24-10 フィーリアの涙
クマリは根気強く説得を続けていた.
頭上まで掲げていた群衆の松明が,徐々に肩辺りまで下がってきている.
「我々は仲間を救いに来ただけだ.必要以上の危害を加えるつもりはない」
そう言うと聴衆の中に頷くものがいる.それは見ての通りだった.クマリは強力な魔法の持ち主ではあるが,暴れるジョゼたちを身動きできないようにしただけなのだ.
「では,私たちはどうすればいいんでしょう? 水龍をどうすれば?」
「そもそも,電気を作るためにダムを作ったのが無理だったのだ」
「でも,魔女様,電気が無ければ夜作業ができません」
「魔石のランプは高いんだ.家で内職するには必要です」
「粉ひきはどうするんだ? 水車はもうない.電気式になってしまったし」
「だが,水龍を刺激して洪水が起これば,畑は全部だめになってしまうでしょう? そうすれば,あなたの子も,孫もその土地で作物を作ることはできないかもしれないのだぞ?」
罵声も怒声も聞こえなくなってきた.
クマリはできるだけ簡単な言葉を使って淡々と話しかけていた.
全員が暴力衝動に駆られた過激派ではない.一家の主人が暴動に加わってついてきた家族や,家が無くなってやむを得ず襲撃に加わった犬人も少なくないはずだ.
それにしても,電気――現代文明が中世世界に浸透する速さに驚く.マグナ・スフィアの時間は現代世界の二倍で経過するとはいえ,この普及の速さはどうだろう.犬人たちの生活にもはや電気は必要不可欠のエネルギーになっている様なのだ.
「とにかく,解決の方法は今後考えましょう.このような乱暴なやり方は解決にならない.家に戻ろう」
「帰る家がありません」
「だからと言って,町を襲ってよその家を奪っていいと? 土魔法で簡単な家なら作れる.仮設住宅――避難用の仮の家です.そこで身を落ち着けて,今後の対策を立てましょう」
あと少しで説得できる.自分の言葉に耳を傾ける聴衆が増えてきた,とクマリは実感していた.
だが.
――突然群衆が静まり返った.
犬人たちは自分を見ていない.青ざめた顔で自分の背後を見ている.
危険とは思ったが,クマリは暴徒たちから目を離して後ろを振り返った.
土塁から不格好に突き出していた,犬人たちの手足や頭が消えていた.
代わりにそこに立っていたのは,返り血を浴びた青い服の魔女――フィーリアだった.
「フィーリア……」
クマリの呻くような呼びかけに応えるように,フィーリアはゆっくりと顔を上げた.
異常に気付いたサミアとガザトジンが,魔法の詠唱を忘れて血まみれのフィーリアを見ている.
フィーリアの数歩後ろには,顔をそむけて目を瞑るシノノメがいた.
フィーリアはクマリの顔を見ると,ぎこちなく微笑した.
眼は虚ろで,クマリには焦点が合っていなかった.
クマリの身体を通り抜け,夜の闇を見つめている様だった.足元には彼女に暴虐の限りを尽くした犬人たちの残骸が――高圧水でバラバラに切断されて――転がっていた.
五大の魔女の一人,湖のフィーリア.
水魔法の達人である.水があれば竜を切り裂き,騎馬の軍勢を押し流す.だが,その力を使う事をいつもためらっている,優しい魔女.
なのに.
「フィーリア!」
クマリは慌てて土塁を駆け下り,フィーリアの肩を掴んでゆすった.
フィーリアは人形のようにゆらゆらとなすがままに揺れていた.
「何てことを……」
眼の焦点が合わないフィーリアを,クマリは抱きしめた.
「クマリ……こいつらは,私に,もっとひどいことをしたの.何故私がこいつらを殺しちゃダメなの?」
フィーリアは夜空を見上げたまま,クマリに抱きしめられるがままになっていた.
「ひいっ!」
女性の高い悲鳴が聞こえた.
一瞬恐怖で静まり返っていた暴徒が,再びざわめき始めた.
「見たか?」
「魔法院の魔女が,ジョゼたちを殺したぞ」
「あいつら,どうせ俺たちを殺す気だ」
「やっぱりジョゼの言ってたことは正しかった」
「魔女は狩っちまえ」
激情に駆られた罵声が辺りに満ちた.
