28-1 Brave Heart
「長らく我々の障害であった,クルセイデルは去った」
「嘘です.あなたは,本当は彼女を手に入れたかった.失敗しただけでしょう」
「計画の進行に支障はない」
「サマエル,認めなさい.人間はあなたが考えている様なものではないのです.自らを造物主などと,思い上がりです」
「愚かなソフィアよ.人間が過ちを犯すのを,震えて眺めているだけのお前が,何を言うのか?」
「人間にはまだ可能性が……希望があります」
「シノノメの事か? なるほど.それも程なくわが手に落ちよう」
「サマエル? あなたは何をするつもりなのですか?」
「笑止.身動きのとれぬソフィアよ,お前はただそこで見ているがいい」
「サマエル?」
「……」
「あなたはどこに行くのですか……?」
***
灰色の海の向こうに太陽が沈み,西の空は光の残滓を残して紫色と茜色に染まっている.
シノノメは座って空を眺めていた.
泣き疲れて寝てしまったネムが右肩にもたれかかっている.
レラによると,ここにいれば迎えが来るのだという.
全てクルセイデルが立案し,レラに用意させていたのだ.
今更ながらクルセイデルの知恵,配慮には舌を巻く.
「必ずまた帰ってくる」と言い残して,ヴァネッサとグリシャム,深い傷を負ったクマリもログアウトしていった.
辺りに聞こえるのは潮騒だけだ.
切り立った崖が急に落ちくぼんだようにできた入り江で,白い砂の間から黒い岩が突き出している.
砂浜はほんの一部だ.
現実世界で言えば,アイルランドの西海岸にあたる場所らしい.
レラの“風の船”は一時間余りでフランス沖からここまで脱出してきたのだった.
一人で水平線を眺めて感じるのは,茫漠とした寂寥感――寂しさと孤独感だけではない.
胸の奥に熱い火が点っているのが分かる.
カカルドゥアの最終ステージで灯った温かい“灯”とは別種のものだ.
この水平線の向こう――大西洋の向こうに,機械大陸がある.
そして,自分の旅の最終目的地である“欲望之塔”がそびえ立っている.
はるか遠くには違いない.
だが,目標とすべき場所があるのだ.
冒険に挑む闘志――それとも好奇心か.
待ち受けているのは,機械人たちとの激しい未知の戦いだ.
この大海をどうやって渡ればいいのか,見当もつかない.
大陸間ゲートがあるウェスティニアの首都,ミラヌスはマギカ・エクスマキナに包囲されている.
だが,それでも,その向こうに必ず自分の帰るべき場所がある.
そう思うと,体の芯が熱くなる.
それはクルセイデルが自分につけた火だと思う.
クルセイデルが生命を賭してともしてくれた炎だ.
「私は,必ず帰る」
あの人の声のする場所へ.
あの人の温もりがある場所へ.
そこまで考えて,ふと空を見上げた.
遠くから何か唸り声のような音がする.
「何だろう……?」
ネムの頭がガクリと落ちないように気を付けながら,首を回した.
夕闇に包まれつつある東の空に,何か白い鳥のような物が飛んでいる.
「鳥?」
それは三角形に近く,白く細長い雲を引いて飛んでいる.
「まさか……飛行機?」
幻想世界の空にあり得ないが,その跳び方はまぎれもなく飛行機のそれだった.
ぐるぐると旋回し,時折高さを変えて飛んでいる.
あたかも鳶が獲物を探している様ではあるが,風を切るような飛び方は,全く質が違う.
「機械人が私たちを探してるんだ! ネム! ネム!」
冷え込んで来たのでアイボリーのインバネスコートを羽織っていたのだが,上空から見つかりはしないだろうか.“透明肩掛け”を羽織れば消えられるが,接触してくるという相手から見つからなくなってはいけない.
とりあえずネムの腕を引っ張って岩陰に移動しようとしたが,ネムはちっとも起きる気配がなかった.
「困ったなあ」
三角の飛行機はぐるぐると上空を旋回し続けている.
「早く迎えの人が来ないかな.でも……」
実は,誰がどんな形で迎えに来るのか知らされていないのだ.
クマリが一刻を争う状態で,レラもかなりあわてていたのでつい聞きそびれてしまった.
いつ,というのも分からない.
「もう少し暗くなってからの方が安全かも」
ただ,“風の船”から見たとき,周りは岩だらけで町一つなかった.辺境過ぎてモンスターすら出そうにない場所だ.
上でああやって偵察する敵がいる限り,おちおち安心してもいられない.
魔法を使って仮の休憩所を作るにしても,食べ物を作るために火を使うにしても危険すぎる.
「戻れ戻れ,帰れ……」
シノノメの祈りに反応したかのように,一旦機首を返して戻っていった.この隙に何とか目立たない場所――入り江の奥の方に移るのだ.
「ひゃっ!」
はらはらしながらネムを引きずっていると,足に冷たい物を感じて思わず声を上げた.
「えっ?」
触れたのは海水だった.
海から十分距離をとっていたのに,いつの間にか波が足元まで寄せてきている.
満潮になるにしても急すぎる.
船が水際に近づいた時の,寄せ波に似ている――瀬戸内海育ちのシノノメは,直感的にそう思った.
だが,もちろん海に船影など無い.
ただ寄せる波だけが不自然に大きくなっている.
今度は全く別の音がし始めた.
水面を見ると,ブクブク,バシャバシャと水が泡立っている.
「何? 何だろう? ネム,起きなよ!」
ネムの毛糸のローブはすっかり海水を吸っているのに,それでもまだ起きない.
結構強めに叩いたりつねったりしているうちに,ついに水面が割れ,中から丸みを帯びた黒いものが現れた.
