26-1 渇望の代償
黒江はベッドサイドに座り、眠り続ける唯の顔をじっと見ていた。
少しやつれたような気がする。
もともと肌の色は白い方だったが、それを通り過ぎて青白くなっている。
彼女の意識は今、人工の異世界の中だ。
安らかに寝息を立てているが、危険な冒険――激しい戦いに身を投じているようだ。
睫毛が震えている。
薄い瞼の下で、眼球がゆっくり動いている。
仮想世界の敵を睨んでいるのかもしれない。
時折唇を噛み締めたり、眉を顰めたりしている。
苦戦なのか、はたまた対峙している敵が手強いのか。
悪夢――嫌な思いをしているのだろうか。
額にそっと手を当てた。
掌の下で、顔に込められた緊張がゆっくり解けるのが分かる。
目が覚めるのを待ち続け、一年が過ぎた。
正確には、ただ待っていたのではない。
考えられるありとあらゆることをやって来た。
マグナ・スフィアの半分の世界――機械世界では、自分は悪魔と呼ばれている。
悪魔だろうが魔王だろうが、何でもよかった。
仮想世界で悪魔に身を落とそうが、唯が目覚めればそれでよかった。
欲望の塔の最上階に上がれば、すべての願いが叶う。
本当かどうかも分からない噂の様なものを信じ、ひたすら戦った。
最後――99層目の敵は、獅子の頭と人間の上半身、蛇の下半身を持つ機械だった。
それを屠った後、ついに到達した欲望の塔の最上階には、誰もいなかった。
誰もいないというよりも、空っぽだった。
ただどこまでも、金属板で出来た床が広がっているだけで、天井は空虚な黒い空が広がっているだけだったのだ。
こんなものを目指すために、八千万人もの機械人間を争わせたというのか。
血で血を洗い、肉を噛み千切り合う、地獄のような戦いをさせたというのか。
俺の願いは、祈りはどうなるのか。
何という欺瞞だろう。
呪いと怒りで魂を震わせ、叫んだ。
その時、女神が天から降りて来た。
いや、あれを女神と呼んでいいのだろうか。
全身から光りを放つ女性は、電脳世界を司る存在、叡智と名乗った。
自分は囚われの身であり、アメリア――マグナ・スフィアを救いたいと思っているのだと。
「あなたの願いは,この世界の終わりではないのですね」
美しい女の姿をしたソフィアは、ため息をつきながら、哀しそうにそう言った。
どういう意味なのかは分からなかった。
どうでもよかった。
ただ、唯を目覚めさせる方法を知りたい。俺の願いはそれだけだ。
ソフィアは話を聞くと、目を輝かせた。
好奇心と興味と――自分はその目の輝きが、どことなく嫌だったのを覚えている。
「現実世界の時間で,一日待ってください」
そう言い残して彼女は消えた。
24時間後、俺は同じ場所でじっと待っていた。
期待と不安が入り混じる中、ただひたすら黒い空を見上げていた。
空から降ろされた金の釣瓶に乗り――ソフィアは再び降りて来た。
ソフィアはおずおずと口を開いて言った。
仮想世界で経験を重ねるという発想は、決して悪くはなかった。
しかし、唯の自我の多くは現在、この“マグナ・スフィア”に依存しており、無事に切り離すのは容易でないという。
マグナ・スフィアに助けられている反面、それに囚われてしまっているとでもいう様な状態らしい。
無理に切り離せば新たな脳の機能障害を起こす可能性がある――それには俺も納得できた。言ってみれば、この世界に深く入り込みすぎたのだ。
それでも解決方法が無いわけではなかった。
方法は二つあった。
一つは、もう一度俺がユーラネシアのクエストに参加して、じっくり時間をかけて彼女の記憶が戻るのを待つことだった。
五年か、十年か、とにかく時間をかけるのだと。
だが、唯の体の衰弱のことを考えると、とても受け入れられるのもではなかった。
そして、もう一つ。
それは、ソフィアの考えた物語のままに動くことだった。
この地獄の様な欲望まみれの、血みどろのアメリア大陸を設計したのは、ソフィアを虜囚にしている存在――サマエルというもう一つの人工知能なのだという。
サマエルは、様々な姿をとって、仮想世界に干渉している。そして、シノノメ――唯に興味を持っている。
特異な脳構造を持っているかららしいが,サマエルの執着がシノノメをこの世界に留めている可能性がある。
人間の欲望は文明を推し進める原動力である――サマエルの信念の元に生み出された世界の、頂点の存在――すなわち俺。
その俺をシノノメが打ち負かすことが解決の方法になる――ソフィアはそう言った。
シノノメはレベル百――善き想像力の世界である、ユーラネシアの頂点に立って、この“欲望の塔”で最後の決戦をするのだ。
まるでゲーム――冗談のようだ。
そう言うとソフィアは人間の様に苦笑した。
「サマエルにとって,自分の信じる物が否定されるというのは大きな衝撃なのです.おそらく,彼自身を否定することになる.人の想像力は欲望を越える物.彼は消滅し,ゲームの終わりがやって来ます.……もしこれが計画通りに済めば,一年以内に唯さんは現実世界に帰れるでしょう」
ソフィアは微笑した。その笑みの意味を俺は測りかねた。
「そして……私も」
ソフィア自身も開放され、救われるという。
