24-7 オルレワン脱出
「ヘヘヘ,まず手足にナマリダマをぶち込んでからめった刺しにするか,めった刺しにしてからナマリダマぶち込むか.動けなくなったらお人形さんみたいに遊んでやるからよ」
暴動の首謀者と思われるジョゼは,下卑た笑い声を上げながら,合図の右手をゆっくり掲げようとしていた.
「やっぱり親分,鉄砲が先でしょう.抵抗されると面倒くさいし」
ブリクスは垂れた頬を揺らしながら笑う.
犬人は犬の耳と尻尾を持ったヒト型の人種だが,彼らの言動はどんどん動物に近づいているようだった.しかも,自分よりはるかに弱い動物をいたぶっている肉食獣のそれに近い.
「それじゃ,ナマリダマからだ.鉄砲組! 撃ち方用意!」
「ちょっと待ってよ」
まさにジョゼが手を振り下ろそうとする瞬間,気勢を削ぐ声がかかった.
その声音には恐怖も虚勢も感じられなかった.どこかのんびりとしていさえする.
ジョゼとしては見せ場――自分の言葉にさんざん怯えてもらわなければならないところだ.土の魔女クマリは流石に毅然としているが,その弟子二人は震えあがっているし,水の魔女フィーリアはボロボロなのである.
「ん,何だ?」
暗い嗜虐心と圧倒的優越感に浸っていたジョゼは思わず手を止めた.
見れば見習い魔法使いがクマリと自分の間にのこのこ歩いて立っているではないか.
「見習い風情が命乞いか? 箒も持てないくせに」
オレンジのベレー帽に明るい青の丈の短いローブを着けた見習い魔法使いは,見慣れぬ道具を持っていた.T字型で,先には横になった白い筒がついているのだ.少なくとも武器にはなりそうにない.クマリたちとジョゼたちは四,五メートル離れている.魔法の射程距離と重なるが,引き金を引くだけの銃の方が圧倒的に有利な距離である.
ウェスティニアに住んでいる者なら幼い子供でも,魔女の箒が一種のステイタスであることは知っている.それなりに高位の魔女しか持てない魔法具であり,逆に言うとそれが持てない見習い魔法使いなど奇術師並みの存在としかジョゼには思えなかった.
「ムクムクの侯爵さんは,まだお家の前にいるの?」
「ムクムク? ああ,シェトランドの野郎か.あいつは家族と今家の前でおねんねよ.馬車の中にまとめて閉じ込めてるぜ.そのまま炎に突入させてやろうと思ってよ」
「ふーん.あなたたち,本当にひどいね」
「今まであいつがしてきたことに比べりゃ,どうってことねえ」
無邪気に聞こえる見習い魔法使いの言葉に,ジョゼはせせら笑った.
「どうって,何されたの?」
「何って……税金を集めたりよ」
「それって,国に納めるものだから,ムクムクさんには関係ないんじゃない?」
見習い魔法使いが瞬きをして尋ねる.まっすぐ見つめられて何となく居心地が悪くなった犬人たちは目をそらし,互いに顔を見合わせて口々にしゃべり始めた.
「運河の荷揚げでこき使われた」
魔剣を振りかざした犬人が手を下ろして考えた挙句言った.
「タダで?」
「いや,給料はもらったっけ.暑い日だったから余計にもらった……」
「じゃあ,いい人じゃない」
「えーと,祭りの時にビールを奢られた」
ジョゼの右腕らしい,ブリクスが答えた.
「それ,良い事じゃないの?」
「それなら,何だっけ」
「ええい,馬鹿野郎」
統制を失い始めた一同に,ジョゼが檄を飛ばした.
「あの赤い目を思い出せ! これは,俺たちのカクメイなんだ.ジユウとビョウドウをつかみ取るんだ!」
「赤い目ってなに?」
「それは……」
ジョゼが見習い魔法使いとクマリたちから目を離したのは,ほんの一瞬だった.
