27-17 リリスの微笑
シノノメが見回すと,機獣人たちはバラバラになって地面に倒れていた.
訳の分からない状態だったが,何とか退けたと言っていいようだ.
だが,正門を塞いだ土鍋が大きな音を立てて震動している.
門の鍵は見つからないし,あっても閉め方が分からない.
一際大きな爆音がした.
ミサイルや大型の工具を叩きつけているのかもしれない.
機獣人たちが土鍋を壊して中に入ろうとしているのだ.
所詮は一時しのぎのバリケードだ.
あまり時間は無い.
崩れたテラスの石材の中に人の気配はない.アドルファスは押し潰されてログアウトしてしまったようだ.
「そうだ,大変!」
アスタファイオスはどこに行ったのだろう.
工房の方を見ると,彼が乗っていた輿を付けた機獣人が地面に転がってもがいていた.
ウォーロンの魔法を跳ね飛ばしたときに巻き込まれたらしく,焼け焦げたチューブや電線が本人に絡まっている.
「一緒にやっつけたのかな……でも」
そんなに簡単に倒せる相手でないことは,良く知っている.
闇の工房は大きな玉ねぎのような形をしていて,先端からは相変わらず白い煙が噴き出していた.
煙が黒に変われば,準備完了,魔法院の封印が完成するとエマは言っていた.
木のドアはもちろん中から鍵がかかっている.
丈夫そうなドアだが,地面との間に1センチほどの隙間がある.
「もしかして……」
あることに気付いた瞬間,その予感を裏付けるように悲鳴が響いた.
「きゃああああ!」
窓に内側から液体がふりかかる.
バケツの水をぶちまけたように大量だが,血液以外の何があるだろう.
「ひいっ!」
「こいつ!」
ガシャン,バリン,と室内から激しく争う物音がする.
「やっぱり!」
シノノメはドアノブを懸命に回そうとしたが,びくともしない.
「ドアの隙間から入り込んだんだ!」
アスタファイオスも液状金属の身体だとしたら,そうするに違いない.
「黒猫丸!」
魔包丁でドアノブごとドアを切り抜くと,シノノメは工房の中に飛び込んだ.
二人の魔法使いが倒れている.
二人ともピクセル状になって今にも分解されていくところだった.
お腹や背中にグズグズになった穴が開いている.
あまりのむごさに思わず目を背けると,天井からは壊れたパイプが垂れ下がり,丸屋根を支えていた梁が折れて崩れている.
パイプからは黒い煙が漏れ,宙に溶けるように消えていた.
「これは……?」
工房の真ん中には円形のプールのような物があった.
ただ,中に溜まっているのは水ではなく,黒い靄とも液体ともつかない物質で,ところどころが星の様に光を放っている.
夜空を円形に切り抜いてそこに浮かべたような――あるいは,頭の中でイメージする“ブラックホール”が屋内に出現したような,そんな不思議なものだった.
「きれい……」
こんな時だが,思わずつぶやいてしまう.
「そうだ,アスタは?」
よく見ると,反対側の壁にすがるようにしてリリスが立っていた.
足元にはバスケットボールほどの大きさの,黒い丸い穴が開いている.
リリスはその小さな穴を睨んでいたが,やがてその穴が小さくなって閉じてしまうのを見届けると,力尽きたように崩れ落ちた.
「リリスさん!」
ぐるりと黒いプールを回り,シノノメは駆け寄った.
「シノノメ……」
青白い顔色も,淡々とした表情もいつもと変わらない.
「大……」
大丈夫,と言いかけて息を呑んだ.
身体の正面側こそ目立った怪我は無かったが,背中はズタズタで壁には擦り付けたような血痕が続いていた.
彼女のローブが黒に近い深紫色なので,体についた傷が分かりにくいだけだったのだ.
「アスタは?」
「アスタ……銀髪の少年なら,何とか,幽界に繋がる闇の穴に突き落としたわ」
「あいつはメムのまとめ役なの」
「そう……我ながら健闘したということね」
ほっとするようにリリスは一度深い瞬きをした.
「痛むでしょう? 早くポーションを飲んで,回復して」
シノノメは治癒薬を取り出してリリスに渡した.
