25-18 戦いの理由
人造魔神は魔法使い達の上に身をかがめ,シノノメの姿を確認すると,大きく上体を反らした.
エビのように体を反らしたのも束の間,両手には鋼鉄の鞭を握っていた.
「いかん,来るぞ!」
クラーケンの触手を加工した二条の鞭は,橋を吊り上げるケーブル並みの太さだ.魔神が腕を振るとうなりを上げて空気を切り裂き,弧を描いて魔法使い達の頭上に飛んできた.
化け物じみた威力は体験済みだ.クマリの土壁を粉砕し,通常の防御魔方陣では防ぐことが出来ない.できても,呪文の詠唱が間に合わない.
何人かの魔女が悲鳴を上げた.
「まな板シールド!」
シノノメは両手をいっぱいに広げ,光る魔方陣を一瞬で展開していた.
魔神は弾き飛ばされた鞭を手繰り寄せ,もう一度叩きつけて来た.
まな板シールドは破れない.
シノノメは,魔神の目がぴたりと自分の姿を追っているのを感じていた.
「何? この巨大ロボ?」
「シノノメさん,こいつもメムの兵器だよ」
「クマリさん,リリスさん,みんな! 今のうちに壁の穴を抜けて!」
「シノノメ殿だけでこいつの相手をする気か? 無茶だ!」
魔神は不気味な声で吼えた.身長は十メートル以上ある.だが,オレンジ色の甲羅を被った怪獣の様な顔は,自分をじっと見続けている.
禍禍しい姿はシンハに似ている――シノノメはそう思った.
魔方陣を突破できないと悟ると,左腕を振りかぶり,横なぎに鞭を振って来た.
「黒猫丸!」
シノノメは密集陣形を飛び出して魔包丁を構えた.
軟体動物のように動く鞭を狙うのは難しい.鞭の先端は時として音速を越えるのだ.
少し膨らんだ先端が最大加速に向けてたわむ.そのわずかな機を捉え,シノノメは右手を振った.
鞭の先は切り飛ばされ,一旦壁にぶつかってから転がり落ちた.トカゲの尾のように,石畳の上でグネグネと身をくねらせてから止まった.
「クマリさん,行って! この人,私を狙ってる!」
密集陣形の中央でもない.リーダーであるクマリでもない.間違いなく鞭の先端はシノノメに向かって振り下ろされていた.
「クマリ! あまり時間がない!」
リリスが叫ぶ.強力な壁の防御呪文は,壁を再生させて穴を塞ごうとしているのだ.リリスが術を駆使して開けた穴は,ミシミシと音を立てて少しずつ縮小していた.
「分かった! では,シノノメ殿,頼む!」
クマリは前方に防御呪文と防壁を集中させ,そのまま穴に突入した.
魔法弾の攻撃と銃弾,弓矢を弾き飛ばし,瓦礫と土の山を敵に叩きつける.一弾となった魔法使い達は壁の中に入って行った.
侵入を許した壁の中から,悲鳴のような声が起こる.
最後のとんがり帽子と黒いローブを飲み込み,壁の穴は一メートルほどに縮んでしまった.
壁の上で防御にあたっていた兵士たちも,慌てて防戦に降りたらしい.
壁の外に屹立する魔神を残して,不思議に静かになった.
人造魔神は右手の鞭と,左手の鞭の切れ端を振り回している.攻撃の準備をしているのだ.巻き起こした風がシノノメの髪を揺らし,ふとシノノメは背中に立つ人の気配を感じた.深緑色の魔女服だ.
「グリシャムちゃん? 行かなかったの?」
「私はシノノメさんの親友だもの.……援護とまではいかなくっても,背中を守るくらいアリでしょ?」
「ありがとう」
「あの化け物,凄まじく硬い体を持ってるわ.クマリ様の分析だと,トロルの体に巨大甲虫の殻,それから黒龍の鱗を繋ぎ合わせたんじゃないかって」
グリシャムの舌の根の乾かぬ内に,二条の鞭が再度シノノメを襲った.
グリシャムは慌てて伏せた.だが,シノノメは逆に前に走って行く.
特殊な動体視力と空間把握能力を持つシノノメの脳は,鞭の軌道を完全に読んでいた.
袴の裾を翻しながら,わずかな体移動で鞭をかわすと,なで斬りするように包丁を振った.
