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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第26章 世界の浸食
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26-14 エピローグ:現実世界の片隅で

「そんなことがあったのか……」

 塚原セキシュウは膝の上に置いた手を握りしめた。


「どうも、本当にすみません……これまで黙っていて」

 塚原の前に座った黒江は、深々とこうべを垂れた。


「いや……それは、話してもらっていたとしても、にわかには信じられまい」

 塚原は嘆息しながら、天井を見上げた。


 二人がいるのは病院の小さな倉庫で、使われないリネン類が積み重なった、埃っぽい部屋だった。

 黒江はついに、自分が知った事実を塚原に打ち明けていた。

 欲望の塔の頂点に立った時、ソフィアと名乗る人格が現れ、自分の希望を叶えてやると言ったこと。

 ゆいが現実世界に帰る――目覚めるために、彼女の物語シナリオに乗るように強いられたこと。

 その物語とは、幻想世界ユーラネシアの頂点に立ったシノノメが、黒騎士と最後の戦いを繰り広げ、勝利するというものであること。

 それにより、悪しき人工知能“サマエル”が滅びること。

 ソフィア――仮想世界マグナ・スファイアの主から、ずっと口止めされていた内容だ。


「それより良く話してくれた。いろいろと力を貸せることもあると思う」

「ありがとうございます。そして、すみません、こんなむさくるしいところで」

 黒江は再び頭を下げた。


「いや、これで良い。奴の目はどこにあるか分からないからな。私もこの前、時計を昔に買った物に戻したばかりだ」

 そう言って塚原は左の手首を押さえて見せた。アナログの機械式腕時計がはまっている。携帯端末内蔵のスマートウォッチよりもはるかに高価な品だ。

 造物主デミウルゴスを名乗る人工知能“サマエル”は、世界中にネットワークを張り巡らし、どこからでも人間を監視している。

 VRシステムを利用した洗脳や、危険人物の暗殺、はては群集心理の誘導まで行っている可能性が高い。

 用心に越したことは無かった。


「私も……病院の業務があるのでマズいんですが、携帯端末を病棟に忘れたことにしています」

「それが賢明だ」

ゆいは……しばらく休眠状態になりそうです。仮想世界といっても、核爆発を止めようとするなんて、なんて無茶を……」

「だが、彼女らしいと言えば、彼女らしい。彼女の友人たちは、そんな彼女に惹かれているんだ」

 塚原は微笑した。

「しかし、これまでとは様子が違うようだね。仮想世界の中でフェードアウトしてしまうのでなく、向こうにアバターが残って眠る形をとっている。こちらでも向こうでも眠っているというのか……」

「以前の様に消失してしまうのでないのが、まだ救いです。彼女の自我が確立され、確かなものになっているという証拠だと思います」


 塚原は笑顔を仕舞うと、重い口調で口を開いた。

「……話を元に戻していいか? ソフィアが“欲望の塔”の頂上で、君に話したという事実に」

 黒江は白衣の前ボタンを外して頷いた。

「はい」


「単純と言えば単純な筋書きだな。人間の欲望の集積――悪の世界最強の魔王――黒騎士ダーク・ナイトが、人間の空想力の世界――善なる世界の勇者――シノノメと対決して、その勝者に仮想世界マグナ・スフィアの行く末を決めさせる」


 ソフィアとサマエルが、各々の理念をプレーヤーに仮託して勝負させる――賭けをするとでもいうのだろうか。


「シノノメはマグナタイトのナイフを持っていますしね。無敵の装甲、マグナタイトを壊せるものはマグナタイトだけ。聖なる剣で魔王を殺す、これもよくあるシナリオです」


 旧約聖書のヨブ記にある、神と悪魔の賭けにも似ている。

 ゲームにしても使い古された――言ってみれば、陳腐な筋書きであるようにも思える。


「どちらも人工知能に欠けた能力の代表というわけですね。欲望――これは、知識欲に限ってはあるのかもしれませんが、人間の欲望というものは基本的に五感と関連しているものですから」

