26-7 炎と雲 (後編)
カノープスの背後に突然巨大な光球が出現した.
夜明けの時間はまだずっと先だ.
だが,強烈な熱を発するそれは,小さな太陽と呼ぶに相応しかった.
同時に高笑いする女の声が聞こえる.
こんなことができる人間は唯一人――炎の魔女,ヴァネッサだけだ.
「な,何!?」
突然起こった事態に,ただそれでもそう言わざるを得ない.
気球ほどもある炎の球は空気を焦がし,あっという間に天馬ごとカノープスを飲み込んだ.
さらに,雲をえぐり取る様に蒸発させ,渦巻く水に突っ込んでいく.
「いかん!」
慌ててクルマルトが手綱を引く.
猛烈な熱だった.水に接触するとジュウジュウという音を立て,おびただしい水蒸気が発生した.
円形のプールがガスタンクの様な炎の球に削り取られていく.そんな光景だ.洗濯槽の中の水は,すでに熱水になっていた.
「きゃあああ!」
「ヴァネッサ様! 止めてください!」
「ひぃっ!」
熱の塊は,魔女たちの叫び声も飲み込んだ.
「う,うわ……!」
一番大柄なテトラードは光球に触れるや否や,首から上が細かいピクセルになって消えた.
「いけない!」
シノノメは慌てて水の回転を止めた.
高熱から逃れようと,魔女たちは必死で水中に潜ろうとしていた.頼りの魔法の箒は水流に吹き飛ばされ,あらぬ方向に浮いたままだ.
クルマルトとガクルックスは上昇し,慌てて立ち昇る熱の蒸気から逃れた.
だが,それを追うように巨大な熱の球がゆっくりと膨張する.
「な,何という熱だ!」
「自分の部下を巻き添えにする気か?」
光球のすぐ後ろに,箒の上に立って飛ぶ魔女が見える.
魔女―――ヴァネッサは両手を開き,熱の球を自分の部下の方めがけて投げおろす様な姿勢をとっていた.バスケットボールのフリーシュートの直後の姿勢に似ている.
「何てことを! お願い,クルマルトさん,もう少しだけ近づいて!」
「しかし,危険です!」
「いいから! 何とか止めなくちゃ」
シノノメは身を乗り出し,雲の縁に近づいた.
これだけ周囲に水の元素があれば,できるはずだ.
「冷蔵庫急速冷凍!」
シノノメを中心に,吹雪が起こった.
雲の欠片は雹となり,粉雪が舞う.
雲が凍りつき,放たれた冷気は,小さな太陽を思わせる熱の球と激突した.
猛烈な水蒸気が沸き上がり,また新たな雲が出来ていく.
溶かされるかと思えば,雪はみぞれとなって火球を飲み込もうとする.
巨大な魔力同士の衝突だ.
「なんと,凄まじい!」
「これが,シノノメか!」
驚きの声を上げるエルフたちを尻目に,シノノメは必死で魔女たちに声をかけた.
「あなた達,早く逃げて!」
こうして手を伸ばしていると,強い力で押し返されるような抵抗感を感じる.
シノノメの冷蔵庫の魔法に,ヴァネッサの炎の魔法が拮抗しているのだ.
魔女たちは濡れた髪を振り乱し,水面から頭を上げた.見れば,洗濯槽の中に大きな氷塊が浮いている.氷になった雲だった.
シノノメの意図を理解したハクナギは,それを手掛かりにして,浮かんでいた箒を手に取った.
氷を握る手が凍傷になりかけて,真っ赤になっているが,焼き殺されるよりましだ.
箒にまたがると,ヘテロドに向かって長い手を伸ばした.
だが,遅かった.
「あっ! ダメ!」
一瞬で膨張し,大きくなった火球は,あっという間に三人を飲み込んだかと思うと,ブツンと音を立てて消えた.
「ふん,仕損じたか」
向かい合わせた両の掌の間に,ぼうっと鬼火の様な炎が灯った.
逆光で照らされた顔は不満げに歪んでいる.
「炎の魔法使い! お前,自分の配下の者を巻き添えにするとは!」
ガクルックスは左手に盾を持ち,天馬に拍車をかけて突進した.
彼の愛馬は傷ついていたが,乗り手の怒りが伝わったのか,雄々しくヴァネッサに向かって駆けて行く.
盾の表面には亀甲模様が浮いており,薄い緑色に光っていた.
「ふん,魔法が使えないんじゃ,これから事が起こる前にログアウトする方が幸せだろうさ」
ヴァネッサはガクルックスの怒気をあざ笑うかのように,口元に笑みを含んでいた.
「アルケノスの盾! 海獣の盾に,火の魔法など効かぬぞ!」
ガクルックスは体を小さくして盾の影に短い槍――手槍を忍ばせている.
体当たりの様に盾で相手を圧倒し,間隙をついて影から突き刺す戦術だ.沖縄古武術のティンベー・ローチンと同じような戦い方である.
「ははっ! 南海の化けウミガメの甲羅か!」
猛烈な勢いで近づいて来るガクルックスを,しかしヴァネッサは鼻で笑った.
彼女はスケートボードかサーフィンの様に箒の柄の上に立っている.
下半身の動きで生き物の様に乗りこなしていた.箒の扱いとその機動力も尋常ではない.
「お前なんてこれで十分だ.紅竜舌蘭!」
声に反応するように,長手袋の文様が光る.
ヴァネッサは空中で半身になると,両の掌を合わせた.
ブワッと音がしたかと思うと,ヴァネッサの掌から放射状に炎の舌が伸びた.
四方八方にのびた炎がガクルックスに迫る.
ガクルックスは盾で受け止めようとしたが,ぐるりと炎の花弁はそれを回避し,剣の様にガクルックスの身体を貫いた.
「うがあっ!」
龍の舌を思わせる鋭い炎の刃がエルフの鎧を,喉を,腕を,顔を貫く.
ガクルックスは絶叫するとバランスを崩し,天馬の手綱を手放して落下していった.
NPCである限り,どう見ても致命傷である.
だが,主人の身体を受け止めようと,天馬が追っていく.
「そら!」
天馬の後ろから,もう一本の炎の舌が伸びた.
「このっ!」
炎の先が天馬に届く寸前,シノノメはフライパンで弾き飛ばした.
クルマルトの天馬を降り,空飛び猫に乗っている.スピードは天馬の方があるが,自分の意志で自由に動く――接近戦での機動力なら,猫の方が優れていた.
ほんの一瞬の出来事だ.
地上数百メートルの空の上で落下するように飛び降り,召喚獣を呼んでガクルックスと天馬の間に割り込んだのだ.
「ヴァネッサさん,あんまりだよ.ひどいっ!」
シノノメの後ろに,ボロボロになったガクルックスを乗せた天馬が舞い戻って来た.
クルマルトが並んで飛び,部下の首筋を触って脈を確認する.
「弱い……だが,息はあります!」
シノノメはゆっくりと頷いた.だが,目線はヴァネッサにぴたりと向けられていた.
ヴァネッサはそんなシノノメの視線をかわすように,酔った様に体を揺らし,箒の先端に立って首を傾げた.
「NPCをそこまでして守って,何の意味があるの? 理解できないね」
「もう許さない!」
「許さないから,どうする? フフ,そうそう.その表情.全てを焼き尽くしてやるっていう表情だ.あんたもいい顔するじゃない」
ヴァネッサの顔が笑みの形を作って歪む.それは,凶猛な肉食獣を思わせた.




