26-6 炎と雲 (前編)
四人の魔女は猛スピードで追撃してきた.
ヴァネッサはそれを後ろで眺めている.
威圧的な姿は,部下の後方支援というよりも,むしろ退路を断っているように見えた.
流石に魔法の箒では天馬に追いつくことはできない.しかし,それぞれの魔女が特殊な長射程の火の魔法を使うことができる.
杖から炎の槍を打ち出す,スレンダーな魔女,ハクナギ.
巨大な炎のハンマーを操る,少しふっくらした魔女,テトラード.
炎の鞭を振る魔女,ヘテロド.帽子の先端が猫の様に二つに分かれているのが特徴的だ.
そして,火炎放射器そのものに似た,伸びる炎を杖から出す,トゾーテ.
みんなシノノメと一緒に,ヴァネッサの“火の魔法”の講義を受けた仲だ.
それが嘘の様に,鬼気迫る表情で三騎の天馬を追ってくる.
「あっ!」
ハクナギの炎の槍が,後方にいた天馬の羽根を撃ち抜いた.
痛々しいいななきが聞こえる.
それでも天馬は必死に主を乗せて飛んでいた.
「痛めつけるんじゃ駄目だよ.全部焼いてしまうんだ!」
ヴァネッサの声が風に乗って聞こえてくる.
何と恐ろしい事だろう.相手は一般のゲームキャラクター――NPCなのだ.モンスターや,魔王軍の戦士ではない.そして,当然,プレーヤーとは違って,死ねばもう生き返ることはできない.
口封じのために殺人を犯せ,と彼女は言っているのだ.仮想世界の出来事に過ぎないが,それを平気で口にするヴァネッサの精神性が理解できなかった.
「シノノメ,勝ち目はないよ! 空の上には,鍋を置く場所も,密閉された部屋もないんだ! 互いの魔力をぶつけ合うしかないのさ!」
「100万度ポワール!」
カン! と高い音が響く.
シノノメは背中にのびて来た炎の鞭をフライパンで打ち返した.
ヴァネッサの言葉は正しい.
シノノメの強さはもともと,レベルの高い武術と魔法,両方が使えるところにある.しかも,使える魔法の射程距離――発動距離とでもいうものか――は,短い.
火を発動させる地面も,ましてや電子レンジの魔法を発動させる外壁などない.
魔包丁をはじめとする色々な魔法の調理具も,相手の体には届かない.
本職の魔法使いと魔法だけで戦うには,あまりにも不利な状況だ.
だが,シノノメはあきらめていなかった.
見る先には,黒く厚い雲がある.
炎が呼んだ夜風によって,運ばれてきたものだった.
「くっ! それではシノノメ殿,本当に良いのですね? 雲に突入します!」
「うん!」
モクモクとした綿あめの様な外見だ.
柔らかい肌触りを一瞬期待したが,それはあるわけも無かった.
雲に入ると中は寒い.
震えるほどの冷気が伝わって来る.
――いつか富士山で――.
冷気は一瞬,記憶を呼び覚ました.
可愛いフワフワの雲を捕まえられると,大人なのに期待していた唯は,夫に笑われてふくれっ面になったのだ.
だが,甘い感傷に浸る暇はない.
シノノメはそのまま雲の中で待機するようにクルマルトに頼んだ.
天馬がゆっくりと羽ばたき,ヘリコプターのホバリングの様に雲の中にとどまった.
霧よりも深い,密度の濃い白い気体が視界を奪う.
一メートルはおろか,三十センチ先も白濁した乳の様な空気が流れている.
おまけに,気流が荒く,ガクガクと体が揺れる.
エルフの乗る三騎の天馬は,身を寄り添うように近づいて,辺りを警戒していた.
「これは……雲に身を隠す……という意味ですか?」
カノープスという名のハイエルフが弓矢を構えながら,小声で尋ねた.彼は左肩に焼け焦げた跡があり,服に血がにじんでいた.ハクナギの槍が貫いたに違いない.
「さすがに魔法の箒では,雲の中まで追って来れない様だ.だが,水の魔女が破壊兵器を発動させるのを,阻止せねばならぬのでしょう?」
もう一人のエルフは少しがっちりとしていて,ガクルックスという名前だ.彼は無傷だったが,愛馬の方は翼を貫かれ,息が荒かった.ガクルックスは天馬の首を撫で,気遣っている.
「奴ら,何という力だ.この残り矢の数では,到底太刀打ちなどできぬぞ」
「隠れたままでいては,いずれ……」
いずれ天馬は力尽きて地上に落ちるか,あるいはフィーリアが起こす核爆発に巻き込まれて,死が待っている.