だが,尋ねる声に視線を戻した瞬間,すでにその見習い魔法使いは目の前に移動していた.
「こいつっ!?」
「ぎゃん!」
ジョゼが反射的に右手で殴ろうとするのとほぼ同時に,後ろにいた犬人たちの悲鳴が上がった.
見習い魔法使いは恐ろしい速度で犬人たちの間を縫うように移動していた.
いや,速いのではない.‘早い’のだ.巧みに死角を突いて接近しては,舞うように体が回転する.こんなに密集した集団の間,しかも至近距離では,同士討ちになってしまうので銃は使えない.見習い魔法使いが体を翻すたびに白い帯状の物で武器ごとぐるぐる巻きにされた犬人たちが床に倒れていった.
「な,何だこりゃあ!」
「コロコロだ!」
ブルクスの悲鳴に応えるようにガザトジンとサミアが目を丸くしながら叫んでいた.白い帯状の粘着テープは,プレーヤーなら誰でも知っている,カーペットや衣類のホコリをくっつけて取るコロコロ掃除機だった.
べたべたのテープで芋虫の様にされた犬人たちは,みっともなく床に倒れて積み重なっていた.手足はテープでべたべたに体に貼り付けられ,武器を構えるどころか歩くこともできなくされている.
「くそう!」
ブルクスが魔剣を腰だめに構えて突いて来た.
見習い魔法使いはテープが無くなって芯だけになったコロコロ掃除機を,丁寧にアイテムボックスにしまっている.余裕――隙だらけに見えた.
「危ない! シノノメさん!」
サミアが叫ぶ.
見習い魔法使い――シノノメが軽く半身になってかわすと,ブルクスの身体が泳ぐ.
シノノメはそのまま素早く持ち替えた四角いハンマーで頭を叩いた.先にとげがついたハンマーというと物騒なのだが,要は肉を柔らかくする料理用の肉叩きである.
シノノメの軽い一撃でブルクスは卒倒した.頭に漫画のようなたんこぶができ,顔の肉がだらしなく伸びている.
「お,お前,一体何者だ……魔法使いは格闘戦に弱いはず……」
「見習い魔法使いだよ」
「う,嘘つきやがれ」
ジョゼは左手に持っていたシャベルの柄を捻った.
ぶんぶんと低い唸り声のような音をあげ,シャベルの先がキツツキのように振動し始めた.
そのまま振り回すと,軽く触れただけで戸口の柱が削れて切れた.
「どうだ,メムの魔導士から買った,振動ショベルだぞ! 岩石だって叩き切れるんだ!」
「ふーん,すごい切れ味だね」
あまり動じていない様子でシノノメはジョゼの手にした道具を一瞥した.
大振りの武器などシノノメにとって怖くもなんともない.ノルトランドやカカルドゥアで,レアアイテムの武具を持った武術の達人たちを何度も下して来たのだ.
ほんの半歩ほど前足を動かすだけで簡単に振動ショベル避けると,肉叩きでジョゼの腕を殴った.
「くっ! そんなもの効くかよ!」
ジョゼは二メートル三十センチほどある筋骨隆々の体形だ.シノノメとは子供と大人以上の体格差である.確かに本人の言う通り,肉叩きの一撃はあまり効いている様ではなかった.
「鋼鉄の肉体が俺の自慢だ!」
「丈夫だなあ.肉が柔らかくなるはずなのに」
シノノメは再び轟音を立てる振動ショベルを数ミリの間合いで避け,肉叩きで腕をポコンと殴った.少し間抜けな音がする.叩かれた場所にはプクリと丸いたんこぶができた.
「痛てっ! このっ!」」
唸るショベルの刃をひょいっとやり過ごし,シノノメはジョゼの手をポコンと殴った.
「……チクショウ,止まりやがれ,すばしっこい奴め」
やけになったジョゼはショベルを滅茶苦茶に振り回した.迷惑なのは彼についてきた仲間たちだ.床で尺取り虫のように這いながら必死でショベルに当たるのを避けている.だが,動けば動くほど白い粘着テープで互いにくっつき絡み合い,ゴミ山のようになっていく.
