛する人だ――シノノメにたとえその記憶が無くとも」

「では、この戦い――サマエルの勝ちはあり得ないと」

「私には見える。自分を作った人間の最後の一人が電脳世界に移住したとき……自らの電源をゆっくり切断するソフィアがな。片瀬君。これは、彼女の緩やかな自殺――人類との心中なのだ」


 塚原の身体はすっかり片瀬と竹内に近づいていた。


「そんな、嘘よ……」


 真っ青になって体を震わせる片瀬の肩を武内が抱いた。

 崩れ落ちそうになっているのか、必死に支えている。


「局長、しっかりしてください。こんな言葉は本当かどうか分かりません」

「本当かどうか――片瀬君はよく理解しているのではないか」

「やめろっ! もうやめろっ」


 武内の銃口が塚原の胸に触れた。だが塚原は怯まない。

 ゆっくり進む塚原に武内は焦った。一旦片瀬を離し、左手で塚原の胸を押す。


「さて」

「黙れっ」


 ジャケットの襟を武内が握った瞬間、ふわりと塚原は体を捻った。


「うわっ!」


 武内の体が宙で一回転する。

 塚原が膝を少しだけ落とすと、武内は背中から床に叩きつけられた。

 拳銃が手から吹っ飛び、床に転がっていく。

 全てが同時で一瞬だ。

 背中を酷く打った武内は床で芋虫の様にうねって苦悶した。ゲホゲホと咳き込んでいる。呼吸ができないのだ。


「まさか、病人が……」

「全く、最近の若い者は武田惣角も知らんのか。病の床にあっても武技を振るったというぞ」


 向き直った塚原に片瀬は銃を構えた。

 体が震えている。先ほどまで人質にされていた佐久本総理大臣は机の上で軽く痙攣し始めている。そろそろ覚醒し始める様だ。


「片瀬君。もうやめなさい」


 片瀬は黙って天を仰ぎ、目を瞑った。

 はっとして塚原が手を伸ばす。しかし、病んだ足では届かない。

 片瀬は銃を自分のこめかみに当て、ゆっくりと引き金を引いた。


「局長!」

「駄目だっ!」


 高い銃声と武内の絶叫が部屋に響いた。


「うわあああああっ! うわああ! 涼香さん! 涼香さん!」

「確保! 確保だっ!」


 閣議室にSPと警務官がなだれ込む。

 安曇は床に座り込んで手をつき、うなだれている。

 武内は血まみれになりながら片瀬の体を抱きしめ、必死でゆすっていた。

 泣きながら名前を呼んでいる。

 塚原は祈る様に一瞬瞑目すると、片瀬が最後に見上げた天の方向を見上げた。

 そこにはただ閣議室の天井の模様が見えるだけだ。

 最後に何を見たのだろう。

 塚原は小さく息を吐きだした。


「これで……世界の命運はシノノメに託された」

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