26-12 終わる世界
「……その,ナイフで……私を刺すの?」
フィーリアは身体を小さくして小刻みに震えていた.
その視線は,シノノメの右手――黒猫丸の切っ先に注がれたままだ.
ショートカットの青い髪が風に揺れている.
目の下にひどい隈が浮いているが,小柄で真面目で,優しそうな少女だった.
好戦的なヴァネッサや,何を考えているか分からないリリス,少し冷たい感じがするレラにはどうしてもなじめない.
クマリは快活だが,時々圧倒される.
きっと,五大の魔女の中では,こんな出会い方でなければ,一番仲良くなれる気がする.
……どうか,私の顔が優しい笑顔になっていますように.
そう思いながらシノノメはこわばる唇を必死で開いた.
「フィーリアさん」
フィーリアはビクリと体を動かし,体を胎児のように丸めた.
「ひっ」
シノノメはアイテムボックスに黒猫丸をしまい,雨に濡れた前髪を掻き上げた.
フィーリアは意外そうにそれを見る.
「……?」
つばを飲み込み,シノノメは言葉を続けた.
「お願い.それを止めて」
「おねがい……?」
「そう.お願いだから,やめて」
虚ろな瞳だが,その奥を覗き込めば,混乱と驚き,そして怯え――悲しみも見える.不安定に揺れる眼を見て,シノノメはそう思った.
「やめて……?」
シノノメは何も持っていない両手を広げて見せた.
だがフィーリアは身体を縮こまらせるばかりだ.
信じられるはずもない…….
「ラブ」
シノノメが声をかけると,空飛び猫は少しだけ不思議そうな顔をして翼を止めた.
ラブの身体が沈むその瞬間,シノノメは宙を飛んでフィーリアの箒に飛び移った.肩には小さくなったラブが丸くなって乗っている.
箒の上で綱渡りの様にバランスをとり,シノノメはゆっくりフィーリアに手を差し出した.
「私は……何もしないよ」
「何も?」
差し出された手を拒否するように,フィーリアは頭を振った.
子供がイヤイヤをするようにも見える.
「これを止めて,魔法院に一緒に帰ろう」
不気味な明滅を続ける球体にわずかに目を落とし,シノノメは言った.
「そんな……」
「クルセイデルに言えば,きっと分かってくれる.だから……やめて」
「最強の魔力と武力を持つ……東の主婦が……ただ懇願するだけというの?」
信じられない,という顔をしてフィーリアは絞り出すように声を出した.
「そう」
シノノメはそっとフィーリアの両手に触れた.その手の下には赤銅色に光る魔法科学の球体がある.フィーリアの手がすっと固くなるのを感じる.
「ど……どうして?」
シノノメは目を細めた.
「……こんなに傷ついているあなたを……もうこれ以上傷つけるのは嫌なの」
フィーリアの顔が歪んで今にも泣きそうになった.
「あなたに,何が分かるというの?」
「分かるかと言われると……今でも自信が無いよ」フィーリアが眉を顰めるのを見ながら,シノノメは言葉を継いだ.「だって……私は,ついこの前まで人としての感情を無くしてたの」
フィーリアのひび割れた唇が,「どういうこと?」という言葉の形を作った.
「こうして顔を見ていても,相手が何を考えているのか,どんな気持ちでいるのか――理解することが出来なかった.ただ無邪気に子供のように力を使って,それを振り回しているだけだった.だから,ずっと――独りぼっちだった」
「あなたが……? あなたは全てのプレーヤーの憧れで,目標で,あるいは最大の競争相手で……」
「ううん.私はね,ずっと空っぽの,人形みたいな生き物だったの.安心できる――帰る場所すら,嘘で,作り物だった.それを気づくこともできなかったんだよ」
「……理解,できない」
「そうだよね……こうやって悩むことすらできなかった.気づいた時,私はあまりに自分に色々な物が欠けていたことが分かったの」
「欠けて……?」
「今までの記憶,人を思いやる気持ち,人の気持ちを考える力……そして,一番大事な……大事な人の記憶を無くしてた」
「大事な……ひと」
フィーリアはシノノメの瞳をじっと見つめていた.揺れる瞳はいつしか止まり,雨に濡れたシノノメの顔が映り込んでいる.