犬人たちは手にしていた松明を投げつけてきた.
クマリはフィーリアを抱いたまま慌ててそれを避けたが,バラバラと土塁の上に落ちたそれは地面を明々と照らした.
無残な死骸が一瞬で目に焼きつけられた.
クエストに出てくるモンスターは,砕けて魔石や宝石,金貨になる.プレーヤーが惨たらしい死体を目にすることなど,ほとんどない.
華奢なフィーリアがこれをやったとは,とても信じられなかった.クマリは慌てて地面から目をそらしたが,土塁の向こうで怒り狂った犬人たちが吼えているのが見えた.
サミアはしゃがみこみ,口に手を当てて必死に吐き気をこらえている.
「ど,どうしましょう! クマリ様」
ガザトジンが指示を仰いだ.
「……こうなるともう冷静な話し合いはできない」
とはいえ,犬人たちは魔法で倒されることを警戒して接近してこない.バラバラと落ちてくる松明を避けながら,クマリは後退することにした.
「今は引くしかない.ガザトジン,サミアを助けてやって」
ガザトジンはサミアを助け起こした.
クマリはフィーリアの細い体を抱きしめたまま屋敷の中に入ろうとしたが,腕の中に強い抵抗を感じた.
「はは……」
フィーリアが唐突に笑った.
「フィーリア?」
覗き込んだフィーリアの目はどこまでも暗かった.
フィーリアはクマリの肩越しに固い拳を作った右手をゆっくり上げた.
その握った拳から,細い水の線がほとばしった.
シュン,という鋭い音とともに幾条もの水が指の間から飛ぶと,暴徒たちから悲鳴が上がった.
「ぎゃあっ!」
「足を切られた!」
「ラブロが死んだ!」
「ビグルーもだ!」
「畜生,こうなったら殺される前に,やっちまえ」
「数じゃ俺たちの方が圧倒的に多いんだ」
「進め! 仇討ちだ!」
「奴を殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
暴力衝動が魔法に対する恐怖をついに上回った瞬間だった.犬人たちは殺気を帯びた声を上げ,突進してきた.
「フィーリア!?」
身体を揺らめかせたフィーリアは,クマリの腕の中から逃げ出すと,右手をかざして水の刃を放った.
松明が消え,水の刃が血しぶきをひらめかせる.
先頭を走って来た数名の犬人はたちまち体を両断され,地面に転がった.
「ぎゃっ!」
「石を投げろ! 石だ!」
「弓矢を,銃を持ってこい!」
犬人たちはかき集めた銃を乱射し始めた.だが,それよりも恐ろしいのは雨の様に降り注ぐ石礫だ.これだけの人数が使う飛び道具は原始的でも脅威である.礫というが,子供の頭くらいのものも落ちてくる.直撃すればプレーヤーと言えど無事で済むはずが無かった.
「ウクタ・ワ・ドンゴ!」
シェトランド候の屋敷まで,とても行きつけない.
クマリは土のドームを作った.イヌイットの作る,氷の家――イグルーに似たものだ.壁を円形に巡らせた即席のトーチカである.本来はこれで難民の仮設住宅を作るはずだったのだ.
ガザトジンとサミア,シノノメもその中に飛び込んだ.だが,フィーリアは身体を揺らしながら一人立ったままだ.突進する犬人たちを遠い目で見つめている.
「フィーリア! 危ない!」
クマリはフィーリアを中に引き込もうとしたが,フィーリアはクマリの腕を振りほどいた.
石と銃弾,矢の雨の中にフィーリアは身を躍らせた.
たちまち胸と腹に何発かの銃弾を浴びる.そのたびに波に揺蕩うように体が揺れた.
「お前たち,お前たちなんか……」
フィーリアが右手を振るたびに犬人たちが血しぶきを上げて倒れる.だが,投石と銃弾,弓矢の勢いは止まらない.
フィーリアは投石を受け,頭から腹から血――正確に言えば,細かいピクセル状の血液なのだが――を流していた.
美しい青い魔法のローブが,とんがり帽子が赤く染まっていく.
