27-5 孤高の語り部
片瀬涼香は沈み込むように自分の椅子に座ると、大きく一つ伸びをした。
右手前のデスクで端末を操作していた男が、苦笑する。
「局長らしくないですね」
「そうかしら? 武内君」
武内は立ち上がると、部屋の隅に設置されたコーヒーメーカーを操作して、カップを持ってきた。
「カプチーノでよろしかったですね。こういう時は」
「ありがとう。グッドモーニング」
片瀬は薄い唇を動かして微笑を作ると、武内からカップを受け取った。
カプチーノは本来、朝の飲み物だ。すでに夕方を過ぎて夜になろうとしている。
「みんなは?」
「半分は帰りました。半分はマグナ・スフィアに潜って状況を精査中です」
泡立つクリームを唇につけながら、片瀬はコーヒーを飲み込んだ。
形の良い喉元が上下するのを確認してから、武内は口を開いた。
「かなり絞られましたか? 上は何と?」
「老人連中と軍人は単なるパニック。突然起こった事態に対処できなくて、思考停止に陥っている」
「やはり……」
「移住者の電脳は保存しているわけだし、彼らの異世界生活が無くなったからといって何が変わるわけではないのだけれど」
「水爆には確かに驚かされましたが……ドローンの頭脳にも福利厚生が必要だと考えているんでしょうか? 人道主義ですね」
そう言うと武内は自分のカップを傾け、ブラックコーヒーを一口口に含んだ。長身で肩幅が広く、ダークスーツが良く似合っている。
「再生するための“学院の大聖堂”が無くなっただけで、新たなシステムが予定通り――若干早まったにせよ――出来たに過ぎない。二時間ほど同じ説明を繰り返させられたわ」
「仕方がないでしょう。現実世界の彼らも、あなたにとっては所詮物語の登場人物。物語の語り部たる貴女の計画など、理解できるわけがない」
「このまま生活困窮者自立支援制度の一環として、仮想世界は動いていく。もうそれは既定路線。北欧の高福祉国家はもっと積極的だし、合衆国はあふれた刑務所の代わりに、とっくの昔から使っている」
「欧米人はマイクロチップの埋め込みに抵抗がありませんでしたからね。厚生労働省の様に、医師法だの、薬事法だの五月蠅いことを言う連中が少なかった。おかげで、ハードウェアの先進国である日本が、むしろ後れを取ってしまいました」
「デミウルゴスの思想が静かに浸透していく――生体チップと、VRマシンを通じて。人間は刺激と環境に制御されやすい、弱い生き物ね」
「ホルモンと神経伝達物質の濃度によって、自分でも知らないうちに、異世界を希求し、現実世界を嫌悪する情動が出来上がっていくのですね」
「マスコミも煽っているでしょう?」
「それもあります。理想の世界に転生――大富豪のみに許されていた永遠の命を得られる特権を手にしよう――」
「まるで、旅行ツアーの宣伝ね。テレビだとかネットだとか、日本人は大多数の意見になびきやすいから」
「我々としては、簡単でもありますが」
「で……個人主義の国、中国の、例の案件はどうなったの?」
「情報局によると、軍閥の強硬派とテロリストの両方が病死したそうです。あと、エクアドルとソマリアでも」
「実際には?」
「“続く戦いに嫌悪感を抱いた”腹心の部下が殺害」
「そうして、世界は平和になっていく。でも、平和になれば――八十億の人口を支えるキャパシティは、この星にはない」
「異世界移住ですね。仏教の解脱の様に――」
「新たな六道輪廻に転移するだけかもしれないけれどね。阿修羅の様に、永劫の戦いに身を投じる者もいるのだから」
「しかし、餓鬼のように飢える人はいなくなる。そして、この地上で罪を犯す事はない。全ては電脳の中の出来事だ」
「福島のテラ・サーバも完成したし、由旬システムの処理能力なら、全世界の半分――いいえ、それ以上が収容できる」
「平和を愛し、現実世界に意味を見出す者は現実世界に残り、そうでないものは創造主の作った新たな天地で生を営む」
「詩的ね」
「汚濁にまみれた政治家や、愚鈍な官僚と対峙しなければならない貴女ですが……僕にとっては、せめて詩的であって欲しいのです」
武内は熱の籠った眼で片瀬を見た。
「私が……詩的ね、ふふ。現実世界の弱者を切り捨て、洗脳し、人工知能に要人暗殺をさせているのに?」
片瀬は椅子から立ち上がると、机の角に腰を乗せて苦笑した。すらりと伸びた背と脚が美しい。
「局長の理想には感銘しています。国民……いえ、人類はもう限界です。人工知能による緩やかな管理社会が望ましい」
「私は……人工の造物主に、人類を売り渡す悪魔かもしれない」
「そんなことはありません。この二年間で、どれだけ紛争が激減したことか。それは、水無月氏のしているような、きれい事のアプローチで解決するのは無理です」
「水無月十二華か……」
「局長はお知り合いで?」
「ええ、現実世界で何度か会ったことがある。あれほど賢く、そして純粋な人は見たことが無い……私には、ああはなれない。どこかに嫉妬を感じているかもしれない」
「マグナ・スフィアへの絶大な干渉力――影響力を持ちますが、それももうすぐ終わるでしょう」
「そうね……どこかしら、残念な気持ちもあるのだけれど。少なくとも、あの空っぽの主婦よりはずっといい」
「局長が嫌っておられる東の主婦……サマエルは未だに彼女の正体を掴めないのですか?」
「ソフィアがブロックしているらしいけれど、常に回答が曖昧ね。……誤魔化されている様な気もする」
「人工知能が嘘をつくと?」
「彼らもまた、人格であるからには――全面的な信頼はできない」
片瀬は唇を噛み締めた。カカルドゥアで裏切られた経験を思い出したのだ。
「貴女は孤高の人ですね」
「孤独なだけかもしれない」
「僕も安曇も、局員は全員あなたを尊敬しています。いえ、僕は誰よりも」
武内は感情を押し殺した声でそう言うと、片瀬に近づいた。
片瀬は女性としては、身長は高い方だ。さらに、七センチのヒールのある靴を履いている。それでもなお武内の方が背は高い。片瀬は自分より年下の部下を見上げると、ふっと笑った。
「ありがとう」
「僕は……あなたの力になりたいんです」
そう言うと、武内は一歩近づいた。
「ありがとう、武内君」
片瀬はそっと武内を抱きしめた。
「あ……」
唐突な片瀬の行動に、武内は抱きしめたいという衝動を実行に移せなくなっていた。ふっと片瀬の髪から芳香が立ち上り、武内の鼻腔をくすぐる。
ほんの一瞬。
香りを残像にするようにして、片瀬はすぐに体を離した。
「おやすみなさい。お疲れ様。明日もよろしくお願いします」
そう言われると武内はぎくしゃくと体を動かし、頭を下げて部屋を出て行った。
ドアが閉まる音を聞いてから、片瀬は身を返して窓の方に向かった。
ブラインドを曲げて外を覗くと、雨に濡れた霞が関の官公庁街が見える。
武内は忠実な部下だ。総務省のこのプロジェクトが始まってから、手足になって働いてくれている。自分の理想と信念を理解してくれていると思う。そして、彼が自分に向ける感情が、尊敬だけではないことに気づいている。
「でも、そのあなたの想いもまた……作られたものかもしれない」
涼香はそっとつぶやいた。