リリスは無表情にそれを受け取って口に運んだが,震える唇からほとんど零れ落ちてしまう.
「ありがとう」
黒いルージュのついた飲み口を拭うと,リリスはシノノメに返した.
「弾丸状にした銀の身体の一部を撃ち込まれたの.散弾銃みたいに……もう助からない」
激痛が体を襲っているに違いないのだが,それでもリリスの表情は変化しない.
「そんな……」
我慢強いのだろうか.それとも,痛みなど感じないとでもいうのか.
普段からリリスは表情に乏しく,何を考えているのか分からないようで苦手だった.
だが,こんな時すらその表情が変わらないことに,シノノメは違和感と――そして,親近感を感じた.
「……私の表情が変わらないので,変なのでしょう」
リリスは黒いアイラインに囲まれた眼を動かし,シノノメを見た.まるで人形の様だ.
「私には……できないの.感情の表出が」
「え?」
「感情を結び付ける表情……ある感情を抱いた時に,どんな顔をすればいいのか分からないの」
「それって……」
シノノメはかつての自分を思い出した.
記憶が欠け,感情が欠け,反応するだけでコミュニケーションが取れなかった頃の自分だ.
「だから,私には分からないの.他人が笑っているとき――どんな気持ちでいるのか.その表情でいるとき,どんなことを考えているか」
激痛に耐えているとは思えない黒い唇が静かに動いている.
「高次脳機能障害……現実世界で人間関係がうまく作れず,トラブルを抱えていた私は,魔法院に来て,みんなが嫌う闇の因子の研究に没頭した……見て」
黒いプールを指さした.
「すごくきれいだね」
「……そう,思う? あの中には,人の欲望や感情のもっと原始的なもの……全てを生み出す感情とも言えない原初の心と,生まれる前の物質が身を寄せ合いながら,時々輝き,深い闇の中に眠っている」
リリスは目を細め,どこかうっとりするような口調で言った.
「きれいだよ」
「ありがとう……クルセイデル様も,そう言って下さった.こんなに色々な物が欠けている私でも,あれが美しいと思える……私は決して欠陥人間ではないとも……」
「私も同じだよ」
「?」
リリスが首を傾げる.それは彼女にとっては,“疑問のある時にするべき仕草”として習慣化された動作なのだ.
「私も沢山欠けているものがあったの.人の気持ちなんて分からなくって,名前も覚えられなくって……」
「そう……」
「知らずに人を傷つけていたんじゃないかって,今でもその事を考えると悲しくなるよ」
「……悲しく,なる」
「この世界は,そんな欠けてしまったものを埋めてくれた,大事な場所なの.でも,今大変なことになってる……」
「大事な場所……帰るべき場所……心の拠り所……」
瞳孔が開き,光を失いかけていたリリスの目に,再び強い光が宿った.
「私は,私たちは……守らなければならない.クルセイデル様を,魔法院を,この世界を……」
震える膝にすがるようにして,リリスは再び立ち上がった.
「リリスさん?」
リリスは天井を睨んだ.
「闇の因子を上層に循環させる魔法炉は壊されてしまった……もう,封印はできない」
「えっ!?」
その時,一際大きな爆音が響いた.
シノノメは慌てて窓にとりつき,外の様子を窺った.
「あっ!」
沈黙していた空中戦艦から,再び艦砲射撃が始まっていた.
魔法障壁にぶつかって砲弾は跳ね飛ばされているが,様子が違う.
ドカン,という音と腹を揺さぶるような震動が響いた.
「いけない!」
銀色の樽型の物体が,魔法院の正門に突き刺さっていた.
それは巨大な円筒状のコンテナだった.
先端がパカリと開き,中から黒い軍服を着た兵士と,それに従う歪な機獣人たちがぞろぞろと出現する.魔法院の前庭に侵入すると,突撃銃を構えて走り始めた.
彼らがまず真っ先に始めたのは,外壁の爆破だ.
爆弾と思しき四角いものを取り付けると,次々と着火する.
魔法障壁は当然の様に,内側からの攻撃には無効なのだ.
