29-2 Against All Odds (Take A Look At Me Now)
斜めに降る雨が窓を叩く音がする。
黒江は何度目かになる携帯端末のアラームを消した。
大雨洪水警報と避難警報を知らせるメールだ。
こんな休日は、みんな家にこもって過ごしているのだろうか。
豪雨のせいで、電車も止まってしまったらしい。
この病院――神経精神医療センター附属病院に繋がる路線は一本きりだ。
下りで四駅ほど移動すれば乗り換えて移動できるが、上下線とも不通になっているそうだ。
下り線は土砂崩れで、上り線は人身事故だという。
そうなるとこの地区は路線バスかタクシーしか移動手段はなくなってしまう。
遠くから通勤している医療スタッフは大変だろう。
家に帰ってもすることなど無い。
たまに掃除しに戻るくらいで、休みの日はほとんど病院にいる。
唯の清拭をしたり、歯を磨いたり、手足が固まらないように動かしたりする。普段は看護師や理学療法士にしてもらっていることを、自分でする。
何をしてもほとんど眠っているようで、唯は無表情だ。
だが時折、ふっと笑うことがある。
楽しい夢を見ているのかもしれない、と思う。
今は困った様な顔をしている。
VRPI(ヴァーチャルリアリティ・サイコ・イメージング)――唯が意識内で見ている、マグナ・スフィアの映像はしきりに揺れている。
乗った船が攻撃を受け、上下左右に揺れているのだ。
乗り物酔いになりやすいのに、大丈夫だろうか。心配になる。
目を開けて自分を見てくれたら――一年以上思い続け、それは叶わなかった。
だが、これが終われば、もしかして――。
もうすぐ防衛省の風谷が来ることになっている。
浜松で開発している何かを届けてもらい、マグナ・スフィアにアクセスする計画なのだ。
現在のマグナ・スフィアはひどく危険な遊戯と化してしまった。
機械大陸アメリアと幻想大陸ユーラネシアの戦争は激化していて、戦闘に参加、あるいは巻き込まれればひどい脳障害を負うことになりかねない。
それでも一時のスリルや快楽を求め、参加者は減らないのだという。
人間の業とでもいうものなのか。
それとも、刺激への中毒か。
昨日までの外来には患者がごった返し、神経内科と精神科のスタッフが悲鳴を上げていた。
聞けば世界中で同じようなことが起こっているらしい。
マグナ・スフィアをそのような状態に変えてしまったのは、“サマエル”で、風谷はそれを消してしまおうとしている様だ。
人工知能を“殺す”コンピュータウイルスみたいなプログラムを、仮想世界に持って行けということなのだろうか。
“サマエル”は唯に執着し、電脳世界に留め、マグナ・スフィアの管理者にしようとしている。
消さなければならない存在だが――それで解決するのか。
分からない。
だが、唯が“欲望の塔”タワー・オブ・グリードの頂上に行くために。
自分はどうあってもこのタイミングでマグナ・スフィアに行かなければならない。
VRシステムの技術的バックアップもしてくれるという。
唯の脳をマグナ・スフィアに接続するときの、鳥居の申し出を思いだす。
彼は優秀な神経内科医だったが、唯のことを研究素材としてしか見ていなかった。
今度は違う――塚原はそう言う。
誰もが唯のかけがえのない友達で、唯を助けることがこの世界を救うことに繋がっているから、みんな協力するのだと。
ずっと自分一人で考え、行動してきた。
仮想世界最強の、異形の化け物になってもなお。
全てをかけて――。
例えゼロに近い可能性だとしても。
――もう一度君に見つめてもらうために。
ふと乱暴なノックの音がした。
廊下がやけに騒がしい。
知り合いの看護師の声と、そうではない誰かの言い争うような声が聞こえる。
いつも飄々として捉えどころのない、風谷の声とも違う。
引き戸が空いて、ストレッチャーのフレームが揺れる金属音がした。
「待ってください! そんなの、聞いてません」
黒江が振り向くと、ドアの向こうに看護師風の白衣を着た男が二人立っていた。
体格もだが、妙に姿勢が良い。
見慣れない制服で、この病院の人間でないことは明らかだ。
「ちょっと、待って! 許可なく入るなんて、どういうこと!?」
声の主は副師長の夏木だ。
スポーツウーマンなので声が良く通る。
だが、男たちは無言でそのままストレッチャーを病室に運び入れて来た。
黒江は座ったまま眉を顰めた。
自分と唯との静かな時間を邪魔されたようで、不愉快だった。
「何ですか?」
「そちらの患者さんの移送に来ました」
ストレッチャーを運び込んだ看護師の話し方は、少し高圧的だった。
医療関係者と思っていないのかもしれない。白衣はグルグル丸めてベッドサイドに置いてある。時々患者や家族など、一般人に横柄な態度をとる医療関係者がいることは承知していた。