どうにも納得できないところが残る。嘘のような話だった。
だが、他に唯が目覚めるあてなど、もう無かった。
藁にもすがる気持ちで、ソフィアの言う通りにすることにした。
彼女のいう“物語の理想の最期”を迎えるため、機械の体のままユーラネシア大陸に向かった。
俺の行動記録はソフィアが念入りに消すらしい。つまり、ユーラネシアでは、幽霊の様な存在ということになる。
シノノメがサマエルに捉えられると、目が覚める可能性はなくなると聞いた。
サマエルの手に渡らないように、同時にシノノメのレベルを百に近づけねばならない。
シノノメがサマエルに捉えられそうになると、ソフィアから知らせが入る。
幻想大陸では、全身の武装は全く使えない。
ただ頑丈な体があるだけだ。
やれることをやるしかない。
不格好でも、盾になることはできる。
ソフィアはこうも言った。
「あなたがあなたであること――現在の状況を,唯に告げてはなりません」
回復途中の唯の脳に、悪影響を及ぼすかもしれないからだという。
仕方なかった。どうせ口もきけないのだ。
だが、どれほど告げたかっただろう。
君を迎えに来たのだと。
君のそばにずっといるのだと。
仮想の家ではなく、病院のベッドで寝ている君のそばにずっといるのだと。
彼女とすれ違うたびに、その傍に座るたびに、どれだけ話したかったか。
なのに、口からは不気味な電子音が出るばかりだ。
機械の指でどれだけ抱きしめたかった事か。
こんな武骨な硬い指では、君を壊してしまう。
君を抱きしめても、その温もりすら感じることが出来ない。
身をよじるほどに胸を焼き焦がしても、想いを伝えることが出来ない。
そこまで思いを巡らせ、黒江は小さくため息をついた。
ずっとソフィアの計画に沿って動いて来た。
だが、ここにきて迷っている。
少女の姿をした魔女に言われた言葉は大きな衝撃を与えた。
クルセイデル――西の魔女、魔法院の最高魔導士。
現実世界にも影響力を持つ有名なプレーヤーだという。
「ソフィアもサマエルも,人間の様に嘘をつくの」
耳を疑った。
今までずっとやって来たことは何だったのだろう。
にわかには信じ難かった。
だが、小さな魔法使いの言葉は、その姿に反して理論的だった。
「そもそも,マグナ・スフィアの成立に関わる話なの.ソフィアは現在の,“多人数参加型仮想現実ゲーム”であるマグナ・スフィアを作るとき,現実世界の事物を参考にしたわ」
まるで大人――それも科学者の様に理路整然としていた。
「ユーラネシアでは,多くの神話や伝承を取り入れたの.リグ・ヴェーダやウパニシャッド哲学.キリスト教や神智学も.道教や神道もね.アメリアでは人類の無差別犯罪や戦争の記録,科学史を参考にした」
少女の顔には似合わない言葉が小さな唇から流れるように滑り出すのだ。思わず息を呑んだ。
「それは,彼女自身を傷つけ,悩ませたの.自分を生んだ人間という存在の不完全さと,それを超えてなおある素晴らしさ.思考能力は自分の方がはるかに優れているはずなのに,及ばない一線.それでいてあまりにも愚かな存在が,万物の長として世界の手綱を握っている」
何という知識と思考力だろう。次第にクルセイデルの言葉に飲み込まれるようになっていた。
彼女はそしてついに、核心を言った。
それはこの仮想世界の根幹に関わる事実だった。
にわかにはとても信じられない内容だった。だが、それは確かにすべてのことを説明しうる、たった一つの推論だ。
「……そういうことなの.いい? あなたはお医者様だと聞いています.専門分野でなくても,DSMに目を通したことはあるでしょう.ならば,納得できるはずです」
DSM?
なぜこの女性はそんなものまで知っているのだろう.
慌てて機械の首で頷いた。いや、頷かざるを得なかった。
「もしかしたら……これが最後の仕事になるかもしれない.けれど,私は必ずシノノメを現実世界に帰す.唯を目覚めさせる」
そう言うとクルセイデルはそっとシノノメの頭を撫でた.
「とりあえずこれで安心.彼女を友人たちの所に帰しましょう」
フワフワした生き物を召喚し,すやすやと眠るシノノメをその上に載せて送り出した.
小さな子供の姿なのに,慈母の様だった.
力強い信念に貫かれた言葉は、唯の祖母を思い出させた。
唯の祖母は一見上品でたおやかな印象なのだが、一言口を開くと毅然とした女性だった。
今の自分はクルセイデルの言葉を信じ始めている。
時間がたてばたつほど、彼女の言葉の重さ、誠実さを感じている。
「仲間を,友を信じなさい」
分かれを告げるとき、クルセイデルは最後にこう言った。
だが、自分は今までたった一人でやって来たのだ。アメリアでは悪魔と呼ばれ、おおよそ全てのプレーヤーが敵だった。
友などいない。
現実世界でも――独りだ。
その考えを読んでいたかのように、小さな魔女は言葉を継いだのだ。
「いいえ,貴方は独りではないはず.信じなさい.信じていいの.シノノメの信じた仲間を」
「仲間……」
気づけば、言葉を口に出していた。
唯の頬にそっと手を当てた。
「唯……僕は、どうすればいいんだろう」
その答えは返るはずも無かった.