「蛸の脚なんて,輪切りにしちゃえ!」
そう言うシノノメの姿はまるでコマ送りのように見える.体移動が速いので,彼女の周りでくねる触手はスローモーションのようにすら見えた.
言葉の通り輪切りにされた鞭は,バラバラになって石畳にまき散らされた.
シノノメが接近してくる.
魔神は両手を開き,掌をシノノメに向けた.
掌に開いた黒い穴から,火炎が噴き出した.
「鍋蓋シールド!」
火を受けるだけでは止まらない.シノノメはあっという間に横に回り込んだ.
だが,魔神が持つ第三の鞭――長い蠍の尾がシノノメを襲った.
「危ない! バンブージャベリン!」
竹槍が石畳を割って生い茂る.サソリの毒針は油を含む丈夫な竹に弾き飛ばされた.
「今だ! グリルオン!」
ドカン,と音がして青い炎の柱が発生した.
魔神は蝙蝠の羽根を羽ばたかせ,一旦上空に退避した.だが,足に丈夫なイバラの縛鎖――グリシャム得意の拘束魔法がかけられていた.蔓に足首を取られ,魔神は空中でたたらを踏んだ.
ホバリングの様に宙にとどまりながら,シノノメとグリシャムを見下ろしている.
「どう? 連携魔法攻撃.シノノメさんの炎の魔法がとどめにもなり,さらに囮にもなっている.対応できなかったでしょう?」
グリシャムはシノノメのそばに近づきながら,魔神を睨んだ.
魔神もオレンジ色の目で,じっと地上の二人を睨んでいた.
「あれ,何て呼べば良いのかな.マジンガー? 魔神もどき? 巨大ロボ?」
「え? ええ? そこ? うーん,なんでもいいと思うよ」
微妙に緊迫感のないシノノメに,グリシャムは目を丸くしながら答えた.
「えーと,そしたら,魔神ロボの人! 何で私を狙うの? どっちにしても,もうこんな戦い止めようよ!」
シノノメは魔包丁をしまうと,腰に両手を当てて魔神を見上げた.
「聞こえてるでしょう?」
人造魔神は羽ばたくスピードを緩め,ゆっくり降下して着地した.騎士の位を授けられる人間の様に片膝を立てて着座し,片手を地面についた.蝙蝠の羽根が背中に折りたたまれ,鎌首をもたげていたサソリの尾は地面に投げ出された.
「そう,もう終わりにしようよ.だって,私知ってるよ.メムはどうせ,あの人――ガイウスさんに降参する気なんでしょう? だったら,私たちが戦う意味なんてないじゃない」
シノノメはゆっくり歩いて人造魔神の正面に立った.
「町を壊して,人をたくさん犠牲にして――NPCでも,この世界のこの人たちはそれで生きてるんだよ.戦争なんてよくないよ」
しばらく動きを止め沈黙していた魔神だったが,突然頭を前に倒した.人間がうなだれるような姿勢になると,ガパッと音がして飴色がかかった半透明の甲皮――頭部の風防が開いた.
「お前に戦争の理由が無くても,俺にはある」
「あなた……あの時の……でも」
グリシャムは息を呑んだ.シノノメと一緒にブリューベルクに行った時,確かにこの青年に会った.だが,この雰囲気の変わりようは何だろう.
目の下に隈が浮き出し,爛々と憎しみの籠った視線を向けるその顔は,鬼相とでも呼べばよいのだろうか.
「あなたが死んだのは,仲間が無差別に爆撃したからでしょ? 私に負けたのが悔しかったってこと?」
シノノメは半身のままでリュージの顔を見上げた.
「巨獣兵の事なら仕方ない.それだけの力が俺に無かったってことさ」
「だったら何故?」
「それは……」
「リュージ様.再度の連絡です.枢軸区が突破された今,急いでブリューベルクに戻って欲しいと要請が来ています」
武骨なデモノイドに似つかわしくない,玲瓏な声がリュージの言葉を遮った.
「うるさい」
リュージは肩越しに怒鳴りつけた.
「ですが,今,ブリューベルクは魔法院の攻撃を受けているそうです.このままでは防衛線が突破されるのも時間の問題と.最強のデモノイドを操る,リュージ様の援助が必要と……」
ココナは震える声で報告を続ける.