「知りません。別の患者さんとの間違いでしょう」
黒江の抑揚に乏しい口調で淡々と答えた。
主治医であり夫である自分が知らないうちに、そんなことが決まるはずがないのだ。
「いえ、黒江唯さんでしたら、間違いありません。家族の方はご存じないかもしれませんが、急いで他の病院に搬送する指示を受けています」
看護師は少し怒っている様に早口で喋った。
黒江はその口調に不自然さを感じた。
詐病の患者に似ている。
矢継ぎ早で有無を言わせぬ口調――相手の判断力を混乱させようとしている様に思える。
こういう時は、逆にゆっくり喋るに限る。相手のペースを乱すのだ。一言一言区切りながら、はっきり言った。
「それは、あり得ない」
「緊急事態なんです。ご存じないんですか? 大きな事故があって、幹線道路が寸断されているんです」
「大きな事故?」
「土砂崩れです。何台もの車が山津波に巻き込まれて、復旧の見込みが立ちません。医療機器や食料の運搬もままなりません」
「それが?」
「列車事故も重なり、この病院周辺は陸の孤島状態です。川向うの町は避難が始まっています」
「それでも、あり得ません」
「分からない人だなあ」
看護師は苛立ったように、短い髪の生えた頭をボリボリと掻いた。
「私たちも、何も聞いていません」
もう一人の看護師の巨体を避け、夏木がすらりとした体をねじり込むようにして病室に入って来た。元気な声できっぱりと言い放つ。
「あなたは?」
「この病棟の副師長です。私たちは何の連絡も受けていません。普通転院となれば紹介状も必要だし、看護サマリも用意するのが当たり前です」
「そんな暇はない。急ぐんです。そちらの手違いでは? 災害対策本部が出来たばかりで、まだ混乱しているみたいですし。私たちはただ、患者さんを搬送するように命じられているだけです」
そう言って男は黒江を避けて唯に近づこうとした。だが、黒江は立ち上がって進路をふさいだ。
「何をするんですか」
「私は彼女の夫で……主治医です。私が知らない搬送などあるはずがない」
「主治医……?」
男の目が一瞬泳いだ。まさか医者が休日も一日中患者に付き添っているとは思わなかったようだ。
「それは……」
「ライフラインが遮断されて、連絡がつかないとしよう。さらに幹線道路が寸断され、交通機関がマヒしている」
「その通りです」
つっかえながら男が答えた。
「なら、この患者をどうやって搬送するんですか?」
「ドクターヘリがこちらに向かっています。屋上のヘリポートから搬送する予定です」
「この雨の中?」
「ヘリも必死なんです」
「あり得ないな」
黒江の口調が突然変わった。
「ヘリポートの鍵は当直師長が預かっている。救急やD-MATに参加してきたけど、そんなことはあり得ない」
二人の看護師は目を細めて顔を見合わせた。
「あんた達は一体誰だ。雰囲気が医療関係者じゃない。非常事態だというなら、ここにどうやって来た? 唯をどうする気だ?」
「ちっ」
舌打ちした看護師は黒江を突き飛ばした。
唯に手を伸ばす。
「唯に、触るな!」
一瞬で頭の芯が熱を帯びたような気がした。
目の前にあった男の喉を思い切り握りつぶした。
さらに飛びかかる――というよりも、無様につかみかかった。耳を掴み、口に指を入れて頬肉をむしり、鎖骨の裏に指を立てる。
「うぎゃっ! ……うわぁ!」
男は何かの格闘技の構えをとろうとしていたが、あまりにも滅茶苦茶なので対処できない。
一見大人し気な黒江が豹変したことに狼狽しているのだ。
指をつかんでへし折り、頭を何度も鼻柱に打ち込む。鼻骨と頬骨が砕け、ザクロのようになった。
的確に無駄なく人体を破壊していく。
普通の人間ならここまでやることに躊躇してしまうだろう。
獰猛――というよりも、狂った獣だ。
「ぐわっ! こいつ!」
「黒江先生!」
「貴様! 放せっ! 放せっ!」
パン、と乾いた音がした。
もう一人の男が自動拳銃を構えていた。
銃弾は黒江の左の太腿を貫いて、床に穴を開けていた。
だが、黒江は止まらない。
「ひいっ」
男の顔をぐちゃぐちゃにかきむしった後、銃口を向ける相手にも憎悪の目を向けていた。
殺気がこもっている。
太腿から流れる血液が彼のズボンを赤黒く染め上げているが、一向に気にしている風がない。
「黒江先生……」
銃を構える男よりも黒江の様子に恐怖して、夏木は震え上がった。
「う、うわ……」
人差し指が引き金を引こうとする寸前、パシュッという軽い音がした。
男は体を硬直させて床に倒れ込んだ。
もう一度音がすると、顔が滅茶苦茶になった男もエビのように体を痙攣させた。