「た,大変だ! 侵入されちゃった!」
「防壁が完全になくなるのも,時間の問題……」
リリスは壁に縋りつくようにして立つと,口から血を吐いた.
「リリスさん!」
シノノメは体を支えようとあわてて駆け寄った.
「もうすぐ奴らがここまでやって来る」
「私,戦うよ」
「いいえ,駄目.……あなたは,私たちの希望」
リリスは右手を差し上げ,通信ソフト“メッセンジャー”を立ち上げた.
「クマリに連絡するわ.プランBでいくように」
「プランB?」
「クマリは……あの人は,大地の様におおらかで,でも,単純すぎる.私はクルセイデル様の意図を悟って,進言していたの.了承されたわ」
「リリスさん,じゃあ,ここから一緒に逃げよう.落ち着いて治療する場所があれば治るよ」
こんな状態でログアウトすれば,どんな脳機能の障害を起こすか分からない.
もし出来るならばだが……仮想世界のアバターを治療しておいた方が良い.
もしかしたら二度と仮想世界に戻れない状態――最悪,昏睡状態や,脳死が待っている.
「それは,無理でしょう.自分でもわかる.でも,あなたは……」
リリスは無表情のまま,黒い杖を取り出して壁に向かって振った.
「暗黒門」
ちょうど人一人分ほどの黒い穴がぽっかりと口を開いた.
「……あなたは,絶対に彼らにつかまってはいけない」
「あなたは,私のことを知って……?」
「いいえ.でも,クルセイデル様がそうおっしゃった.それは私にとって絶対」
リリスはシノノメの身体を押し,穴の中に入るように促した.
「でも……」
「シノノメ,行きなさい」
シノノメの身体が背中半分ほど黒い穴の中に浸かる.
「その穴は,クルセイデル様の所に繋がっている」
「リリスさんは……」
「私のこの魔法は,一人しか通り抜けられない.それに……奴らを,少しでも何とかしてみせる」
リリスは黒いプールにちらりと視線を送った.
外の銃声と怒声が次第に近づいて来る.
魔法院は城塞都市の構造をしている.銃弾をばらまき,威嚇しながら奥へと登り進むつもりなのだ.
「そんな,一人で……」
逡巡するシノノメを,リリスは突然抱きしめた.
「あなたが私のことをどう思っているか,私には分からない.でも,あなたは私の魔法を美しいと言ってくれた.私は,あなたが好き.あなたの魔法が好き」
身体を離したリリスは,それでも無表情のままだ.
「リリスさん……」
「行って」
シノノメは闇の向こうに一歩後ずさりした.身体が闇に沈んでいく.
「突入!」
ドアを蹴り破る音と,同時一斉射撃の音がした.
身体に銃弾が当たったらしく,リリスの身体が大きく揺れた.
「あっ!」
黒い軍服を着た兵士が五人,隊列を組んで突入してきた.
規律の取れた突撃姿勢で,中に入った時にはすでに銃口が四方を向いている.
「いたぞ! 五大の魔女と,シノノメだ!」
シノノメの身体を隠すように,リリスは振り返った.
闇の素子が詰まったプールに向かって杖を振る.
闇が溢れて広がり始める.
工房に飛び込んで来た兵士たちはたたらを踏んだ.
静かな水面の様に広がった黒い空間はたちまち足を飲み込み,泥沼の様に兵士たちを吸い込んでいく.
「うわっ! 何だこれは!」
「飲み込まれる!」
「馬鹿っ! アスタ殿に注意された,闇魔法だ!」
「リリスを殺せ!」
闇に囚われながら,メムの兵士がリリスに向かって発砲した.
錯乱しながらろくに狙いも着けずに振り回すので,ほとんど乱射である.
天井を,床を,壁を跳弾がはね跳び,リリスの細い体を銃弾がえぐる.
「リリスさん! 早く! ログアウトして!」
シノノメは思わず飛び出そうとしたが,口から血を吐いたリリスが押し戻す.
すでに声が出なくなった唇で,リリスは囁いた.
「あなたのポップコーン……本当に,美味しかった」
そして,シノノメの身体はそっと闇の中に押し出された.
最後に見たリリスの口元は,確かに笑っていた.
明日に続きます。