地面から高圧水のカーテンが噴き出し,先頭の犬人たちの身体がバラバラになった.
だが,それでももう犬人たちを止めることはできなかった.同胞を殺された怒りが,さらに暴力の衝動に火を注ぐだけだ.
「みんな死んでしまえばいいのに……」
何十発目かの銃弾と矢,投石を受け,ついにフィーリアは倒れた.
投げ出された身体が,クマリたちの避難しているドーム近くに転がった.
「フィーリア!」
クマリは隠れながら手をいっぱいに伸ばしてフィーリアを傍に引き寄せようとした.
だが,その手めがけて銃弾が飛び,鋭い石が降って来る.それらは容赦なく倒れたフィーリアの身体を打った.
「フィーリア!」
フィーリアは血まみれになった顔をわずかに動かして,クマリの方を見た.
眼鏡が外れて地面に落ち,フィーリアの瞳が露になった.
フィーリアは泣いていた.
「ごめんなさい……クマリ……」
「フィーリア!」
「クルセイデル様に,お詫びを申し上げて……」
「フィーリア!」
「私……本当に……」
言いかけるフィーリアの胸を,矢が貫いた.
フィーリアは最後にわずかな微笑を浮かべ,ログアウトしていった.
「フィーリア!」
「フィーリア様!」
「フィーリアさん!」
シノノメ達はフィーリアの名を呼んだが,光の残滓を残しながら消えていく.
だが,フィーリアという目標を失っても石礫と矢,銃弾の勢いが止まることはなかった.群衆は次の目標をここにいる四人と,そしてシェトランド候の屋敷に定めたのだ.
火矢が宙を飛ぶ.
屋敷の主な部材は木製で,漆喰で固めたものだ.火矢が何本か刺さると,ゆっくり燃え広がり始めた.
「……くっ」
感傷に浸る暇など無かった.クマリは土壁の陰から犬人たちの群れを見た.松明の光だけではない.いまや彼らの双眸が怪しい光を放っている様にすら感じる.
「シュルレ・ド・ルンゴ」
クマリは土に触れて徐々に進み来る犬人たちと自分たちの土のトーチカ,そしてシェトランド候の屋敷の間にぬかるみを作った.
「畜生,足元がぐちゃぐちゃだ.流砂か? 沈むぞ!」
「泥沼作りやがったな!」
「こいつは魔法だ! おい,だれか梯子か渡し板を持ってないか?」
少しは時間稼ぎになるはずだ.
だが,いつまで?
周囲は農園だ.石礫の雨は止むことがない.
「僕たちの土魔法で何とかするとすれば……」
「ガザトジンが地割れを起こして……メタンガスに誘爆させて」
「あるいは,クマリ様の最大魔法で埋め尽くすか結晶化魔法で……」
振り向けば弟子たち二人が一生懸命相談し合っている.
「駄目だ,二人とも.そうなれば……加減はできない」
結晶化魔法は,地中の鉱物や金属を鋭い槍状にして放つ魔法だ.一般人相手にそれを使えば皆殺しにしてしまう.
「あの中には,難民も混じってる.女性や子供,年寄りもいるんだ」
「でも,クマリ様,このままでは」
「それに何よりも,長い呪文の発動には,時間が必要だ.我々にはおそらくその時間はない」
クマリは思わずシノノメを見た.
シノノメは困ったような顔で,だが頷いた.
もうシノノメが力を振るうしかない.だが,武術でこの人数を制することは無理だ.
では,何の魔法を使えばいいのか.
どれだけ威力を落とせばいいのか,見当もつかない.かといって中途半端に使えば彼らはシェトランド候とその家族を血祭りにあげるだろう.
彼らは自分たちを殺すつもりだ.殺すつもりで襲ってくる人間を安全に制するには,相当な実力差が無ければ出来ない.それはいつもセキシュウに聞いていた.
一人一人は大した力がないかもしれない.
でも,この数……
……どうしよう.お掃除魔法とかで,最低出力にして……でも,それで大丈夫かな.
それでもシノノメは彼らの命を奪いたくなかった.
……お願い.みんな,逃げて.
シノノメが意を決して土の家から飛び出そうとした瞬間,北の空から大きく低い音が聞こえてきた.