見れば、首筋にロケットを小さくしたような針が突き刺さっている。
引き戸の向こうに猫背の男が立っていた。
「ひええ……これが狂戦士の戦い方か」
驚いているような台詞だが、ゆっくりした口調だ。
黒江は返り血で血まみれになった顔で見上げた。
急速に感情が覚めていく。
「かぜ、たにさん……」
隣には小柄な――子供の様な体格の女性が立っている。
風谷と千々和だった。
手には少し大きな銃型の機械を持っている。
唯を連れ去ろうとした男たちを気絶させた針を発射したもの――ワイヤレスの射出型スタンガンである。
「じかん、ですか?」
「いや、まだだけどな。外はひどい嵐で、これからもっとひどくなるらしいから、早めに来させてもらったら、たまたまこんなところに」
「先輩、それは無理がありすぎですよ。実は昨夜から軍と公安の監視をしてて、妙な動きがあったので駆けつけたんです」
千々和の顔が引きつっている。それは黒江の凄惨な暴れ方に対する表情だった。
黒江はゆっくり立ち上がり、唯の様子を確認すると、ベッドサイドに置いてあったタオルを水に濡らし、顔を拭いた。
タオルにべったりと血がついている。
――狂戦士。
実は自覚していた。
黒騎士として仮想世界でずっと戦い続けてから、自分が“切れる”人間になっている様な気がする。
理性で抑え込んでいるが、自分の心の中に獣の様などす黒い生き物がいて、時々リミッターを外そうとするのだ。
いつも気丈な夏木がすっかり青ざめていた。
「軍? この人たち、看護師じゃないってことね? 一体誰? 何の目的で?」
「今日は、美人副師長。お久しぶり、かな?」
風谷はヘラヘラと笑った。
「こ、こんにちはって……」
「こいつらは第七空挺部隊の片岡さんと佐々木さんだ。黒江先生の奥さんを誘拐しに来たのさ。こっちの方は顔がぐちゃぐちゃで確認が取れないけど」
「うわっ。先輩、それは機密でしょ」
「いいじゃねえか。こいつら、脳みそを操られてるって自覚がまるでないし」
「操る……サマエルに?」
「そうだよ、先生。現実世界に干渉して来てるんだ。列車事故の原因は聞いたか?」
「いえ」
「GPS付チップを埋め込まれた徘徊老人が線路に突っ込んだよ」
重度の認知症の患者は徘徊の危険がある。かといって施設に閉じ込めておくのは非人道的だと、十年ほど前からマイクロチップが埋め込まれている。
離れていても場所や健康状態が把握でき、薬物の投与までしてくれるのだ。
「奴はデバイスさえあれば、脳内ホルモンとかのコントロールができる。おそらく、先生の奥さんの搬送先は横田基地だ。オスプレイ改とC5輸送機の変な動きがある」
「在日米軍ですか?」
「奥さんの脳を確保してワシントンの那由他級コンピュータに接続する気か,それとも福島の新しい由旬サーバで電子人格を保存する気か」
「……いまだに信じられません……それに」
「それに、そうだよな。あんたにとっては奥さんに目覚めて欲しい、それだけだ。でも、今やそれだけじゃねえ。これは奴と俺たちの戦いさ」
「人工知能と人間の戦争……SFみたいで、実感がない」
「ちょ、ちょっと、何言ってるの?」
夏木には全く理解できなかった。
「そうだわ。け、警察を呼ばなくっちゃ」
「警察は無しでお願いします。これは、防衛省管轄の事案として軍警備部が処理しますので」
「そんなこと言っても……」
「ご迷惑をかけてすみません。これ、皆さんで召し上がって下さい」
千々和は頭を下げて大きめの菓子折りを渡した。
迷惑、というよりも院内で発砲騒ぎなど前代未聞だ。
「ありがとうございます……って、調子が狂うわ」
突然訪れた非日常の世界である。ついていけない。夏木は首を振った。
「この病院は緊急閉鎖する」
「緊急閉鎖!?」
「内部からな。この杜撰な誘拐がまず失敗したんだ。この後おそらく本格的に武装して奪いに来るぞ」
「は? 武装?」
「防火シャッターを閉鎖して、籠城します。システムはもうこちらで掌握させて頂きました」
「病院ジャックじゃない!」
目を白黒させた夏木の声は完全に裏返っている。
千々和が申し訳なさそうに手に持っていたアタッシュケースの様な箱を撫でた。
「唯さんと、そして皆さんの安全のためです。交通事故も列車事故も、暴走した人工知能が関与しています」
「人工知能に洗脳――あるいは心酔した官僚と軍人の一部が実力行使に出たのさ」
「先輩! それ言っちゃまずいです!」
「まずいも何もあるかよ。奴らの標的はシノノメなんだぜ」
黙って止血していた黒江の目が、獣のようにギラリと光った。
「とにかく、今日――先生の参戦とシノノメの戦いが、世界の命運を変える。全ては、この極東のベッドで眠る彼女――東の主婦にかかってるんだよ」