体のあちこちが膨れ上がったが,ジョゼは止まらずにショベルを振り回した.
「やあっ!」
ポコン.
「そりゃっ! 死ね!」
ポコン.
「当たれ!」
ブウン,ポコン.
「うーん,仕方ないなあ.もっと叩いてみよう」
ポコン.ポコン.
どうやってもジョゼの攻撃はシノノメに当たらない.シノノメの髪のひと房,服一枚傷つけることが出来ずに,ガリガリと壁を壊し,天井の梁を傷つけるばかりだ.ジョゼのたんこぶはひたすら増え続けていた.
「すごい……」
「これが,シノノメ……」
始めはらはらしながら見ていたクマリたちの目は,驚きに変わっていた.シノノメの動きは一流の剣士よりもはるかに‘切れる’のだ.まして,こんな動きができる‘魔法使い’,いやプレーヤーなど今まで見たことが無かった.
「フ,フフ……」
しかも見ていると何だか滑稽で可笑しくなる.
ショベルの吼えるようなブンブンという音.
その後に続くポコンという拍子抜けする音.
ジョゼが顔を真っ赤にして,一生懸命シノノメを追いかければ追いかけるほど,喜劇を見ている様な気持ちになってしまう.
「はあ,はあ」
ついにジョゼは息も絶え絶えになった.体中たんこぶだらけになったのに,それでもショベルはシノノメにかすりもしなかった.空振りしたショベルのせいで,とうとう廊下の向かい側の壁には大きな穴が開き,穴の向こうに赤々と燃える広場の炎が見えていた.
「呆れたなぁ.ほんとにあなた,丈夫だね」
シノノメは息も切らさず,肉叩きハンマーをリズミカルに振っている.困っているようで,どこかのんびりした口調だった.
「チクショ―,見習い野郎! 魔法も使えねえくせに!」
ジョゼはショベルを大上段に振り上げた.今度は鴨居が削れて飛ぶ.壮絶な火花が宙に走った.
「危ない! シノノメ殿!」
クマリが思わず声を上げた.
だが,シノノメはすでに右手の親指と薬指を合わせて印を結んでいた.
「お掃除サイクロン!」
シノノメがそう叫ぶと,六本の竜巻がショベルごとジョゼを吹き飛ばした.ジョゼだけではない.床に転がっていたぐるぐる巻きの犬人までもだ.ゴミくずのように絡みあい,もつれ合って次々と竜巻に‘吸引’されていく.
ぐるぐると風の渦になった犬人たちは巻き上がり,宙を舞い,やがて竜巻は先ほどジョゼが盛大にこしらえた廊下の穴に吹き抜けた.犬人たちはその風に運ばれ,気持ちよくなるほどポイポイと屋外に排出されていった.それは,事故で穴が開いた飛行機から乗客が空に吸い出されてしまう映画の光景にそっくりだった.
「吸引力の落ちない,ただ一つの掃除機魔法だよ」
「すごい!」
「シノノメ殿!」
あっという間の手際に興奮したクマリ達はシノノメの傍に思わず駆け寄ると,口々に称賛した.だが,シノノメの方は事も無げにいつもの決め台詞(?)を口にしただけで,穴から外をきょろきょろ見渡している.何かを探しているようだ.
「あ,あった!」
シノノメは叫ぶと,穴からぴょんと飛び降りた.飛び降りた先は,屋敷の前に放置された馬車の上だった.馬がつながれておらず,御者もいない.客室がロープでぐるぐる巻きにされている.
シェトランド候とその家族が閉じ込められた馬車だ.彼らを馬車ごと広場の炎に放り込んでやる,とジョゼが言っていたのをクマリは思い出した.
広場で騒いでいた犬人たちが数名,馬車の方にやって来たが,シノノメは事も無げに肉叩きを振り,全員を卒倒させるとロープを料理鋏で切断した.