「黙れ,黙れ」
ついにリュージはココナを殴った.長い髪が激しく揺れる.小さな悲鳴を上げ,ココナは黙った.
「あなた……DV? 何てことするの!」
NPCでもひどい目にあっているのは見過ごせない.たとえそれが人工の恋人,イマジナリーフレンドだとしても,シノノメにとっては同じだ.
「うるさいぞ.こいつは人間なんかじゃない.人形だって言ったのは,お前,シノノメだろう」
「それは……」
鬼気迫る憎悪の視線を浴び,シノノメは口ごもった.
「こいつは,俺と初めて会った時の記憶もない.二人で過ごした時間の記憶もない」
「え……」
「イマジナリーフレンドはな,死ぬと記憶がリセットされてしまうんだよ.こいつは,もう俺の知ってる――俺の大事なココナじゃない.お前が殺したんだ,シノノメ」
「そんな……」
「お前の言う通りさ.本物の恋人なんかじゃねえ.俺を愛しているって言い続けるだけの,人形だ」
そう言ってリュージはココナの首を絞めた.か細い首に喉輪の指が食い込んでいる.今にも首が折れそうだ.
「苦し……リュージ様……愛しています……」
ココナは目を細め,顔を腫らせながら,囁くように言った.パートナーを愛するという事は,イマジナリーフレンドにとっての本能の様なものなのだ.
「ちょっと,あなた,やめなさい.見てて感じ悪いわ.いくら何でもそんなのナイよ」
大柄な青年が可憐な少女を殴っている図柄は,さすがに気持ち良いものではない.
グリシャムは万能樹の杖を構え,鳳仙花の花を咲かせた.徹甲弾並みの威力を持った種を射出することが出来る.
「うるさい.俺がどうしようと勝手だろう.こいつは俺のイマジナリーフレンドなんだ.死んでもまた新しいのがやって来る」
泣いている様な,笑っているような声でリュージは叫んだ.
ふと気づいて,グリシャムはシノノメを見た.
少し前方にいて,魔神を見上げるシノノメの身体が小刻みに震えている.
グリシャムは人工の魔神‘デモノイド’の方に気を配りながら,ゆっくりとシノノメに近づいて行った.
「シノノメ……さん?」
ようやく見ることのできたシノノメの顔は真っ青だった.
……パートナーへの愛情だけが残された,人形.
……本物の恋人ではない.
胸が痛い.
かつて自分が放った言葉が,自らの胸を抉る.
知らず知らずのうちにシノノメは胸を押さえていた.
まるでそこに本当の傷を受けたようだ.
「人形?」
「そうさ,お前の言う通りさ.こいつは記憶の欠けた,壊れた人形だ」
VRゲーム,マグナ・スフィアに参加し始めたころ,戦闘人形と呼ばれていた.
人間らしい受け答えが出来なかったのだ.
だから,誰ともパーティが組めなかった.
今ではそれを自覚しているが,当時はそれがおかしい事とすらわからなかった.
記憶とは経験の蓄積でもある.
もともとの性格はあっても,状況に合わない言動をとって誤魔化してしまう事があった.
仲の良い人たちは,無邪気で子供の様と解釈してくれる.
だが,ナーガルージュナに記憶を再構築してもらった今,かつての自分自身に違和感を抱いてしまう事すらあるのだ.
「記憶が無いと……ダメなの?」
「当り前だろ.社会で爪弾きにされていた俺が,やっと見つけた理想郷で,初めて出会ったパートナーだぞ.その記憶に変えられるものがあるかよ」
リュージは吐き捨てるように言った.
「その子は,あなたのことが,そんなに大好きなのに?」
ココナは首を絞められ,顔がうっ血して青黒くなり始めていた.だが,それでも抵抗する事はなかった.人形のように無抵抗だ.
人形.
壊れた人形.
病室の冷たいベッドの上で,やせこけた自分が人形のように転がっている姿が脳裏に浮かぶ.
今,自分には,最も大事なはずの,愛する人の記憶が欠けている.
愛する人の記憶を無くしてもなお,愛だけが残っている.
仮想世界で人形でなくなったとしても,現実世界では,意識が無く眠り続ける,人形のような存在.
心の深淵,闇の向こうから声が聞こえてくる.
なぜ自分はこんなになっているのか.
いつから自分はこうなっているのか.
現在の自分はどうなっているのか.