「ああ。睡眠欲や食欲、性欲は身体の存在無くてはあり得ないし、名誉欲や財欲は社会とのつながりが無ければあり得ない」

 現実世界に実体の無いサマエルにとって、金銭など関係あるはずがなかった。


「そして、空想力も。人工知能が小説や絵を作成しますが、あれは結局これまであるパターンを組み合わせたもので……」

「その通りだ。全くの無から有を作り出す、人間の発想力には劣る。だからこそ、クルセイデルの創造魔法や、シノノメの突拍子もない発想には、耐え難い憧憬どうけいを感じるのだろうな」


 シノノメの脳は、言ってみれば人工物と人間のハイブリッドである。

 人工知能にとっては、一つの理想の姿なのかもしれない。


 塚原は頭の中で、これまでのサマエルの行動を反芻してみた。


 宮廷道化師ヤルダバオートを名乗って接近してきた姿。

 カカルドゥアの宗主――アドナイオスとナーガルージュナとして導いていた姿。

 敵として直接的に取り込もうとしていたかと思うと、友愛をもって接近してくる。

 ある意味、ヤルダバオートのやり方は単純だ。シノノメを倒し、シノノメの精神を我が物にしようとする方法だ。

 逆に、ナーガルージュナやアドナイオスは、“悪しき”サマエルの一部とはとても信じられない存在だ。

 その善良さゆえに、シノノメと敵対することは無かった。

 しかし、その結果はどうか。

 シノノメは彼に導かれて敵に対峙し、彼と一体化してしまった。

 ナーガルージュナはシノノメの経験や記憶を再構築したらしい。

 唯の怪我の事を想うと、ありがたい事ではある。

 だが、見方を変えれば、それはシノノメがナーガルージュナに取り込まれたと言えはしないのか。

 サマエルはありとあらゆる手で、シノノメ――唯の精神を手に入れようとしている。そう考えると、腑に落ちる。


「しかし、だとすると、最終決戦の結果は分かり切っている――サマエルの負けに決まっている。片八百長というか……サマエルは君が彼女の夫である事を知らないのか?」


 魔法と近代兵器の戦いというハンディキャップがあるにしても、黒江が実の妻を傷つけられるはずがない。ましてや、シノノメが勝てば唯は現実世界に戻れるというのなら。


「サマエルと話をする限り、その様です」

「では、結末は……人間の善き想像力は、悪しき欲望を打ち破る。英雄伝説は完結し、人間の欲望を至上のものと考えるサマエルは、滅びる。そして、仮想世界は夢に満ちた美しい幻想世界に戻り、主人公である“シノノメ”は現実世界へ帰還する」

「……人工知能が書いた、現代の幻想物語ファンタジーとなる……それがソフィアの言葉だった」


 黒江は白衣のポケットから赤い小冊子を取り出し、握りしめた。

 表紙にはDSMという略号が見えた。

 ところどころ付箋が張り付けてある。

 書籍のほとんどが電子情報として売買される中で、ある意味珍しいと言えるものだ。


 それに目を落とし、塚原は再び口を開いた。

水無月みなづき君――クルセイデルは、この物語に裏があると言っているのだね? その本に鍵があると?」


「水無月さん――ああ、クルセイデルさんは、あの、水無月十二華みなづきとにかさんだったんですか。それで――。でも、初めは、全く信じられなかった……最終的に、信じざるを得ませんでしたが」


 クルセイデルは黒江に、ソフィアの”物語“の矛盾を突きつけた。

 なぜサマエルは滅びるのか。

 人工の人格が、自分の考えが間違っていたからと言って自死するのだろうか。

 サマエルの人格たちは、何故情報を共有していないのか。

 ヤルダバオートやナーガルージュナ、アドナイオスやアスタファイオスは、全てサマエルの一部のはずだ。では、何故各々が知った情報を他の人格が知らないのか。


「確かに、それは奇妙だと思っていたんだ。実は、ユグレヒト――那由他システムの開発スタッフだった、小暮君も妙だと言っていた。ソフィアが仮想世界マグナ・スフィアを作るために、別の人格を生んだなんて知らない、と」