「シノノメ殿……どうなさるおつもりですか?」
クルマルトは背中の後ろにいるシノノメに声をかけた.
「しっ! 静かに」
シノノメは指を口に当て,短く答えた.
雲の向こう――乳白色の空気に,じっと目を向けている.
ハイエルフたちはシノノメの視線を追った.白いだけでまったく何も見えない.
「空気が……動いた」
シノノメはわずかに目を細めると,クルマルトの肩に手をかけて鞍の上に立った.
「今! 行って! 右へ八メートル,上へ五メートル!」
「は,はい!」
気流に手綱を取られないように注意しながら,言われるがまま,クルマルトは天馬を操った.
急上昇した天馬は雲を突き抜けた.するとその前にいたのは,箒にまたがった魔女たちだった.
「あっ!」
三人のエルフは一斉に声を上げた.
「どうして?」
四人の魔女の方は,突如出現した天馬の姿に目を丸くしていた.
彼女らは雲の上からシノノメたちを探していたらしい.箒にまたがった下半身ほどまでを雲の中に埋め,ウロウロと散開しているところだった.
驚いていないのはシノノメだけだ.
「そのまま急上昇!」
シノノメの指示で,天馬が魔女たちの頭上に舞い上がった.
「シ,シノノメ!」
一番先に我に返ったのはトゾーテだった.
慌てて構えた杖の先に,炎の光が宿った.
「破城火槌!」
その次に反応したのはテトラードだ.ブン,と音を立て,杖の先に大きな円筒状の炎――炎のハンマーが出現した.
「いかん!」
今から弓を構えても,到底間に合わないタイミングだ.シノノメはどうして前もって教えてくれなかったのか――そんな考えが一瞬クルマルトの頭をよぎった.
「大丈夫!」
シノノメはすでに両手をいっぱいに広げていた.
右手は人差し指,左手は小指が折り曲げられている.
「洗濯機! ナイアガラビート! 」
「何をする気!」
ハクナギが慌てて炎の槍を構えた.
だが,遅かった.
周囲の雲が渦を巻き,恐ろしい勢いで回転し始めた.
「高速自動泡洗浄!」
雲は細かい水の粒となり,泡立つ大量の水となった.
水飛沫を上げながら,魔女たちを中心に大渦巻きが発生する.
あっという間に逆巻く水が四人を飲み込んだ.
それは,空に浮かぶ巨大な洗濯機だった.
雲の外周は洗濯機の筐体に,内側の雲は洗濯槽,そして全てを洗い流す水の奔流に変わっていた.
「あわわわわわ!」
「きゃあっ!」
「冷たい!」
「ああっ! 杖が!」
炎の槍もハンマーも,鞭も火炎も.虚しく“ジュウ”という音を立てて消え去った.
滝のような水が,箒ごと四人を翻弄し,うねりを上げて押し流していく.
「じゅ,呪文を……」
「た,助けて!」
「まさか,まさか空で水に溺れるなんて!」
「私,泳ぎは苦手なの!」
どんな魔法も大量の水には意味をなさなかった.
流水に帽子も杖もむしり取られ,四人の魔女は高速でグルグルと回っている.急流モードの流れるプールに放り込まれたようなものだ.魔女たちはずぶぬれになっただけでなく,すっかり目を回していた.
「す……すべてはこれを狙って?」
カノープスが呆然と,グルグル回る魔女たちを見下ろす.
プカプカ浮かんだり沈んだりしている濡れ鼠の女性たちは,さっきまで炎の凶器を振り回していた敵とは思えなかった.
「だって,雲は雨のかたまりだもの」
「あの雲の中で,どうやって彼女たちの場所が分かったのです?」
「えーっと,私,耳が良いから」
「なんと!? ……エルフの我々でもわからなかったのに」
ガクルックスが大きく目を見開いた.
実際には耳だけではない.
水蒸気の流れを捉える視覚と,風の動きや温度変化を捉える触覚,そして何よりも,異常に発達した空間認知能力が組み合わさった,超感覚の結果だった.
シノノメは空気の流れを聞き,音を見るようにして相手の動きを捉えていたのだ.
「さすが,シノノメです」
クルマルトは満足そうに小さな笑みを浮かべる.
「まだ油断はできないよ.ヴァネッサさんは……どこに行ったんだろう」
エルフ達がほっと胸をなで下ろす気持ちは分かるが,そうしてはいられない.
シノノメはあたりを注意深く見回した.
「怖じ気づいて逃げたのでは?」
「そんなことは……」
あり得ない,と言いかけたシノノメの言葉は,突然現れた光と熱に吹き飛ばされた.