「ムクムクさん,みんな,大丈夫?」
ドアを開けると子供たちが小さな悲鳴を上げたが,シェトランド候夫妻は魔法院の見習い魔法使いの制服を見て,ほっと胸をなでおろした様子だった.
「ありがとうございます.助けに来てくださったのですね」
「うん,土魔法のクマリさんと,フィーリアさんもいるよ」
シノノメの後を追うようにやってきた魔法使い達も,キャビンの中のシェトランド候を覗き込んで一礼した.フィーリアはサミアに肩を借りている.
「おお,ガザトジン殿にクマリ様.この度のことは何とお礼とお詫びを言えばいいのやら……そして……フィーリア様……御無事でしたか.良かった……」
「無事……一刻も早くここを離れましょう.シェトランド候,どこか安全な場所はありませんか?」
フィーリアは一瞬シェトランド候の言葉に眉を曇らせたが,顔を上げて言った.シノノメのポーションで回復しつつあるらしく,その声には力がこもっていた.
「私の私邸――郊外の本宅に逃げましょう.オルレワンの西にあります.暴徒どもは東の街道から集まってきていますし,あそこなら安全でしょう.ただ,市長としてはこの火が心配です.街が火事にならないかと……それと,問題があります」
「問題ってなあに? ……怖かったね,もう大丈夫だよ」
シノノメは料理鋏でシェトランド候の家族を縛っていたロープを切りながら尋ねた.モフモフ好きらしく,すでに片手は子供たちのフワフワした髪の毛を撫でている.犬人の子供は子犬の様に愛らしいのだ.
「馬がありません.暴徒は厩舎も襲撃していましたので……この状況では馬車の停車場に行っても無駄でしょうし……」
「その二つの問題なら大丈夫,安心なさい.ガザトジン!」
「はいっ!」
クマリが余裕たっぷりの笑みを浮かべて名を呼ぶと,ガザトジンは張り切って呪文を唱え始めた.彼の魔法は屋内で使いにくいものなので,これまで活躍の場が無かったのだ.
「……ン・ノーム・ディル・マ・エルテ!」
ガザトジンが唱え終わると,地面が揺れて石畳が裂け,深い地割れができた.地面の中から気体が噴き出す.
「ノームの息吹,地中のガスを操るのがガザトジンの得意技.そして,フィーリア,できる?」
「ええ,任せて」
フィーリアが続けて呪文を詠唱すると,地割れの奥から水が噴き出し,噴水の様に広場に降り注いだ.盛大に燃え上っていた炎はあっという鎮火され,広場は静かな夜の闇を取り戻した.
「うわー,やっぱり魔法って素敵だね.暗がりになったから,これで脱出もしやすくなるね」
シノノメは嬉しそうに言った.
「フィーリア様の泉,どうかそのままにしておいてください.後日ここを整備して取水場を設けますので」
シェトランド候が申し訳なさそうに言うと,フィーリアは眼鏡を押し上げて頷いた.
「だが,急がねば.鎮火したことが分かれば,町の中で暴れている連中もここに殺到してくるぞ.こいつらもいつ目を覚ますかわからない」
足元に転がった犬人の一人を横目で見ながら,クマリは言った.
シノノメが掃除魔法で吹き飛ばした犬人たちは粘着テープに絡み取られ,互いにくっつきあって,広場のあちこちにゴミ山のような塊を作っている.今のところピクリともしないが,彼らが意識を取り戻せば面倒なことになりそうだった.
「この子たちに馬車を引いてもらおう.私の宝物,虎の子だ」
クマリは召喚術の魔方陣を宙に描き,霊獣を召喚した.
魔方陣が作る亜空間の門をくぐり,二頭の動物が姿を現した.長い首に黄色っぽい体毛,網目模様の斑はキリンに似ているが,長い一角と風になびくたてがみを持っていた.しかも,たてがみは燃えている. 炎のたてがみを持った生き物なのだ.蹄と膝の周りには渦巻く長い毛が生えていた.