……眠り続けるお前が,まだ愛され続けていると思うのか?
「こんなものが好きになれるかよ」
リュージがそう言った時,身体がビクリと震えるのを感じた.
心の奥にある小さな灯が,強風に煽られて揺れる.
現実を知るのが怖い.
現実世界に帰るのが怖い.
目を覚ますのが怖い.
そう思った瞬間,どこか高い場所から声がした.
……この世界に彼らは相応しいのか?
世界の遥か天の彼方からだ.
頭の天辺から,鈴のような声が聞こえる――注ぎ込まれる.
女性の様な,少年の様な,凛とした涼やかな声だ.
……裁定しなさい.審神者よ.
一瞬世界を俯瞰するように,西の水平線から東の地平線までが見えた.
……否.
コノセカイカラ,ハイジョシナケレバ.
「シノノメさん! シノノメさん! しっかりして! あれは違う! あなたとは違うの!」
グリシャムは必死で声をかけた.だが,シノノメの目は濁ったガラス玉のように光を失っていた.
リュージとのやり取りが,どれだけシノノメを傷つけたのだろう.
「違う,違うよ.あなたがこうやってここにいるのも,あの涙の海から帰ってこれたのも……あなたは間違いなく」
言おうとしてグリシャムは口ごもった.
シノノメの夫――黒江が血を吐くような思いで抗い続け,戦い続けた結果だ.
唯に対する愛情が無いなどという筈がない.妻への愛情と単純に言い切ることすらできない,激しく強い想いの結晶無しにあり得ない.
だが,それをシノノメ自身に知らせることは固く口留めされているのだ.
黒江は仮想空間とはいえ,アメリア大陸で凄惨な戦いの後に,おそらく唯の目を覚ます方法を聞きだしたのだろう.詳しく話してはくれないが,今の自分の状況を唯自身に教えてはいけないといったような約束があったらしい.
彼は言葉も通じない体で,ひたすらシノノメの傍に寄り添い,サマエルの手から彼女を守り続けている.
シノノメの夫への想いも知っている.
素明羅で顔を赤らめていた姿.
ノルトランド崩壊の時の涙.
だが,二人はずっと――仮想の家を失って以来――たった一言の会話すらかわせずにいるのだ.
何と過酷なすれ違いだろう.
せめて……せめて,黒江の想いを伝えることが出来れば.
「違う……間違いなく……って?」
シノノメの形の良い唇が,ぎこちなく動いた.
「ええいっ! あなた,黙りなさい!」
グリシャムはデモノイドの顔めがけて鳳仙花の種を放った.
パチンコ玉ほどの黒い種が散弾の様に放たれたが,硬い表皮がそれを弾き飛ばした.
跳弾がわずかにリュージの肩をえぐった.
「ちっ! おしゃべりはここまでだな.シノノメ! お前の脳に消えない痛みを刻みつけてやる」
リュージはココナの首を自由にすると,再び操縦桿を握った.皮膚の下から銀色の根の様な線維が這い出し,あっという間に操縦桿を包む.解放されたココナは激しく咳き込んだが,よろめきながら自分の座席に座った.
風防が閉じ,デモノイドは再び起動した.蝙蝠の羽根を広げ,砂塵を巻き上げながら足の鈎爪を地面に食い込ませて立ち上がる.不気味な牙の生えた口を開け,夜空に吼えた.びりびりと空気が振動する.
「くっ! 上の位置をとらないと勝てない! シノノメさん,ここから動こう」
グリシャムはシノノメの手を引いたが,シノノメは動かなかった.
腕には思わぬ力が込められていた.
シノノメの目は上空のデモノイドを追っている.
それはグリシャムが見たこともない険しい目つきだった.
「シノノメさん……?」
「あの人たちは,要らない――ファンタジーじゃない」
セキシュウから武術における脱力の有利を教えられたシノノメの身体は,いつも力みが無く柔らかい.だが,今の彼女は両の拳を握りしめ,口を引き結んでいた.髪の毛が膨らみ,逆立つのではないかと思えるほどだ.
怒りと哀しみ,その両者が入り混じり,さらにそれを越える激しい感情.
声のない慟哭があるとすればまさにそれ――.
左の薬指にはめた指輪が,青い光を放った.
グリシャムには,何故かそれがとても不吉な光に思えた.