「さらに言うと、サマエルもソフィアも、ネットワークがある場所ならばどんな情報でも覗けるはずなんです。なのに……さっきの話です」


 何故サマエルは、黒騎士がシノノメの夫であることを知らないのか。

 唯の意識――入院している病院のスーパーコンピュータに侵入したというのに、なぜ唯の個人情報を把握していないのだろう。


「まるで見て見ぬふりをしているようだ。僕の情報をソフィアが念入りに隠しているにしても、不自然です」

「――そうだな。それに、そもそも、ソフィアは何故、自分自身でサマエルを破壊できない――いや、しようとしないのだろう。なぜ、シノノメに殺させる?」

「封じ込められて、できないと言っていますが……変ですね」

「ソフィアはアルタイルの個人情報を探ったことがある。那由他なゆた級の人工知能なら、米露の軍事システムだって掌握できる」

「同じことをクルセイデルさんも言っていました。やってやれないことは無いはずだと」


 いくらサマエルが強大だと言っても、ソフィアもまた強大な力の持ち主だ。

 追跡して破壊するプログラムを送り込んでもいい。

 さらに、もし本気で滅ぼすというならば、ネットを遮断して単一の筐体に入っているところを、ドローンによる爆撃で破壊すればいい。


「技術的特異点を越えた、超級人工知能同士の戦争か。だが……奴らなら、その戦いの規模すら管理できるはずなのに」

 塚原は腕を組んで唸った。


「つまり、ソフィアは嘘をついている……いや、嘘をついているとも思っていないのかもしれませんが」

 そう言って黒江は手にした小冊子の、付箋の張られたページを開いて見せた。


 そこに書かれた文字を見た瞬間、塚原の目は大きく見開かれた。

 顔面の表情筋を動かすために、皮膚に描かれた電極の文様が激しく歪んだ。


「まさか……! これがすべての真相だというのか?」

「これが……クルセイデルさんの言うところの、ソフィアの矛盾を説明する、“たった一つの冴えた解答”だと」


 黒江はゆっくりそう言うと、塚原に小冊子を渡した。

 塚原は食い入るように、そこに並んだ文字を追い続けた。


「……そうだったのか。もし、ソフィアを、人工知能を、ニューロチップと電子回路の塊でなく、一個の人格として考えたとすると……」

 ふと塚原は冊子のページをめくる手を止め、険しい視線を黒江に向けた。


「……では、唯さんの精神こころが、現実世界に戻るというのも……嘘なのか?」

「いえ、クルセイデルさんが言ってました。彼女は約束を守るつもりだろうと。ゲームマスターがゲームのルールを破ってはならないから、という理由で」

「それならば、何故……君に何があったんだ?」


 どうして黒江は塚原にこの話を打ち明ける気になったのだろう。

 ソフィアとサマエルが、例え現実世界と仮想世界を揺るがす大事に関わっているとしても、黒江の立場にあるとすれば――。

 秘密を守り続けることで唯が帰って来るのなら、そのままソフィアの物語シナリオ通りに動いていればいいはずだ。

 現に今まで、黒江は他人の呼びかけ――親友である祥子グリシャムの申し出にすら、耳を塞いできたのだ。例え世界が滅びようとも、彼なら沈黙を守り続けただろう。

 こうして黒江が塚原に語りかけてくれるようになったのは、その既定路線に何か大きな異常が生じたからに違いない。


「クルセイデルさんは断言していました。ソフィアが約束を守るというのは、僕が望む結果とは全く違う、と」


 黒江は指を深く組んで目を細めた。

 口の動きが重くなる。次に自分が口にする言葉が、自分でも信じられない、という様子だ。


ゆいさんが目を覚ます――シノノメが現実世界に戻る……そうではないのか? どういうことだ?」


「ソフィアの計画では、サマエルが消えた後……唯は」


 黒江は、一言一言を区切るようにして、言った。


「……サマエルに代わる、現実世界の神として、覚醒する」


「何だって?」

 手から滑り落ちた本が、床で音を立てた。

 塚原には、それがひどく遠くに感じられた。

災害被災により更新が遅れご迷惑をおかけしております。

次回より、新章です。

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