「きれいな生き物だね.いいなー,ファンタジーだね」
シノノメは素直に感心した.
「大地の霊獣,ジラーフ.東洋では麒麟と呼ばれる.一日に千里を駆け,走るときは宙を駆けるので草木を踏むことなしという.この二頭はつがいなの」
クマリは少し誇らしげに言った.この召喚獣を手に入れるために余程苦労したのかもしれない.
二頭の召喚獣は長い睫毛を伏せ,優しい目でクマリに一礼すると,馬車の前に自分で歩いて行った.魔法でスルスルと引き綱が首にかけられていく.二頭がゆっくり歩むと,馬車は静々と動いた.
「私が御者をやる.全員馬車に乗りなさい」
クマリはひらりと御者席に飛び乗った.
シェトランド候とその家族,五人が乗っているので,馬車のキャビンにはあまり余裕がなかった.傷ついたフィーリアを中に乗せ,サミアはクマリの隣に,ガザトジンはキャビンの後ろについたステップにとりついた.シノノメはしばらく迷っていたが,屋根の上に上った.
キャビンの扉を閉めたちょうどその時,広場の東側の方からどやどやと声が聞こえてきた.見れば,農具と鉄砲を手にした暴徒たちが殺到している.
「いかん,急ごう! 全員しっかりつかまって!」
クマリの声とともに,召喚獣は走り始めた.
「何だ? このぐるぐる巻きになっている奴らは?」
「気絶してるぜ」
「おい,ここに倒れてるのはブリクスと,ジョゼじゃねえか?」
「あそこに魔女がいる!」
「あいつら,何してる!?」
広場に倒れた仲間たちを見て,犬人たちは異変とその元凶――シノノメ達に気づいた.
だが,広場の西の街路を馬車は疾駆する.鋤を突き出して来た犬人をかわし,石畳に轍の音を轟かせてひた走った.
追いすがる犬人たちがあっという間に小さくなった.犬並みの脚力といえど,麒麟に敵うはずはない.
「逃がすな!」
「撃て!」
パン,パン.
後ろから軽く高い銃声が聞こえてきた.銃弾が石畳をえぐり,建物の柱に跳弾する音がする.
「まずい,撃って来た!」
馬車の外,一番後ろに貼り付いているガザトジンの顔が青くなった.
「大丈夫.鍋蓋シールド!」
ひきつったガザトジンのすぐ後ろに,緑色に輝く円形の魔方陣が出現した.銃弾が当たっても,金属質の音を立てて跳ね返してしまう.
「こ,これは? 物理攻撃を跳ね返す魔方陣? だけど,しかも,ずっと出現させ続けるなんて,大量の魔力(MP)を消費するのに!?」
ガザトジンは馬車の屋根の上に座ったシノノメを仰ぎ見た.魔法の主は肩の上に小さくなった空飛び猫を乗せ,平然と亜麻色の髪をなびかせている.
オルレワンは城塞都市なので,周囲は城壁に囲まれ,ところどころに門がある.
麒麟に轢かれた馬車はあっという間に街を横断し,西の街路からの出口に近づいていた.
「クマリ様,あれ!」
サミアが指さす.
「そうだ.あれが出口だな」
前方に尖塔のついた門が見えてきた.みるみる近づいて来る.
「貴様ら,止まれ! 止まりやがれ!」
両側から二人の犬人が慌てて飛び出して来た.手に光る石板を握りしめている.近頃爆発的に流通している,携帯電話のようなメムの魔法具だ.おそらく中央広場付近の仲間から連絡を受けたに違いない.
彼らははじめ,重い鉄柵状の門を閉めて封鎖しようとする素振りを見せたが,それでは麒麟の接近する速度にとても間に合わないことに気づいたらしく,尖塔の裏側に回って長い武器を持ち出して来た.鋭い鋤と大型の草刈り鎌である.月光を受けてギラリと鈍く光った.
「危ない!」
「くっ! ジラーフ,こうなったら速度を落とさずに突破だ」
御者席のクマリは唇を噛み締めて霊獣に指示を出した.