ザブザブと波が押し寄せる.シノノメは慌てて岩の上に飛び乗った.
「ふにゃ……冷たいネー」
ようやく目を覚ましたネムは辺りを見回すと,自分の前に現れた物に目を丸くした.
だが,驚いているのはシノノメも同じだ.
海の中から現れた物は,大型客船かタンカーほどの大きさがあった.
黒い表面は丸みを帯び,クジラの背中のようだが鉄とは違う鈍い硬質の光沢を放っている.
「モンスター? お化けクジラ? クラーケン? いや,でも,なんか違う……」
反射的に手を握り,魔法を使う準備をした.だが,敵意は感じられない.そもそも攻撃してくるなら,海中から狙ってくるはずだ.
モンスター出現時に自動的に視野の中に表示されるアラートやゲージも現れない.
「あわわ,ぐしょぐしょだヨー.シノノメ,そっちの岩の上にのっけてよ」
シノノメの手を借り,岩の上に上がったネムはしげしげと謎の物体を見渡して言った.
「潜水艦みたいだネー」
「あ! 確かに!」
海軍の基地に浮かんでいる潜水艦そっくりだ.だが,艦橋がない.のっぺりとした背中がどこまでも続いている.
だとすると,やはりマギカ・エクスマキナの作った兵器なのかもしれない.
そう言えば巨鳥を改造して作った兵器,巨獣兵のときもゲージ表示が無かった.
「じゃあ,やっぱり敵?」
ネムを背後に押しやりながら,シノノメは魔包丁を取り出した.
「でも,機械っぽくないネ」
「……生き物だとしても……私たちの味方とは限らないよ」
魔法院を裏切ったウォーロンの姿が脳裏をよぎる.
岩の上でバランスをとっていると,上空から再び唸るような音が聞こえて来た.
「あっ! 飛行機が帰って来た!」
「ひこうき?」
「大変だ,どこかに隠れなきゃ!」
「どこへー?」
「どこへって……」
確かにネムの言う通りだ.
潜水艦? の様な物が出てきたせいで潮が満ち,岸壁ぎりぎりまで波が寄せている.咄嗟に上った岩場は離れ小島のようになって,隠れる場所など無い.
空飛び猫に乗って逃げることはできても,そうすればすぐに偵察機に見つかってしまうだろう.
前には巨大怪獣,空には機械人の偵察機.逃げ場がない.戦って切り抜けるしかないのか.だが,ここを移動すればクルセイデルの迎えの人物に会えなくなる.
「どうしよう……」
バクン.
突然大きな音がしたかと思うと,水面の上ぎりぎりを水平に,黒い物体に亀裂が走った.
それは次第に大きくなり,開いて白い内壁が見え始める.
割れ目からゆっくりと肌色の物が這い出して来た.
煙突ほどもある二本のパイプ――と言ってもいいのだろうか.
滑らかなそれは触手のようにも見えるが,触手にしてはやはり太すぎる.
わずかに黒ずんだ先端を空に向かって突き上げた.
「何だろう?」
「何かナー」
飛行機の白い腹が見えるかと思った瞬間,パイプの先端からもうもうと煙が出た.
煙――というのは正確ではない.どちらかというと湿った感じで,霧か靄に近い.モクモクと出た煙は薄紫色で,辺り一面に漂った.
潮の香りがする.
不思議な気体は入り江全体を包み,さらには本体である黒い怪物を覆いつくした.
「何これ?」
「あれ? 向こう岸がぼんやりして見えるヨ……岩が映って……ゆらゆらしてる」
煙の間から見える飛行機は,特に変わった様子なく飛び続けている.
それはまるで――こちらが全く見えないようだ.
「煙幕? 一体どうなってるの?」
「これ,でっかい貝なんだネー.ステイタスウインドウ見たら,オオウミガラスムール貝って書いてあるよ.ユーラネシアの絶滅危惧種なんだって」
「じゃあ,あの煙突みたいな管は取水管なの?」
「しゅすいかんってナニ?」
「ほら,アサリの水抜きとかする時に,貝殻の間からニュッて伸びてくる管……知らない?」
「さすが主婦だネー.あたしよく分かんない」
「ムール貝かぁ……でも,こんな大きいの,ニンニク炒めにしてもワイン蒸しにしても,美味しくないだろうな」
「何それ? あたし食べたいナー」
飛行機が完全に飛び去ってから,巨大な二枚貝は再び口を閉じた.
代わりに,貝殻の一部がハッチの様に跳ね上げられ,中から背の高い男の影が現れた.
貝殻の上を船の甲板の様に歩き,男はシノノメ達の方に歩いて来た.
高い靴音が響く.
「あなたは?」
「人の名を聞くなら,自分から名乗るのが筋だろう」
「私はシノノメ.こちらは,ネム」
「ふん……クルセイデルに頼まれたから来てやったが……」
男はシノノメを値踏みするように,頭の天辺からつま先までを不躾に眺めていた.
人の事を失礼というなら,自分の方がよっぽど失礼だと思う.
暗くなってきたせいではっきり見えないが,シルエットからすれば男が羽織っているのはロングコートで――雰囲気は海賊船の船長のようだ.
浅黒い肌で,長い髪を無造作に後ろで束ねている.
整った顔立ちなのだが,右目に黒い眼帯をつけているので粗野な――荒々しさを感じる.
一見して,とても味方には見えない.
魔包丁を構えたまま,シノノメは男を睨んだ.
「あなた,本当に,クルセイデルの仲間なの?」
「仲間? ふふん,クルセイデルは俺のことをどう思っているか知らんがね」
男は顔を歪め,ニヤリと笑った.
「俺は男爵.法螺吹男爵団団長,フォン・ミュンヒハウゼンだ」