「苦しいの.でも,こうやって悩むことが出来るようになった……」
シノノメは,おずおずと握り返してくるフィーリアの手を感じていた.
「まるで赤ん坊の様な――ううん,本当の人形の様な状態だった私が,こうやって魂を取り戻すことが出来たのは――この世界のおかげ.今では,私というものの半分くらいが,この世界で出来てる――そう感じてる」
上手く言えなかったが,心に湧いてくる感情を,精一杯フィーリアに伝えたかった.
「例え今が苦しくても――それでも.私は,この世界が好き.私に私を取り戻させてくれた,この世界が大好き」
フィーリアが小さく頷く.
「だから……だから,お願い.この世界を壊さないで」
いつの間にかシノノメは泣いていた.泣きながら話していた.
「大好きな物を壊せば,あなた自身も取り返しのつかないほど,傷ついてしまう.だから,ダメ.だから,やめて」
どうしても我慢できなかった.涙がとめどなく流れるシノノメの肩は震えていた.
信じていた世界に裏切られ,傷つけられたフィーリア.
それはどこか――かつての――あるいは今の自分に似ているように感じていた.
大切な多くの記憶を失い,人間的な感情に欠けていることに気付いた自分.
帰っていると思っていた家が,夢の中のような存在であったことに気付いた自分.
にじむ視界の中で自分を見つめる青い髪の少女を,自分自身に重ね合わせている.
ややあって,フィーリアは口を開いた.
「……シノノメ」
顔を上げてフィーリアを見ると,微かな笑みが浮かんでいるように見えた.
「フィーリア,さん?」
赤銅色の水素爆弾は激しく明滅していた.次第に速度を増し,カウントダウンが速まっているのが分かる.
フィーリアは膝の間に球体を挟み,ゆっくりとシノノメの手を握った.
「ありがとう」
分かってくれた.
シノノメは手を握り返した.だが,フィーリアはそっと手の力を抜いた.
「フィーリアさん?」
「ありがとう.でも……ごめんなさい」
「フィーリアさん!」
「水月獣!」
フィーリアの短い呪文に呼応して,あっという間にシノノメは半透明の膜に包まれた.
膜というよりゼリー状で,固めのスライムのような感触だった.
スライムに捕食されるのとは違って,呼吸は苦しくない.震えるゼリー状の物質の向こうに,フィーリアの寂しそうな笑顔が見える.
ゾウほどもあるゼリーの塊はうっすら発光していて,よく見れば長い触手状の脚と羽根が生えていることが分かった.愛嬌のある丸い目で,主人と,自分の体内に取り込んだシノノメをきょろきょろと見比べている.
「これ,空水母……!」
ウェスティニアの高空に住むという,とても珍しい魔法生物だ.シノノメは名前を思い出した.
「もう……これ,止められないの」
シノノメは手を伸ばしてフィーリアの手を掴もうとした.だが,ゼリー状の身体にくるまれて届かない.
「ルーナ,その人を安全な場所に,出来るだけ遠くに運んで逃げて.私が……ログアウトしても,その後5分,いいえ,10分でもいい,飛んで!」
空水母は身体を震わせ,魔法の箒から離れて飛び始めた.
ゆったりとした外見だが,みるみるスピードが上がり,フィーリアが遠ざかっていく.
「フィーリアさん!」
もうこの魔法生物から逃れるだけの魔力は,シノノメにはない.
フィーリアの姿がどんどん小さくなる.
「……私の気持ちに寄り添ってくれて……本当に……ありがとう」
シノノメが最後に見たのは,その言葉を形作るフィーリアの唇と,小さな笑顔だった.
「フィーリアさん!」
そして,視界が真っ白になった.