しかし,犬人は麒麟の顔めがけて農具を突き出して来た.御者を狙うよりその方が確実というわけだ.
もともと農夫だけに,動物がいやがる角度を熟知している.召喚獣といえど動物なので,顔のそばに鋭い武器が突き出されればひるまざるを得ない.
麒麟の速度がわずかに緩んだ.
「駄目か!」
「危ない!」
サミアとクマリが叫んだ瞬間,後方から良く通るシノノメの声が響いた.
「グリルオン! 二個口!」
爆音とともに一瞬で馬車の両側に青い炎の柱が立ち上った.
「うおっ!」
武器の先端は一瞬で消し炭になり,熱風に吹き飛ばされた犬人は残った柄だけを握りしめて後ろにひっくり返った.
「今だ! 走れ!」
クマリの指示で麒麟は再び速力を取り戻し,門をくぐって駆け抜けた.
街の灯りが見る間に小さくなっていく.中央広場の炎を消してもなお,町全体がうすぼんやりと明るい光を帯びていた.
馬車の轍の音が,いつの間にか石畳から土の道を踏む音に変わった.
西の街道に入ったのだ.
町の喧騒がない静かな月夜の中,ゴトゴトという音だけが響く.馬車は夜風を切って快調に進んでいった.
ひとまずの危機が去り,クマリは胸をなでおろした.
「よかった……」
サミアがため息をついた.
「シェトランド候,このまま進んだのでいいのだな」
クマリは振り返ってキャビンの中のシェトランド候に声をかけた.
「はい,ありがとうございます,クマリ様」
シェトランド候の声にも安堵の色が聞いて取れる.向き直りながらふとキャビンの上を見上げると,シノノメは空飛び猫の背を撫でながら月を眺めていた.
あれほどの危険な体験も緊迫する状況も,まるで幻だったかの様だ.
東の主婦シノノメの力を目の当たりにして,クマリは驚嘆していた.
クマリの視線に気づいたシノノメは見つめ返し,首を傾げた.
思わずクマリは苦笑した.
まるで無邪気な少女の様だ.それでいて,自分の教室で土鍋を工作していた人物と同一とはとても思えない戦闘力…….
そんなクマリの内心を代言するかのように,サミアが声をかけた.
「でも,シノノメさん,本当にすごいですね.風だけじゃなく,炎の魔法まで無詠唱で出せるんですね」
「うん,だって私,主婦だもの」
「それ,説明になってませんよ」
「そう言えばグリルオンって呪文,ガスレンジみたいだけど……」
ガザトジンがキャビンの後ろからシノノメに声をかけた.
「変かなあ」
シノノメが真剣に考え込んでいるのを見て,ガザトジンとサミアは笑った.
「でも,どうして初めから魔法を使わなかったんですか?」
「そうね.確かに.あれなら一撃だったでしょう?」
「だって,思い切りやったら,あの人たち死んじゃうかもしれないもの.モンスターじゃないから,復活なんてできないでしょう?」
「じゃあ……全部,手加減してたんだ」
「あれで,手加減?」
「うん,でも,加減がよく分からなかったから,肉叩きで何回も叩いてみたの」
「ははは,それであの攻撃,そうだったのか……」
クマリがカラカラと大きな声で笑った.
つられてサミアとガザトジンは笑っていたが,同時に顔を引きつらせていた.体術も含め,瞬時に発動した攻撃魔法の全てが手加減した物だったとは.では,シノノメの全力とはどのようなものなのだろう.自分たちの現在のレベルでは及びもつかない.想像すらできなかった.
馬車の中では,一人フィーリアが身体を固くしていた.
キャビンの隅に体を埋める様にして,小刻みに震える体を両手で抱きしめると,誰にも聞こえないように小さくつぶやいた.
「あんな奴ら……みんな,殺してしまえばよかったのに」
彼女の瞳は,二つ名の‘湖’の様に暗く深い色に沈んでいた.